サムライガールの幼馴染みは王様を目指す 作:ボルメテウスさん
路地の湿り気がまだ靴裏に残っている。
絶霧が引いたのに、空気だけが遅れて戻ってこないみたいだ。石畳の冷たさが膝に上がり、指先の汗が乾く前にまた冷える。
絶花が俺の腕を一度だけ掴んで、すぐ離した。掴みっぱなしにしない。立てるかどうかを確かめただけだ。
「……立てる?」
「立てる。大丈夫」
声を出すと、京都の夜の音が返ってくる。車のタイヤが遠くで水を踏む音。どこかの店の戸が閉まる音。人の笑い声が、霧の箱の外から届く感じ。
さっきまでの“無音”が嘘みたいで、逆に胸がざわつく。
黒江はもういない。背中だけ残して消えた。
追う気にもなれない。あいつの目は、助けたとか協力とか、そういう色をしていなかった。
――「英雄派が騒げば戦争になる。人が死ぬ。だから止める」
言葉は短かった。
けれど、あの短さが本気だ。排除だの正義だのを振り回している場合じゃない、と言っていた。人の未来を守るために、俺を死なせない。そういう理屈だった。
……ありがたい、で済む話じゃないのが面倒だ。
絶花がスマホを見下ろし、画面を俺に向けた。
地図の上で、小さな点が脈を打っている。黒江が霧の縫い目に貼り付けた“信号”だ。心臓みたいに点滅するたび、方向だけがはっきりする。
「追えるんだ」
「追えって言われた。……追う」
言い切った瞬間、喉が少し乾いた。
追うのは英雄派。けれど、黒江の視線は“別の何か”にも向いていた。縫い目の主。上から霧を被せていた手。
あれが動けば、京都だけじゃ済まない。黒江の言葉が、背中に冷たい板みたいに貼り付いている。
「英雄派がいる場所、分かるの?」
「“分かる”ってほどじゃない。だが、この信号が示す方向に……いる可能性は高い」
言いながら歩き出すと、足音が自分でも聞こえる。ありがたい。
霧の中だと、足がどこに落ちたか分からなくなる。今は石畳がちゃんと返事をする。湿った硬さで、コツ、と。
夜の京都は、灯りが柔らかい。
提灯の赤が路地の角を丸くして、古い木の匂いが鼻の奥で甘くなる。観光客の群れが一つ通り過ぎ、香の匂いと揚げ物の匂いが混ざって消える。
この“普通”が、さっきの箱と地続きなのが嫌だ。
絶花が俺の半歩前を歩く。
人の流れが切れる瞬間だけ、肩越しに目を向けてくる。俺の顔じゃなく、口数と歩幅を見る目。
「……さっきの人、黒江。助けた理由、言ってた?」
「戦争になるって」
「英雄派が?」
「英雄派が火種を投げれば、三大勢力も妖怪も動く。京都は観光地だ。巻き込まれる人間が多い。……そういう計算」
言葉にすると、胸の奥が少し重くなる。
正義の話じゃない。死体の数の話だ。黒江はそこだけ見ていた。
絶花が短く息を吐いた。怒っているのか、呆れているのか分からない。
「太郎ってさ、こういう時だけ“王様”の顔するよね」
「してない」
「してる」
返す言葉が見つからず、口を閉じた。
舌が乾いている。今、余計な言い訳を出すと、内側の蛇が喜びそうで嫌だった。
信号の点滅が少し早くなる。
近い。そういう意味に見える。単純で助かる反面、単純すぎて怖い。誘導される感覚が、また戻ってきた。
路地が一本、さらに細くなる。
壁の漆喰が湿って、指で触れたら冷たそうだ。頭上の電線が低く見え、遠くで猫が鳴く。
猫の声が、やけに近い。
……違う。近いんじゃない。周りが遠い。
足を止めた瞬間、空気の温度が一段落ちた。
霧は出ていない。見える白さはない。なのに、音だけが薄くなる。観光客の声が、布越しみたいに丸くなる。
絶花も止まる。
俺の横に並んで、半歩だけ前へ出る。いつでも引ける位置。いつでも押せる位置。
路地の先に、誰かが立っていた。
背が低い。白い服。裸足。灯りの下で、足の指がほんのり赤い。
髪は黒いのに、目だけが妙に静かだ。水面みたいに光を返す。
「……誰だ」
問いかけた声が、自分の耳に戻るのが遅い。
