あの日、あの瞬間に戻ることができたなら。
誰しもがそういう後悔を抱くだろう。
宿題を忘れて先生に怒られた時、或いはテスト当日に戻って満点を取れたら。
未だ高校受験すら経験していない私でさえ、アレコレと思いつくのだ。もっと長く人生を歩んできた大人たちなら、何時間かかっても足りないほど候補が挙がるのだろう。
けれど、私は。
兎沢深澄はこの先どんな人生を歩もうとも、『あの瞬間』に戻りたいと願うだろう。
最愛の幼馴染である古暮大我が、右足を失った瞬間に。
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「深澄~!あそこの公園まで競争しようぜ!」
「疲れるからヤダ」
つい3か月前小学生になったばかりの少女らしくない返答に、俺はガックリと肩を落とす。
「深澄ってさぁ、ババァみたいな事言うよな」
「殺されたいの?」
「深澄って大人びてクールな事言うよな!」
背筋が凍るような視線を向ける深澄に俺は慌てて取り繕う。
慌ててでた言葉だが、事実その通りだと思う。
兎沢深澄。俺の母親の弟の娘。つまり俺の従妹だ。加えて、物心ついたころから仲良く遊ぶ幼馴染だ。
そっけないが、案外世話好きで困っている人がいるとついつい助けてしまう、いい奴だ。
いつもなら、これくらいの戯れには付き合ってくれるんだが・・・・・・
「?なぁ深澄、お前ちょっと顔赤くないか?」
「別に、そんな事無いと思・・・・・・ちょっと」
深澄の微かな抗議を無視して、彼女の額に手を当てる。
やはり、少し熱があるようだ。そして触れてみて分かったが、もう夏の盛りだと言うのにあまり汗をかいていない。
「お前、たぶん熱中症だぞ」
「そんな事ないと思うけど」
「い~や、全然あるね。ほらこっちきて」
深澄の手を引いて先程競争のゴールにしようとした公園へ連れて行く。
公園に備え付けられた水道で彼女の腕を冷やし、水分も補給させる。
「落ち着いた?」
「うん。自分じゃ気付いてなかったけど、結構しんどかったみたい」
「大事無くてよかったよ」
先程に比べて顔色のよくなった深澄に安堵して俺は微笑む。
これは穏やかな日常がいつまでも続くと思っていた、幼い頃の記憶。
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「また優勝したんだってね。おめでとう」
「おう、ありがとう。まぁ優勝って言っても2位の奴とは0.5秒差だったんだけどな」
小学校を卒業し、俺と深澄は中学生になった。
小学2年の頃から始めた陸上競技でメキメキと実力を伸ばし、小学生の大会で全国でも指折りの成績を残すことができた。
ついこの間の大会、3年生にとっては最後の大会となる夏の都大会でも1年生の部で優勝する事ができた。
「ミトの運動神経良いんだから何か部活に入ればいいのに」
「うちの学校はそこまで運動部に力入れてないから」
「文化部は?吹奏楽とか似合いそうなのに」
「私が他人と仲良くするの苦手なの知ってるでしょ」
「あ~深澄はシャイだもんな」
他愛もない世間話をしながら通学路を歩く。
深澄とは、家が近く、親戚だったためによく遊んでいたが同じ小学校というわけではなかった。
彼女は名門女子校の初等部を経て中等部へ。そして俺は普通に公立の小学校を卒業して普通に中学校へ進学した。
何年か前は、深澄がこのまま成長すれば、名門にふさわしいお嬢様になってしまって俺となんか会わなくなるんじゃないかと考えたものだが、当の本人は相変わらずサバサバとした性格で、こうして帰り道で出くわせば会話をする程度の付き合いが続いている。
「けど、俺には全然人見知りしないよな」
「当たり前でしょ、何年の付き合いだと思ってるのよ」
まぁ13年も親戚兼友達やっていれば人見知りしなくて当然か。それにしても・・・・・・
「なんか深澄って兎みたいだよな」
「・・・・・・いきなり何?」
「動物に例えたら、って話。人見知りなくせに寂しがりやなところとかそっくりじゃん。名は体を表すっていうのかな」
「私は別に寂しがりやじゃないし」
そう言ってぷいっとそっぽを向く姿に思わず笑ってしまう。丁度、俺と深澄の帰り道が分岐する交差点に差し掛かった。
今日の井戸端会議もこれでお開きだろう。
「じゃあまた今度。・・・・・・あっ、秋の大会は応援に来てくれよな」
「気が向いたらね。それじゃ」
軽く手を振って別れる。タイミングよく青に変わった信号を渡ろうと深澄が横断歩道に踏み出した瞬間。
────猛スピードで突っ込んでくる車が目に入った。
「深澄っ!!」
叫びながら俺は彼女の元へ走る。
深澄を俺の声を聞いて初めて車の存在に気付いたのだろう。
致命的な質量の塊が、時速70キロを超えて突っ込んでくる恐怖に、深澄は動くことができずにいる。
たった10メートルの距離が、途方もなく遠い。
大会で3000メートルを走った時だってこんなに長くは感じなかった。
速く、速く、速く。
一秒が何時間にも感じる。
懸命に足を動かすがとても間に合わない。
深澄の元へ追いつき、抱えて逃げるにはとても足りない。
けれど。
ただ突き飛ばすだけならば。
「深澄いいいいぃぃぃっっっ!!!」
無我夢中で最後の一歩を踏み切る。
幅跳びや高跳びは専門外だが、火事場の馬鹿力なのだろう。砲弾の様に飛んだ俺の体は、車道で立ちすくむ深澄の体を弾き飛ばした。
それはまるでビリヤードのようで、当然その場には、俺の体が残される。
ゴシャッッッッ!!
