キルトゲイン国の降伏から数ヶ月。北方大陸を揺るがした戦乱の余波は、意外な形でアマルティア国へと押し寄せていた。
アマルティアの交易官ガストンは、いつものように迷いの森の境界線へと馬車を走らせていた。目的は、クロノスたちが生産する「銀の糸」の回収と、彼らが求める食料や資材の搬入である。この数年、繰り返されてきた日常の光景。だが、境界を越えた瞬間にガストンが目にしたものは、その「日常」を粉々に打ち砕く異様な光景だった。
「……何だ、あれは」
いつもの泥迷彩を施した、周囲に溶け込むようなクロノスの警備兵の姿はどこにもなかった。
代わりにそこに控えていたのは、鈍い銀光を放つ金属の塊――いや、全身を重厚な鎧で包み込んだクロノスたちだった。
それは、人類の板金鎧を無理やり着せ替えたような代物ではない。キラーアント特有の、低く長い姿勢と六本の脚、そして鋭い大顎の動きを一切妨げないよう、彼らの解剖学的構造に合わせて完璧に誂えられた「重装アリ兵」専用の防具だった。
表面には、テランダナから得た魔法技術の応用と思われる、微細な魔力の回路が刻まれている。鍛冶師の槌の跡はない。魔法による精密な圧力操作によって、鋼の分子が極限まで凝縮されたその外殻は、並の剣では傷一つつけられないであろう強固な意志を感じさせた。
動揺を隠せないガストンの前に、一台の荷車が差し出された。今回の交換品だ。
ガストンが震える手で木箱の蓋を開けると、そこには「銀の糸」だけではなく、見たこともないほど高品質かつ様々な素材が使われた武具の数々が詰め込まれていた。
「これは……魔鋼石で出来た剣か? それに、北方の大怪鳥の鱗で出来た鎧……」
差し出された長剣を手に取ったガストンの指先に、戦慄が走った。
重心のバランス、刃の鋭利さ、そして素材の魔力伝導率。それら全てが、アマルティアが誇る最高級の職人技を凌駕していた。魔鋼石と魔物素材を融合させた武具はそれだけで難解な製造工程を要求する。複雑な手指を持たないはずの彼らが、魔法による圧力操作という異端の技術を用いて、人類が数百年かけて辿り着いた「加工の極致」をわずか数ヶ月で飛び越えてしまったのだ。
(彼らは……既に、我々と同等、あるいはそれ以上の技術を手に入れてしまったのか)
ガストンの背中に冷たい汗が流れた。
これまでは「高い知能を持つが、手先の器用さや魔法適性で劣る魔物」として、どこか心の奥底で見下していたのかもしれない。アマルティアが彼らに知識を教え、文明の恩恵を与えているという優越感。だが、その均衡は完全に崩れ去った。
仮に彼らが方針を転換し、この圧倒的な武力と技術をもってアマルティアを攻撃すれば、平和主義を掲げるこの国に抗う術はない。育てていたのは「隣人」ではなく、人類の文明を喰らい尽くすための「巨大な顎」だったのだ。
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時を同じくして、アマルティアの友好国であり、大陸有数の工業国家として知られる『コール国』にも、この衝撃は伝わっていた。
コール国は領地内に広大な鉱山を有し、希少な魔鋼石が採掘されることから、大陸一の鍛冶技術を誇る国として君臨してきた。彼らが生産する高品質な武具は、周辺諸国にとって国防の要であり、コール国の主要な輸出産業として国力を支えていた。
だが、そのコールの経済基盤が、根底から揺るぎ始めていた。
「武具の市場が消失しただと?」
コール国の円卓会議において、鍛冶ギルドの長は憤怒に満ちた声を上げた。
主要な取引先の一つであった軍事大国キルトゲインは、クロノスの介入によって敗戦国となった。今のキルトゲイン国が武具を買い込む余裕などない。キルトゲインという巨大な「消費先」を失ったことは、コール国にとって致命的な打撃だった。
しかし、真の脅威はそれだけではなかった。
アマルティアおよびテランダナ経由で市場に流れ始めた「クロノス製」の武具。それらはコール国の熟練職人が打つ最高級品と同等の性能を持ちながら、人件費という概念のないクロノスたちの手によって、信じられないほどの低コストで供給され始めていたのだ。
「奴らは我々の技術を盗み、挙句の果てに我々の商売を食い荒らそうとしている。……これはもはや、単なる魔物の暴走ではない。文明に対する、明白な侵略だ」
コール国の重臣たちは、かつてない危機感を募らせていた。
これまでキルトゲインが守っていた北方と東方のパワーバランスが崩れ、テランダナはクロノスという「怪物の毒」に依存し始めている。そして、平和主義のアマルティアは、いまだにクロノスを「友」と信じ込んで資源を供給し続けている。
「このままでは、大陸の鍛冶と交易の利権はすべてあの黒い虫どもに奪われるだろう。……アマルティアが動かぬというのなら、我々が動くしかない」
コール国は、戦争直後で浮き足立つ他国をよそに、着々とクロノスを排除するための準備を裏で始めようとしていた。
アマルティアのガストンが予感した絶望と、コール国のエリートたちが抱いた強欲な恐怖。
北方大陸の平和は、より複雑で、より凄惨な次のステージへと引きずり込まれようとしていた。