サムライガールの幼馴染みは王様を目指す 作:ボルメテウスさん
観光地で人が怒鳴ると、だいたい目立つ。
それが外国の観光地ならなおさらだ。言葉が分からなくても、声の大きさと顔の歪みで、まともな話し合いではないことくらいは伝わる。人間は便利だ。怒っている時だけは、言語の壁を簡単に越える。
大陸間の橋の向こう側で、一人の男が叫んでいた。
最初は、ただの口論に見えた。
誰かとぶつかったとか、写真を邪魔されたとか、道を間違えたとか。観光地で起こりがちな、つまらない苛立ち。そういうものの延長だと思えば、まだ説明はつく。
だが、男の怒り方は普通ではなかった。
「ふざけるな……何で俺ばかり……!」
声が低く、濁っている。
目の焦点が合っていない。足元の黒い砂が、不自然に震えている。肩口から、薄い黒いもやが立ち上っていた。レイキャネス半島の白い蒸気に混じってしまえば、見逃してもおかしくないほど薄い。けれど、色が違う。温度も違う。あれは地面から出ている蒸気ではない。
感情から漏れている汚れだ。
『出たな。ネガエモルギア反応だ。ただし、濃度はまだ低い』
耳元の通信端末から、レオルドの声が入った。
俺は観光客たちの流れから少し外れた位置に立ち、男と周囲の距離を測る。絶花は俺の半歩後ろ。蒸気の白に顔を半分隠しながら、黒いもやを見ていた。
「低い割には、もう人間が壊れかけてるぞ」
『地熱ノイズのせいで見え方が悪い。実際はもっと濃いかもしれねえ』
「助ける?」
絶花が小さく聞いた。
「助ける。ただし、観光客の範囲でな」
そう言った直後、ロスヴァイセが前へ出た。
白と淡青の装備が、風の中で揺れる。観光客の間に立つにはあまりにも目立つ姿だったが、こういう時にはその方がいい。危険な場所へ向かう人間が一目で分かるというのは、それだけで避難誘導になる。
「下がってください! この方には近づかないで!」
声はよく通った。
丁寧だが、強い。
ロスヴァイセは男の前で足を止め、淡青のルーンを展開した。光の文字が円を描き、男を囲む。攻撃ではない。拘束でも、まだ弱い。まずは暴走した感情を抑え、周囲へ飛び火させないための防壁だ。
「落ち着いてください。あなたの感情は、外部から刺激されています」
「うるさい! 全部、俺を馬鹿にしてるんだろ!」
男の腕が跳ねる。
黒いもやが濃くなり、細い触手のように地面を這った。ロスヴァイセの足元へ伸びる。彼女は即座に魔術で弾いたが、もやは地面に散って、また男の背中へ戻っていく。
「やはり、通常の精神汚染ではありませんね……」
ロスヴァイセの判断は速い。
だが、場所が悪い。
橋の周囲には観光客が多い。強い魔術を使えば巻き込む。地熱地帯に近いせいで、木道から外れるのも危ない。足場を間違えれば、相手を助ける前に別の被害者が出る。
「皆さん、木道から離れず、ゆっくり後退してください!」
ロスヴァイセが声を張る。
けれど、観光客は簡単には動かない。
逃げたい者、動画を撮る者、状況が分からず固まる者。人間は危険を前にした時、必ずしも正しく離れられるわけではない。むしろ、どうしていいか分からない時間が一番危ない。
俺は近くの観光客へ声をかけた。
「走るな。木道から落ちたら、助かるものも助からねぇぞ」
男がこちらを振り返る。
「でも、あれは何なんだよ!」
「知るか。分からないもんからは、静かに離れろ。叫んでも距離は増えねぇ」
少し乱暴だったかもしれない。
だが、今は優しく説明している時間がない。強い言葉で進行方向だけ示せば、人は案外動く。怖がっている時ほど、分かりやすい指示に従うからだ。
数人が下がり始める。
絶花も、木道の脇で小さく手を上げた。
「こっち……道、空いてます」
声は小さい。
それでも、彼女は逃げる人たちの動線を作ろうとしていた。言葉が通じきらない相手には、身振りで伝える。手を振って、足元を指して、木道から外れないように示す。
ぎこちない。
けれど、悪くない。
「悪くない」
俺が言うと、絶花は少しだけこちらを見た。
「……今は、友達作りじゃない」
「人と話す練習にはなる」
