魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
フリーレンは辿りついた。
ダンジョンの最奥、太陽の間。
天井から差し込む陽光が、中央に鎮座する巨大な魔法陣を輝かせている。
つまり、シュピーゲルのエネルギーソースは太陽なのである。ダンジョン自体がソーラーパネルとして無限に近い魔力を生成。それをプログラムによって、シャドーの再生に使っている。
この空間は、宇宙なのだ――と、ふとフリーレンは思った。
太陽という無限の根源が近くにあるため、扉の外にいるフェルン達の様子が窺い知れない。魔力探知がうまく働かない。他者から断絶された虚空の間。
その中央で、アナリザンドのシャドーは、膝をまるめて空中に浮かんでいた。
その瞳には一切の感情を映さない、完璧な人形のような姿態。最後の番人が待機状態で勇者の到来を待ち受けている。
ふわり、と。
シャドーアナリザンドが降り立つ。
気安い友達のような微笑みを浮かべ、フリーレンを出迎える。
「やっと来たんだ。フリーレン。遅かったね」
いつもの小生意気な口調。
「おまえを破壊して、この試験を終わらせる」
杖を構える。もはや問答は不要。フリーレンは即座に攻撃魔法を放つ。
ゾルトラークの光は、一直線にアナリザンドを貫いたかに思えた。
しかし、その光を、アナリザンドはひらりとかわした。
いや、かわしたというより光のほうが避けたという感じだ。
「――
「無意味だね。私に時間を使わせようとしている」
「お礼を言っておこうと思って」アナリザンドは愛嬌の溢れる笑顔を浮かべた。「わたしの実験は結果として失敗だったけど、悪くはなかったよ。かわいい妹ちゃんたちの魂の輝きも観測できたし、一度の実験結果としては、十分な知見が得られた」
再度ゾルトラークを放つ。
防御魔法。アナリザンドは指先ひとつで魔法を止めた。
高圧縮のエネルギー魔法を、完全に防いでいる。
「ああ、魔力値が低いのにどうしてって顔してるね。あなたの全力は本当は
フリーレンはピクリと反応した。
常に全力全開。アナリザンドの話では、今は300程度をキープしているらしい。
だったら、一撃で粉砕することも可能なはずだ。それだけの力をこめれば――。
「フリーレンが無表情でも何を考えているかはわかるよ。わたしの防御魔法を超えるスペックの一撃を加えればいいと思ったでしょ。でも無駄。さっきの攻撃のように、当たらなければどうということはない。確率が0でなければ、わたしは確率を操って、攻撃を回避できる」
「……」
フリーレンは最奥の扉に視線を移す。
シュピーゲルの本体がいるのはあそこだ。
アナリザンドを倒せなくても、シュピーゲルの本体を破壊すれば同じこと。そう思考した瞬間に、アナリザンドは心を読んだかのように愛くるしい笑みを浮かべた。
「無駄だよ。フリーレン。わたしがどれだけあなたのことを観測してきたと思ってるの。いつか戦う日が来るんじゃないかって、わたしは準備してたんだよ。あなたの考えなんて手に取るようにわかるんだから」
――命懸けで宝物庫の扉を閉じる魔法。
文字通り、命を懸けて、術者が死なない限り破壊できない結界を創り出す魔法を使っている。
民間魔法の中では究極に近い封印魔法だ。
シュピーゲルは、アナリザンドの記憶や思考パターンを模倣している。
その動機は、異なるだろうが、言ってることは正しいだろう。
「手づまりになったから今度は観測しようとしてるね。やっとお話できる状態になったかな」
「……何が目的だ。私の魂の輝きとやらを観測するためか」
「違うよ。もう実験は失敗だって言ったでしょ。わたしはあきらめたの。この試験は全員失格。もうゼーリエ先生にも褒めてもらえない。だからね――あなたたちをここで全てデリートして、新たな被験者が来るのを待とうかなって。百年かそこらもすれば、どうせ愚かな人間たちはこの悲劇をすぐに忘れて、また新たな勇者がここを訪れるでしょ」
