重いタバコを吸ってる不健康そうな年上美人とドロドロの関係になっていた話 作:かめっくす
これでいつでも連絡が取れますね、と瑠衣さんは言った。
その後、毎日遊びに誘いますと冗談めかしたように続けた。
実際にメッセージが届いたのは、連絡先を交換してから三日が経った頃だった。けれどそれは遊びの誘いではなかった。
『結斗くんに読んで欲しい原稿があるんです』
読んで欲しい原稿。
分からないが、瑠衣さんの頼みだ。了承の返事をした。
その日の夜。ベランダに出た俺に、瑠衣さんが紙の束を渡してきた。それは印刷された五十枚ほどの原稿用紙だった。右上をクリップで留めている。
「これが例の原稿ですか?」
「はい」
「商業の小説じゃないですよね」
「私が書いたものです。ゼミで短編小説を書く課題が出まして。提出する前に、結斗くんの意見を伺いたいなと」
「俺でいいんですか」
「結斗くんの目を、私は信頼してますから。ぜひ忌憚のない意見を聞かせてください。読むのは時間がある時でいいですから」
「分かりました。そういうことなら」
正式に引き受けることにした。
「ボロクソに扱き下ろしてくれることを期待してます」
と冗談めかしながら瑠衣さんが微笑む。
瑠衣さんは提出日の前日までに読んでくれればいいと言ってくれていたが、俺は翌日には早速読むことにした。
感想を聞いて原稿を直す時間はいるだろうし、何より俺自身、瑠衣さんの書いた小説を早く読んでみたかったから。
自室。机の前に座り、五十枚ほどの原稿用紙と対峙する。読む前に風呂に入り、万全の態勢を整えていた。
瑠衣さんが真剣に書いた作品だ。俺も真剣に向き合いたかった。
息を呑む。
一行目を読み始める。文章の海に潜る。目の前に、鮮やかな世界が広がる。それは見たこともない煌めきを放っていた。
息をするのも忘れるほどに、夢中で潜り続けた。
気づいた時には、結末に辿り着いていた。あっという間だった。
読み終えた後、俺は放心していた。余韻の棘が刺さって抜けなかった。この物語が終わらないで欲しいと心から思った。遅れて胸の奥に熱いものが去来する。
気づけば俺はルインのメッセージを打っていた。
宛先は瑠衣さんだった。読み終えたから今から感想を伝えたいと。文面じゃなく、面と向かって直接伝えたかった。
すぐに返事は返ってきた。
ベランダに出ると、すでに瑠衣さんも来ていた。タバコを吸いながら、俺の姿を見るとひらひらと手を振ってくる。
「随分と早かったですね」
「他にすることもありませんから」
俺がそう言うと、瑠衣さんが笑う。そして尋ねてきた。
「どうでしたか? 感想は」
「面白かったです」と俺は真っ直ぐに告げた。「本当に面白かった。今まで読んだ作品の中でも随一でした」
原稿を読み始める前、実を言うと少しだけ怖かった。
もし、瑠衣さんの書いた原稿がつまらなかったら。俺が初めて出会った魅力的な人が実は凡俗だったと知るのが怖かった。
でもその心配は杞憂だった。
物語の筋自体はシンプルだった。
けれど、描写が卓越していた。
瑞々しくて、手垢がついていなくて、美しかった。
誰かの言葉を借りるのではなく、自分の言葉で世界を語っていた。こんなふうに世界を見ることができる人がいるのかと感動した。
「面と向かってそう言われると、照れてしまいますね」
瑠衣さんはタバコの煙を吹かしながら、照れ臭そうに微笑む。そして灰を手元の灰皿に落とした後にぽつりと切り出した。
「実はその短編、もう提出したものなんです」
「え?」
「ゼミ生の人たちには酷評されてしまいました。描写が奇を衒いすぎてるとか。物語の筋を軽視しすぎてるだとか」
