クロノスによって周辺諸国に富がもたらされていた。
一方でただ一人、その恩恵を良しとしない国がいた。東方の軍事大国キルトゲイン。かつてクロノスとの戦いで文字通り灰燼に帰したその国が、再び咆哮を上げ始めた。
屈辱的な敗戦から、わずか十年。本来であれば一世代をかけても癒えぬはずの傷跡を、彼らは異常な速度で塞いでみせた。
その背景には、コール国からの長年にわたる秘密裏な援助があった。だが、何よりも大きかったのは、クロノスへの復讐に正気を失ったキルトゲイン国王の執念であった。国王は独裁国家としての強権を振るい、農村からは働き手を、都市からは技術者を一人残らず剥ぎ取った。法を書き換え、成人前の少年すらも「軍隊」として戦列に加える無理な徴兵を断行した。民の困窮や未来の喪失など、復讐という甘美な毒に比べれば些末な問題に過ぎなかったのである。
キルトゲインは正式に、クロノスおよび迷いの森への宣戦布告を行い、約2万の軍勢で進軍を開始した。
……しかしその裏で、キルトゲイン王にとって予想外の事態が起きていた。
本来の作戦では、キルトゲインが東側から、コール国が南側から同時に迷いの森を挟撃し、怪物の巣を根絶する手筈であった。しかし、進軍の直前、歴史的な裏切りが起きていた。
南のコール国は、土壇場でキルトゲインとの密約を反故にしたのである。それどころか、彼らはクロノスに対し、キルトゲインの進軍経路と軍備の情報を事前に知らせていた。
コール国にとって、今やクロノスは「憎き怪物」ではなく、莫大な石炭需要を生み出し、国を黄金で満たしてくれる「最良の取引相手」へと変貌していた。その富が戦争によって失われることを、彼らは何よりも嫌ったのだ。
しかし、復讐の狂気に取り憑かれたキルトゲインは、その裏切りに気づいていなかった。
彼らは、そうとは知らずに独力で迷いの森へと踏込んだ。二国が力を合わせ、この軍勢をぶつければ、あのアリのような虫ケラどもなど簡単に駆除できる。彼らはそう確信していた。
凄まじい轟音とともに、2万の軍勢が迷いの森へと突き進みはじめた。
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キルトゲイン王国の王城、その奥深き謁見の間。
石造りの冷たい玉座に座る国王は、自身の胸を掻き毟るような激しい咳に耐えていた。
その掌にはどろりと黒ずんだ血が滲んでいる。平均寿命が40年程度しかない獣人である彼にとって、既に齢50を越えたこの肉体の余命が残り僅かであることは、他ならぬ王自身が最もよく理解していた。
だからこそ急いだ。本来ならば数十年をかけて成熟させるべき2万の軍備を、強権によってわずか数年で形にさせた。国民からパンを奪い、少年から未来を奪い、20万の人口を誇るキルトゲイン、その十分の一に相当する国民を「2万の軍勢」へと鋳換えた。
自らの代で、あの忌まわしき「アリども」を根絶やしにする。その妄執だけが、腐りかけた王の命を繋ぎ止める細い糸であった。
しかし、戦場から届くはずの報告が途絶え、2日が経った今になっても、一向にキルトゲインには前線の状況が聞こえてこない。
「……迷いの森へ進軍した我が軍からの知らせが、なぜ途絶えた。2万の軍勢なのだぞ」
絞り出すような王の問いに、居並ぶ将官たちは石像のように固まり、視線を床に這わせた。
キルトゲイン軍の敗因、それについて語ろう
アマルティア、キルトゲイン、コール、テランダナの4国はクロノスとの交流を続ける中で、
彼らが「実際にはどれ程の数がいるのか」というのをどの国も各自の方法で調べていた。クロノスは、それを察していたが、無視していた。自らそれをわざわざ教えることはないにせよ、人類がそれを知ったところで、既に問題は無いと判断していた。
その判断の背景には、人類側の決定的な誤解があった。
例えば、一万の総人口を抱える国があると聞いて、「兵士が一万人攻めてくる」と考える愚者はいない。女子供や老人、病み上がりや労働に従事する者を除けば、実際に剣を取れる「兵」はその一割にも満たないのが人類の常識だからだ。
だが、クロノスは違う。
彼らは、女王とオスアリを除けば、非戦闘員は存在しない。働きアリ全てが、皆等しく卓越した生産者であり、休み知らずの労働者であり、そして群れを脅かすものを排除する、完成された兵士であった。
およそ1000000匹
それが、蒸気技術による換気システムの恩恵により、無制限に拡張された地下牧場、それによって膨れ上がったクロノスの現在の総数であった。もはや、彼らの増殖を止める枷はどこにも存在しなかった。
キルトゲイン含めたどの国も、クロノスが現在においては数十万の数に増えているだろうと予測していた。その予測はほぼ当たっている。
間違えていたのは「クロノスの兵力」の予測。
彼らは、「人口において我らと同じ数十万程度なら、兵力も我らと同じだろう」そう考えてしまっていた。
それがキルトゲインの敗因であった。
王の胸中に、泥のような絶望が広がっていく。
