先生と生徒の別れのお話。
あえてどちらの性とも、どの生徒ともしていません。
あなたの中のあなたと、あなたの思う誰かのお話であれれば幸いです。


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檸檬

 贈り物が届いた。美しい加工のレターセットだった。

 手紙のプレゼントだというのに、同じデザインの、贈り主直筆のものも添えられている。『これを私だと思って持ち歩いて、君が見たものや感じたものを書いてほしい。そうすれば、きっとそれが、私との思い出になるから。』

 これを渡してくれた彼女の顔は、泣いていないにしても、悲しみに暮れていた。あるいは、一人の生徒として、なんとか精神のバランスをとって立ち続け、気丈に振る舞っているとも言える。少し小突けばすぐに倒れてしまいそうに見えるのが、何よりの証拠だ。

 そうなるのも仕方ない。当然だと思う。

 この私に届いたその手紙こそが、──先生の、遺言だったのだから。

 

 

 あっけない終わりだった。事故死でもなければ老衰でもない。流れ弾が運悪く、当りどころも悪く、それでいて、そうなってしまった場所も悪かった。ただそれだけだ。救急班が到着した頃にはもう、その場に居合わせた生徒がくずおれて、ただ泣いている姿があっただけだったと聞く。それでも、先生の顔は最後まで幸せそうに笑っていたというのだから、本当にあの人は格好をつけすぎだと思う。

 痛いのなら、苦しいのなら、泣いてほしいと。私を頼ってほしいと、そう言ったのは、他ならぬ先生──あなただというのに。

 私が当番の後、あれやこれやを片付けているうちに帰りが遅くなってしまった日。シャーレに泊まっていくことになったあの日のことを思い出す。私は……端的に言ってしまえば、先生と恋仲だった。もう少し濁すなら親密だった、とでも言うべきか。

 その日も私と先生は、少し遅めの食事をとったあと、静かな余暇の時間を、肩を並べて過ごす。先生はその優しげな顔に似合わず、お酒をよく嗜んだ。夕飯のついでにデリバリーして、時間が経ってしなしなの唐揚げをつまみながら、「やっぱりこのふたつは鉄板の組み合わせだね」なんて言って笑っていた。わかりやすい『大人のシンボル』をひけらかすその姿は、にくらしく、そして愛らしい。お酒を嗜む大人というとまず、創作の中の気品と度胸に溢れた格好良さを想像するのだけれど……先生はそうではない、『かっこいい』というよりもへなへなとした、そんな魅力に包まれた人だった。

 だから、その日のキスは突然で、そして意外だった。からかう目的で私がふざけて顔を近づけただけなのに、その人は少し本気にして、押し倒すようにして私の唇を奪った。別に初めてではない、何度か交わしたものだけれど、その日のような『攻勢』の姿を見るのは初めてだった。

「……苦い」

 思わず口をついて出たそれは、酸味というよりも、その人が飲んでいたものに由来するものだった。酒、いや──そう言うと、不良生徒に見られてしまうだろうから──、アルコールの、その独特の鼻を刺すような匂いが味覚のうちの苦味のツボを押したのだ。

「ごめんね」

 そう言いながら、その人は私の唇と自らのそれとをひたすらに重ね続けた。何度か啄むようにしてから、その後でどちらからともなく舌を入れる。絡み合う中で、いつしか二人の唾液が混ざり合い、形容のしようのない甘さに変わっていく。その頭を抱くようにして、鼻で息をしながら、ずっと交わっていたいと、私は態度で懇願した。なされるがまま複雑にうねるだけでなくて、意地悪なその微笑みを崩すべく突き入れてみたりもするけれど、すぐにいなされて、逆に私が蕩かされてしまう。

 頭の中がぼんやりとしてきたあたりで、大人の手が私の体を弄るのが伝わってきた。ソファの上、月明かりの中、大人の庇護下。ふたつがひとつになる。

 

 

 