すでに提出したものを、俺に見せてきた。しかも、酷評されたものを。
その理由を瑠衣さんは教えてくれた。
「自分では結構上手く書けた自信があったんです。だから、結斗くんに読んで貰って正直な意見を聞いてみたかったんです」
瑠衣さんはそう言うと、
「ゼミの人たちからは酷評された。それを踏まえた上でも、面白いと思いましたか?」
「それは他の人たちの見る目がないだけです。瑠衣さんの書いたこの作品は面白いです。誰が何と言おうと。絶対に。俺が保証します」
断言できた。
瑠衣さんが書いたからじゃない。純粋に一読者として惹きつけられた。今まで読んだ本の中でも一番と言っていいくらいに。
だから、何の衒いもなく言える。
「俺は、瑠衣さんの書いたこの作品が好きです」
「…………」
瑠衣さんはぽかんとした表情を浮かべていた。指にタバコを挟みながら、どこか驚いたように目を丸くしている。
それを見て、はっと我に返る。
「あ、いや、すみません。熱くなってしまって」
「いえ」
瑠衣さんは首を横に振る。
そしてタバコを咥えた後、静かに微笑んだ。
「結斗くんにそう言って貰えて、自信になりました。結斗くんが気を遣ってお世辞を口にしないことは分かってますから」
百パーセントの肯定しかしない相手はつまらない、と以前瑠衣さんは言っていた。
そして俺がそうではないことを彼女は理解している。
だから、俺が口にした感想は、瑠衣さんにとっては一定の価値がある。
もちろん、嘘偽りのない本心を述べただけだ。
それでも、少しでも彼女の役に立つことができたのならよかったと思った。
☆
『次の講義までの間、暇してるんです。大学に遊びに来ませんか?』
瑠衣さんからそう送られてきたのは数日後、平日の昼時だった。
本来であれば高校に通っている時間帯。けれど今はちょうど定期試験中。午前中で試験は終わり、午後からは空いていた。
それに今日はバイトもない。
俺は瑠衣さんの誘いに乗ることにした。
『分かりました。今から行きます』
『うれしいです。待ってますね』
メッセージを返すと、制服から私服に着替え、アパートを出る。
瑠衣さんの通う大学は、アパートから徒歩で十分ほどの場所にある。俺が高校に通うのとほとんど変わらない距離だ。
前を通ることは何度もあった。でも中に入るのは初めてだ。
大学生の群れに紛れ、正門に向かって歩いていく。
正門前には警備員が立っていた。前を通る時、一瞬、緊張する。呼び止められるのではないかと背筋がこわばる。その後のことを想像して、歩速が上がる。
でも早足になると、却って怪しまれるかもしれない。普段と同じ歩速を心がける。警備員の目の前を通り過ぎる。呼び止められない。
目前から、背後に。歩を進め、距離を離す。追ってきてはいないか、途中で何度も振り返りたくなるのを堪える。
角を曲がったところで、ようやく振り返る。いない。大学生がいるだけだ。結局、無事に入りこむことができた。
初めて見るキャンパス内は圧巻だった。
華々しい建物が建ち並び、何というか、明るく開いている。
カフェがある。テラスがある。フードトラックまである。
まるでテーマパークだ。
そんな華々しい空間の中、待ち合わせ場所の喫煙所は薄暗かった。
校舎と校舎の間、奥まった細い場所に喫煙所はあった。
日が差さずに、薄暗い。パーテーションで仕切られた狭い空間。まるで人目に付かないように隔離されたかのようだ。
くすんだ色のベンチに、ぽつぽつと喫煙者たちの姿がある。学生もいれば、職員や工事の業者と見られる人もいた。
会話はない。皆、タバコを吸いながら、無言でスマホをいじっていた。背中が丸い。目に光がない。明るい表の通りとは隔絶された空間だった。
