「……バーク、お前にしか頼めない。何も言わずに付いてきてくれ」
ガストンが冒険者ギルドの奥、ギルド長室の扉を突き破るようにして入ってきた時、隻眼の初老の男、バークは驚愕で筆を止めた。古くからの戦友であるガストンの目は、かつてないほど血走り、その手にはボロボロになった日記帳が握りしめられていた。
「おいおいガストン、何の冗談だ。俺は今、次の議会への報告書で……」
「いいから来い! これを見逃せば、お前はギルド長として、いやアマルティアの市民として一生後悔することになるぞ!」
その異常な気迫に押され、バークは重い腰を上げた。二人は、衛兵の制止も聞かずに迷いの森へと突き進んだ。
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森の静寂の中、バークは肌を刺すような違和感に気づいた。
「……静かすぎるな。魔物の気配どころか、フンや死骸すら見当たらねえ。」
「ああ、奴らが『管理』してるからな」
ガストンが指定の場所で立ち止まると、音もなく周囲の「景色」が剥がれ落ちた。泥と葉を纏った黒い影たちが立ち上がり、バークを完璧に包囲する。
「なっ……ッ!?」
バークが反射的に腰の剣へ手をかけたが、ガストンがそれを制した。
「待て、バーク。まずは地面を見ろ」
そこには、一匹の漆黒の働きアリが、流麗な文字を刻んでいた。
『歓迎する。アマルティアのギルドの長、バーク。ガストン以外の個体が接触に応じたことを、生存戦略の進展として評価する』
「……蟻が、文字を書いてるのか? 俺の名前や立場まで……」
バークは喉を鳴らした。長年、数多の魔物と渡り合ってきた彼であっても、この光景は世界の理が崩壊したかのような衝撃だった。
数週間前のガストンの「知性を持つと思われるキラーアント」の報告、嘘をつかれたとは思ってはいなかったが調査で何も出なかった以上は、やはりガストン達が魔力残渣に当てられて幻覚を見ていたのだろうと考えていた。だが…これは想定のはるか上をいく衝撃だった。
それから数時間、バークはガストンの日記と、目の前のアリが刻む言葉を照らし合わせ、冷酷な対話を重ねた。
知性を持つ彼らは、人類の20万という人口、組織化された軍、そして単体で小隊を蹂躙し城壁を穿つ「5級魔導師」の脅威を正しく「脅威」として認めていた。その上で、自分たちが生き残るために「不可侵」と「物々交換」という、あまりに合理的な提案を突きつけてきたのだ。
「(こいつらは、自分たちが弱いことを分かった上で、その弱さを補うために俺たちの『知識』を欲しがっている……。だが、もしこいつらに知識を渡せば、いずれ人類の脅威になるのは目に見えているぞ)」
バークの背中を冷や汗が伝う。だが、返答は無慈悲な正論だった。
『拒絶は自由だ。だが、その場合は我らは徹底して潜伏し、人類を「敵」と定義する。貴殿らの背後で、音もなく増殖し続ける影の軍勢を望むか?』
「……クソが。交渉の余地すらねえのか」
バークは悟った。このアリたちは、アマルティア国のすぐ隣に、人類の法も道理も通用しない「異質の知性体」による国家を既に築き上げている。これを無視すれば、いつか寝首を掻かれる。ならば、今は糸を繋ぎ、監視下に置くしかない。
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数日後、アマルティア国の白石造りの議事堂は、かつてない怒号と混乱に包んでいた。演壇に立つバークが、震える声で報告を締めくくる。
「……以上のことから、迷いの森に潜伏する知性体群は、単なる魔物の集団ではなく、高度な外交意思を持つ『国家』であると結論づけます。彼らは、我らとの共生を提案しています」
「馬鹿な! 虫けらと対等に話せと言うのか!」
「そんな化け物、今すぐ軍を出して根絶やしにすべきだ!」
議員たちの罵声が飛び交うが、バークは冷徹に言い放った。
「奴らは、我々の軍隊の規模も、高位魔導師の戦力も、彼我の戦力差も既に理解しています。今、我々が動けば、奴らは森の奥深くへ消え、徹底した隠密とゲリラ戦術でこちらの流通網をズタズタにするでしょう。それに何より、迷いの森は天然の要塞です。
魔物たる彼らは魔力残渣の影響も受けませんし、フェロモンで道しるべを辿るキラーアントは方位磁石の効かない樹海であっても迷う事はありません。前提としてこちらから攻め込むのは事実上不可能です。我々に選択肢はありません」
この報告は、アマルティア国だけに留まらなかった。
「知性を持つ魔物の国」の出現は、国境を接する周辺諸国へも凄まじい速度で伝播し、大陸全土に巨大な混乱の渦を巻き起こした。
人類が築き上げてきた「万物の霊長」としての地位が、小さな蟻の巣によって、今、根底から揺らごうとしていた。
バークは騒然とする議場を見渡し、最後に重々しく付け加えた。
「……キラーアント達は自分達の種族の事を『クロノス』……そう定義しました…これは既に外交問題です。皆様の冷静な判断を期待しています。」