茜達はガルバ帝国の野望を阻止できるのでしょうか?
暗い通路を抜けた先、一行は奇妙な大部屋に辿り着いた。
壁一面には、かつてこの都で栄華を極めたであろう人々が
輪になって踊る姿が壁画として描かれている。
西側の一段高い場所には小さな石の舞台が鎮座し、演じられた劇の静寂を今も守り続けていた。
しかし、部屋の南西側は無残な姿を晒している。
床が低くなった部分はどす黒い水に浸かり、
腐りかけたテーブルや椅子、カウンターの残骸が、水面から墓標のように突き出していた。
部屋を覆う黒い水の深さは90cmに達する。
「厄介だな。私が行って様子を見てこよう」
リリーベルが冷静に告げ、背中の羽を羽ばたかせた。
彼女は空を飛び、汚濁した水を乗り越えようと試みる。
だが、リリーベルの身長は僅か50cm。
滞留する魔力の重圧か、あるいは湿気の影響か、
リリーベルは浮力を失い、無様に水の中へと沈み込んだ。
「……くっ、想定外だ。足がつかないな」
水深90cmは、リリーベルにとって完全な水没を意味する。
リリーベルは必死に水をかき、鼻先だけを水面に出して奥へと進む。
ここから先は、身軽なリリーベル一人の偵察に頼るしかなかった。
「しゅう、しゅうっ!」
暗がりの水面から、不気味な鳴き声が響く。
ファイアトードという炎を吐く蛙の魔物がリリーベルの動きを察知し、その喉を膨らませた。
魔物が吐き出した炎の礫は、間一髪でリリーベルの頭上を通り抜ける。
だが、その炎が水面に触れた瞬間、浮遊していた油に引火した。
「熱い! 冗談ではないぞ」
水面が爆発的に燃え上がる。
リリーベルは迫りくる炎に身を焼きながらも、
沈着に状況を判断し、決死の覚悟で燃える水場を泳ぎ抜けた。
火の壁を突破したリリーベルが辿り着いた先には、ボロボロの椅子が散乱する広間があった。
北側の壁には、横に長い石の板が取り付けてある。
そこに施された浅浮彫を見たリリーベルは、眉をひそめた。
描かれているのは、醜悪な魔族達が巨大な竜の死体に対して恭しく頭を下げている光景。
東の壁には、精巧な竜の髑髏がはめ込まれていた。
「おかしい。ガルバ帝国が魔族と手を組んでいるというのか……?」
リリーベルは訝しげに呟く。
さらに奥の部屋へ進むと、そこは人工的な石造りの実験室だった。
色とりどりの液体が詰まった小瓶、ガラス製のレンズ、
そして檻の中でせわしなく動く生きたネズミ。
棚には本がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、床にまで溢れ出している。
「魔導師の作業場か。私は魔法が得意ではない。無視して先へ進むのが賢明だろう」
リリーベルは難解な書物には目もくれず、一番奥の扉を目指した。
やがて水面の炎が鎮まり、背後から茜、トーマ、モリスが合流すべく水を歩き始める。
「……ん、ぐっ。水が、重いです……!」
茜は背伸びをしながら、鼻先まで迫る水面を必死に耐える。
モリスとトーマも、動きを鈍らせる水の抵抗に苦戦した。
そこへ再びファイアトードが水を放ち、水面を再点火させる。
「また火が! 熱い、熱いです!」
茜達は猛火に包まれながらも、必死の思いでリリーベルの待つ奥の部屋へと駆け込んだ。
「このままでは、みんなが焼け死んでしまいます。神よ……私達の傷を癒してください」
茜は震える手でスタッフ・オヴ・フォー・ゴッドを高く掲げる。
清らかな光が爆炎の傷を癒し、全員の体力が回復した。
辿り着いた最奥の部屋は、贅沢な住居の設えとなっていた。
ランプやソファは古びてこそいるが、主の手によって手入れが行き届いている。
「ここは一体……。誰かの居住区のようですね」
茜が息を整えながら周囲を見渡す。
「ガルバ帝国の兵舎とは明らかに雰囲気が違うな。趣味も悪くない」
トーマが警戒を解かずに同意した。
その時、東の扉が静かに開き、ローブを纏いフードを深く被った人影が現れた。
その顔は白い髑髏の仮面で隠されている。
人影は軽く会釈をした。
「ようこそおいでくださいました。あなた方の力、試させていただきます」
人影は落ち着いた、耳に心地よい声で告げた。
