アマルティア国から提供された建築や牧畜に関する膨大な書物は、クロノスの社会を静かに、しかし劇的に変質させていた。
(垂直抗力の分散……柱と梁による空間維持。……これを用いれば、地圧に屈することなく居住圏を拡張できる)
クロノスは人類の建築技術を冷徹に模倣し、迷いの森の深部、人類が立ち入ることのできない未踏域の地下に広大なドームを築き上げた。
元々キラーアントはその本能に
「どのように巣穴を延ばせば崩落を防げるか」
という情報が刻み込まれている。その本能と人類のこれまでの知恵が融合することによってなしえた、壮大な土木建築と呼ぶべき空間だった。
酸で溶かした岩を混ぜ固めた強靭な支柱が天井を支え、計算された排気孔が地上へと繋がれ、巨大な地下空間に絶えず新鮮な空気を送り込む。その構造は、もはや「蟻の巣」という概念を逸脱した、一つの地下都市であった。
この秘匿された広大な地下空間で、ある事業を進め始めた。蛾の魔物『ミリトンモス』の完全家畜化である。アマルティアからもたらされた牧畜技術をクロノスなりに真似ようとしたのだ。結果的にこのプロジェクトはなんと3年という『家畜化』という概念を根底から覆すような短期間でクロノスは成功させることになる。
この家畜化を支えたのは、クロノスの主食である菌類『グロウ・ファンガス』であった。樹木のセルロースを特殊な酵素によって効率よくグルコースへと変換するこの菌は、ミリトンモスの幼虫にとっても理想的な高エネルギー源となった。森の植物をそのまま与えるよりも遥かに成長が早く、個体の栄養状態も安定する。クロノスは余剰となった菌床を「飼料」として転用することで、地下完結型の巨大な養殖ラインを構築したのである。
ミリトンモスの成虫が振りまく毒鱗粉は人類のような哺乳類には致命的な神経毒だが、同じ節足動物の系譜にあるクロノスには無害であった。彼らはこの生物学的優位性を利用し、捕獲した個体を地下の放牧場へ幽閉。数世代にわたる選別と交配を繰り返した。
卵から孵ったミリトンモスの幼虫に、栄養豊富なグロウ・ファンガスを与えて肥育する。幼虫が銀色の糸を吐いてサナギになると、クロノスはその「繭」を丁寧に回収した。
さらに彼らは、種としての存続のために一定数のサナギを羽化させ、成虫に産卵させた後、役目を終えた個体を「肉資源」として余さず収穫する――。人類が牛や羊に対して行ってきた循環を、彼らは地下の暗闇で、誰にも知られることなく完成させたのである。
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クロノスはアマルティアとの交易が3年続いた現在においても、決して自分たちの「本拠地」の場所を人類に対して明かそうとはしなかった。仲介役のガストンであっても立ち入れるのは、常に徹底的に管理された「境界の取引所」までである。
その日、ガストンの前に差し出されたのは、これまでの魔石や素材とは一線を画す「成果物」だった。クロノスの硬い脚で器用に紡がれた、月光のように輝く銀の糸束である。
「……ミリトンモスの糸か。これほど純度の高いものを、こんな大量にどうやって手に入れた?」
驚愕するガストンに対し、クロノスは淡々と文字を刻む。
『我々はミリトンモスの家畜化に成功した。以後の交易ではこれらの生産物が主な品物となるだろう。』
アマルティアの市場にこのシルクのような高品質かつ鎖帷子にも匹敵する強度の「糸」が供給されると、その品質の高さは瞬く間に大陸を揺るがした。安価で大量の食料を輸出していたアマルティアは、今やクロノスが生み出す高付加価値な素材の「独占販売権」という、あまりに巨大な利権を手に入れていた。
経済は潤い、街には活気が溢れる。しかし、ガストンだけは言いようのない予感に震えていた。
暗闇の中で「20万の市民」を凌駕するほどの巨大な軍勢が、人類の助けを必要としない「独立した文明」として完成しつつあることを告げていた。
ガストンが危惧していた通り、クロノス達は既に自給自足の段階を踏んで数を増やし続けていた。アマルティアとの交易が始まってからたったの3年でクロノス達の総数は1万を越えた。
ミリトンモス
作中でクロノス達が家畜化に成功した迷いの森に生息していた3等級の蛾の魔物
幼虫は50~80cmのイモムシで、植物ならなんでも食べる。およそ1ヶ月でサナギとなり、糸を吐いて繭を作りサナギとなる。この糸はしなやかかつ強靭で、同じ重さの鉄に匹敵すると言われている。繭は数ヶ月で成虫となり体長1.5mほどの蛾のような見た目となる。羽の鱗粉に含まれる神経毒で相手を麻痺させて身を守る。食性は成虫になっても変わらず、草食である。
神経毒は人類などの哺乳類またはその系譜に連なる魔物にしか毒性を示さず、キラーアントやミリトンモスのような節足動物やその系譜の魔物には無害である。