「ずいぶんと気の長い話だ」
「わたしは神話の時代から、あなたたち人類を観測し続けてきた。いまさらだよ」
「おまえの観測もここで終わりだ」
――
避けるということを赦さない。回避不能な超広範囲攻撃。雷撃は空間そのものを伝わり、アナリザンドに迫る。
「雷撃魔法は、勇者の特権だと思ってたんだけどね」
言ってることの意味はよくわからない。
いつものアナリザンドのように、わけのわからない言葉を吐く。
しかし、その戦闘行動は科学的知見と、未知なる技術によって支えられている。
フリーレンの目の前に花が咲いた。
それ自体は、フランメが好きだといったありふれた民間魔法。
その花弁が風に舞い、キラキラとした金属片へと変わる。
――魔導欺瞞紙。
僅か前にシャルフが見せた魔法の方向性を狂わせ、誘導する魔法だ。
フリーレンはその姿を直接見たわけではない。だが、雷撃がチャフに吸われ、わずかな隙間ができる。その間隙を、アナリザンドは悠々と避けた。いつものブーツ姿で、コツコツと石畳を闊歩している。それとなく誇らしげに。
「古代――、あなたが生きていた千年よりも遥か昔。魔法文明が栄えていた頃、古代の魔法は今の魔法よりもずっと暴力的で効率的に人を殺すことに長けていた。あなたがわたしに勝てないのは、アナリザンドに未来の知識があるからというよりも、シュピーゲルに蓄積された人類の智慧があるからだよ」
「ずいぶんと自信家なんだな」
「それはあなたもでしょ。アウラ様にボコボコに論破された後に、人間のことがわからないって嘆いていたのに、すぐにそれすらも忘れちゃってさ。フリーレンって薄情だよね」
「忘れてなんかいない」
「本当はフェルンちゃんのこともどうだっていいんでしょ。あなたにとって人間は瞬きする間にいなくなる儚い存在。永遠であるあなたにとって、一瞬の風景の移り変わりと同じなのだから」
「風景なんかじゃない。私にとって、フェルンは大事な家族だ」
「無意味な言葉だね。その家族が最終的には失われてしまうことに貴女は気づいているの? 人間は死ぬんだよ。ヒンメルが身をもって教えてくれたのに、あなたはまた他者の時間を奪っている」
「フェルンは自分で選んだんだ。わたしといっしょにいる時間を」
「それは違うと思うな。あなたがいるせいで、あの子は普通の幸せを知らずに死んでいくの。あなたがやってきたことって、結局、人の殺し方を教えただけじゃない。確かにフェルンちゃんは強くなったよ。今では一級魔法使いに引けをとらないほど優秀な人殺しの兵器になった。あなたと同じ化け物になった。でも、それって幸せなことなのかな?」
アナリザンドは酷薄な笑みを浮かべる。
アナリザンドなら言わないことだろう。フェルンを化け物扱いするなんて、絶対に口がさけても言いそうにない言葉だ。
けれど、しかし――フリーレンも後悔する。
もしも、フリーレンと出逢わなければ、戦うことを厭わない魔法使いではなく、優しく慈愛に溢れた、そしてちょっぴり怒りっぽいママになっていたのではないか。
そんな思考。魔力の揺らぎ。
「ふふっ。あなたの後悔が見えるよ。それは成し得なかった未来が今という時空に復讐しているってことなの」
――ポストフェストゥム。祭りの後。後の祭り。
アウラとの戦いで、それは人間の言葉だと教えられた。
「これは自信ってわけじゃないけど、フェルンちゃんはわたしのことが好きだよね。そんなフェルンちゃんが、魔族――つまり、アナリザンドの同族を殺すときどんな気持ちだと思う? 答えは簡単。人を殺しているのと同じ感覚だよ。マンガみたいに何も考えずに殺してもいい都合のいい存在なんていないの」
「フェルンも、他の人間も、自分で選んで杖をとっている」
「現実的にはそうだろうね。魔族は人殺し、人喰いなわけだから、襲ってきたら自己防衛をするほかない。アナリザンドみたいに悠長に事をかまえていたら、言葉を交わす前に殺されてしまう。問答無用で殺すのが一番手っ取り早いってのはわかるよ」
