時刻はまだ太陽が顔を出して間もない早朝、トントントンと一定間隔で続く足音がまだ静かな住宅街に響く。その足音の正体はふわふわとしたロングヘアーに天使の羽と輪っかを持つ少女、テアであった。彼女は息を切らせながら、ほんのりと薄暗い道を駆け抜け目的地へと急いでいた。
今日は彼女の親友であるめいゆんと遠くの街まで遊びに行く予定であった。その街は電車を使っても数時間は必要であるため、少しでも早く出発するために早朝には駅前に集合することになっていた。しかし、テアは前日に新しい服のデザインに熱中して夜更かしをした挙句寝落ちし、起きたのは集合時間の5分後。駅と住宅街は離れていることもあり、どう頑張ったところで遅刻は確定してしまったのである。ゆえに、彼女は今こうして最低限の身支度だけは整えて朝から全力疾走をしているのだ。
「はぁ……ふぅ……」
苦しそうな吐息と共に彼女の足が止まる。そして、彼女は小鹿のように震える足を抑えるように両手を置き、大きく胸を上下させながら深呼吸を繰り返す。汗が伝って煩わしく感じつつもチラリと顔を上げてみるが、まだ駅は見えてこない。
こんな事ならちゃんと寝て、万全の準備を整えるべきだったと彼女は顔を顰めて己の昨晩の行動を悔やむが、それをしたところで何か状況が好転するわけでもない。
「ふぅ……」
最後に大きく息を吐き出した彼女は姿勢を戻し、また駅に向かって走り始めた。
それから数分後、遅刻してしまった身なりに少しでも待たせないようにと走り続けた彼女はようやく駅に到着した。ここに来るまでに2回程度電車の動く音が聞こえていたため、始発は間に合わなかったようだ。
なんと言って謝ろうか、また遅刻してしまったが許してもらえるだろうか、などと考え事をしつつ待ち合わせの場所であるコンビニに視線を向けて、彼女は気が付く。
「あれ? 居ない……」
そこには彼女が居ると予想していた人物はどこにも居らず、そよ風に揺られてパタパタとはためく『チョコミント無料贈呈』の広告旗があるだけだった。もしかして寒くて中に入っているのだろうか、そう考えコンビニの中に入って探してみるがやはりどこにもいない。
冷やかしにならないように朝食を買ってから外に出た彼女は、スマホを取り出しトークアプリを開く。そこには――。
『ごめん、寝坊しちゃった! 今から急いで向かう!』
『もーやっぱり、どうせ昨晩もデザインとか色々やってたんでしょ! 待ってるからね』
――と、寝坊に気が付いてテアが送ったメッセージと、彼女が走っている間に返ってきためいゆんからのメッセージが表示されていた。それを確認した彼女は僅かに眉を顰めて文字をタタタッと打ち込み、送信する。
『着いた! でもめいゆんどこに居るの?』
数秒、画面を見つめ続けるが既読はつかない。今は忙しいのだろう、そう判断した彼女はスマホをしまうと、つい先ほど買った朝食を食べ始めるのだった。
ポロン、とスマホから着信音が響いたのはそれから十数分後の事だった。それまで既読すら付かなかったため心配になってきていた彼女は慌ててスマホを取り出しその内容を確認する。
『ごめん、急用が入っちゃって今日は行けない』
「えぇ!?」とテアは小さく驚きの声を上げる。それはめいゆんの急用によって予定が無くなってしまった事への残念という気持ちと、ここまで全力で駆けてきたことが徒労に終わったことからくるものであった。
彼女は表示されるメッセージを眺めつつ数瞬考えを巡らし、小さくため息を零しながら返信を送ると、今度は僅か数秒後にめいゆんからのメッセージが届いた。
『そっか、残念。めいゆんの急用は大丈夫そう?』
『うん、でも忙しくてこれからは返信できない』
テアはそう返ってきたメッセージを見た時、ふと何か小さな違和感を覚えて首を傾げる。何というべきだろうか、返ってくるメッセージにどことなくめいゆんらしさを感じない気がするのだ。
彼女はどう行動するか悩んでいるように指を彷徨わせる。だが、急用で忙しいなら普段とは違うように感じる返信が来ることもありえると判断した彼女はこの後の事に考えを巡らせる。
こうしてそれなりに離れた所まで来たわけなのだし、予定が無くなったからといって家に直帰してしまうのは何だかもったいない気がするのだ。駅の近く――コンビニと道路を挟んで少し歩いた程度の所に茶屋があるので、そこで和菓子を楽しむのも良いだろう。帰り道にはショッピングモールがある。ならばそこで次の機会に着ていく服でも買おうか。いやいや、その前に汗だくになってしまったこの体を目の前の温泉荘で綺麗にしていこう。
テアはスマホをポーチの中にしまい、コンビニを離れた。
ショッピングからの帰り道、彼女は唯一神と遭遇した。テアは唯一神とトークアプリの登録はしているが、これと言って普段からやり取りをしているわけではないし、待ち合わせをしたりするような仲でもない。偶にお願いしてどこかに連れていってもらったりするが、その程度だ。
とはいえ、こうして偶然見かけたのだし気が付かなかったフリというのもどうかと考えた彼女は少し足早に彼――彼で良いのか分からないが――の元まで駆け寄り声を掛ける。
「こんにちは、唯一神さん」
「ん……? んん?」