「それ、今言う?」
「今だからだろ」
絶花は返事をしなかったが、逃げる観光客へもう一度手を振った。
ロスヴァイセは暴走者を抑えながら、こちらを見ていた。視線が鋭い。財布を拾った時から疑われていたが、今のでさらに疑いが濃くなったらしい。
「あなた……なぜそんなに冷静なのですか!」
「日本人観光客は、案外肝が据わってるんだよ」
「絶対に違います!」
「じゃあ、個人差だ」
「そういう問題ではありません!」
ロスヴァイセが言い返した直後、黒いもやが彼女の足元へ伸びた。
気づくのが半拍遅い。
ロスヴァイセは前の男に意識を割かれている。観光客もまだ完全には下がり切っていない。強い動きで避ければ、背後の人間に接触する。
面倒だな。
俺は足元の小石を蹴った。
特別な動きではない。
ただ、靴先で転がしただけだ。観光地で足元の石を蹴ってしまうことくらい、誰にでもある。
小石は黒いもやの節に当たった。
軌道がわずかに逸れる。
その隙に、ロスヴァイセのルーンがもやを切り払った。
「今の……」
「足元、危なかったぞ」
「あなたが蹴ったのですか?」
「転がったんだろ」
「嘘が下手ですね」
「よく言われる」
正確には、嘘が下手なのではない。
隠す気が半分くらいしかない嘘をつくから怪しまれるのだ。分かっている。分かっているが、全部真面目に取り繕うのは性に合わない。
『太郎、妙だ』
レオルドの声が低くなった。
『反応の中心が暴走者じゃねえ』
「どういうことだ」
『こいつは受信側だ。外部から感情を増幅されてる』
俺は男の背中を見る。
黒いもやは男から出ているように見える。だが、流れが逆だ。地面の蒸気に混じった細い線が、男の背中へ入り込んでいる。
「発信源は?」
『地熱ノイズが邪魔で絞れねえ。ただ、大陸間の橋からグンヌクヴェル方面へ線が伸びてる』
白い蒸気の奥を見る。
一瞬だけ、黒い筋が混じった。
「蒸気に隠してるのか」
『だろうな。地形を使って反応を散らしてる。素人じゃねえ』
「犯人、別にいる?」
絶花が聞く。
「ああ。面倒な方のやつだ」
暴走者の状態が悪化した。
男の腕が黒く膨らみ、もやが筋肉のように絡みつく。本人の肉体が変質しているわけではない。外側から感情の汚れが貼りつき、無理やり力を増幅している。
近くの観光案内板が殴られ、金属が歪んだ。
観光客が悲鳴を上げる。
「まずい……このままでは身体が耐えられません!」
ロスヴァイセがルーンを強める。
男を傷つけないように、外側のもやだけを剥がそうとしている。いい判断だ。だが、狙う場所が少し違う。
感情を切るんじゃない。
外からの線を切る。
『正解だ。暴走者の背中側、黒いもやの根元に細い接続線がある』
レオルドの解析が届く。
俺にも見えた。
薄い。
地熱の白い蒸気に紛れて、ほとんど糸みたいな黒い線が男の背中へ入っている。
ロスヴァイセに言えば怪しまれる。
言わなければ間に合わない。
どちらが面倒か。
考えるまでもなかった。
「おい、ロスヴァイセ!」
「何ですか!」
「背中だ。本人じゃなく、後ろの黒い線を狙え」
ロスヴァイセが一瞬だけ目を見開いた。
「なぜそれを……!」
「見りゃ分かる」
「普通は分かりません!」
それでも、彼女は切り替えた。
疑問は後回し。
目の前の人命が先。
その判断は嫌いじゃない。
「ルーン拘束、対象背面へ展開!」
淡青の光が男の背後へ回り込む。黒い接続線を縛る。男の身体からもやが剥がれかけた。
だが、最後の抵抗が強い。
黒い線がロスヴァイセの魔術を押し返す。地面の蒸気が噴き上がり、視界が白く染まった。線の根元が案内板の陰に隠れ、ルーンの光が届ききらない。
俺は近くに倒れていた観光用の金属ポールを拾った。
ただのポールだ。
魔法でも武器でもない。
観光客でも持てるし、持ったところで正体はばれない。たぶん。
「太郎」
絶花が小さく呼ぶ。
「大丈夫だ。観光客でも棒くらい拾う」
「拾うかな」
「拾うことにする」
ポールを地面に差し込み、てこの要領で歪んだ案内板をずらす。
金属が軋んだ。