「おまえたち魔族は、害獣だからだ」
「それも種族的な特性としてはまちがってはいない。魔族とは、レジデューアルデータ。廃棄された情報生命体として、光に誘われる。人間に恋焦がれている。だから殺すの。でもそれは魔族側の視点の話であって、魔族を排しようとする人間側の心に着目していない。あなたは人を殺したことはあるの?」
「無意味な問いだ」
「そうかな? わたしは貴女に考えてほしいんだよ。あなたはフェルンちゃんに人を殺すように命じている。その痛みを理解したからこそ、あなたはアウラ様を殺さざるをえなかったフェルンちゃんに謝ったんじゃないの。あなたのせいで、あの子は人殺しになったんだから」
「だからなんだ」
「だから――そう、この狂った因果を終わらせてあげようって言ってるの」
アナリザンドの言葉は、甘い毒のようにフリーレンの心に染み渡る。フリーレンは、唇を固く結び、反論の言葉を探した。だが、どんな言葉も、目の前の偽物が突きつけてくる歪んだ真理の前では、空虚に響くだけな気がした。
思考が停滞する。淀む。狂っていく。
その思考の隙間に、シュピーゲルの言葉が、ジワリと染みこむ。
「さあ、見せてあげる。あなたが選んだ未来の、その残酷な結末を」
アナリザンドが、ふわりと指を鳴らす。
瞬間、太陽の間の景色が、砂絵のように崩れ落ちていく。
――
「またその呪いか」
「ああ違うよ。これはネットを使った光学的な動画。つまりはただの現実」
眩い光がフリーレンの視界を覆い尽くした。
次に目を開けた時、フリーレンは絶望的な光景の只中に立っていた。
空間に裂け目ができて、ちょうど鏡のような楕円形を構成している。
その鏡面には、先ほどまでフェルンたちが戦っていた、あの薄暗い回廊。
しかし、今は静まり返っている。ヒンメルたちの姿はどこにもない。
ただ、石畳の上には、無残な戦いの痕跡だけが残されていた。
砕けた杖、裂かれたローブ、そして――。
「……」
ただ、息が漏れた。フリーレンの喉から、声にならない音が漏れた。
動揺を必死に抑えようとして、結果としてフリーレンは停止した。
そこに倒れていたのは、アナリザンド、フェルン、カンネ、ラヴィーネ。
彼女たちの身体は冷たくなり、その瞳からは、もう光は失われていた。
特にフェルンは、アナリザンドを庇うような形で、その胸を一本の剣に貫かれている。それは、紛れもなくヒンメルの剣だった。
「あ~あ。フェルンちゃん。死んじゃった。残念」
「最低に趣味の悪い魔法だ。反吐がでる」
「あなたが悪いんだよフリーレン。いや、人間が悪いのかな。人間はすぐに死んじゃうからね。ヒンメルの時もそうだったでしょ。あなたが一呼吸する間に、人は死んでしまう」
「フェルン達は死んではいない。これはただの幻想だ」
そう、それはわかる。
静かなコールサインが網膜の裏に鳴り響いている。
今もフェルンがその生存を知らせてくれている。
それになにより、アナリザンドはこれ以上なく奇妙で馬鹿で、シスコンで金の亡者であるが、ともあれ魔族なのである。魔族は死んだら塵に還る。所詮は、魔物。魔族よりも嘘が下手だ。
「へぇ……。フリーレンもネットを使えるようになったんだ。能動的に利用できるまであと一歩って感じだね」アナリザンドは愉快そうに言った。「でもさ。この映像がただの嘘だとしても、人間があなたより早く死ぬという事実は変わらないよね。あなたが家族とまで言ったフェルンちゃんも、いつかは必ず死んでしまうんだよ」
「それはもう識っていることだ」
「じゃあさ。こんなのはどうだろう」
景色が、再び変わった。
今度は、陽光が差し込む、穏やかな村の風景。
パンの焼ける香ばしい匂い、子どもたちのはしゃぐ声。
その村の小さな家々の窓辺に、見慣れた紫色の髪の少女が座っていた。
「フェルン……?」
そこにいたフェルンは、フリーレンの知る彼女ではなかった。
