テランダナ国の最前線、吹雪が吹き荒れる砦にクロノスの千の軍勢が到着してから、戦場には不気味なほどの静寂が横たわっていた。
キルトゲイン軍の精鋭たちは、当初、砦の防壁に整然と並ぶ漆黒の個体群を、新手の魔導具か何かのように遠巻きに眺めていた。だが、数日が経過しても「彼ら」は動かない。咆哮も上げず、剣を振るうこともなく、ただ一糸乱れぬ沈黙を保ち、砦の改修作業に黙々と従事している。
「蟻の軍勢だと? 笑わせるな。奴らはテランダナのデコイに過ぎん」
キルトゲイン軍の前線指揮官である虎面の猛将は、ボウガンを構える兵士たちを鼓舞するように笑い飛ばした。しかし、その内心には拭いきれない不気味さが澱のように溜まっていた。偵察部隊の報告によれば、あの漆黒の蟻たちは夜間、一切の明かりを灯さず、それでいて迷いなく複雑な作業をこなしているという。
だが、キルトゲインの老王や将軍の懸念は、正面から牙を剥く形では現れなかった。
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クロノスの本領は、テランダナ軍の盾として砦に並ぶ「千の軍勢」にはなかった。
それらは、キルトゲイン軍の全意識を正面に釘付けにするための、巨大な「生きた看板」に過ぎない。
真の作戦は、戦線の遥か側面、獣人の斥候ですら足を踏み入れぬ険しい断崖の影で実行されていた。
そこにいたのは、数体の「隠密特化個体」である。彼らはアマルティアの境界で見せた泥迷彩と同様、自身の体表に雪と泥を丹念に塗り付け、虫とフェロモンの臭いを消し去り、極寒の雪原に完璧に同化した「雪原迷彩」を施していた。
吹雪が強まり、獣人たちの視界が極端に悪化した深夜。
雪塊と化したクロノスたちは、音もなくキルトゲイン軍の主要拠点――『第3砦』の防壁に取り付いた。垂直に近い絶壁であっても、六本の脚と鋭い爪を持つ彼らにとって、それはただの平地を歩くのと同義であった。
見張りの獣人が寒さに身を震わせ、焚き火の微かな熱に意識を奪われている隙に、彼らは音もなく壁を登り切り、内部へと浸入した。
彼らが運んでいたのは、ミリトンモスの「毒鱗粉」である。
元より無味無臭であり、哺乳類の神経系にのみ致命的な作用を及ぼすその粉末は、クロノスにとっては「便利な道具」に過ぎない。工作員たちは、真夜中の暗闇を迷う素振りも無く突き進み、兵士たちの胃袋を支える食料庫へと辿り着いた。
積み上げられた乾燥肉、翌朝の配給を待つ小麦の袋、そして凍結を防ぐために覆いがなされた巨大な水瓶。
クロノスたちは、それら一切の飲食物に対し、死の粉を静かに、執拗に振りまいていった。
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翌朝。キルトゲインの前線拠点は、かつてない絶望の朝を迎えた。
「……ぐ、あ……ッ、体が……動か、な……」
朝食を終えたばかりの重装歩兵たちが、一人、また一人と、糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。
外傷はない。魔法による呪詛の気配もない。ただ、視界が歪み、四肢の感覚が消失し、呼吸することさえ困難な「静かな麻痺」が、最強を誇った獣人たちの肉体を内側から食い破っていた。
「食料だ! 食料に何かが……!」
叫ぼうとした兵士の喉も、既に神経毒によって機能を失っていた。
キルトゲイン軍の誇る重厚な板金鎧は、今や彼ら自身を閉じ込める、脱出不可能な「鉄の棺桶」へと変貌した。
砦の外で待機していた偵察兵からの報告を受けた将軍は、目の前の光景が信じられなかった。魔導師による爆撃でも成し得なかった「前線の完全崩壊」が、たった一晩、音も立てずに完了していたのだ。
「馬鹿な……! 戦わずして、我が精鋭をこれほどまで……!」
その時、将軍は見た。
砦の防壁の向こう側、テランダナ軍の背後に控えていた「千の漆黒」が、初めてその重い腰を上げたのを。
彼らはやはり、咆哮を上げない。
ただ、麻痺して転がる獣人たちを嘲笑うかのように、機械的な正確さで進軍を開始する。その光景は「戦争」ではなかった。それは、網にかかった動けぬ獲物を回収する「収穫」の作業そのものであった。
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キルトゲインの本陣で、老王は届いた報せを握りつぶした。
「毒だと……? 虫けらごときが、計略を用いたというのか」
クロノスは人類の戦争における「補給」という概念を理解し、それを最も効率的に破壊する手段を、自らの生物学的特性と組み合わせて実行したのだ。
テランダナ王が「救世の奇跡」と呼んだその戦果の裏で、クロノスは冷徹な計算を続けていた。
彼らが救ったのは、テランダナという国家ではない。
ただ、「自分たちの生存圏」を拡大するための障害を、最もコストの低い方法で排除したに過ぎない。
キルトゲイン軍の最前線が、漆黒の沈黙によって静かに塗り潰されていく。
北方の大地に、初めて「クロノス」という名の真の恐怖が刻み込まれた瞬間であった。