サムライガールの幼馴染みは王様を目指す 作:ボルメテウスさん
放課後の教室は、オレンジ色の黄昏に染まりきっていた。
長い影が床に伸びる。机の脚が、まるで牢獄の柵のように見える。
生徒たちは全員帰った。俺とあんな、そして小林。三人だけだ。
小林は自分の席に座っている。整然とした机、整然とした姿勢。背筋が伸びて、まるで学校というシステムの一部のような完璧な佇まいだ。
「なんでしょう、唯我くん。放課後の補習なら明日ですよ」
笑顔だ。完璧な笑顔。
だが、俺には見える。その笑顔の裏で、瞳の奥だけが冷たく光っているのを。爬虫類のような、あるいは深海魚のような、温度のない光だ。
俺はポケットからビニール袋を取り出した。
中には昨夜理科室で採取した乳白色の粘液が入っている。
ビニール越しに透けて見えるその質感は、ただの汚れではない。ヌルリとした、生温かい、有機的な質感。まるでカエルの卵のゼリー状物質を薄く延ばしたような、生理的嫌悪を催す粘度だ。時折、微細な粒子がその中で蠢いているのが見える。
宇宙人の汗。
『相棒、落ち着けよ。奴は擬態のプロだ。正面から攻めてもそう簡単には剥がれねぇ』
ゼロの声が脳内で響く。だが、もう後には引けない。
「これは理科室のガラス破片から採取したものだ。お前、これが何だか知ってるか?」
小林はビニール袋を一瞥した。眉一つ動かさない。
「何でしょう、これ。ネバネバしていますね。科学準備室の糊が漏れたんですか?」
論理的だ。即座に日常的な説明で包み込む。さすが優等生だ。だが俺は食い下がる。
「糊じゃない。これは有機物だ。それも地球上に存在しない成分の」
「非論理的ですね。存在しない成分が、どうやってビニール袋に入っているんですか?」
小林の笑顔が微かに凍った。いや、凍っていない。笑顔のまま、瞳の奥の温度が一段下がっただけだ。
「何を言っているのか分かりませんが、唯我くん。最近疲れているんじゃありませんか?」
「防犯カメラの映像を見せろ。ガラスの破片が全部内側に散ってる。外から割られたんじゃない。内側から吸い込まれるように割れたんだ。お前が擬態を維持できずに一瞬漏れ出したからな」
俺は畳み掛ける。
だが小林は、まるで教科書を読むように淡々と答える。
「ガラスが内側に散る現象は、真空状態や急激な気圧変化でも起きます。理科の知識があれば常識ですよ。それに、防犯カメラに映っていたのは唯我くん、あなたです。自分のやったことを忘れているなら、保健室に行った方がいいですね」
クラスメートが一斉に頷きそうな、完璧な論理的返しだ。
言葉の刃が、綿のような笑顔に包まれて弾かれる。論理で詰めても、こいつの「優等生」の装甲は一枚も剥がれない。
「小林さん、あなた、嘘ついてるでしょ」
あんなが横から口を挟んだ。彼女の声は静かだが、確信に満ちている。
「あんなさん、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
小林が心配そうに声をかける。その声色には、微塵の不自然さもない。
だが、あんなは下がらない。
「違う。でも、違う。何か…奥の方に、黒い塊みたいなのが…」
あんなが自分の胸を押さえている。その顔が青ざめている。
直感が警鐘を鳴らしているのだ。小林の完璧な擬態の壁の向こうに、見えない何かが蠢いているのを感じ取っている。だが直感は霞む。確信には至らない。
「あんなさん、無理しない方がいいですよ。唯我くんの妄想に付き合って、体調を崩したんですか」
小林の声が優しい。優しすぎる。その優しさが、逆に不気味だ。
あんなの苦悶の表情が、俺に確信を与えた。
論理ではダメだ。言葉で剥がせる鎧じゃない。
なら、次の一手だ。
心理的な揺さぶり。奴の「完璧な仮面」を、力ずくで剥がしにいく。
「小林」
俺はビニール袋を握りしめた。
「お前、何も感じないのか。自分の周りで人が傷ついてるのに」
小林の笑顔が初めて、ほんの少しだけ歪んだ気がした。
「傷ついている? 誰がですか?」
「渡辺だ。山田だ。俺が疑って持ち物を漁った時、お前は教室にいたはずだ。なのに何も言わなかった。見て見ぬふりをした。それがお前の『優等生』のやり方か?」
小林の瞳の奥が、一瞬だけ揺らいだ。
そこに見えたのは、冷徹な計算でも、怒りでもない。