魔法使いのローブではなく、簡素だが清潔なエプロンを身に着け、その手には、編みかけの小さな靴下が握られている。彼女の傍らには、穏やかな笑みを浮かべた見知らぬ青年が寄り添い、そのお腹は、新しい命を宿しているかのように、ふっくらとしていた。
彼女は、フリーレンが今まで見たこともないほど、穏やかで幸せそうな顔をしていた。
「これが、あなたと出逢わなかったフェルンちゃんの人生だよ」
「こんなまやかしになんの意味がある」
「想像してみて。フェルンちゃんがあなたと出逢わなかった未来を」
シャドーの声が囁く。
「ハイターが亡くなった後、フェルンちゃんは村の心優しい夫婦に引き取られた。魔法の才能は眠ったまま、普通の女の子として育ち、やがて恋をして家族を持つ。戦いも魔族も知らない。ただ、愛する人たちに囲まれて、ささやかな幸せを紡いでいく人生。フリーレン。あなたがフェルンちゃんから奪った、もう一つの未来だよ」
「そんな未来もあったかもしれない。でも、そんな仮定は無意味だ。フェルンは今を生きている存在だ。今もこれからも私よりもずっと早く決断しつづける」
フランメもそうだった。ヒンメルもそうだった。
「フリーレン。わたしはあなたに譲歩しているんだよ。この旅の間くらいは口を出さないって決めてる。けれど、あなたは、自分の都合のためにフェルンちゃんが普通の女の子みたいに生きて、人並みの幸せな人生を送る時間を現在進行形で奪っているとも言えるよね」
「フェルンの選択だ。あの子の選択を愚弄するな」
「あなたは
「ハイターに託されたからだ」
フリーレンは言いながらも、アナリザンドの隙を探る。
魔法がジャンケンのようなものであるならば、その戦いは心の読み合いに近い。
アナリザンドが心理的攻撃を加えてくるのも同じ理由からだろう。
どこかに油断があれば、因果を操ろうが一撃で葬れる。
フランメが――人間の師匠が教えてくれたことだ。
「だから、あなたの責任はないって? そんな理屈が通るわけないでしょ。ハイターはもう死んじゃうから、長生きしそうなあなたくらいしか頼る人がいなかったの。託されたあとは、あなたの責任でしょ。今のフェルンちゃんが人殺しの天才になったのは、間違いなくあなたが育てた結果だよ」
「それもフェルンの選択だ」
「ふーん。そんなことを言うんだ。だったら、フェルンちゃんがこのまま戦い続けて、そしていつか、本当に死んじゃっても、それはフェルンちゃんの選択の結果だからしかたないなんて言うのかな。あなたはそれでも平然としていられるの?」
「……」
ズキリと心が痛む。
魔法使いの冷徹なはずの判断能力に亀裂が走る。
考えないではなかった。だからこそ、フェルンを誰にも負けない魔法使いとして育てたのであるから。
アナリザンドはおどけるように続ける。
とてとてと石畳の上を歩きながら、フリーレンの視界を横切っていく。
「そもそもの話、ヒンメルのことだってフリーレンはひどいよね。50年も放置して、そして死んじゃった。あなたはもう気づいていると思うけど、ヒンメルはあなたのことが好きだったんだよ。もし、あなたが魔王を斃したあの時に気づいていれば――」
――ゾルトラーク。
かわされた。やはりアナリザンドは確率を操っている。
女神の魔法の領域にアクセスしている。正攻法では魔力を削られるだけだ。
「今の一撃は300を超えていたね。――ヒンメルの話を続けていい? 嫌って言っても続けるね。魔王を殺したあと、ヒンメルは何を望んでいたかわかるかな」
「おまえが知ってるとでも?」
「好きな人に告白して、受け入れてもらえて、一緒にいたいって考えたはずだよ。アナリザンドがもったいぶって教えなかったヒンメルの遺言を教えてあげようか。――
アナリザンド本人が言わなかったことを、シュピーゲルは暴露する。
しかし、それも嘘かもしれない。
「ヒンメルはそんなことは言わなかった。ただの一言も」
「重荷になりたくなかったからだろうね。フリーレンのこれからの長いエルフ生が、ヒンメルという死んでしまった存在に縛られるのが嫌だったんだと思うよ。このくらいはわかるよね?」
