サムライガールの幼馴染みは王様を目指す 作:ボルメテウスさん
ババルウの爪が光った。
紫色の光だ。夕暮れのオレンジとも人工の蛍光灯とも違う、有毒な色彩。その光が鋭く湾曲した鉤爪の表面を舐めるように走り、大気中の微粒子を焼く微かな焦げ臭さが鼻をつく。
次の攻撃が来る。
ゼロの感覚が告げている。脳の奥で警鐘が鳴り響くのだ。まるで自分の背中に別の目が生えて、未来を見ているような感覚。ゼロと一体化しているからこその予知に近い察知だ。
(来る――右だ。いや、違う。上から!)
「あんな、伏せろ!」
俺はあんなの頭を抱え込むようにして床に押し付けた。
次の瞬間、頭上で音が炸裂した。
バシュッ!!
ババルウの爪が机を縦断したのだ。
一撃だ。ただの一撃で、俺たちが隠れていた机が紙細工のように両断された。天板が縦に割れ、金属の脚がねじ切られ、木屑と金属片が室内に扇状に散乱する。
木屑が俺の頬を掠めた。チリッとした痛み。だがそれは蚊に刺された程度の痛みでしかない。問題は、だ。俺たちの遮蔽物が消えたということだ。
「隠れる場所がなくなったな」
ババルウが立ち上がっていた。割れた机の残骸を足蹴にしながら、ゆっくりとこちらに歩を進めてくる。その紫色の肌が夕暮れの光を受けて、どす黒く妖艶に発光している。
二本の角が天井に届きそうだ。教室の天井は三メートル。ババルウの頭頂部から角の先端までは四十センチほど。つまりこいつの身長は二メートル六十を超えている。人間の姿の時は小柄な小林だったというのに。中に折り畳まれていた質量が解放されたのだ。
(まるでジャック・イン・ザ・ボックスだな。開けたら中から化物が出てきました、という)
そんな冗談が口から出そうになるのを必死で飲み込んだ。笑っている場合じゃない。
『相棒、机一つ分の遮蔽じゃもう持たねぇ。廊下に出ろ。屋上を目指すんだ』
ゼロの声が脳内で響く。的確な指示だ。俺が考えていたことと同じだ。ゼロとの同調が進んでいるのか、思考がシンクロし始めている。
屋上。そうだ。屋上なら広い。変身しても建物を崩せる心配はない。夜だ。生徒も帰宅している。人目も少ない。
問題はそこまでの距離だ。教室から廊下までは窓を跨いで十歩。階段までは廊下を三十メートル。屋上までは四階分の階段。
この間、ババルウの攻撃を凌ぎ続けなければならない。人間の身体で。
(正直言って死ぬ確率の方が高い)
だがやるしかない。
俺はあんなの手を掴んだ。
その手が冷たい。氷のように冷たく、小刻みに震えている。指先から伝わる振動が俺の手のひらを通して腕へ、腕から肩へ、肩から胸へと流れ込んでくる。恐怖だ。あんなは恐怖で震えている。
無理もない。俺だって怖い。目の前にいるのは人間じゃない。数百年を生きる宇宙の怪物だ。ただ、俺の中にゼロがいる。その体温が、恐怖を上書きしてくれている。
「あんな、走るぞ。手を離すなよ」
「う、うん……」
あんなが俺の手を握り返した。その力の強さに驚いた。細い指のどこにそんな力があったのか、白くなるほど強く握られている。彼女の命綱は俺の手なのだ。
俺はババルウの次の動きを睨んだ。
ゼロの感覚が研ぎ澄まされている。ババルウの筋肉の収縮、重心の移動、視線の方向。全ての情報がスローモーションで脳に流れ込んでくる。
ババルウの右肩が沈む。右腕を振るう前の予備動作だ。
今だ。
「走れ!」
俺はあんなの手を引き、全力で走り出した。
同時にババルウの爪が横薙ぎに迫る。空気が裂ける音。バシュッという鋭い音が耳元で炸裂した。俺の髪が数本、虚空に散る。数ミリ。本当に数ミリの差だった。
だが当たっていない。走っている。俺はあんなを前に押し出すようにしながら、破壊された窓枠を跨ぐ。ガラスの破片が靴底で砕けるジャリジャリという音が背後で響く。
廊下に飛び出した。
冷たい空気が肺に流れ込む。教室の中は粘液と血液と焦げ臭い匂いで満たされていたが、廊下の空気はまだましだ。
だが安息は一秒もない。
背後で轟音がした。
ドォォォォン!!