その手が青い宝石を差し出し、握り潰す。
宝石が粉々に砕け散ると同時に、激しい旋風が巻き起こり、風の精霊シルフが現れた。
「抜かせ! 出会い頭にこれか!」
モリスが即座に踏み込み、魔法の剣をシルフに叩き込む。
鋭い斬撃が精霊の身体を裂いた。
「ド・ゲイト・ド・イス!」
トーマの放った冷気光線がシルフの核を貫き、凍りつかせる。
「お前の相手は私だ」
リリーベルがその背後から肉薄し、ショートソードをシルフの核へ連続で突き立てた。
急所を抉る、一点の迷いもない連撃。
だが、シルフは猛烈な暴風を撒き散らした。
「くっ……!」
茜とリリーベルは地面を掴んで踏ん張ったが、
トーマとモリスは耐えきれず、6mも後方へと吹き飛ばされた。
壁に叩きつけられた二人が呻き声を上げる。
「逃がしません!」
茜は前進し、魔法の鞭をシルフへ振るった。
光輝を宿した一撃が、精霊の身体を霧散させる。
「ふん、これしきの風……!」
「ド・ゲイト・ド・イス!」
「食らえ!」
吹き飛ばされたモリスが再び立ち上がり、シルフへ追撃を加える。
トーマの冷気魔法はかわされたものの、
最後はリリーベルの電光石火の刺突がシルフを完全に消し飛ばした。
「結構!」
魔導師が短く賞賛の声を上げた。
人影がフードを跳ね除け、髑髏の仮面を外すと、
そこには気品に満ちたエルフの女性の顔があった。
「……女の人だったんですね」
茜が驚きを露わにすると、エルフの女性は微かに微笑み、しかしすぐに真剣な表情へと戻った。
「手荒な真似をして申し訳ありません。お力を拝見する必要がありました。
経緯をお話ししましょう」
一行は武器を収め、彼女の話に耳を傾ける事にした。
「私の名はキーユ・フラットリバー。このムーンリバーの都の大魔導師です。
最近、この墜落都市を訪れたのは、あなた方が最初ではありません」
彼女の瞳には、深い憂いが宿っていた。
「一度はこの都を忘れた世界が、今、コイケーの楽園に集まってきています。
世界はムーンリバーの事を突然思い出しました。けれど私は恐れているのです。
世界はムーンリバーの失敗の教訓は思い出して“いない”のではないかと」
その言葉を聞いた瞬間、茜の脳裏に、生前浴びたあの冷たい刃の記憶が蘇った。
油断した一瞬の隙を狙われ、フェリドに首を切られた事を。
「教訓……。人は、同じ過ちを繰り返すものなんですね」
茜は沈痛な面持ちで呟く。
「軍勢がこの都を汚しているのは知っています。
ですが、彼らが何者で、具体的に何を企てているのかまでは分かりません。
ただ、邪悪な意志がこの地に満ちているのを感じます」
キーユは茜達の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなた方の旅に、幸運があらん事を」
大魔導師キーユは、静かに彼らを送り出した。
一行は彼女の祈りを背に受け、
さらなる闇が待つ「失われた名前の都市」の深部へと、再び足を踏み出した。
地下の迷宮を抜け出した茜達の目の前に、息を呑むような光景が広がった。
かつての栄華を無惨に、
しかしどこか幻想的に留めた「失われた名前の都市」の全貌が姿を現す。
視界を埋め尽くすのは、煌めく都の残骸だ。
頭上を覆っていた土が消え、
広大な空間に壊れたドームやギザギザに砕けた塔が幾つも突き出している。
一行が立っている高台から見下ろすと、近くの建物や通りは全て、
廃墟が堆積する巨大なクレーターの底へと向かって絶望的な角度で傾斜している。
「信じられません。空が、いえ、街が浮いているのですか?」
茜が震える声で呟いた。
その視線の先では、あちこちで崩れた建物の破片や巨大な岩が、
重力の縛りを逃れたかのように虚空で静かに揺れている。
墜落の衝撃と魔力の暴走が、物理法則そのものを歪めていた。
都の中心部には一点の汚れもないような大理石の塔が一本、天を突くようにそびえ立っている。
優雅な曲線を描く控え壁が壁面を支え、その塔は無骨な岩の台座に乗っていた。
驚くべき事に、その台座自体が地面から浮上しており、塔の威容をいっそう際立たせている。
「地獄の釜の底かと思ったが、案外綺麗なもんだな」
