ユリアンが持ち帰った一枚のパルプ紙は、スリカンス王国の静かな日常を根底から叩き壊した。
「……これは、もはやお伽話の類ではないのか」
若き王は、震える手でその文書を読み返し、深く溜息をついた。人口五万の小国にとって、キルトゲインという大国が消滅しただけでも国家レベルの事件であった。しかし、それをなしたであろう存在が、知性を持たぬはずの魔物――キラーアントの変異種であり、あまつさえ共通言語による「警告」を送ってくるなど、誰が信じられるだろうか。
だが、これは残酷なまでの現実だった。
「戦うことは不可能だ。あのキルトゲインが、文字通り、消えているのだぞ。ドラゴンが居なくなったのも彼らによるものかもしれん。我々にできるのは、彼らが何者であるか、そして一体大陸で何があったのかを知ること。それだけだ」
王の決断は早かった。降伏でも、あるいは宣戦布告でもない。ただ純粋な「対話」の呼びかけ。スリカンスは、国で最も良質な紙に、最上級の礼節を尽くし
「貴殿らは何者で、キルトゲインやその周辺諸国では何があったのか?また、山岳地帯にいたはずのドラゴンはどこへ行ったのか?」
という内容の質問を書き記した書簡をしたため、再びユリアンを西の国境へと送り出した。
後日、ユリアンは再びあのキラーアント達と対峙していた。
前回と同じ場所。しかし、開墾の速度は異常なほどに速く、かつての街は既に真っ平らな「搬送路」へと姿を変えて、脇には新しく植えられたであろう、苗木の列が規則正しく並んでいた。
さらにはユリアン達が見た事もない、鉄の塊(テランダナの蒸気列車の技術を取り込んだクロノスが、独自に開発した蒸気機関動力を用いた初歩的な自動車)が、瓦礫や岩を積んで、轟音を響かせながら運んでいた。
ユリアンが白旗を掲げ、王の書簡を差し出すと、前回対応した大型の個体が再び現れた。
その個体は、ユリアンの手から書簡を受け取ると、中身をチラとだけ検めてから、胸に括り付けられた袋にそれを器用に仕舞い込み、「翌日の正午に、またここに来い。」とだけ書き残して消えていった。
「ここで待てと言うのか…?」
キラーアント達が作業を続けるのを横目にしながらの野宿、数日前の自分ならば正気を疑う所だな、と自嘲にくれながら彼らは、渋々寝袋の中で眠りについた。
翌日正午、その個体は「解答」を持って現れた。
渡されたのは、前回よりも厚みのある数枚の紙束だった。そこには、スリカンスが隔絶されていた十数年の間に起きた、クロノスの登場によって大陸で何が起こっていたのか、その全てが淡々と、そして驚くほど客観的に記されていた。
アマルティア国が蒸気機関による農耕効率化を受け入れ、クロノスの「穀倉」となったこと。
コール国が石炭の利権を守るためにキルトゲインを裏切り、クロノスの「燃料源」となったこと。
テランダナ国がクロノスの技術を元に大陸鉄道を敷き、蒸気列車なる物を発明、それによる貿易路線が三国の間で繋がっていると。
キルトゲインが彼らに対して宣戦布告を行い、武力を行使したために「障害物」として排除されたこと。
そして、ドラゴンを、あの山の神を、まるで害獣か何かにそうするかのように、「駆除」した事が書かれていた。
「……信じられん。大陸の主要国は、既にこの魔物たちに取り込まれていたというのか」
ユリアンは文書を読み進め、その内容に眩暈を覚えた。スリカンスが海の恵みに頼り、キルトゲインの壁の向こう側で安穏と暮らしていた間に、世界は「クロノス」という巨大な歯車の一部に成り果てていたのだ。
その文書を一通り読んだユリアンは、あの冒険者たちがかつて抱いた
「なぜ彼らは、既にこれほどの力を持っているのに略奪を行わないのか」
という疑問を目の前のキラーアントにぶつけてしまっていた。
『我らクロノスの行動理念は、種全体の繁栄と、そのための環境への「最適化」である。
略奪は一時的には資源を獲得できるだろう、だがそれは長期的な生産性を損なう非効率な行為である。
