サムライガールの幼馴染みは王様を目指す 作:ボルメテウスさん
霧は白いだけじゃなかった。
音が吸われ、距離が溶ける。石畳の湿りが足裏にまとわり、呼吸のたびに喉の奥が冷える。絶霧の中は、世界が“箱”になっている。逃げ道も、助けも、外の気配も――全部ここで途切れる。
槍の穂先が、霧を裂かずに滑ってくる。裂けない。裂ける前に、もう刺さってくる。
「面倒だなぁ……」
口に出した瞬間、曹操の声が霧の裏から落ちた。
「黄昏の聖槍は、蛇を殺すための刃だ。君の“蒼”が効かないのも当然だろう?」
効かない。分かってる。分かってるのに、体が先に反応する。
ヨーヨーの糸を握り直し、蒼赫の切り替えを手元で確かめる。遠投しない。ここで飛ばせば、切り替えが遅れる。遅れたら終わる。
穂先が喉へ来る。
赫で弾いて横へ跳ぶ。石畳が滑り、靴底が鳴らない。霧が音を殺す。跳んだ先に、もう槍が待っている。線が折れない。折れさせる前に、相手の線がこちらの逃げを読んでくる。
「太郎っ」
絶花の声が近い。霧の中でも、声の芯が揺れない。
半歩前に出て、俺の利き手側の余白を守っている。言葉を増やさない。増やせば霧に吸われる。だから動きで言ってくる。
――三十秒。
背中にその圧が貼り付いた。
俺は赫で踏み込み、蒼へ切り替えて足元を吸う……つもりだった。
蒼が“届いた”感触はある。空気が一瞬だけ歪んだ。なのに、曹操の槍は揺れない。足も止まらない。むしろ、槍の柄がこちらのヨーヨーの軌道に先に当ててくる。
「っ……!」
糸が震え、指の付け根が熱い。
槍の柄が叩きつけられた衝撃が、骨の芯へ残る。次の瞬間、穂先が胸の中心を狙って伸びた。避ける。避けた先にも伸びる。呼吸が浅くなる。
「なるほど。やはり“核”が上がる」
曹操が笑った。笑いは静かだ。静かなまま、殺しに来る。
霧の中で、蛇がざわつく。内側が熱くなる。熱が上がるほど、理性が薄くなるのを知っている。黒江との決闘で、そこは押さえたはずだ。それでも、槍の“刺さる理屈”が俺の中の何かを引っ張ってくる。
踏み込みが一歩遅れた。
穂先が胸板へ――いや、刺さる前に、空気が“縫い合わされた糸”みたいに震えた。
霧が、白いまま、ひび割れる。
白の裏に、別の色が滲んだ。
黒に近い、深い青。夜空を裏返したみたいな冷たさ。霧の端に、細い縫い目が走っている。結界の継ぎ目だ。絶霧の“壁”のはずなのに、その縫い目だけ、違う規則で光っている。
――上から被せられてる。
英雄派の霧じゃない。
その瞬間、霧が一箇所だけ、きれいに裂けた。刃で裂いたんじゃない。紙を破るみたいな乱暴さもない。縫い目を外す、という感じ。縫製を知っている手つきの破断だ。
裂け目の向こうから、乾いた匂いが入ってきた。金属が熱を持ったときの匂い。あと、ほんの少しのオゾン。
「……太郎」
声が落ちる。低い。迷いがない。
霧の裂け目に、黒江残月が立っていた。制服の襟が乱れていない。状況だけが乱れている。目だけが、鋭く光っている。
手首に光る円盤――Aウォッチ。
見慣れたはずの形が、今は異物みたいに見えた。地球の道具の顔をして、宇宙の癖で動いている。
「何を……!」
曹操が槍を引き、裂け目へ向ける。
穂先が触れた瞬間、光が薄く跳ねた。槍が“遅れる”。ほんの一拍。ありえない遅れ。
黒江が言う。短い。
「生きろ。お前は、先の人間を守る」
次の瞬間、黒江の腕が動いた。攻撃じゃない。合図でもない。
裂け目の縫い目に、薄い光の欠片が貼り付く。札じゃない。紙でもない。透明な板みたいなものが、縫い目の上で脈を打つ。点滅が、呼吸みたいに整っている。
――標識。
追跡用の“信号”。
黒江は俺を見ない。縫い目だけを見ている。狙いが俺の救出だけじゃないのが、動きで分かった。救って、刻む。未来のために。
「太郎っ、今!」
絶花の声が背中を押す。
俺は赫へ切り替え、反発で身体を裂け目へ投げた。石畳を蹴る。霧が背中を引っ張る感じがする。結界が、外へ出るのを嫌がっている。蛇が騒ぐ。ここで熱に飲まれるな。
裂け目の縁に指が触れた。冷たい。ガラスみたいに滑る。
次の瞬間、外の音が戻った。遠い車の走行音、誰かの笑い声、京都の湿った夜気。肺の奥が、やっと広がる。
着地の衝撃が膝へ来る。
絶花がすぐ横にいて、俺の腕を一度だけ掴んだ。強く引かない。立てるかどうかを確かめる程度。
「大丈夫?」
「……立てる」
答えながら、視線は霧へ戻った。
裂け目の向こう、曹操が一瞬だけ眉を動かす。苛立ちじゃない。驚きだ。自分の結界じゃない縫い目に、黒江が信号を貼り付けたのを見た顔。
「それは、何だ」
曹操の声が低くなる。
黒江は槍を見ず、縫い目の光だけを見て言った。
「お前たちの霧じゃない。……触るな。燃える」
霧が、縫い目を中心に一度だけ波打った。
白が戻り、青が引く。縫い目の光は消えない。消えないまま、奥へ引っ込んでいく。まるで、誰かが糸を巻き取っているみたいに。
曹操が舌打ちを噛み殺す。
英雄派の連中が霧の縁へ下がる気配がした。外の音が戻った以上、長居はしない。目立てば負けだ。英雄派の“正義”は、いつも世間の目とセットで動く。
「今日は退く。だが、核は必ず――」
言いかけた曹操の言葉を、黒江が切る。
「次は退けない。太郎を殺せば、未来が死ぬ」
その“未来”という単語が、俺の胸の奥を冷やした。
黒江は俺を救った。俺のためじゃない。先のためだ。そう割り切っている目をしている。
霧が引く。英雄派の気配が薄れる。
残ったのは、石畳の湿りと、息の白さと、縫い目に貼られた信号の残像だけだった。
絶花が小さく息を吐く。
「今の霧……質が違った。上から被せた、ってこと?」
「……ああ」
俺の掌がまだ熱い。糸の感触が残っている。
黒江が背を向ける。追わない。追うべきは英雄派じゃない、と言っている背中だ。
「待て、黒江!」
呼び止めた声が、夜気に吸われた。
黒江は振り返らないまま、短く返す。
「信号は残した。追え。八坂に繋がる」
それだけ言って、路地の闇へ消えた。
残った俺は、胸の奥の蛇のざわめきを、ゆっくり息で押さえ込む。守るべきものの匂いが、まだ手のひらに残っている。京都の夜は冷たい。それでも、今は冷たさの輪郭がはっきりしている。
次回の王は
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