平和の都アマルティアは、かつてない静かな緊張に包まれていた。
迷いの森から届く「銀の糸」は、今やこの国の経済を支える大動脈となり、街はかつてない活況を呈している。しかし、その富の源泉であるクロノスとの関係は、これまでの「保護者と未開の魔物」という構図から、全く別の、より不透明で危ういものへと変質していた。
交易官ガストンは、アマルティアの執政室で一人、手元の羊皮紙を睨みつけていた。そこに記されていたのは、迷いの森の内部、そしてテランダナの居留地におけるクロノスたちの最新の動向だ。
「彼らは……もはや、我々を必要としていないのか」
ガストンが呟いた言葉は、重く冷たい現実だった。
かつてクロノスたちがアマルティアに友好的だった最大の理由は、安定した食料供給と、人類が持つ農耕の知識を得るためだった。しかし、テランダナから得た一見貧しいだけの寒冷な土地――それを彼らは、人類の手の届かない「地下」へと広大な農地・牧場を広げることで、完璧な生産拠点へと変えてしまった。テランダナとの外交で明らかになったその規模は、一国の食料自給を容易に賄えるほどにもなるだろう。
「知識も、食料も、彼らは既に持ち合わせている。……今、奴らが我々と手を繋ぎ続けている理由は、一体何だ?」
重臣の一人が不安げに問いかけるが、ガストンには答えることができなかった。
アマルティアはこれまで、クロノスを「導く側」にいると信じていた。だが実態は、クロノスという巨大な学習装置に人類の文明を効率よく吸い込ませるための「苗床」にされていたのではないか。そんな疑念が、アマルティアの上層部を蝕んでいる。
しかし、彼らにはもはや、クロノスとの決別という選択肢は残されていなかった。
今やアマルティアの経済は「銀の糸」の輸出と、クロノス製の高品質な加工品によって支えられている。もし今、クロノスが機嫌を損ね、供給を停止すれば、アマルティアの繁栄は一夜にして崩壊するだろう。
「今の我々にできるのは、彼らの機嫌を損ねないよう、細心の注意を払って『友人』の仮面を維持することだけだ」
ガストンは自嘲気味に吐き捨てた。
かつて共にパーティを組み、冒険者として剣を振るっていたリィンとフィオネは、クロノスとの窓口という業務がもたらす異常な重圧に耐えかねて、現場を去っていった。今はどこかの街で、ただの冒険者として日銭を稼いでいるのだろう。たった数年前、仲間と共に笑いながら魔物を追っていた日々が、遠い前世の出来事のように懐かしく、そしてひどく脆いものに思えた。
その不穏な空気は、ガストンが迷いの森の境界へと赴いた際、より鮮明に突きつけられた。
現れたのは、テランダナの魔法技術を反映した、鈍く輝く「魔法鍛冶」の鎧を纏った個体だ。その全身から漂う無機質な威圧感に気圧されながら、ガストンは差し出された「パルプ紙」を受け取った。この紙の製造技術さえも、彼らはテランダナからもたらされた技術を瞬時に独自の魔法工程に組み込み、量産化を実現したものだろう。
『アマルティアの友人へ。我らは現在、北方にて「大規模な土木事業」を進行中。しばらくの間、物流の優先順位を北へ回す。ご了承いただきたい。』
それは丁寧な依頼の形を取っていたが、実質的には「アマルティアの優先順位が下がった」という一方的な通告であった。
さらに不気味なのは、地下の農地開発だけでは飽き足らず、地上においても巨大な構造物を建造し始めているという報告だ。寒冷な北の大地に、人類の建築様式とは根本から異なる、機能不明の「巨大建築物」が姿を現しつつある。それが防壁なのか、あるいは何らかの「機能」を持つ施設なのか、人類には推し量ることさえできない。
「……承知した。テランダナ王からも、君たちの活躍は聞いている。アマルティアは変わらず、君たちの隣人であり続けるつもりだ」
ガストンは精一杯の微笑みを浮かべて答えたが、クロノスの個体は一切の反応を示さず、荷車を引き、去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ガストンは気づく。アマルティアが「どうするのか」と選択を迫られているのではない。既に選択権は彼らの手の中にあり、自分たちはただ、彼らが「気を変えない」ことを願うだけの存在になっているのだと。
南方のコール国、東方のキルトゲイン国。それらが水面下で何を企んでいるかなど、この時のガストンには知る由もなかった。
アマルティアの平和は、巨大な力同士の均衡の上に成り立つ、あまりに脆いガラス細工のようだった。ガストンは窓の外、黒々と広がる迷いの森を見つめ、震える手でワインを口にした。
「我々は……とんでもない化け物を育て、それ以上に、喉元を差し出してしまったのかもしれないな」
夜風が森のざわめきを運んでくる。それは、かつてのような自然の音ではなく、巨大な何かが、新たな時代を咀嚼する音のようにガストンには聞こえた。