人類個体群は、我らが直接管理するよりも、彼ら自身の社会構造を維持させたまま資源を算出させる方が、管理コストが低く、産出されるエネルギー効率が高いと判断された。
既存の国家を破壊し略奪することは、我らにとって「資産」を自ら燃やすに等しい。』
パルプ紙に書かれたその「答え」
そこには、慈悲も悪意もなかった。
ただ徹底した合理主義があった。彼らにとって、他国を滅ぼさないのは「その方が得だから」であり、キルトゲインやドラゴンを消滅させたのは「その方が得だったから」なのだ。
今のところ、スリカンス方面への開墾予定がない理由も同様であった。山脈を越えてまで海沿いの小国を直ちに支配下に置くよりも、まずは旧キルトゲイン領という広大な土地の開発を完了させる方が、現時点での「投資対効果」が高いというだけのこと。
「我々は……生かされているのか。ただ、殺す価値もないからという理由だけで」
ユリアンは、自嘲気味に笑った。
クロノス側は、スリカンスに対し、もし「交易」を望むのであれば、鉄道貿易路線をこの国まで延ばし、海産物という食料資源と引き換えに、彼らの蒸気機関の技術を提供しても良いとすら付け加えていた。それは誘惑というより、農場の家畜に餌を与えるような、あまりに事務的な提案だった。
これまでの話を聞かされたあとで、この提案を断れる人間などいないだろう。
目の前の魔物は、もしスリカンスがこの提案を断れば
「交易を行わないのなら、貴殿らは単なる障害物でしかない」
とでも言いながら「片付ける」様子が、容易に想像できた。
スリカンスへの帰路につくユリアンの頭上には、依然として黒い煙が流れていた。
それはもはや不吉な煙ではなく、大陸を支配する新しい「主」の吐息のように感じられた。
彼らは略奪を行わない。ただ、人類という種を自分たちの巨大な生態系の中に、一部品として、あるいは一つの細胞として組み込んでいく。
王都に戻ったユリアンが王に伝えたのは、「共存」という名の従属の提案であった。
人類が世界の主役であった時代は、キルトゲインの消滅と共に、文字通り終わりを告げたのだ。五万の民が生き残る道は、この漆黒の合理主義を受け入れ、彼らの「計算」の中に自らの居場所を確保すること以外にない。
西の山脈の向こう側で、クロノスの土木作業の音が、今日も一定のリズムで鳴り響いている。
それは、新しい時代の鼓動であった。
クロノスがキルトゲインとテランダナの戦争に手を出した理由は、大きくわけて2つあります。
1つは作中でも描写されたように、土地と魔法技術を得るため。
2つ目は人類がどれ程の戦闘力を持っているのかを実戦で把握するためです。
初手の毒によって弱らせ、キルトゲインの戦士の膂力と、テランダナの魔法の威力を分析したクロノスは、あの時点で「やろうと思えば既に我らは人類に勝てる」と判断しています。
ですが今回の本文にあったような理由から、人類をこちらから攻撃することはしない。ということですね。
一度敵に回ろうとしたコール国をクロノスが見逃しているのも同じ理由からです。
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蒸気機関自動車
クロノスがテランダナの開発した蒸気列車の技術を取り込み、クロノスたちに合うような形に作り替えた代物。
蒸気機関を動力とする自動車で、運転席はキラーアントの6本脚の肉体でも操作しやすい構造となっている。現実世界に存在するようなそれと比べてかなり巨大で、クロノスが地下を広げる事で出る、大量の土砂を運ぶ事を目的として作られた。
第19話でクロノスが人類に撒いた「技術」の種が芽吹き、実った果実のひとつと言える。
なおこの技術は、後にテランダナにも伝わり、人間用に改造、量産された蒸気機関自動車は、テランダナの主要な輸出製造産業を支えることになる