 ゴト、と、乱雑にそれが真っ二つになる。

 目のような丸みの木目を携えた俎板の上で、黄色い果実が転がった。あの日の口付けを思い出したくて、一個だけ。まるで私と先生の関係を見るかのような奇異の目、それと同じものを向けられながら買ってきたものだ。

 転がる。

 転がる。

 その俎板を揺らめき落ちて、台のどこに触れるでもなく、誰の手もすり抜けて。

 転がった先で、それは地に伏した。何かに寄りかかるように、切られた面で天を仰いで、私を見つめている。

 どうして。

 どうして、私のいないところでいなくなってしまったの。

 問いかけには、答えてくれない。ただ、その果実の頬を、何かが伝っているような気がする。

 それを拾い上げて、私は口付けをした。それを掬うように。いつだったか、私にしてくれたように。

 ──ただ、強い酸味だけが、口の中に広がった。

 あの日の……胸の中の、覚えてしまった苦い香りを感じない。

 涙がこぼれた。止まらない。どうしても、止めることができなかった。ひたすらに、強く握る手の内を流れ続けるそれを、どれだけ口付けで掬っても。あの日の"味"はひとつもしなかった。泣いた。ただ泣いた。涙とそれが混ざっても、どれだけ舌を這わせても、あの日の"味"なんて、しなかった。

 

 

 あの日からずっと、その手紙を書けずにいる。

 書いて、書いて、その先に紙幅が尽きた時。その時が、私と先生との、永遠の別れであるような気がして。

 あるいは先生としては、それを狙っていたのかもしれない。私が心の安寧を取り戻すまでの時間稼ぎとして、仮初の思い出を紡いでいって。最後、手紙を書ききった頃には綺麗さっぱり忘れてくれていると、そう願っていたのかもしれない。

 甘く見られたものだ。

 私の思いが、たったこれだけの便箋におさまると、本気で思っていたのだろうか。半分、怒りのようなものすら覚えた。どうせ私が同じことをしたら、あなたは同じ思いになるくせに。身勝手な人だ、ほんとうに。

 靴を脱ぐ。寄せては返す波が、私の足を避けるように形を変える。少しこそばゆいけれど、涙で歪んだ顔を笑みに転じさせるほどではなかった。ひたすらに泣いて、人様に向けることなどできないような顔で、ここまで来た。段々と闇が近づく夕焼けの水平線を眺めながら、私は便箋を取り出して、優しく撫でた。あの日、暗闇でふたり、ぐちゃぐちゃに溶け合った日に背中を撫でたときと、同じように。

 忘れられるものか。ずっと。

 こんなに、自分でも驚くほどに、あなたを愛していた想いを……辛くて手放してしまいたい想いを、簡単に手放せるものか。

 それでも、私は前を向かなければならない。あなたのことを、時折思い出すことはあっても、傍に置いていてはいけないから。

 人とも紙とも、簡単に決別できてしまうすぐれもの──簡易なライターを取り出した。私は驚いた。子供でも、こんなに簡単に着火できてしまうなんて。

 さようなら。

 口にしない別れの言葉をきっかけに、揺らめく火と便箋が口付けを交わす。

 燃え始めた角から、段々と消えていく。あなただったものがいなくなって、うざったいほど綺麗な空が視界を埋めていく。熱いけど、あなたが消えてしまうその時まで、その手を握っているから。私を優しく撫でてくれた、その手を。

 あなたは何も答えず、私の指の中で、灰すら遺さず消えていった。そうして夜闇が世界を包んでようやく、私の指の伝う先がないことを実感する。

 俎板の上で、片割れが泣いている。

 

 

 

 こんな情緒あふれる別れ方をしておいて、私はまだしばらく、先生のことを、忘れられる気がしない。どうしても私の中に、胸の中に、あなたがくれた苦味が、ずっと残ってしまっている。

 だから私は、あなたがあなたの代用品だと言ったそれに。あなたに聞こえるように、こう書き殴った。

 

 こんな想いも。こんな関係も。こんな現実も。

 

「夢なら、よかったのに」


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