柔らかいものと硬いものが同時につぶれるような音がして、俺は意識を失った。
*********
後になって聞いた話だが、あの事故で俺の右脚は治療不可能な程ぐちゃぐちゃにつぶれていたらしい。
救急車で搬送された先の病院で、即座に切断手術が行われ、意識が回復した時には既に右の大腿から下が存在しなかった。
そこから先はまぁ、かなりしんどかった。
目覚めてすぐ、自分の体が欠損しているのに気付いた時は酷いパニックを起こしたものだ。
お医者様の尽力のおかげで混乱を乗り越えて、義足になれるためのリハビリを初めても困難の連続だった。
歩くどころか立ち会がることさえ難しく、松葉杖の補助ありで歩けるようになるまで2年もかかってしまった。
ようやく一人で外出できるようになり、病院を退院できるようになった頃、深澄が一つのゲームを持ってきた。
「ソードアート・オンライン?」
「そう。世界初のVRMMORPG」
「ぶいあーるえむえむ・・・・・・なに?」
「VRは仮想の、MMORPGは大規模同時接続ロールプレイングゲームって意味。要するに仮想世界にみんなで入り込んで冒険するゲームなの」
「仮想世界・・・・・・最近よくニュースで見る奴か」
なんでも一人の天才がほぼ独力で仮想世界に接続するフルダイブ技術を開発したのだとか。
「うん。そこなら大我も思いっきり走れるかなって」
「深澄・・・・・・」
俺が走れなくなって鬱屈していたのを見抜かれていたのだろうか。
彼女は心配そうな顔で、ソードアート・オンライン──SAOのパッケージを握る俺を見つめている。
彼女は、あの日からずっとこの調子だ。
自分を助けるために俺が大怪我したことを気に病んでいる。入院中も毎日のようにお見舞いに来てくれたし、なんなら入院直後に俺がパニックから立ち直れたのは彼女の存在が大きい。
ほら、自分より慌てている人がいると逆に落ち着くってやつだ。
「そうだな。ヨロヨロ歩くのも飽きてたところなんだ。また昔みたいに一緒に遊ぼうぜ!」
「うん・・・・・・!」
そうして俺たちはログインした。
SAO──最悪のデスゲームへと。
*********
革のブーツに包まれた両足が大地を蹴る。
同じく革製の簡素な防具に包まれた体が風を切る。
初期ステータスの全てを敏捷性につぎ込み、【疾走】スキルによって強化された走破力をもって、風になびく草原を駆け抜ける。
一歩を踏み出すごとに、忘れていた記憶がよみがえる。失っていた感動が再起する。
そうだ。俺は、この瞬間が好きだった。ただ一陣の風のように、或いは大地を往く獣の様に駆けるこの瞬間が。
「ははっ」
自然と、笑い声がこぼれた。
「ははははははははははっっっ!!」
高らかに響く笑い声は、荒野に響く咆哮のようだ。
楽しい、楽しい、楽しい。
俺はおよそ2年ぶりの全力疾走の感動に実を任せ、力の限り走り続けた。
*********
私は、大我の走る姿が好きだった。
幼い頃から足が速くて、引きこもりがちな私の手を引いて遊びに行くときはついていくのに苦労したものだ。
そんな彼が小学校に上がって陸上競技を始めたと聞いて、お母さんに頼んで大会に応援に行った。
その時に見た彼の姿は9年経った今も目に焼き付いている。
同時に走った子たちを置き去りにして、先頭で駆け抜ける姿は、大地を往く獣のようで、とても格好良かった。
だから、彼が私を庇って脚を失った時は、胸が張り裂けそうだった。
何よりも走ることを愛していた彼が、将来を期待されていた若き獅子がその牙──脚を捥がれた。
その事実が何よりも悲しく、そしてその原因が私である事が許せなかった。
罪滅ぼしにはならなくとも、何かできることは無いかとお見舞いを続け、彼が退院した今日、丁度サービス開始日だったSAOに誘った。
『ははははははははははっっっ!!』
フィールドに響く高らかな歓声を聞いて、ホッと安堵の息を吐く。
「よかった・・・・・・」
事故以来2年間笑顔を見せなかった彼がもう一度声を上げて笑っていることに心の底から安心する。
大我を、SAOに誘ってよかった。
*********
『以上で、ソードアート・オンライン正式サービスのチュートリアルを終了する』
ああ──私はまた、大我から大切なものを奪ったのか。