トーマが毒づきながらも、その圧倒的な規模に目を奪われている。
「綺麗、とは言えませんよ。あっちを見てください」
茜が指差した先、都市の各地区は凄惨な傷跡を晒していた。
北西部は墜落の衝撃で地下の帯水層を突き破り、市街の半分が泥水に沈んでいる。
対照的に南西部では制御を失った火災が家並みを舐め尽くし、今も黒煙を上げ続けていた。
西部に広がるかつての遊楽用庭園は、数世紀の時を経て手つかずのジャングルと化し、
東側の地区はクレーターの縁に寄りかかって全体が斜めに傾いでいる。
「……あれは、庭園じゃないな。魔窟だ」
リリーベルが冷徹な眼差しで西のジャングルを睨む。
「動物園にいた獣の末裔だろうか、蔓の絡まる通りを獲物を追って何かが動いている。
迂闊に足を踏み入れるべきではないな」
「そうですね」
その時、遠く南西の方角にある神殿から、不気味な音が風に乗って届いた。
硬い石を削るような、耳障りな震動だ。
神殿の敷地には、蟻の群れのようにガルバ帝国軍の軍勢がひしめき合っている。
その神殿の屋根の上、一際高い場所に一つの人影が立った。
その影は、手にした王冠を高々と天に掲げる。
瞬間、見覚えのある紫の炎が王冠を包み込み、パチパチと激しい音を立てて燃え上がった。
「あの炎……まさか」
茜が息を呑む。
応じるように、巨大な竜の骸骨が神殿の壁をガリガリと音を立てて登り、
屋根の上へと這い出してきた。
竜は金切り声を上げ、その咆哮は都の隅々にまで響き渡る。
骨の竜は人影の前で恭しく動きを止め、その影は迷いなくアンデッドの背へと跨った。
一人と一頭の骸骨は空へ舞い上がり、美しい円を描いて都の上空を旋回する。
その後、彼らは獲物を求めて南の空へと飛び去り、やがて視界から消えた。
リリーベルが鋭い声を上げた。
「……思い出した。あの死せる竜を駆る騎手、見覚えがある。
ケイヌーキの地下墓地で私達が対峙した幻影……あの禍々しい気配、間違いなくカーラン卿だ」
「カーラン卿……。死の騎士までもが、この都に集まっているというのか」
モリスが苦渋に満ちた表情で剣の柄を握りしめる。
「ガルバ帝国軍の物量、そしてアンデッドの英雄。
相手にとって不足はないが、我々の身がいくつあっても足りぬぞ」
茜は再びクレーターの底を見つめ、決意を固めた。
「でも、立ち止まってはいられません。カーズ・パインヒルやサウラーンは、
この都のどこかに潜んで『古の兵器』を探しているはずです」
一行は現状を確認し合う。
「まず、どこを攻める? 兵士がひしめく神殿か、それともこの歪んだ街のどこかか」
トーマが仲間達に問いかける。
「ジャングルと化した西の庭園には、かつての動物達の成れ果てがいる。
水没した北西部には、水棲の魔物が潜んでいるだろう。東の傾いた地区は足場が悪すぎる」
リリーベルが冷静に分析を続ける。
「だが、奴らの狙いが兵器である以上、
歴史的な重要施設が残る中心部、あるいは神殿付近に手がかりがあるはずだ。
偵察兵の報告によれば、指導者達はこの瓦礫のどこかに本陣を構えている」
「私は、まずこの街の歪みを正したいです」
茜が静かに、しかし強く言った。
「こんな悲しい姿のまま、兵器として利用されるなんて許せません。
指導者達を見つけ出して、これ以上の破壊を止めましょう」
モリスが深く頷き、盾を構え直す。
「良かろう。まずはこの斜面を下り、敵の目を盗んで中央部へ肉薄する。
ガルバ帝国軍の警戒は神殿に集中しておる。今のうちに、廃墟の影を縫って進むのじゃ」
茜達は、重力に逆らって揺れる岩石や、傾いた時計塔の影を頼りに、
クレーターの底へと続く危険な急斜面を降り始めた。
崩れた石材が足元で音を立てて転がり落ちる。
一行の本当の戦いは、この忘れ去られた都の静寂の中で、今まさに火蓋を切ろうとしていた。
瓦礫の斜面を這い進み、浮遊する巨石の間を跳ねるように渡りきった先。
茜達はついに、この都の中枢とも言える浮遊島へと辿り着いた。
目の前には「天の入り口」と呼ばれる巨大な尖塔が、傲然とそびえ立っている。
広場から60mもの高さにまで伸びるその灰色の塔は、