わかるか、わからないか――。
そう問われれば、なんとなくだけどわかるというのが答え。
ヒンメルの素振りは、確かにフリーレンをひとりの女の子として見ていた。
あの優しげな眼差しは、きっと恋をしていた。
――恋。
という感情はよくわからない。
でも、恋しいという感情はわかる。
ヒンメルを思い出すたびに、胸がしめつけられるような、そんな感覚がする。
「感慨深くはあるよね。千年経っても人間を理解できなかったあなたは、フェルンちゃんという存在を育てることによって、人間らしい心を理解しつつある。だから、ようやくヒンメルを失ったことに本当の意味で気づきはじめているの。ねぇ――フリーレン、後悔しているでしょう」
「後悔なんかしていない」
「強がりだね」
後悔という感情が芽生え始めたのは、ヒンメルの死を経験してからだ。
今を生きる、現状に臨在することしかできないエルフには後悔という概念が薄い。
罪という意識が薄い。その意味では、魔族とエルフは似ている。魔族はゼロ。エルフはイチという違いはあるが、人間のように存在様式そのものに後悔が刻まれているわけではない。
なのに、どうしてこんなにも心が苦しいのだろう。
胸が痛いのだろう。知っている。理解している。これが人の心だからだ。
「ようやく、あなたも人の子に近づいたってことだね。本来、エルフは思い悩まない種族なんだと思うよ。ゼーリエ先生を見ていればわかるけど、倦怠こそがエルフの本性なんだと思う。あなたも日常生活ではフェルンちゃんのお世話になりっぱなしなわけだしね。フェルンちゃんが死んだら、その次はまた違う誰かを、お世話してくれる人を探すのかな?」
「フェルンの代わりなんていない」
「そうだね……。わかるよ。だから失うのは怖いことなんだよ。あなたは他者の死を恐れている。見ないようにしている。ねえ――フリーレン。あなたに選択肢をあげようか」
アナリザンドは両の腕を広げた。
針金細工のような黒翼が、アナリザンドの背中に出現する。
魔力でできた翼の魔法。女神の魔法をつかったときに見せた、単なる演出。
「勇者の魂。在り方――、それはわたしにとっては不合理で理解不能だけれども、言葉にすることはできる。
フリーレンは周りを見渡した。
感知できない魔法――いや、呪いが辺りに充填されるのを感じる。
「フリーレン。自害して」
服従させる魔法に似た気配。しかし、もちろん、アナリザンドはアゼリューゼを発動させているわけではない。まだ、フリーレンのほうが魔力値的に上まわっている。
けれど、その論理は明確だった。
アナリザンドは純粋な数理的論理と誘惑で、フリーレンを従えようとしている。
「あなたが自己犠牲精神を発揮して死ねば、わたしは完全なる復活魔法を唱えることができる。死んだ人間の魂すら呼び戻すことが可能になる。そして、復活させた人間には永遠の命を与えることを約束するよ」
「おまえが復活させた魂が、本物であることの証拠がどこにある」
「証拠なんてないよ。そんなことは初めからわかっていることだよね。信じるほかないの。あなたがヒンメルを信じたようにね」
アナリザンドの言葉は、静かにフリーレンの心の最後の砦を侵食していく。
そうだ。証拠など、どこにもなかった。
ヒンメルが本当に自分のことをどう思っていたのか、本当は何を言いたかったのか、確かめる術はもうない。ただ、遺された言葉と、温かい記憶の欠片を拾い集め、信じることしかできなかった。
シュピーゲルは、その不確かさにつけ込んでくる。
おまえの信じるものこそ、ただの曖昧な幻想だ、と。
わたしが与える
フリーレンの脳裏に、いくつもの光景が走馬灯のように駆け巡った。
フランメが教えてくれた花畑を生み出す魔法。
くだらないことで笑い合った、ヒンメルとの旅路。
生前のハイターと交わした、確かな約束。
ぶっきらぼうだけど、いつも背中を預けてくれた、アイゼンの信頼。
そして、今。
フェルン達が
「おまえは魔族よりも傲慢な存在だ」