淀んだ空気の喫煙所。いくつか並んだベンチの一番奥に瑠衣さんがいた。
加熱式タバコや電子タバコを吸う人が多い中、紙のタバコを口に咥えながら、ぼんやりと虚空を眺めている。
ベンチに座って足を組み、頬杖をつきながら一人、物憂げに佇んでいる。その瞳は見る者をぞっとさせるほどに冷たい。
近寄りがたい雰囲気を放っていた。
実際、瑠衣さんに声を掛けようとする人間はいなかった。ちらちらと、遠くから様子を覗うだけ。彼女の周りには強固な結界が張り巡らされていた。
俺もまた声を掛けることができなかった。
近寄りがたかったから。それもある。でも、それだけじゃない。声を掛けることで目の前の静謐な雰囲気を壊してしまうのが嫌だった。
「…………あ」
先に向こうが気づいた。相好を崩すと、ぱっと表情を明るくさせる。そしてひらひらとこちらに手を振ってきた。
「こんにちは。来てくれたんですね」
「まあ、暇だったんで」
「私が気づくまで、ずっとそこにいたんですか?」
「何というか、声を掛けづらくて」と俺は言った。「瑠衣さん、人を寄せ付けない雰囲気を全開にしてたから」
「そうなんですか?」
「何というか、寄らば斬る、って感じでしたよ」
「そんなに武士ってましたか、私」
「自覚なかったんですか」
苦笑しながら、ふと、酒袋のことを思い出した。
コンビニバイトの同僚で、瑠衣さんと同じ大学に通っている。
あの人は喫煙所にいた瑠衣さんに話しかけたと言っていた。凄い度胸だ。あるいは結界が見えないほど無神経なのか。たぶん後者だろうと思った。
「私が結斗くんを呼んだのに、斬り付けたりなんてしませんよ」と言う瑠衣さん。さっきまでの醒めた瞳の冷たさは霧散していた。
「もうお昼は食べちゃいましたか?」
「まだです」
その前に連絡が来たから。
「私もです。せっかくですし、食べにいきましょうか」
「いいですね」
瑠衣さんは立ち上がると、吸い終えたタバコを灰皿に捨てる。灰皿の中の水には吸い殻が死骸のようにいくつも浮いていた。
「良かったんですか?」
「何がです?」
「まだタバコ、結構残ってたのに」
「これ以上結斗くんを待たせるのも悪いですから」と瑠衣さんは言った。「それに、お腹も空いちゃいましたし」
薄暗い喫煙所を後にすると、表の通りに出る。
瑠衣さんが俺を連れてきたのは学内のカフェだった。
洒落た英語の名前のそのカフェは、名前負けせずに内装も洒落ていた。落ち着いた色合いではあったけれど、それは明るい落ち着きで、俺には落ち着かなかった。
「意外と空いてますね」と俺は言った。もっと混雑しているものかと思ったが、ちらほらと人がいるだけだった。
「もうお昼時は過ぎてますからね。今は講義の時間ですし。昼休みは凄いですよ。絶対に近づきたくないですね」
よほどの人混みになるらしい。
「ちなみに注文はあっちです」
「今さらですけど、大丈夫ですかね。俺、部外者ですけど」
「名乗り出るでもしない限りは問題ありませんよ。近所のお爺さんがお茶をしに来てる時もあるくらいですから」
「それは、大らかですね」
「ガバガバとも言いますけど」
俺はロコモコ丼を注文し、瑠衣さんはフレンチトーストを注文する。受け取った料理をトレイの上に乗せると、奥の席に移動した。
「結斗くんはロコモコ丼にしたんですか」
「食べたことがなかったので。高校の食堂にはないものですし」と俺は言った。「それにロコモコって響きが、何か良いなって」
それを聞いた瑠衣さんがくすっと笑った。
「俺、変なこと言いましたか」
「いえ。かわいいなと思っただけです」