虚無だった。
何もない。何も感じていない。ただ、擬態を維持するためのプログラムが動いているだけのような、空洞の表情。
だが、その虚無こそが証拠だ。人間なら、何かを感じるはずだ。悔しさでも、怒りでも、悲しみでも。
何も感じない。それが「人間ではない」ことの何よりの証明だ。
「あんな、外で待ってろ」
「え?」
「次は俺一人でやる」
俺はあんなに目配せをした。彼女は一瞬迷ったが、やがて頷いて教室を出ていった。
教室に残されたのは俺と小林だけ。
夕暮れの光が、小林の顔を半分影に沈めている。
「さあ、小林。優等生の仮面を外そうか」
俺は一歩踏み出した。
教室に沈黙が降りた。
夕暮れの光が西の窓から斜めに差し込み、小林の顔を半分黄金色に、半分影に染め分けている。
その光景は美しい。まるでルネサンスの宗教画のようだ。聖女と悪魔が同一人物の中で共存しているかのような、不気味でいて完成度の高い一枚の絵。
だが俺は絵画を鑑賞しに来たんじゃない。皮を剥ぎに来たんだ。
「小林」
俺は一歩踏み出した。靴底が床を擦る音が静寂の中でやけに大きく響く。
「何でしょう」
小林が微笑む。完璧な微笑みだ。口角の角度、眉の位置、目の細まり具合。どれを取っても非の打ち所がない。まるで教科書に載る「理想の優等生」の見本だ。
だが、だからこそおかしい。
人間は完璧じゃない。誰だって欠点がある。疵がある。だから人間なんだ。
こいつはあまりにも完璧すぎる。それは人間であることをやめているのと同じだ。
「お前のその優等生の顔、疲れないか?」
俺は核心を突いた。
小林の睫毛がピクリと動いた。ほんの一瞬。だが俺は見逃さなかった。
「何を言っているのか分かりませんが」
「完璧であろうとするのは大変だろ? 毎日毎日、背筋を伸ばして、正しい言葉を選んで、誰にでも優しくして、決して怒らず、決して泣かず、決して笑いすぎもしない。お前、そんなのを何ヶ月続けてるんだ?」
小林の喉がゴクリと鳴った。
音がした。静寂の中で、その嚥下音はあまりにも大きく、あまりにも人間的だった。
だが、その人間らしさこそが逆に不気味だ。人間らしく振る舞うために、意識的に嚥下している。それが見え見えだからだ。
「唯我くん、あなたは疲れているんですよ。最近いろいろあって」
「俺じゃない。お前だ」
俺は更に一歩踏み出した。机と机の間隔が詰まる。
小林の匂いが鼻腔に届いた。シャンプーの香りだ。いや、その下に。微かに。ほんの微かに。
腐った海藻のような、生温かい有機物の臭気。
昨夜理科室で嗅いだあの臭いだ。間違いない。
「お前、汗かいてるぞ」
俺は小林の額を指差した。
小林の手が反射的に額に触れようとして、止まった。
その一瞬の躊躇。それが全てを物語っていた。
人間なら額を拭うのに躊躇しない。だがこいつは躊躇した。自分の額に何が滲み出ているか知っているからだ。
「汗なんてかいてま…」
「嘘つけ」
俺の声が低くなった。王の声だ。命令する声じゃない。見抜く声だ。
「お前の額に滲んでるのは汗じゃない。粘液だ。昨夜理科室で見たのと同じ、乳白色の、ぬるっとした、生温かい粘液だ」
小林の笑顔が凍った。
いや、凍っていない。笑顔の形を維持したまま、瞳の奥の光が変わった。余裕の光が消え、代わりに焦燥の色が混じり始めた。
微細な変化だ。口角は同じ角度。眉は同じ位置。だが瞳の奥の温度が一段上がっている。それは恐怖じゃない。計算が崩れた時の焦りだ。
「その汗、私には分かるよ」
扉の向こうから声がした。あんなだ。俺は出て行けと言ったが、彼女は廊下から覗き込んでいた。扉の隙間から半分の顔が見えている。瞳は真剣だ。
「小林さん、あなたから変な匂いがするの。最初は分からなかった。でも今、はっきり分かる。あの理科室と同じ匂い。胸がギュッとなる、あの感じ」
あんなが自分の胸を押さえる。その手が震えている。直感が警鐘を鳴らしているのだ。完璧な擬態の壁に亀裂が入り、その隙間から漏れ出した「異物」の気配を、彼女の感応能力がキャッチしている。
小林の肩がピクリと震えた。
初めてだ。あの完璧な姿勢が崩れた。ほんの数ミリ。だが確実に崩れた。
額に一筋の液体が滲み出した。
汗ではない。
透明ではない。乳白色で、微かに粘度のある液体が、小林のこめかみを伝って頬へとゆっくり流れ落ちていく。