教室の壁が内側から吹き飛ばされたのだ。コンクリートの壁だ。鉄筋入りのコンクリート壁が、まるでセッタの上の雪玉のように粉砕され、廊下に散乱する。
埃とコンクリート片が俺とあんなの背中を打つ。小さな破片だが痛い。まるで無数の小石を背中に投げつけられているようだ。
「追いかけてくる……!」
あんなが叫んだ。彼女は後ろを振り返っていた。俺も振り返りたいが振り返れない。振り返っている暇はない。だが足音で分かる。
ドン。ドン。ドン。
一定のリズムだが、一歩ごとの衝撃が違う。廊下の床がババルウの一歩ごとに震えている。まるで小型の地震が俺たちの背後で連続発生しているかのような振動だ。
「走れ走れ走れ!」
俺はあんなの手を引いたまま全力で走った。廊下の蛍光灯が頭上を流れていく。一つ、二つ、三つ。階段まであと二十メートル。
(遠い。二十メートルがこんなに遠いなんて)
体育の授業で百メートル走を十一秒台で走れる俺が、二十メートルが遠いと感じる。あんなの手を引いているからだ。彼女の足は速くない。普通の女子高生の足だ。俺が速くても、二人の速度は遅い方に合わせられる。
背後で壁が砕ける音が連続する。
ガガガガガッ!
ババルウが廊下の壁を突き破りながら追ってきているのだ。真っ直ぐ廊下を走るのではない。壁を壁として認識していないかのように、最短距離を直線で突っ切ってきている。
教室と教室の間の壁が次々と崩壊し、粉砕された石膏ボードと鉄筋の残骸が廊下に溢れ出していく。まるで巨大な穿孔機が校舎を貫通しているかのような光景だ。
(廊下を走るんじゃない。校舎を食い破りながら来てる!)
『相棒、左だ! 左の壁から来る!』
ゼロの叫び。
俺は反射的にあんなの腰を抱え、左側の壁際に寄った。
次の瞬間、俺たちがいた右側の壁が内側から爆砕した。
バゴォォン!!
石膏ボードの破片と配管の残骸が廊下の右半分を埋め尽くす。もしゼロの警告が一秒遅れていたら、俺とあんなは瓦礫の下敷けになっていた。
「太郎くん、右からも……!」
あんなの声。
右を見た。廊下の突き当たり。そこにある教室の壁が、内側から膨らんでいる。まるで風船が膨らむように。壁の表面に亀裂が走り、石膏ボードの粉がパラパラと剥がれ落ちていく。
ババルウだ。壁の中にいる。
いや、壁を突き破って出てこようとしているのだ。
(挟み撃ちかよ!)
背後から一匹。右から一匹。だがババルウは一匹だ。つまり速いのだ。壁を突き破りながら俺たちの前方に回り込んだ。並行同位体の動きではない。ただ速い。異常に速い。
『相棒、奴の速度は地上走行でマッハに近い。人間の脚力じゃ追いつけない。だが擬態が解けている今、奴の動きは直線的だ。カーブでかわすんだ。直線では絶対に勝てねぇ』
ゼロの助言が的確すぎて涙が出そうだ。
(教官かよ。でも助かる)
右の壁がついに弾けた。
ババルウの腕が壁を突き破り、石膏ボードと共に廊内に突き出される。紫色の腕。鋭い鉤爪。その爪が俺の顔の横を掠め、廊下の壁に深い爪痕を刻んだ。
ギリリリリ……
爪が壁を削る音。金属を引きずるような、耳障りな音が鼓膜を削る。
「階段だ!」
俺はあんなの手をさらに強く握り直した。
階段まであと五メートル。手すりが見える。非常口の緑色の灯りが見える。あそこだ。あそこまで行けば。
ババルウが完全に壁から抜け出した。廊下に降り立った紫色の巨体が、瓦礫を蹴散らしながらこちらに向かって突進してくる。
速い。壁を突き破った勢いをそのまま突進に変換している。一度の着地で減速せず、壁を破った運動エネルギーを保存したまま突っ込んでくるのだ。
(物理法則を無視してるだろ。摩擦係数がおかしい)
俺は階段の踊り場に飛び込んだ。
足元に階段がある。上へ続く階段。屋上へ続く道だ。非常灯の緑色の光が階段を妖しく照らしている。
「登るぞ!」
あんなの手を引いたまま、階段を駆け上がった。一段飛ばし。二段飛ばし。踵が階段の縁を叩くカカカという音が響く。
一段、二段、三段。
背後でババルウが階段に飛び込んできた。
ドォォォォン!!