この遅さが嫌だ。絶霧の時と同じ箱の匂いがする。結界とは違う。もっと、薄い。でも、確かに“外と切れている”。
白い少女は首を傾げた。
答えない。呼吸の音もしない気がする。近づいているのに、足音がない。石畳を踏んでいないみたいだ。
「太郎」
絶花が名前だけ呼ぶ。
それだけで十分だ。余計な言葉は要らない。今ここで必要なのは、逃げるか戦うかの選択だ。
……逃げる。
ただし、逃げ方を間違えると刺される。さっき学んだ。
ヨーヨーを握る。指先に糸の冷たさが戻る。
内側の蛇が、さっきより静かだ。静かすぎる。眠っているんじゃない。見上げている。こっちの外を。
少女が、俺の胸のあたりを見た。
視線が、皮膚を通る。痛くないのに、背筋がぞわっとする。冷たい指で首筋を撫でられたような感触。
「……君」
少女が小さく口を開く。声は幼い。なのに、言葉の端が古い。
「別の、可能性」
短い。
説明はない。けれど、その二語が胸の奥に落ちて、内側の蛇が一度だけ震えた。
「何の話だ」
「君が、見せた」
少女の瞳が揺れない。
俺の中の力を、俺が制御した。暴走しない道を作った。黒江との決闘の結末。さっきの槍の圧の中で、踏みとどまった呼吸。
それを“見た”と言っている。
「……見てたのか」
「うん」
返事が軽い。軽いまま、空気だけが重い。
匂いが変わらないのに、喉が冷える。京都の湿り気が、ここだけ乾いている。
「お前、さっきから“オーフィス”って――」
口にしかけて止めた。
曹操が言っていた名前だ。けれど、目の前の少女がそれだと決め打つのは早い。決め打った瞬間に、相手の箱に入る。
少女が、ほんの少し笑った。笑ったのに、頬は上がらない。
「名前?」
「……いや」
絶花が俺の袖を、指一本で引いた。
“やめろ”の合図。
そうだ。ここでやり合う理由がない。英雄派の場所へ向かう途中だ。寄り道は命取りになる。
少女は一歩、横へ退いた。道を塞がない。
塞がないのが、逆に怖い。通してもいい、と言っている。通した上で何かを見たい、と言っている。
「行くの?」
「行く」
声が硬くなる。
硬いのは仕方ない。柔らかくする余裕は今ない。
少女が俺の手元――ヨーヨーの糸を見た。
「それで、引く。押す」
「……知ってるみたいだな」
「知ってる」
その言い方が、妙に優しい。
優しいのに、背中が冷える。優しさが“飼う”側の匂いを持っている。
「君、できる。違う道」
少女が言い切った。
その瞬間だけ、内側の蛇が熱を帯びる。燃えるんじゃない。水面が揺れる。
俺の呼吸が一拍ずれた。
絶花がそのズレを見逃さず、もう一度袖を引く。
「太郎、今」
「ああ」
一歩踏み出す。
少女の横を通る。すれ違う瞬間、匂いがない。香も、汗も、土もない。
ただ、冬の夜の空気だけが、肌に貼り付く。
背中に視線が刺さる。
振り返らない。振り返ったら、箱に戻る気がする。
数歩進んだところで、少女の声が落ちた。
「……また、見る」
短い。
それだけで、喉が乾く。
絶花が小さく舌打ちを噛み殺した気配がした。
俺も同じだ。怖いというより、面倒が増えた。増えた面倒の種類が悪い。
信号の点滅が、また規則正しくなる。
現実が戻った。路地の先に人の声が戻り、遠くの車が近づく音がする。
「今の、何」
絶花が言う。声を荒げない。荒げると、余計なものが寄ってくるから。
「分からない」
「分からないで行くの?」
「行く」
言い切る。
言い切った瞬間、胸の奥で蛇が静かに笑った気がした。笑うな。こっちの呼吸は俺のものだ。
信号の点滅が、角を曲がった先を指す。
英雄派がいると思われる場所へ。
黒江が言った“戦争の芽”がある場所へ。
京都の夜は柔らかい。
柔らかいまま、人が死ねる。だから、急ぐ。
次回の王は
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