知らせが届かないこと、それ自体が答えだった。森への進攻は失敗したのだ。そして、我が国の総力を挙げた軍の再編が、この一戦で完全に瓦解したことを意味していた。
その沈黙を切り裂くように、悲鳴に近い先触れの声が謁見の間に響き渡る。
「報告! 国境沿いの監視砦より緊急伝達! キルトゲイン東部境界線に……大地を埋め尽くすほどの、クロノスの軍勢が現れました!」
王の顔から、急速に血の気が引いていく。
「……何だと? 奴らが、こちらへ来ているというのか」
「はい! 奴らは……地を、文字通り埋め尽くすほどの物量でこちらへ向かっています!」
王は力なく、握りしめていた宝剣を床へ落とした。
硬い石床に響く高い金属音が、王の耳には自国の終焉を告げる弔鐘のように聞こえた。
キルトゲインにクロノスが攻め込んできているという現状。それは、森に送った精鋭が全滅し、もはや国を護る防波堤が霧散したことを示している。
これまでの十年、病に蝕まれる身体を鞭打ち、民を飢えさせ、すべてを犠牲にして積み上げてきた「復讐の塔」が、土台から音もなく崩れ去ったのだ。
自身の代で決着をつけるどころか、自らの焦燥が、王国を滅亡という最悪の結末へと導いてしまった。
「……すべて、無駄だったというのか」
王の口から漏れたのは、嗚咽にも似た掠れ声だった。
地平線を黒く塗り潰すような、際限のないクロノスの群れ。
自らがこじ開けた「復讐」という名の箱から溢れ出したのは、勝利の栄光などではなく、自国を物理的に飲み込み、歴史から抹消しようとする黒い波であった。
王は、もはや咳き込む力すら失い、ただ静かに、自らが招いた終焉を真っ白な顔で見つめるしかなかった。
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キルトゲイン王国の最後は、凄惨の一言に尽きた。
王都の堅牢な外壁が、数万、数十万という個体に覆われて乗り越えられる、大地を覆い尽くす無数の節足が奏でる、ガチガチという無機質な摩擦音と共に。
「……ありえない。こんな数が、どこに隠れていたのだ……!」
王都を守る近衛兵の一人が、防壁の上から溢れ出す黒い波を前に、腰を抜かして呟いた。
やけっぱちとなった近衛兵が、ボウガンや弓で迎撃を試みる。しかしそれは、前線の鎧を纏った「重装アリ兵」に弾かれ、運良く鎧を装着していないクロノス兵に当たったとしても焼け石に水であった。
キルトゲインが血を吐く思いで再編した2万の軍勢など、この一〇〇万という暴力的な数字の前では、広大な海に投げ込まれた一匙の砂糖にも等しい。(実際には森や牧場の警備に着いているクロノスもいる為、キルトゲインに攻め込んでいるのは全てではないとはいえ)
人類の軍事力を、生存圏を、とうの昔にクロノスは大きく上回っていた。ただ、彼らがそれを「行使」する理由が今までなかったという、それだけの理由で人類は生存を許されていたに過ぎなかったのだ。
王都の目抜き通りを、黒い波が埋め尽くしていく。
逃げ惑う民衆を、クロノスたちは感情を排した合理的な動きで追い詰める。そこには怒りも、復讐の愉悦もない。ただ「障害物の排除」という淡々とした作業だけが執行されていた。
家々は引き倒され、家財は粉砕され、キルトゲインという国家を構成していたすべての物質が、黒い個体たちの下敷きとなって消えていく。
そこにクロノスが本来持つであろう、知略や軍略の色は見えない。否、クロノスは魔物としての本能と、人類社会を学んだ事で深く理解している。
「数に勝る力はない」
数で勝り、未知の脅威も無いなら、面倒な小細工や、周到な準備は必要無い。
ただ物量で押し流す。それがクロノスの作戦だった。
謁見の間のバルコニーで、キルトゲイン王はそれを見ていた。
自らの焦燥、自らの執念、自らが信じた誇り。そのすべてが、クロノスの地を覆うような大群、という圧倒的な現実の前に、あまりにも幼く、滑稽な砂遊びに見えた。
「……我らは、アリの巣を突いたのではない。眠れる巨人の指先を、針で突いただけだったのだな」
王が吐き出した最期の言葉は、部屋に侵入してきた最初の個体の足音にかき消された。
キルトゲインの宣戦布告からたったの3日、クロノスがキルトゲインの国境に現れてから三時間という短時間で、地図の上から「キルトゲイン」という文字は物理的に抹消された。
後に残されたのは、かつて都市があった場所を覆い尽くした数十万にも及ぶ黒い影だけであった。
クロノスという「隣人」の真の姿を、人類は今、史上最も生々しい破滅という形で知ることになったのである。
キルトゲイン王は、老齢ゆえに既に一線を退いて長いですが、実は実力的には、この作品に登場したどのキャラよりも強いです。(現在は老いと病で弱ってますが)魔物等級換算で言うなら全盛期で5.2等級くらいの存在ですね。(進撃の巨人のリヴァイとか呪術廻戦の五条みたいな存在)
って所まで設定作ったんですけど流れ的に見せ場も無く退場することになったんで、ここで供養しておきます。
本編では絶望故に反撃することもなく死んじゃいましたが、死にかけの今の老王でも、死に物狂いで戦ってれば百匹くらいはクロノスを道連れにできました。