階段全体が揺れた。手すりが歪み、壁の塗装がパラパラと剥がれ落ちる。ババルウの体重が階段構造に過負荷をかけたのだ。
このままでは階段が崩落する。だが止まれない。止まれば殺される。
「太郎くん、来てる……!」
あんなが叫ぶ。後ろを見るなと言ったのに、彼女は振り返っている。その瞳が限界まで見開かれ、瞳孔が収縮している。
俺も振り返った。
階段の下にババルウがいた。
紫色の巨体が、一段ずつ、しかし確実に登ってきている。その目が、暗闇の中で赤く光っていた。爬虫類の目だ。縦長の瞳孔。眼球表面の反射膜が暗視機能を持っている証拠だ。
「クックックックックッ……」
笑い声が階段の筒状空間で反響する。まるで何人ものババルウが同時に笑っているかのような多重音だ。
「面白い。人間ごときがここまで逃げ延びるとはな。だがここまでだ」
ババルウの爪が手すりを掴んだ。金属製の手すりがバターのように歪み、ババルウの握力で液状化したかのように形を崩していく。
「次の攻撃で終わりだ。少女から目を離せ。お前の喉を掻き切る」
ババルウが腕を振り上げた。
階段の幅は一メートル半。逃げ場がない。右も左も壁だ。上はまだ階段が続いている。下はババルウだ。
だが。
『相棒、見えてるか? 奴の左足。階段の縁を踏んでる。重心が前過ぎる』
ゼロの声。
俺は見た。ババルウの左足。確かに階段の縁を踏んでいる。急勾配の階段で、しかも腕を振り上げた状態。重心が前に偏っている。
(ここで一歩踏み外せば――)
いや、やるべきことは回避だ。攻撃を避ける。
ババルウの爪が振り下ろされた。
縦の軌道。上から下へ。階段の勾配に沿った直線的な攻撃だ。速い。だが直線だ。ゼロの言った通り、直線的過ぎる。
俺はあんなを左の壁に押し付けた。
「壁に張りついてろ!」
俺自身は右に跳んだ。階段の右側。壁ギリギリ。背中を壁に擦りながら斜めに跳ぶ。
ババルウの爪が俺たちの間の空間を縦断した。
ガシュッ!
階段の床が裂ける。コンクリートに深い爪痕が刻まれ、粉砕された破片が階段下へ転がり落ちていく。
だが当たっていない。
「外したか。だが――」
ババルウが次の動作に移ろうとした、その時だ。
ババルウの左足が階段の縁を砕いた。
ズルッ。
重心が崩れた。一瞬だ。ほんの一瞬、ババルウの体が前のめりに傾く。
(今だ!)
俺はババルウの右腕を掴んだ。人間の身体で宇宙人の腕を掴む。正気の沙汰じゃない。だが、ババルウの重心が崩れているこの一瞬だけ、力関係が逆転する。
引く。フルパワーで引く。
「うおおおおぉぉぉっ!」
俺はババルウの右腕を階段下に向かって引いた。ババルウの崩れた重心に、俺の牽引力が加わる。
ドォォォォォン!!
ババルウが階段を転げ落ちた。
紫色の巨体が一段、また一段と砕けながら落下していく。階段の床が次々と陥没し、コンクリートの破片が舞い上がる。
『ナイスだ相棒! 今のうちに登るぞ!』
「あんな、登るぞ!」
俺はあんなの手を再度掴み、階段を駆け上がった。三階。四階。屋上の扉が見えてきた。錆びた鉄の扉に「屋上」の表示。
背後でババルウが再び立ち上がる音が響く。瓦礫を払うガサガサという音。そしてドン、ドンという足音が再び階段を登り始めた。
速い。倒されてもすぐに立ち上がる。しつこい。まるで粘液質な性格そのままの執念深さだ。
(あと少し。あと少しで屋上だ)
屋上の扉に手をかけた。
錆びたノブ。硬い。動かない。
(開けろ開けろ開けろ――!)
力任せに捻った。金属が悲鳴を上げ、錆びた蝶番が外れて扉が開いた。
夜風が吹き込んできた。
冷たい。教室の蒸れた空気とは違う。屋上の風だ。
俺とあんなが屋上の扉をくぐり、階段を登り始める。背後からはババルウの追撃が迫っている。
まだ終わらない。だが場所は変えた。
次は俺の番だ。
屋上のコンクリートが靴底に触れた。
空を見上げた。
夜空に星が見える。都会の光に霞んで数個しか見えないが、確かにそこにある。無数の星。そのどこかにゼロの故郷があるのだろう。
(いい夜だ。変身するには悪くない)
ババルウが階段の下で咆哮した。
次回の王は
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妖怪王
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機械王
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怪獣王
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幻想王