もし体長1mほどのアリが知性を持っていたら   作:二度見屋

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第5話

「キラーアントの脅威は去った」

ギルドマスターが放ったその一言で、数週間に及ぶ捜索と調査は幕を閉じた。

議会は捜索予算の計上を停止し、アマルティア国の日常は緩やかな平和へと戻っていった。

 

「……ねえ、ガストンさん。もう、忘れましょうよ」

ギルドの片隅で、リィンが弱々しく笑いながら言った。彼女の瞳には、かつての恐怖を塗りつぶそうとするような諦念が混じっていた。

「結局、あの後に出会ったアリたちは普通のアリだったじゃない。フィオナだって、あれは森の魔力残渣が見せた幻覚だったのかもって……」

隣に座るフィオナは、何も言わずにただ杖を握りしめていた。森人としての誇り高い彼女であっても、数週間にわたる「収穫なし」の現実は、自らの記憶を疑わせるに十分な時間だった。

 

だが、ガストンだけは違った。

彼の脳裏には、あの時、自分の剣を捨て身で封じたアリの冷徹な眼光が焼き付いて離れない。

(……あいつらは、消えたんじゃない。隠れたんだ)

 

数日後。ガストンはリィンたちに何も告げず、一人で防壁を越えた。

「引退前のボケが始まったか」という同僚たちの嘲笑を背に受けながら、彼は愛用の鉄剣一本を携え、再び迷いの森の奥深くへと足を踏み入れた。

 

森は、以前にも増して静まり返っていた。

ステラビーバーの姿も、他の大型魔物の咆哮も聞こえない。ただ、風に揺れる葉の音だけが、不気味なほどの秩序を持って響いている。

 

ガストンは、かつて「作業場」があった場所へと辿り着いた。

そこは今や完全に枯れ葉と土に覆われ、素人目には何年も放置された森の一部にしか見えない。だが、ガストンは地面に膝をつき、わずかな違和感を探した。

 

「……ここだ。土が、不自然に踏み固められている」

 

彼がその地点を剣の先で掘り返そうとした、その時だった。

音もなく、周囲の茂みが「揺れた」。

風ではない。何者かが、一斉に、等間隔で距離を詰めてきた気配。

 

周囲の景色が「動いた」のだ。

 

木の幹だと思っていたもの、積み重なった腐葉土だと思っていたもの……それらが一斉に立ち上がった。

黒い外殻を持つキラーアントたちは、森の中では目立つ。

しかしガストンの目の前のキラーアント達は、その体表面に巧みに泥や千切った葉を自身の酸を使って付着させ、森の景色に完全に溶け込んでいたのである。

 

「……待ち伏せか!」

ガストンは鉄剣を引き抜き、背後を振り返る。そこにも、音もなく立ち上がる「泥の塊」がいた。

包囲は完璧だった。だが、アリたちは襲いかかってこない。

 

「(やられた…ッ!森では目立つはずのこいつらを捜索隊が少数しか見つけられなかったのはこういうことだったのか…ッ)」

 

酸を放つわけでも、大顎を鳴らして突撃するわけでもない。

十数匹の黒いアリたちは、ガストンの剣の間合いの外側で円陣を組み、ただ、じっと彼を「観察」していた。

 

一匹の、一際大きな働きアリが前に出た。

そのアリは、ガストンが剣を構え直すたびに、一歩引いて「敵意がない」ことを示すように脚を畳んで見せる。そして、そのアリは顎で地面の泥を払い、鋭い爪先を使って、滑らかな地面に何かを刻み始めた。

 

ガストンの目が驚愕に見開かれる。

アリが刻んだのは、あの時見た「点と線」の記号。それも、以前よりも遥かに洗練された、明確な意図を持つ「文字」だった。

 

「……何をしてやがる」

ガストンが掠れた声で問う。アリには声帯がない。だが、アリは次に、地面に別の記号を並べた。

それは、ギルドの掲示板や防壁の標識で見かける、アマルティア国の公用語である「文字」の形状を、拙くも模倣しようとした跡だった。

 

彼らは、防壁を監視し続けた個体からの報告をもとに、人類が「文字」によって情報を共有する種であることを理解していた。そして、人類側の知能レベルと社会構造を知るために、「既に1度自分達の本性を見られていて、わざわざ隠蔽する理由が無く、なぜか単独で森に入ってきた」個体であるガストンとの接触を選んだのだ。この個体を殺すことも巣に持ち帰って情報を力ずくで抜き出そうとすることもできるだろう。

だがそんな強行手段を取ってせっかく数週間もの間、囮を数十匹も犠牲にして行った情報操作を無駄に終わらすのは馬鹿らしい。

 

アリは地面に刻んだ記号を、脚でトントンと叩く。

それは、人類側で言うところの「対話」の要求であった。

 

「馬鹿な……。俺と、話をするつもりか? アリの分際で……」

ガストンは剣を握る手に汗が滲むのを感じた。

目の前にいるのは、略奪を繰り返す魔物ではない。

自分たちの存在を隠し、油断を誘い、そして今、こちらの言語を学ぼうと試みている「異質なる文明」そのものだった。

 

静まり返った森の中で、老冒険者と泥を纏った黒いアリは、一文字の記号を挟んで対峙していた。

それは、二つの種族が真の意味で「知性」としてぶつかり合う、歴史的な、そしてあまりに静かな瞬間の始まりであった。

 

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