周囲の浮遊島を見下ろすかのような威容を誇る。
塔の壁面からは「飛梁」と呼ばれる美しいアーチ状の支柱が空中に伸び、
四方から塔の頂を支えていた。
その幾何学的な曲線は、墜落の衝撃に耐え抜いた古の魔導技術の結晶と言える。
塔の頂には、陽光を反射してきらきらと光る透き通った窓がいくつも並んでいる。
だが、その神秘的な美しさとは裏腹に、地上は鉄の臭いに満ちていた。
塔の根元にある唯一の石造りの扉。
そこには、ガルバ帝国軍の重装歩兵四人が、抜いた剣を手に厳重な警備を敷いている。
さらに上空を見上げれば、鎧を纏ったドラゴネルの群れが、
鋭い咆哮を上げながら円を描いて旋回していた。
乗り手達の眼光は鋭く、地上の一挙手一投足を監視している。
「……あれが『天の入り口』。あの中に、カーズ達が潜んでいるんですね」
茜が岩の陰に身を潜め、声を潜めて言った。
「塔の頂の窓を見てくれ。あんな高い場所に窓があるって事は、
あそこが重要な施設か、あるいは司令室になっている可能性が高いな」
トーマが指を差し、冷静に分析する。
「だが、見ての通り正面の扉は固い。おまけに空にはあのトカゲどもだ。
うかつに近づけば、一瞬で蜂の巣にされるぞ」
モリスが重い手甲を擦り合わせ、低く唸った。
「扉の守兵は四人。儂が正面から引きつければ、斬り伏せるのは造作もない。
だが、上空のドラゴネルが厄介じゃ。
奴らに見つかれば、増援を呼ばれるのは火を見るより明らかじゃな」
「……私が空から窓を調べてこようか?」
リリーベルが羽を微かに震わせ、塔の頂を見上げた。
「いや、止めておけ。お前の飛行速度じゃ、あのドラゴネルの追撃からは逃げきれない。
それに、窓に結界が張ってあったら一巻の終わりだ」
トーマがリリーベルの提案を即座に却下した。
リリーベルは眉をひそめ、不満げに鼻を鳴らす。
「なら、どうするつもりだ。正面から突っ込むか、あるいは何か別の入り口を探すか」
茜は塔を支える美しい飛梁を見つめ、一つの案を口にした。
「あのアーチ……飛梁を使えませんか?
扉の正面を通らずに、横の壁からあのアーチを伝って、中層の窓か隙間に忍び込むんです。
モリスさんが下で騒ぎを起こして注意を引いてくれれば、
上空のドラゴネルの目も下に逸れるはずです」
「……無茶を言うな。あんな細い場所を登るのか?」
トーマが顔をしかめるが、モリスは逆にニヤリと笑った。
「面白い。儂が派手に暴れれば、上空の連中も獲物を求めて降りてくる。
その隙に、身軽な者達が上から侵入するわけじゃな」
「よし、決まりだ。私が先導して、登れるルートを確保する。お前達は、私の合図を待て」
リリーベルが短剣を握り直し、冷静な口調で指示を出す。
一行は決死の覚悟を決め、各自の武器を握り直した。
空に舞うドラゴネルの影が広場を横切る。
その一瞬の静寂を突いて、茜達は天の入り口への強行突破を開始した。
リリーベルは鋭い視線で塔の壁面を走らせた。
高くそびえる飛梁やアーチの隙間を縫って上層へ忍び込もうと試みるが、
すぐに眉をひそめて首を振る。
「……駄目だ。上への経路はどれも石材で完全に塞がっている。隙間一つありはしない」
「じゃあ、正面突破しかないって事?」
茜が不安げに扉を見据える。
リリーベルは冷静に頷いた。
「ああ。癪だが、あの扉を真っ向から通らせてもらうしかないな」
一行は意を決して石造りの扉へと近づく。
即座に四人の帝国兵が槍を交差させ、行く手を阻んだ。
「止まれ。……合言葉を言え」
先頭にいた兵士が低い声で迫る。
当然、一行の中に合言葉を知る者などいない。
沈黙が流れ、一触即発の空気が広場を支配した。
「神よ、モリスさんに知恵と導きを……。ガイダンス」
茜がそっとモリスの背に手を触れ、初級補助魔法を唱える。
聖なる光が微かにモリスの脳裏を掠めた。
モリスは重厚な兜の奥で目を光らせ、堂々たる足取りで一歩前へ出た。
「合言葉だと? 貴公、私の顔を忘れたか。司令部からの急使だ。
一刻を争う報告があるというのに、ここで足止めをして責任が取れるのか?」
モリスの威圧感に気圧されたか、兵士達が顔を見合わせ、たじろぐ。
