キルトゲイン王国が地図から消えた。
その報せは、かつてない速さと、それに伴う絶望的な冷たさをもって大陸全土を駆け巡った。
クロノスが事務的に各国に報告したキルトゲイン領土の占領。
そうなった原因、逃げ延びた一握りの馬車や、国境付近から命からがら脱出した数人の伝令が、血の気が引いた顔でその「地獄」を語った。
強固な城壁と、2万の軍勢が、半日も持たずに「物質的」に解体され、黒い津波に飲み込まれた。その事実は、各国の指導者たちに、これまでの常識が通用しない「新しい世界の夜明け」……あるいは「人類の終焉」を予感させた。
まず、最も深刻な衝撃を受けたのはアマルティア国であった。
アマルティアは、人類の中で最も早くからクロノスと交流を持ち、彼らを「親愛なる隣人」として信頼を寄せてきた国である。彼らがクロノスから受け取った最大の恩恵は、蒸気機関を用いた農耕の効率化だった。かつては人手と家畜を動員して多大な労力と時間を要した耕作や収穫、穀物の加工が、クロノスから供与された蒸気機関という「動力」の導入によって劇的に短縮され、アマルティアの食料生産は急成長を遂げた。
だが、キルトゲイン消滅の報が届いた時、アマルティアのガストンは、自らの執務室で報告書を握りしめたまま、凍りついたように動けずにいた。
「……消滅……だと?」
人類側にとってキルトゲインの敗北、いや消滅は寝耳に水とでも言うべき事件であった。なんせ「戦争が始まった、と思ったら終わっていた。」のだから。さらに先に手を出したキルトゲインは、既に物理的に消滅している。
ガストンが最も戦慄したのは、クロノスがキルトゲインを蹂躙した際、一切の「対話」も「交渉」も、あるいは「憎悪」さえも見せなかったという点だ。
キルトゲインに住んでいたのは、軍人だけではない。
もちろん敵国の住民と言ってしまえばそれだけだが、キルトゲインは略奪国として周辺の小国家を飲み込んできた歴史がある。キルトゲインには、それらの捕虜や奴隷となった敗戦国の民もいただろう。
しかしクロノスは戦闘員と非戦闘員の区別をしなかった。彼らにとっては、宣戦布告が行われた時点でその国に住む者は等しく敵なのだろう。それは人類の倫理観とは決定的に違っていた。
かつてアマルティアで見せた、あの穏やかで理知的な交流。あれら全てが、数十万を越える個体を養うための「最適化」の一環に過ぎなかったのではないか。豊作をもたらしたあの蒸気機関の咆哮が、今は全く違う響きを伴っているように感じる。親愛なる隣人という仮面の裏側にあったのは、人類という種を最初から対等な存在と見なしていない、絶対的な上位捕食者の合理性なのではないか。
一方、南の石炭大国コール国では、全く質の異なる恐怖が渦巻いていた。
彼らは過去、クロノスを最も敵視し、キルトゲインの復活を支援することで「人類の秩序」を取り戻そうとしていた。しかし、鉄道がもたらす石炭輸出の莫大な富に抗えず、土壇場でキルトゲインを裏切り、クロノスに情報を売ることでその立場を保った。
コール国の領主たちは、今や金貨の山に埋もれながら、生きた心地がしていなかった。
「我らは、正しい選択をしたはずだ。キルトゲインに味方していれば、今頃はこの国も黒い波に飲まれていた」
石炭の利権を守るために仲間を売った彼らを、今、最も苛んでいるのは「クロノスが自らをどう評価しているか」という疑念であった。
情報を売った自分たちを、彼らは「便利な協力者」と見ているのか。それとも、同族すら平気で裏切る、信用に値しない「不純物」と見なしているのか。もし、クロノスがキルトゲインに向けたあの黒の波を南へ向けたなら、コール国の堅牢な山岳要塞も、ただの石積みでしかない。彼らが手に入れた莫大な富は、今や自らの墓標を飾るための金箔でしかないように思えた。
そして、テランダナ国。
この国は、クロノスから与えられた蒸気機関の技術を独自に発展させ、巨大な蒸気列車と大陸を網羅する鉄道路線を築き上げた国である。彼らは自らの手でこの鉄路を敷き、長大な貿易路線を完成させ、その利権を各国から受け取る事で富を得ていた。それだけにおさまらず、現在では、蒸気列車の発明で養われた技術と、クロノスから逆輸入された、魔法鍛治の技術を応用し、複雑な工作機械の製造生産にも着手している。それら全て、あのクロノスという黒い隣人からの恩恵なのだ。
だが、テランダナの議事堂は、いまやかつてない怒号と沈黙に支配されていた。
「キルトゲインは自業自得だ! 我らの恩人に牙を剥き、平和を乱したからこそ、あのような裁きを受けたのではないか!」
一人の議員が叫ぶが、その声はどこか上ずっていた。テランダナにとってクロノスは文明の種を与えてくれた「恩人」であり、過去の戦争で救われた記憶は国民の心に深く刻まれている。しかし、その「恩人」がキルトゲインで行ったのは、警告でも制裁でもなく、物理的な抹消だった。
彼らの感じていた恩義は、いつの間にか「逆らえば自分たちも消される」という盲目的な恐怖へと変質し始めていた。
共通しているのは、全ての国が「キルトゲイン」という一国家が、たった数時間で消え失せたという事実に驚愕していることだ。
人類の戦争は、常に膠着と、交渉と、妥協の連続であった。だが、クロノスのそれは「作業」であった。
彼らには、女王とオスアリを除けば、非戦闘員は存在しない。一〇〇万という個体の全てが、等しく卓越した労働者であり、そして群れを脅かすものを排除する、完成された兵士なのだ。
人類が、国を挙げて「兵」を揃えたところで、その数は人口の数分の一にも満たない。しかし、クロノスは一〇〇万の人口がそのまま一〇〇万の暴力として機能する。
この絶望的な数字の差。2万という、この時代においては破格な量の軍勢でさえ、羽虫のように一蹴された現実。
大陸の西から東まで、人類は初めて「自分たちが、この世界の主役ではない可能性」を突きつけられた。
キルトゲインという大きな防波堤を失い、一〇〇万の波は次にどこへ向かうのか。
テランダナ、コール、アマルティア。
平和と富と信仰に酔いしれていた三国は、いま、灰色の空を覆うほどの黒煙の先に、自国を飲み込もうとする巨大な「黒い波」の到来を、震えながら待つしかなかった。
人類の気付かないうちに、クロノスという種は既に人類の力を、完全に凌駕していたのである。