もし体長1mほどのアリが知性を持っていたら   作:二度見屋

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第7話

森での奇妙な対話の後、ガストンは拍子抜けするほどあっさりと解放された。背後を振り返れば、泥を纏った黒い影たちが音もなく森の深淵へと消えていくのが見えた。

何事もなくアマルティアの街の門を潜り、自宅のベッドに倒れ込んだ時、ガストンを襲ったのは安堵ではなく、体の芯が凍りつくような戦慄だった。

 

「……夢じゃなかったんだな」

 

ガストンは震える手で机に向かい、古びた日記帳を開いた。そこには、あのアリたちが地面に刻んだ記号、そして自分が教えた人類の文字を克明に記録していく。

今すぐギルドへ駆け込み、この日記を突きつけたい衝動に駆られた。だが、老練な冒険者としての理性がそれを押し止める。証拠はまだ、地面に書かれた文字の記憶だけだ。今訴えたところで「老いぼれの妄想」として片付けられ、かえって奴らを刺激するだけだろう。

 

「もっと……確実な証拠がいる。奴らが何を考え、どこまでやれるのかを」

 

それから一週間、ガストンは連日のように「単独での森の調査」を装い、あの場所へ通い詰めた。

そこで繰り広げられたのは、人類史上最も異常な「教育」の光景だった。

 

アリたちの学習速度は、ガストンの想像を絶していた。

彼らはガストンが地面に書く文法を、まるで乾いた砂が水を吸うような勢いで吸収していった。単語を覚え、助詞を理解し、わずか七日で彼らは人類の文字体系をほぼ完璧にマスターしてしまったのだ。

 

(解析:人類の言語構造を完全取得。……情報の蓄積効率が劇的に向上。……並行して、個体識別『ガストン』からの提供情報を精査中)

 

しかし、言葉を覚えたことで、アリたちは一つの残酷な事実に直面した。

ガストンが語るアマルティアという国の20万という人口。組織化された軍隊。そして、単体で「5級魔物」に匹敵する、強固な防陣を一人で突き崩し、石造りの防壁を穿つほどの魔力を振るう高位魔導師の存在。

 

(結論:現状の我が群れの戦力では、人類との全面衝突における生存確率は、限りなく『零』に近い。……一個体で小隊を殲滅する重戦力を複数抱え、かつ20万もの個体が組織化された種に対し、数千の我らが挑むのは生存戦略として著しく不合理である)

 

アリたちの知性は、プライドではなく「生存の確率」を選択させた。

八日目の朝。ガストンが森の待ち合わせ場所へ辿り着くと、そこには泥迷彩を解いた、美しい漆黒の外殻を持つ働きアリが一匹、静かに待っていた。

 

そのアリが地面に刻んだのは、これまでのような断片的な記号ではなかった。淀みのない、流麗ですらある人類の文章だった。

 

『ガストン、我らは悟った。人類という群れは強大であり、今の我らが抗うべき対象ではない』

 

「……正直なことだ」

ガストンは苦笑混じりに呟いた。だが、次の行を見た瞬間、彼の表情は強張った。

 

『故に、我らは提案する。我らと人類の間に、互いの生存を担保する「有効な関係」を築きたい。我らは森の異変を伝え、人類に害なす魔物を排除する。その代わり、人類は我らの存在を容認し、この森を不可侵として欲しい』

 

「関係……? まさか、魔物のアリが、人間と『同盟』でも組もうってのか」

 

『同盟、あるいは共生。これは、我らが生き残るための最も効率的な選択だ。我らが森の管理を担えば、人類の被害も最小限に抑えられるはずだ。また森から取れる素材に関しても食料との物々交換で手を打とう。』

 

ガストンは拳を握りしめた。

目の前のアリは、媚びているのではない。冷徹な計算の結果、戦えば一方的に磨り潰されることが明白な巨大勢力に対し、最も生存率の高い「融和」という戦略を提示しているのだ。

 

もし、この提案を受け入れ、アリたちが人類の脅威を気にすることなく拡大を続けたら…この知性ある軍勢は、数年後には人類の戦力すら凌駕する「対等な勢力」にまで膨れ上がるのではないか。

 

だが、もしここで拒絶すれば、彼らは自分たちの生存圏を守るために、潜伏と徹底した隠蔽という手段を取るだろう。それは自身の故郷であるアマルティア国のすぐ真横に、いつか寝首を掻きにくる敵対国家が産まれることを意味していた。

 

「……俺に、この国の未来を決めろってのか」

 

秋の冷たい風が、二つの種族の間に吹き抜ける。

一人の老冒険者と、人類の叡智を学び取った一匹のアリ。

あまりに重すぎる「外交」の天秤が、今、静かに動き始めようとしていた。

 

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