声を掛けられてテアに気づいた唯一神はくるりと彼女の方に振り返り、一瞬不思議なものを目にしたように目を丸くし、すぐに怪訝な表情を浮かべて首を傾げる。
それを見た彼女は少しムッと感じてしまう。確かに私はめいゆんから誘われない限り普段から家に籠ってデザインの考案などに没頭しているが、一人でもショッピングぐらいはするのだと。
「なんですか、私が買い物をしてるのがそんなにおかしいですか?」
「いや、違う。めいゆんに散々連れ回されているから、そういうこともあるだろうとは思っている。どちらかと言えば君がここにいることに驚いているんだ」
「やっぱり外に出てて珍しいねって喧嘩売ってるんですか?」
「違う、今日はめいゆんと███市まで行くんじゃなかったのか?」
テアは一瞬なんでこの唯一神はそんなことを知っているのかと怪しんだが、めいゆんは彼の事を“唯一神様”と親しみを込めてそう呼んでいたりするので、彼女が予定の事を伝えていたのだろうと判断する。ならば知らぬ仲でもないし、わざわざ隠す必要もないため先ほどのスマホのやり取りを彼にも伝えた。
だが、それを聞いた唯一神の表情は納得したものに変わるどころか何故かさらに怪訝なものへと変わった。
「そうか……。急用の内容については聞いてないのか?」
「まあ、そこらへんはプライベートかなって思いますし」
「……めいゆんに███市の知り合いや関係者は居るのか?」
突然そんなことを尋ねられて、今度はテアが怪訝な表情を浮かべる番だった。とはいえ、唯一神を信頼している彼女は変に突っかかったりすることも無く、自身の記憶を掘り起こして答える。
「いえ、確か███市に行くのは今日が初めてだって言ってたと思いますけど」
唯一神の表情が今までに見たことが無いくらい歪んだ。それに一抹の不安を覚える。
「…………。テア、落ち着いて聞いて欲しい。めいゆんだが、調べたら彼女は今███市の山に居ることになっている」
唯一神から告げられた言葉は私が全く予想していないものだった。
「███市の……山? 何でですか?」
私の疑問に、唯一神は躊躇うように顔を俯かせるが、すぐにまた私と視線を合わせた。
「……恐らくだが、彼女は今誰かに誘拐されて閉じ込められている可能性が高い」
「――え?」
言葉は理解できた。
「誘拐……?」
意味は理解できなかった。
「死んではいない、だが危ない状況には変わらない。警察は動かしたが間に合わない、今すぐ行くぞ」
指先の感覚がなくなった。
景色が変わった。
鈍い音が聞こえた。
何かが割れる音、倒れる音が聞こえた。
「テア!」
ふっと宙に漂っていたような意識が引き戻され、ようやく周囲の状況を理解する。
薄暗い小屋。木の板によって覆われた窓からはほんのりと光が漏れていて、チカチカと点滅する心もとない電球に変わり、その中の様子を照らし出してくれている。倒れたボロボロの椅子や机、その上に乗っかっていたのが落ちて床に広がる様々な種類の道具や器具類、見ただけで気持ちの悪いと思うもの、倒れ伏している誰か、そして親友であるめいゆん。
「あっ……」
「傷は今、内外全て治療した。だが意識が戻らない。テア、めいゆんの傍に居て呼びかけ続けてくれ。私はこいつを拘束しておく」
現実は認識できるようになっても未だ混乱する頭のまま、私は唯一神の言葉に従い必死にめいゆんに声を掛ける。唯一神が言っていたように、今の彼女は目立った外傷はない。だが、何かされたのだということは分かってしまうくらい、衣服の損傷は激しい。それに、彼女の足元の床材は、薄暗いにもかかわらず広範囲にわたって変色しているのが分かってしまう。
「めいゆん、めいゆん、お願い起きて!」
視界の端に唯一神が犯人と思しき人を光輪で縛り付けているのが映った。何をしたのかは分からないが、その人がめいゆんに何かしたのだと少しずつ理解してくると今まで生きてきた中で感じたことのないほどの怒りと――。
「テア、めいゆんに集中してくれ」
「あっ、は、はい」
私は彼女に向き直る。そうして目に飛び込んでくるのはやはり何があったのか邪推できてしまうほど乱れた衣服。そして、頬に残る涙の痕や苦しげな表情。
「めいゆん、起きて、お願い……」
そんな様子を見ていたら、もしかしたら彼女の命がゆっくりと消えて無くなるんじゃないかと不安になって、たまらず彼女を抱き寄せる。
なんでこんなことになったんだろう。なんでめいゆんがこんなことにならなきゃいけなかったんだろう。そんな考えがずっとずっと頭の中をぐるぐると回り続けている。
温かい、生きてる、死んでない、動いてる、息がある。生きてる。
一体何に原因があったのか。理由はなんなのか。めいゆんが、めいゆんが狙われなきゃならなかった理由は何なのか。
「――ぁ」
「あっ、め、めいゆん? めいゆん!」
めいゆんが目を覚ました。慌てて彼女を放して様子を窺うが、彼女は私の呼びかけに反応して、呆然とした様子で私の方に顔を向けるが……焦点が定まっていない。ただ声に反応しただけで、彼女は私が見えていない。
彼女は、彼女のこんな姿を見たことはなかった。いつだって、私を引っ張ってくれて励ましてくれて傍に居てくれためいゆんが、こんなになるなんて、思っても居なかった。
私に何ができる? 苦しい時支えてくれためいゆんに、私は何ができるの?