まるで、氷が溶けるように。
いや、氷じゃない。仮面が溶けているのだ。
完璧に張り付けられた人間の皮膚の継ぎ目から、本来の成分が漏れ出している。
液体は頬を伝い、顎の先に到達した。
そこで一瞬止まる。表面張力が液体を支えている。重力と粘度のせめぎ合い。
俺の目には、その一滴がスローモーションのように見えた。
一滴が顎の先から離れ、空中に浮く。
放物線を描き落下していく。
床までの距離は一メートル半。だが俺の目にはそれが永遠のように長く感じられた。
ポタッ。
乾いた音が教室に響いた。
床に落ちた粘液は、微細な粒子を含んでいた。夕暮れの光を浴びて、キラリと虹色の干渉模様を描く。
宇宙微粒子だ。
ババルウの母星の大気成分。地球には存在しない物質。
間違いない。こいつはババルウだ。
小林の手が自分の額に触れた。指先が粘液に触れ、その感触に気づいた時の表情。
笑顔が消えた。
初めて見る小林の表情。いや、小林じゃない。小林の皮を被った何かの表情だ。
「あ…」
小林が一歩後ずさった。椅子がガタリと鳴る。
「見つかっちゃった」
その声は小林の声じゃなかった。低く、粘着質で、どこか楽しそうな響き。だがまだ変身はしていない。擬態を維持しようとする意志と、綻びを塞げない焦りが、小林の顔の上でせめぎ合っている。
額からはまだ粘液が流れ続けている。頬を伝い、顎を越え、制服の襟を濡らしていく。
白いブラウスに乳白色の染みが広がる。
それはまるで、人間という仮面が溶け落ちる予兆のように見えた。
『相棒、今だ。奴の擬態が綻んでる。だが完全に崩れる前にもう一押し必要だ』
ゼロの声が脳内に響く。
一押し。
俺には分かっていた。ここからが本番だ。
「バレたか」
声が変わった。
小林の声じゃない。あの完璧な優等生の声じゃない。低く、粘着質で、まるで泥沼から這い上がってくるような声だ。
だがまだ小林の顔は笑っていた。いや、笑っていたのではない。小林の顔が「張り付いたまま」なのだ。下から別の何かがその皮を押し上げている。
グチュリ。
音がした。
生々しい、湿った音。まるで生きた蛙の腹を親指で押した時のような、粘液と肉が擦れ合う音。
小林の頬が裂けた。
いや裂けたんじゃない。内側から「押し破られた」のだ。
亀裂は頬から顎へ、顎から首へ、首から胸へと走る。
その亀裂の奥から見えたのは、人間の肉ではない。
暗い。暗い紫に近い、ぬめりを帯びた肌。鱗というよりは、粘液で覆われた軟体動物の表皮に近い質感だ。
生物の進化の過程を間違えたかのような、あるいは地球上の論理が適用されていないかのような、生理的嫌悪を催す色と質感。
「あ…あ…」
小林の口から漏れた声は、もう人間のものではなかった。
皮が剥がれる。
まるで脱皮する蛇のように、小林という名の皮がゆっくりと、しかし確実に、下から現れる別の存在によって押し退けられていく。
額の粘液が潤滑油のように亀裂を滑り落ち、新しい肌を濡らしている。
やがて現れたのは、人型でありながら人間ではない何かだった。
暗い紫色の肌。頭部に突き出た二本の角。そして何より、人間とは決定的に異質な「質感」だ。
人間の皮膚は呼吸している。毛穴が開き、汗を分泌し、温度を調節する。生きた臓器だ。
だがこいつの肌は違う。ぬめりを帯びた表面が、自律的に蠢いている。まるで皮膚そのものが一つの独立した生物であるかのように、ブニブニと脈動している。
細胞レベルで、俺の免疫系が拒絶反応を起こしている。吐き気がする。これが宇宙人か。これがババルウか。
「クックックックッ」
笑い声が響いた。
教室という日常の空間に、その笑い声はあまりにも異質だった。まるで静かな図書館で屠殺場の音が突然鳴り響いたかのような、場違いさと暴力的な不快感。
「面白かったよ人間。本当に面白かった」
ババルウが──もう小林じゃない──口を開いた。
声は小林の声帯を使っているが、響きが根本から違う。まるで人間の throat を楽器のように扱っている。声帯を無理やり振動させて人間の言葉を捏造している音だ。
「擬態がバレるのは久しぶりだ。最後は……300年前の惑星だったかな」
「300年……」
「我々は長く生きる。お前たち人間の寿命など、我々にとっては瞬きのようなものだ」
ババルウが一歩踏み出した。
ガタンッ!