黒いもやが絡みついていた遮蔽物が動き、接続線が露出する。
ロスヴァイセが即座に反応した。
「今です!」
彼女のルーンが収束する。
「解除!」
淡青の光が黒い線を断ち切った。
男の身体からもやが抜ける。黒い感情の塊は空中でほどけ、蒸気に混じろうとして、ロスヴァイセの魔術に封じられた。
暴走していた男は、その場に崩れ落ちる。
ロスヴァイセが駆け寄り、呼吸を確認した。
「呼吸はあります。命に別状はありません」
観光客たちのざわめきが戻る。
さっきまでの緊張が、遅れて恐怖に変わっていく。こういう時、人は助かった後に初めて震える。
俺はポールを元の位置へ戻した。
何食わぬ顔をする。
絶花がじっと見てくる。
「今の、観光客?」
「観光客でも棒くらい動かすだろ」
「動かさないと思う」
「地域差だ」
「日本でもしない」
反論できなかった。
ロスヴァイセがこちらへ歩いてくる。
表情には、感謝と疑念が同じくらい乗っていた。なかなか器用な顔だ。
「助かりました。あなたの指摘がなければ、解除に時間がかかっていたでしょう」
「偶然だ」
「偶然で背中の接続線は見抜けません」
「目がいいんだよ」
「それだけでは説明がつきません」
俺は肩をすくめた。
「財布を拾うし、目もいい観光客。便利だろ」
「便利というより、不審です」
「太郎、不審」
「お前はどっちの味方だ」
「事実の味方」
絶花の返しは淡々としている。
ロスヴァイセは少しだけ息を吐いた。
「あなた方は、しばらくこの地域から離れてください。危険です」
「観光途中なんだが」
「命より観光を優先しないでください」
「正論だな」
正論は苦手だ。
特に、相手が真面目に言っている時の正論は扱いに困る。
その時、ロスヴァイセが封じていた黒いもやの一部が、するりと蒸気へ溶けた。
逃げた。
『逃げたぞ。反応の線はグンヌクヴェル方面へ戻ってる』
レオルドの声がすぐに飛ぶ。
「やっぱり本命は別か」
俺は呟いた。
ロスヴァイセがこちらを見る。
「まだ、終わっていない……?」
危ない。
今のは、こちらの情報源を知っている前提の反応だった。
俺は蒸気の方へ目を向ける。
「蒸気の方、嫌な感じがするな」
「あなた、本当に何者ですか」
「善良な観光客」
「その言葉の信用度が、会うたびに下がっています」
「じゃあ、財布を拾った観光客」
「それだけは事実ですね」
ロスヴァイセは悩むように眉を寄せた。
俺たちを追い払いたい。
だが、追い払ったところで勝手に動きそうだと思っている。
正解だ。
よく分かっている。
彼女は数秒だけ沈黙したあと、諦めたように言った。
「分かりました。あなた方をここに放置する方が、かえって危険そうです」
「それはどういう意味だ」
「そのままの意味です。私の目の届く範囲にいてください」
「同行?」
絶花が聞く。
「一時的に、です。あなた方は観光客として振る舞ってください。ただし、勝手な行動はしないこと」
「観光客として振る舞えって言われたのに、勝手な行動するなって矛盾してねぇか」
「あなたの場合、必要な制限です」
『見抜かれてんじゃねえか』
レオルドが笑うように言った。
「うるさい」
ロスヴァイセはグンヌクヴェル方面を見た。
白い蒸気が濃く立ち上っている。
その奥に、黒い揺らぎが一瞬だけ見えた。
「本命は、あちらですね」
俺も同じ方向を見る。
「北欧観光、ますます面倒になってきたな」
「でも、少し楽しい」
絶花が言った。
その顔は、ほんの少しだけ明るい。
さっき、観光客を誘導した時の緊張がまだ残っている。だが、それ以上に、日本ではない場所で、自分が何かをしたという小さな実感があるのかもしれない。
なら、悪くない。
「なら、元は取るか」
蒸気の向こうで、黒い反応がまた揺れた。
ロスヴァイセは真面目な顔で前へ歩き出す。
俺は観光客の顔をしたまま、その少し後ろを歩いた。
正体はまだ出さない。
今はまだ、怪しい観光客で十分だった。
次回の王は
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