神を僭称し、神になりかわろうとしている水鏡の悪魔。
「それはたいした評価だね」
「ヒンメルは自己犠牲なんて望んでなかった。ただみんなが笑ってる未来が見たかっただけなんだ。だから勇者になった。ただそれだけの話だ」
「ヒンメルが最期の願いをあなたに直接伝えなかったのはどうしてだと思う? それこそ自己犠牲の精神なんじゃないかな。あなたが常々言ってるように、ヒンメルがそうしたからそうすればいいじゃない。何を迷ってるの? 死ぬのが怖いのなら、わたしが殺してあげようか」
「違う。そうじゃない」
「どういうふうに違うのかな。わたしにはわからないな」
ヒンメルは伝えたかった/伝えたくなかった。
そんな矛盾した想いを、アナリザンドに託したのだろう。
けれど、シュピーゲルには理解できない。理解する能力がない。
フリーレンは杖を棄てた。
予期せぬ行動に、アナリザンドの表情が、ぴくりとひくついた。
「ふぅん……フリーレンの奥の手ってやつだね。アウラ様との戦いのときに既にわたしは観察しているよ。それは魔法の起源を元にした攻撃。そうでしょ」
アウラとの戦闘の時に見せたフリーレンの奥の手。
それは、純粋な祈願だった。
つまり、魔法の始まりとは、祈りに他ならない。
「確かに防御魔法では防ぐことはできないだろうね。回避も難しそう。でも、それも魔法に過ぎない。純粋な情報干渉によって、イメージを現実に置換しているだけ。そんな魔法、黒く塗りつぶしてあげる」
アナリザンドが両手を広げる。その背後から、あらゆる光を飲み込むかのような漆黒の闇が滲み出し、フリーレンの放つであろう概念攻撃を迎え撃つべく、絶対的な無の空間を形成していく。
――
しかし、フリーレンの放ったものは、シャドーの予測を、そして魔法という定義すらも超越していた。
それは攻撃ではなかった。フリーレンの千年を超える旅路、ヒンメルたちと分かち合った喜びと悲しみ、フェルンたちと育んだ新たな絆、フランメから受け継いだ想い――その全てが凝縮された、純粋な
勇者の帰還を願うように、フリーレンはただ眼差しを向ける。
シャドーの展開した『無』は、確かにあらゆる魔法構造物を解体し、消滅させる力を持っていた。だが、フリーレンの放った光は構造を持たない。それは、世界そのものに対する直接的な要請。
何もないところからすべてを生み出した、女神に対するコールサイン。
黒は、光を塗りつぶせない。なぜなら、光があるからこそ、黒は黒として認識されるのだから。
祈りの光は、シャドーの闇をいともたやすく貫き、そして――爆ぜた。
「――っ!?」
凄まじい衝撃波が、シャドーアナリザンドの小さな身体を木の葉のように吹き飛ばす。受け身も取れず、彼女は広間の最も奥にある壁に叩きつけられ、石畳の上を数度バウンドし、ようやく動きを止めた。完璧な人形のようだった姿態に、初めて明確なダメージが刻まれる。
アナリザンドは、ゆっくりと身を起こした。その表情は完璧な微笑のままだ。
「……なるほど。これが
まるで興味深い実験結果を目の当たりにした科学者のように呟く。
フリーレンが杖を拾いあげ、追撃のゾルトラークを放つ。
避けられる。完全に無力化したわけではない。
「どうやら、アナリザンド自身はおまえを侮っていたようだ。仮説を訂正しよう。魂の輝度を最大化させるには、対象を極限状況に追い込むだけでは足りない。観測者たる我々自身が、対象にとっての
機械的な言語とあまったるい声色が奇妙に融和する。
シャドーの言葉と共に、彼女の周囲の空間が、陽炎のように歪み始める。
先ほどまでの心理戦とは全く質の異なる、純粋で、絶対的な破壊の意志がその場を支配した。
指先がついっとあげられ、フリーレンに向けられる。
――
そして放たれる。
それは、アナリザンドの現在魔力値が300程度に抑制されているため、ゼンゼとともにこのダンジョンに潜ったときよりは、かなりのところパワー不足であったが、それでも対象を破壊することに特化している。防御魔法は意味をなさない。