「めいゆん、わた、私だよ。テア、テアだよ!」
情けないことに震える声で、彼女の手を握ってもう一度呼びかければ、ピクリと彼女の猫耳が反応を示す。先ほどまで定まっていなかった瞳がゆっくりと私を映した。
「……てぁ、ぁっ、テアちゃ、ぁ?」
「うん、私だよ、めいゆん」
弱々しい手つきで、そっとめいゆんの手が私の頬に触れる。その次に肩、腕、お腹、とまるで本当に私なのかを確かめるようにゆっくりと色々なところを触れて確認していき、また私と目を合わせた。その瞬間に猫耳がきゅっと垂れ、くしゃりと音が鳴ってしまいそうなほどに彼女の表情が歪み、だがすぐに彼女が抱き着いてきたため見えなくなる。
「――っ」
「…………」
彼女は声を上げて泣くことはしなかった。いや、もしかしたらできなかったのかもしれない。もう唯一神が押さえてくれているのに、声を上げてしまえば犯人にまた何かされるかもしれないという恐怖で。
それから、遠くから響いていたサイレンの音が近くで聞こえるようになり、警察の人たちがやって来るまで彼女はずっと私の名前と、「怖かった」とだけずっとずっと口にして私に縋りつくように抱き着いていた。
めいゆんの容態は警察と一緒に駆けつけた救急隊員が確認し問題がなかったため、その日は彼女の精神的な状態の事も考えて帰宅し、カウンセリングや休養である程度落ち着いてから事情聴取をする事となった。
だが、今までの日常に戻ったわけではない。あれからめいゆんは普段であればいつも通りに振るまえているのだが、暗いところを極端に怖がるようになったし、寝るときは電気を付けたままか、私が傍に居て抱きしめてあげていないと、寝ることすらできなくなっていた。
普段がいつも通りな分、そうして見せる事件の後遺症ともいえるそれは私の心をひどく締め付けてくる。あの事件から数日後に警察から教えられた犯人の動機、そして発生から解決までの流れ。その人が今までに何人も同じように誘拐して、弄んで、証拠隠滅のために殺して埋めていたという話も聞いたが、そんなことはもうどうでもよかった。ただ一つ。
めいゆんが犯人に誘拐されたのは、めいゆんが私に『待ってるね』と送った僅か2分後。それはつまり、私があのとき寝坊していなければ、めいゆんは誘拐されなかったということなのだ。私が、寝坊さえ、していなければ。
それに、その話から察するにそれ以降の『急用だ』というメッセージは犯人がめいゆんを騙って送ったものだ。だから、あのとき抱いた違和感にもっとちゃんと向き合って、それの正体に気が付けていたら、まだ間に合っていたかもしれない。いや、間に合っていたのだ。それなのに、私は呑気に入浴し、お菓子を食べ、買い物をしていた。めいゆんが、ひどい目にあっているのに。私は。
彼女は後遺症を直そうと毎日努力している。こんな私を頼ってくれて頑張っている。でも、それは私が、私のせいで、そもそもする必要のなかった努力を、して、させてしまっているのだ。それだけでない、そんな私の心情を察して、一番辛いはずのめいゆんに気を遣わせてしまってもいる。
嫌だ。なんで、私は、こんなに彼女の足を引っ張ることしかできないんだろう。ごめんなさい、情けない私でごめんなさい。
誤字を指摘してくれた兄貴姉貴ありがとう!