椅子が蹴り飛ばされた。軽い。椅子が紙切れのように宙を舞い、教室の後ろの壁に叩きつけられた。金属とプラスチックが砕ける音が乾いて響く。
「だからお前のような人間が、我々の擬態を見破ったことは特別だ。誉めてやろう」
ババルウの手が机を掴んだ。
ギリリ。
金属の脚が悲鳴を上げる。人間なら持ち上げられない重さの机を、ババルウは片手で握りつぶすように掴み上げた。
「だが誉め言葉を聞く暇はやらん」
ドォン!!
机が投げ飛ばされた。
宙を舞う机。俺の視界を横切る黒い影。
「あんな! 下がれ!」
俺は叫び、後ろにいたあんなの腕を掴んで引き寄せた。机が俺たちの頭上を掠め、教室の窓ガラスを粉砕して外へ飛び出していく。
ガシャァァン!!
ガラスの破片が室内に散乱する。夕暮れの光が破片に反射して、無数の虹色の光の刃が教室を切り裂くようだ。
あんなを背に庇う。
彼女の体が震えている。その震えが背中から伝わってきた。恐怖だ。無理もない。目の前で人間の皮を被った宇宙人が正体を現したのだ。普通の人間なら失神してもおかしくない。
だが彼女は立っている。俺の背中に隠れながら、それでも立っている。
「太郎くん……!」
「動くな。俺の後ろにいろ」
俺の声が低い。
心臓が早鐘を打っている。ドクン、ドクン、ドクン。
だが恐怖じゃない。これは戦いの前の高揚感だ。
右腕が熱い。ウルトライズブレスレットが脈打ち始めた。ゼロが反応している。
『相棒奴は完全に擬態を解いた。だがここで変身すれば学校が吹っ飛ぶ。まずは人間のまま回避しろ』
分かっている。狭い教室でウルトラマンゼロに変身すれば、それだけで天井と壁が崩落する。学校ごと潰すわけにはいかない。
だが人間の身体でババルウと戦う? 自殺行為だ。ゼロと一体化しているとはいえ、俺の肉体はただの人間だ。反応速度は強化されているが、ダメージを受ければ死ぬ。
「逃がさんよ」
ババルウがニヤリと笑った。
その牙が見えた。人間の歯じゃない。鋭く、ぬめりを帯びた、獣の牙だ。
次の瞬間、ババルウが跳んだ。
速い!
さっきまでの「小林」の動きとは次元が違う。だが俺には見える。ゼロとの一体化による強化された反応速度が、ババルウの軌道をスローモーションのように捉えている。
右から来る。爪が伸びている。人間の爪じゃない。鋭く湾曲した、紫色の鉤爪だ。
俺はあんなを抱えたまま横に跳んだ。
ガシュッ!!
ババルウの爪が俺のいた場所を掠める。空気が裂ける音がした。数ミリずれていれば、俺の首が胴体と離れていた。
床を転がる。あんなを抱えたまま机の陰に滑り込む。
「くそっ!」
ババルウが着地する。床が陥没する。衝撃波が教室を振動させ、残っていた机がガタガタと跳ね上がった。
「ほう避けたか。人間のくせにいい反応だ」
ババルウがゆっくりとこちらに歩を進めてくる。
一歩。一歩。そのたびに床がミシミシと悲鳴を上げる。
俺は机の陰で息を殺した。
右腕のブレスレットが熱い。ゼロが叫んでいるのが分かる。だがまだだ。まだ変身できない。
場所を変えなければ。屋上か、グラウンドか。人目のない広い場所へ。
だがババルウは待ってくれない。
「さあ人間。次は避けられるかな」
ババルウの爪が光った。
次回の王は
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妖怪王
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機械王
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怪獣王
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幻想王