避けるしかない。咄嗟の判断で、フリーレンは後方へ飛びずさった。魔力の波が足元を掠め、ローブの裾が塵となって消える。紙一重。ほんの一瞬でも判断が遅れていれば、フリーレン自身が魔族のように塵となって消滅していただろう。
「避けることができたって思ってるでしょ」アナリザンドはクスクスと笑う。「違うよ。当てなかっただけ。あなたには実験動物として生きていてもらわなくちゃいけないからね。でも、時間はあまり残されていないよ。わたしは、あなたにこだわる必要はない」
「意味がわからないな」
少し息をつく。呼吸を整える。そして、アナリザンドを斃す方法を考える。
因果を逆流させる魔法は、対象に必中攻撃を当てることができる。
アナリザンドの言葉は、その意味では正しいのだろう。
フリーレンも、アナリザンドの魔法の理不尽さを理解している。
正攻法では、もはや勝ち目はない。
「意味なんてないの。でも、フリーレンにもわかりやすく言うなら、マタドールって知ってるかな。闘牛士のことね。闘牛は必ず殺されるわけだけど、その生き様がショーになってるわけだよね。あなたも同じ。いつ死んでもいいわけだけど、できるだけ長生きしたほうが観客を愉しませるってだけ」
「あいかわらずおまえの趣味は最悪だ」
牽制のゾルトラーク。そして、破壊の光が交差する。
ディスラプターは魔法すら破壊する。ゾルトラークの術式が衝突の瞬間に破砕され、無意味な光の塵へと化した。撃ち合いでは分が悪すぎる。
「そろそろ腕の一本でももらおうかな」アナリザンドが喜笑した。
光線の乱れ撃ち。触れた瞬間に虚無に帰す。空間が悲鳴をあげている。ディスラプターは
「……っ!」
痛みがないわけではない。戦闘では氷のように冷徹なマシーンとなるフリーレンも当然痛みは感じる。それでもフリーレンは極限の集中力で、アナリザンドの攻撃を避け続けた。
「足が最初になっちゃったか。じゃあ次は腕ね」
アナリザンドは疲れを知らない。幼子のように常に全力全開なのは本当なのだろう。
そして、シャドーの特性上、躊躇がない。虫の脚をもぐように残虐だ。このままでは文字通り芋虫のようにされてしまうだろう。
しかし――打つ手がない。
ありとあらゆる魔法が無効化される。ゾルトラークのような直線的な攻撃は必ず避けられる。大技は隙が大きいため、今度は逆に相手に先手をとられてしまう。奥の手だけは有効打を与えたものの、あれは何発も連打できるようなものじゃない。
千年を超える戦いの経験をもってしても、この論理的に完全な敵を単独で打ち破るイメージが、どうしても湧いてこなかった。
だが、諦めるという選択肢もない。扉の向こうには仲間がいる。
そう、ヒンメルとの旅路もそうだった。
たった十年のことだけど、フリーレンは永遠の時間のように感じる。
「どうやら私ひとりじゃ勝てないみたいだよ。ヒンメル……」
小さくささやくように。
「ふぅん。ついに――ついにか。本物のアナリザンドも喜ぶと思うよ」
アナリザンドは、フリーレンのやろうとしていることをすぐに察知した。
これまで、フリーレンが絶対にやってこなかったこと。
「
それは、ネットの世界に参入するためのディスクリプタ。フリーレンが魔族の魔法と忌み嫌い、頑なに拒絶してきた繋がりへの、初めての自発的な呼びかけだった。
その一言が紡がれた瞬間、フリーレンの意識は太陽の間の物理法則を超え、見えざる光の網へと接続された。しかし、その繋がりはあまりにも脆弱で、今にも切れそうな蜘蛛の糸のようだった。
「無駄だよ、フリーレン」
シャドーアナリザンドの足元から黒いノイズが迸る。ジャミングだ。
「この太陽の間はシュピーゲルの創り出した閉じた箱庭。いわゆるローカルネットワークなの。ここから外部へ通信を送ることなんて、最初からできやしない。あなたは鳥籠に囚われた鳥さんってわけ」
フリーレンとアナリザンドを繋ごうとした細い光の糸が、シャドーの魔力によって無慈悲に断ち切られていく。最後の希望すらも、この閉じた世界の中では無力だった。
