もし体長1mほどのアリが知性を持っていたら   作:二度見屋

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第30話

迷いの森に、あの「漆黒の異物」が初めて姿を現してから、60年の歳月が流れた。

 

かつてアルカナ大陸と呼ばれた地は、今や世界を覆う巨大な「神経系」の心臓部と化している。そしてその触手は、もはやアルカナ大陸やステラ大陸だけに留まってはいなかった。

石人(ドワーフ)の住まう極寒の地ウルト大陸、竜人(リザードマン)の住む峻険な峰が連なるビリバス大陸、そして、羽人(妖精)が住んでいる未開の原生林に覆われていたワニエルド大陸。この世界の主要なすべての大陸は、ステラ大陸の魔人たちがそうであったように、例外なくクロノスによる「最適化」の波に飲み込まれた。

 

彼らのやり方は、常に一貫していた。

まず、圧倒的な質量を誇る鉄装甲艦隊による「物理的な接触」。言語が通じぬと判断すれば即座に「武力による市場開拓」を行い、抵抗勢力を徹底的に、しかし事務的に排除する。そして、混乱の冷めやらぬうちに統一規格の度量衡、貨幣、そしてクロノス教という名の「OS」をインストールするのだ。

飢えをなくし、病を管理し、魔法という不安定な力を「工業」という安定した歯車へと変換していく。

人類たちが数千年の歴史をかけても成し遂げられなかった「万人の飽食」と「絶対的な秩序」を、彼らはたった60年という、只人の一生にも満たない期間で成し遂げてしまった。

 

穀倉地帯アマルティア。今やそこは、空を突く巨大な換気塔と、幾重にも重なる高架鉄道、そして地平線の彼方まで続く、規則正しく整列された森と、農業プラントという名の「生産ライン」に埋め尽くされている。

 

その一角、電気の光が不夜城のように輝く街を見下ろす丘に、一人の森人の女性が立っていた。

フィオナ。

今やクロノス教の聖典において「最初に神と対話した巫女」として神格化されている彼女は、変わり果てた故郷を見つめていた。

 

彼女の記憶の中にあるアマルティアは、もっと不自由で、もっと泥臭く、そしてもっと「不確かな」場所だった。

雨が降らなければ飢えを恐れ、夜になれば魔物の遠吠えに怯えていた時代。だが、今の世界に「不確かさ」は存在しない。

クロノスの計算によって食料生産は制御され、地中の資源は一滴残らず吸い上げられ、人類の活動はすべてモールス信号のタップ音に変換されて、集合知へとフィードバックされる。

 

「……本当に、神様になってしまったのね」

 

フィオナは小さく呟いた。

 

クロノスが掲げていた第一理念――「種の繁栄」。

その目的は、完璧な形で達成されたと言っていい。

世界にはもう、彼らの増殖を妨げる敵はいない。ドラゴンのような文明を脅かす存在は徹底的に駆除され、それらがかつて支配していた土地の資源は、効率的に管理され、個体数はかつての億倍にも膨れ上がっている。

だが、フィオナには分かっていた。

彼らは、ここで止まるような連中ではないことを。

 

ふと、夜空を見上げると、そこにはかつての星空とは違う「光」があった。

 

アルカナ大陸の各所に建設された巨大な発射施設から、無数の光の筋が空へと伸びている。

 

クロノスたちは、この星の資源をすべて計算に組み入れ、管理し尽くした。

であれば、次に「最適化」すべき対象は、自ずと決まっている。

この空の向こう側に広がる、無限の空白。未知の資源。まだ見ぬ「非効率な世界」。

 

「あなたたちは、一体どこまで行くつもりなの?」

 

フィオナの問いに答える者はいない。

ただ、足元の地面から、大陸の裏側まで響くような重低音が伝わってきた。

それは、次の開拓地へ向けて動き出した、何百万ものクロノスたちの進軍の鼓動だった。

 

人類は、彼らに与えられた「完成された飼育」という名の幸福に酔いしれている。

もう誰も戦う必要はない。誰も飢える必要はない。

ただ、クロノスという巨大な機械の一部として、効率的に生き、効率的に死んでいけばいい。

それは、かつてフィオナたち人類が夢見た理想郷そのもののはずだった。

 

しかし、フィオナの目には、空へ向かって放たれる光の筋が、どこか恐ろしい「収穫の爪」のように見えてならなかった。

地球を使い潰し、宇宙へとその触手を伸ばそうとする彼らの飢えには、底がない。

合理性という名の「神」は、この宇宙が完全に一つの「規格」で塗り潰されるまで、その歩みを止めることはないのだろう。

 

フィオナは、遠い昔に森で出会った、あの無機質に連携を取り、自分たちを襲おうとした、「野生」の頃のクロノスの姿を思い出し、そっと目を閉じた。

 

只人の寿命は、森人のそれに比べて短い。

かつてその光景を、共に目にした仲間であるガストンとリィンは、既に彼女を置いてこの世を去っている。

今や、この世界でかつてのキラーアントの姿を記憶する者は自分以外に居ないだろう。

 

風に乗って、規則正しいモールス信号の音が聞こえてくる。

カチ、カチ、カチ――。

それは、新しい世界の夜明けを告げる祝詞であり、同時に、不確定で美しい「人間という時代」の終焉を告げる、静かな葬送曲でもあった。

 

クロノスの物語は、ここで一つの結末を迎える。

だが、彼らの「計算」は、まだ始まったばかりなのだ。

星々の瞬きの間を縫って、漆黒の合理主義は今、深淵なる宇宙へとその最初の一歩を踏み出した。

 




この作品はここで完結です。
私が描きたいところだけを描いたこんな早歩きの作品にお付き合いくださりありがとうございました。

最後におまけとしてクロノスの本編終了時点での設定と「クロノス」という本作品の主役の名前の由来について話します。
「黒の巣」という安直な思いつき。
ギリシア神話における農耕の神と、時の神の名前。
視線を素早く動かした際、最初に目にした景色や時計の針が一時的に止まって見える錯覚現象である「クロノスタシス」
これら3つをかけあわせてつけた、トリプルミーニングです。

本作品のクロノスは、人類から飢えを消し去り、その技術と文明のレベルを時計の針を早回しするかのような速さで発展させました。
なのでこの名前がピッタリだと考えて、彼らにこの名前をつけました。

---

クロノス
本作品の世界を、実質的に征服したキラーアントの突然変異種。
その個体数は既に数千億単位に膨れ上がっている。
なお森人や魔人と言った「人類種」は、本編終了時点の段階でも総計して2億人程度しかいない。
現実世界の19世紀後半の技術水準に達しているこの世界の人口がここまで少ないのは、クロノスたちが人類の人口の増減の度合いを「管理」しているからである。
また本作品において、クロノスたちは冷徹で無感情な存在のように描かれているが、わりと喜怒哀楽はしっかり感じてるし意思表現も(クロノスたちなりに)している。(作業している時に「しんどー」とか普通に言ってたりする)
ただフェロモンで行われるそれを、人類は認識出来てない、と言うだけの話。
数年後にクロノスたちのフェロモン成分を解析して、それを人類の言葉に変換してくれるデバイスが発明され、クロノス教の信者を中心として空前絶後の大ヒットを記録する。
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