そう言うと、瑠衣さんはフレンチトーストをナイフとフォークで切り分ける。ふわふわのトーストには、たっぷりと蜂蜜とシロップが掛かっている。生クリームも。
見るからに健康に悪そうだ。見ているだけで胸焼けしてくる。ただ今この瞬間の刹那的快楽を凝縮したような食べ物だ。
ロコモコ丼を口にする。白米の上にハンバーグと目玉焼きが乗り、ドミグラスソースが掛けられている。
見た目通りの味だった。想像以上でも以下でもない。そこそこの味。でも値段がお手頃なことを考えるとお釣りが来る。
「試験はどうでしたか?」と瑠衣さんが尋ねてくる。
「まだ明日が残ってますけど。今のところはぼちぼちです」
「なら、赤点はなさそうですか」
「名前を書き忘れたりしてない限りは」
「それはよきことですね。ちなみに結斗くんの得意科目は何ですか?」
「国語です」と俺は答える。「苦手なのは、数学と化学」
「典型的な文系ですね」
「瑠衣さんはどうでしたか」
「私も国語は得意でしたよ。あとは英語も」と瑠衣さんは言う。「逆に、苦手だったのは日本史と生物です」
「暗記科目が苦手なんですか」
「いえ。比較的得意でしたよ」
「じゃあ、どうして」
「その二科目は、試験が一限目にあることが多かったので」
「ああ、起きられないってことですか」
「おかげで何度か赤点を取るはめになってしまいました」
「起きて時間を見た時、焦りませんでしたか」
「ギリギリだったら、焦ってたかもしれません。でももう手遅れでしたから。シャワーを浴びてからゆっくり登校しましたよ」
「それは大物ですね」
俺ならきっと、焦る気がする。焦って、どうすればいいか逡巡する。結局、どうしようもないという結論は変わらないのに。
瑠衣さんみたいに潔く諦めることはできないだろう。
「次の講義は何時からですか?」
「三時四十分からです」
「じゃあ後、一時間くらいありますね」
「それまでお喋りしていましょうか」
昼食を取り終えた後、だらだらと話して過ごした。
吹けば飛ぶような、他愛のない話。有意義でも、生産的でもない。アパートのベランダや喫茶店で話してる内容と変わらない。
ただ場所だけがいつもと違う。
明るい陽の差すカフェには、華やかな学生たちが集っている。その光景に俺という人間は上手く嵌まっていないなと思う。
自分でも落ち着かないし、周りから見てもきっと浮いている。
でも瑠衣さんは違う。
くすんだ喫煙所も似合うし、華やかなカフェにも馴染んでいる。どちらの場所でも自分を損なうことがない。
「瑠衣さん、時間大丈夫ですか」
しばらく話をした後、俺は瑠衣さんに告げた。彼女の肩口の後ろ、壁に掛かった時計の針は三時半頃を示していた。
「そろそろ行かないと間に合わないんじゃ」
「あ、もうそんな時間ですか」
瑠衣さんは手元のスマホの電源を入れると、時刻を確認する。てっきり席を立つものだと思っていたが、立たない。
電源を切ると、スマホを伏せた。
「いや、講義……」
「今日はサボっちゃいます」
「え?」
「だって講義に出るより、結斗くんと話してる方が楽しいですから」と瑠衣さんは両手のひらの上に顎を乗せながら微笑む。
「同じ時間を過ごすなら、楽しい方がいいに決まってます。でしょう?」
「けど、大丈夫なんですか。単位とか」
「何とかなりますよ。きっと」と瑠衣さんはあっけらかんと言い放つ。持ち前の思い切りの良さを遺憾なく発揮していた。
「なので、もう少し付き合ってくれますか?」
「……まあ、良いですけど」
本当は帰って明日の試験勉強をするつもりだった。
でも、もういい。
瑠衣さんの言うとおりだ。
どうせ同じ時間を過ごすなら、楽しい方がいいに決まってる。