ガイダンスの加護を得たモリスの言葉には、抗いがたい説得力が宿っていた。
「……失礼いたしました。お通りください!」
兵士達は慌てて槍を引き、扉を開け放った。
扉の先には、広大な玄関広間が広がっていた。
灰色の石壁には、かつての空中都市での穏やかな暮らしを描いた壁画が延々と続いている。
人々が笑い、空飛ぶ船が飛び交う、失われた時代の記憶だ。
西側の壁面には、流れるような長いローブを纏い、
豊かな長髪をなびかせた美丈夫の姿が一際大きく描かれていた。
部屋の南北では、一対の噴水がゴボゴボと絶え間なく音を立てて水を噴き上げている。
湿った冷気が広間に満ち、一行の足音だけが虚しく反響した。
東の壁には二つの入り口がある。北寄りには質素な片開きの扉、南寄りには重厚な両開きの扉。
「綺麗な壁画。この街にも、こんなに平和な時間があったんですね」
茜が西の壁画を見つめ、寂しげに呟く。
「過去の遺物だ。今はそんな感傷に浸っている暇はない。
リリーベル、どっちの扉が怪しいと思う?」
トーマが問いかけると、リリーベルは視線を鋭く走らせた。
「北の片開きは実務用か、あるいは私室に続いているように見える。
南の両開きは……より重要な場所、儀式の間か司令室へ直結している可能性が高いな」
「司令官達が兵器を探しているなら、より厳重な南の扉の先が本命かもしれんな。
お主ら、準備はいいか?」
モリスがロングソードの柄に手をかける。
「行きましょう。ここで迷っていても、帝国軍の増援が来るだけです」
茜がスタッフ・オヴ・フォー・ゴッドを握り直し、南の両開きの扉へと一歩を踏み出した。
そして、南の両開きの扉へと手をかけようとしたその時、
背後の影から悍ましい気配が膨れ上がった。
石柱の陰から姿を現したのは、全身を鋭利な骨の突起で覆われた悪魔、グフォエルだ。
その傍らには、監視役と思わしき冷徹な眼差しの中年男、オムームが音もなく立ちふさがる。
「待て。貴様ら、見慣れぬ顔だな。何者だ」
オムームが低く、刺すような声で問いかける。
その手は腰の武器に掛かっており、一触即発の緊張が玄関広間に張り詰めた。
「落ち着け、新入りの顔をいちいち覚えているのか?」
トーマが臆する事なく、不遜な笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「私達はあなたの上司から直接命を受けて、この塔の魔導回路を調整しに来た技師だ。
この都市の浮遊システムが不安定なのは知っているだろう?
仕事を邪魔して、塔ごと墜落させたいなら話は別だがな」
トーマの澱みのない嘘と、魔導師特有の尊大な態度がオムームの猜疑心を削り取った。
「……チッ、魔導師の手先か。さっさと行け、邪魔だ」
オムームが忌々しげに道を譲る。
番人が興味を失って背を向けた隙に、
骨の悪魔グフォエルがカタカタと節々を鳴らし、茜達の耳元で不気味に囁いた。
「ククッ、技師か。面白い嘘を吐く。
だが、私を縛るこの忌々しい呪縛……魔導師ジノの魔力が弱まれば、
私はこの塔の連中を一人残らず食い殺してやるのだ」
茜が恐怖に身を竦めると、悪魔はさらに言葉を継ぐ。
「忠告だ。上にはジノと並ぶもう一人の指揮官、ファネセンティアルがいる。
だが奴には『隠された秘密』がある……。あれはただの魔導師ではないぞ。
……死にたくなければ、背後に気を付ける事だ。
ああ、それと、上がる時は共通語で『セテス』と言ってくれ」
「分かりました」
悪魔の言葉は、冷たい霧のように茜達の心にまとわりついた。
「ジノに、ファネセンティアル……。上がただの司令部ではない事は確かだな」
リリーベルが短剣の柄を握り直し、冷静に状況を整理する。
「秘密を抱えた指揮官に、不満を溜めた悪魔か。内部は一枚岩ではないようだな。好都合だ」
「毒を食らわば皿までだ。このまま上階へ乗り込むぞ。茜、準備はいいか?」
トーマが促すと、茜は強く頷いた。
「はい。何が待っていても、私達が止めるしかありません」
一行は番人達の視線を背に受け、重厚な扉を押し開けて、
さらなる脅威が待ち受ける塔の上層へと足を進めた。
次回もまた、浮遊する町の探索です。