フリーレンは、その事実を冷静に受け止めた。その眼差しに絶望の色はない。むしろ、どこか憐れむような、静かな光が宿っていた。
「……独り部屋か」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。
「哀れだな、シュピーゲル。おまえは、自分で自分を閉じ込めている。他者と繋がることを恐れて、自分だけの閉じた世界で他人の記憶を弄んでいるだけだ。おまえは、ずっと独りだった。そして、これからも――永遠に」
フリーレンは、杖を静かに地面に置いた。そして、胸の前でそっと両手を組む。目を閉じる。それは、かつてハイターが教えてくれた、女神への祈りの形。
「無抵抗主義のつもり? もうあなたの命に興味はないよ」
「――郵便は、必ず届く」
いつか誰かが言っていた。
それは人の子の言葉だった。
「そんなものは妄想だ。おまえたち人類は都合のよい他者を脳内で創りだしているに過ぎない」
「届くべきだからだよ。こめた想いが本物なら、郵便は必ず届く」
――いつか死者にすら。
「そんな不合理な思考が魂の輝きのはずがない。おまえたちはバグそのものなのか?」
「だからおまえにはコピーできるはずがないんだ」
フリーレンの全身から、魔力とは異なる、温かい光が溢れ出す。それは、システムを介さない、魂から魂への直接的な呼びかけ。
――アナリザンド。
ただその名を呼ぶ。
ヒンメルのシャドーと戦っているフェルン達の状況はわからない。
この祈りが届くかもわからない。それでも、フリーレンは祈った。
ふと、声が聞こえた気がした。
「……ありえない。何故繋がる」
シュピーゲルの完璧な論理が、フリーレンの不合理な信念の前に崩壊していく。その声には、初めて聞くような、純粋な驚愕と混乱が滲んでいた。
「わからないよ。あいつの呪いだからね」
それとも人間の呪いだろうか。フリーレンは、ゆっくりと目を開いた。
見ると、シャドーアナリザンドの魔力は、極限まで低下していた。
魔力で体が構成されている魔族にとって、それは自分で自分の首を絞めるに等しい状態のはずだ。それでも繋がった。今のシャドーの状態は、アナリザンドがフリーレンを信じた証だ。認めよう。アナリザンドはフリーレンを信じてくれたのだ。
フリーレンは杖を拾い上げ、残された最後の魔力を、その一点に集中させる。
狙うは、弱体化し、混乱の極みにあるシャドーではない。
その背後――シュピーゲル本体が隠された、固く閉ざされた扉。
フリーレンの瞳には、かつてないほどの決意の光が宿っていた。
「やめてフリーレン! 殺さないで! あと少しで魂の輝きを解析できそうなの」
アナリザンドが魔族らしく命乞いする。涙を流し、必死の表情で懇願する。
躊躇はしない。敵愾心ではない。ただ、終わらせる意志だけが杖にともる。
「おまえの独り部屋は、もう終わりだ」
――
放たれたのは、フリーレンの魔導の粋を集めた、最大出力の一撃。
白い閃光は、もはやシャドーなど意にも介さず、その背後にある扉ごと、この閉じた世界を支配していた孤独な悪魔の本体を、太陽の光の中へと還すべく突き進んだ。
轟音。
シャドーアナリザンドは、自らを貫く光の中で、最後に何かを理解したように、ほんのわずかに微笑んだように見えた。分厚い扉が木っ端微塵に砕け散り、その向こう側にあった鏡の本体が、甲高い音を立てて砕け散る。
シュピーゲルの神話の時代から続く妄執もこれで潰えた。
闇が払われ、太陽の光が、今まで以上に強く広間へと降り注ぐ。
光の中に、フリーレンは一人、静かに立っている。
戦いは、終わった。
フリーレンは、ゆっくりと扉の外へと視線を向ける。
そこには、仲間たちが待っている。杖を本当の杖代わりにして、フリーレンは扉に向けて一歩踏み出す。カッコ悪いところは、フェルンには見せたくない。
でもそれ以上に、フェルンの顔が見たかった。
――帰ろう。
ただそれだけを考えた。