テランダナ全権大使ナサニエルが、震える声で絞り出した「願い」。それは、一国の誇りを捨て、かつての「教え子」であった怪物に文明の分け前を乞う、屈辱的な懇願であった。
しかし、それに対するクロノスの返答は、ナサニエルが予想していた冷酷な拒絶でも、過酷な代償の要求でもなかった。
『友よ、案ずるな。貴殿らは我らに知恵を与えてくれた。ならば我らもそれを返そう。仕組みを知りたければ、すべてを教えよう』
その返答は、拍子抜けするほど寛大であった。
この衝撃的な技術開示の報は、すぐさまアマルティアの交易官ガストンの元にも届いた。
ガストンは即座に動き、テランダナが技術習得を始めてからわずか数週間のうちに、自らも迷いの森の境界へと赴いた。「我々アマルティアもまた、君たちの最も古い友人として、その知恵を共有したい」との申し出に対し、クロノス達は一切の躊躇なく、テランダナと同じ「回答」を示した。
こうして、人類の歴史を二百年飛び越える「技術移転」が始まった。
蒸気機関という、二百年の未来に産まれるはずの代物を、人類はクロノスというイレギュラーによって、一足飛びに手に入れることになった。
農耕を主要産業とするアマルティアは、その技術を畑を耕すことや、穀物を挽く動力源として活用し始めた。
一方で、自国の食料自給率の乏しいテランダナは、アマルティアなどの他国との貿易を円滑にするため、それを移動手段としての活用方を模索し始めた
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技術供与から5年の月日が流れた。
アマルティアは蒸気機関により、かつては牛などを使って行っていた耕耘や、穀物の製粉を蒸気機関による動力で代用する事で、アマルティアの食糧生産量はさらに大きくなった。
テランダナは蒸気機関を利用した列車を発明した。
蒸気機関の動力で鉄輪を回し、平地に敷かれた鉄道の上を、馬が追いつけないような速度で鉄の塊が移動する。それはまさに技術革新であった。
かつては魔物が跋扈する禁域であった「迷いの森」を中心に置き、それを囲む三国を繋ぐように一本の太い鉄の道が敷設された。北のテランダナ、西のアマルティア、そして蒸気機関の心臓部となる燃料――石炭を供給する南のコール国へと、路線は開通されることになった。
また、5年という短期間でこのような長大な鉄道路線が完成したのはクロノス側からも労働力の支援があった恩恵が大きい。
この鉄道路線の実現には、三国間の、そしてクロノスを交えた巨大な貿易網の構築という明確な背景があった。
この鉄道は、各国の役割を劇的に変容させた。
南のコール国の深い地底から掘り出された膨大な「石炭」が、北のテランダナ製の蒸気列車によって全土へと運ばれる。西のアマルティアの広大な農地では蒸気を動力に耕運機が土を掘り起こし、巨大な製粉機が昼夜を問わず穀物を挽き、それらがテランダナへと届く。
アマルティアの豊かな作物が鉄道によって全土へ送られ、引き換えに石炭などの資源が各国へ流れる。この巨大な物流の動脈は、三国の経済を空前の活況へと導いた。
ガストンは、執政室の窓から蒸気を吐き出しながら走る貨物列車を眺め、深く息を吐いた。
数年前、初めてクロノスと対峙した際、彼は確かに恐怖に凍りついていた。だが、今の彼の胸中にあるのは、当時とは異なる複雑な感情だった。
クロノスはアマルティアに飢えを凌ぐ糧を与え、技術の種を無償で分け与えた。彼らは人類から何かを奪うどころか、むしろ停滞していた人類の文明を強引に数歩先へと進めてみせた。
「彼らは……本当に恐るべき怪物なのだろうか」
ガストンは自問する。彼らとの付き合いが長くなるにつれ、その合理性の裏側に、ある種の「純粋さ」を感じるようになっていた。彼らは嘘を吐かず、無意味な殺生を好まず、ただ淡々と、しかし確実に隣人を豊かにしている。それは人類が歴史の中で繰り返してきた、欲にまみれた外交よりも、遥かに清潔で信頼に足るものに思えた。
自分たちが手にしているこの繁栄は、クロノスという「非人類の隣人」がもたらした奇跡なのだ。ガストンは、かつての恐怖を、底知れぬ知性に対する深い敬意と信頼へと塗り替えていた。
一方で、クロノスは人類のこの狂騒を、地下から静かに見守っていた。
彼らにとって人類は、自分たちとは異なる思考回路を持つ、別種の知性だ。クロノスは自らの知恵ゆえに蒸気機関を発明したが、彼らの合理性という牢獄の中では、その技術は「換気扇」としての姿から進化することはない。種の繁栄に必要な機能さえ満たせば、それ以上の改良は「無駄」でしかないからだ。
一方で、人類という種族は、生存に直結しない遊びや、虚栄や、時には狂気にも等しい探究心ゆえに、予測不可能な何かを生み出す性質を持っている。
鉄道も、耕耘機も、クロノスからすれば「換気扇の派生」に過ぎないが、人類はそれを社会の構造そのものを変える力へと昇華させた。
クロノスは期待していたのだ。
自分たちが手渡した「蒸気」という種火が、人類という不規則で混沌とした土壌に蒔かれたとき、自分たちの計算では決して導き出せない「未知の果実」を実らせることを。彼らは、人類を自分たちのための「外部研究機関」として、あるいは「進化の実験場」として利用しているに過ぎなかった。人類が新たな使い方を発明すれば、クロノスはそれを観察し、必要とあらば自分たちのシステムに取り込めばよい。
鉄道の開通に沸く沿線の村々で、人々は「黒い煙を吐く救世主」を崇めている。
ガストンは、クロノスへの感謝を抱きながらも、どこかで見守られているような――あるいは試されているような奇妙な感覚を拭えずにいた。
この技術の進化が、人類をどこへ連れて行くのか。
そして、この繁栄の輪の中継地として石炭を供給し、莫大な富を蓄えながらも、不気味な沈黙を保つ南のコール国。そして東方で鉄道網の広がりを冷徹に見つめるキルトゲイン国。
クロノスがじっと暗闇から見つめる中、人類は、自分たちが手にしたものが「希望」なのか、それとも「破滅の導火線」なのかを知らぬまま、コール国から届く石炭をボイラーに放り込み、その火力をさらに強めていくのだった。