魔族少女のエロタナティブ   作:アナリザンド

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魔族少女の人間試験『アナリザンド』編

 

 

 

 オイサーストの宿屋の一室。

 二つあるベッドのうち、ひとつをまるまる占有しているのは、わたし。

 泣き疲れザンドである。

 

 いや、もう本当にどうしてこうなったとしか言いようがない。

 フリーレンが自信満々に『自分は不合格になる(キリッ)』とか言いながら、その実、華麗に合格してきたのだ。エルフは魔族よりも嘘つきである。そして、自分は嘘をついたわけじゃないと、いつもみたいに冷静に言うのだ。飄々のフリーレンだった。

 

 というわけで、今のわたしは貧困のアナリザンドである。

 あの試験から既に一日が経過している。ゼーリエ先生の特権授与は試験終了から七日後におこなわれるらしい。つまり、そこに至れば、真のデッドエンド。試験結果は完全に固まり、先生がわたしを合格させてくれることは絶対になくなるだろう。

 

 当然、フリーレンから試験結果を聞いた後、わたしはすぐさま先生のもとに抗議しに向かった。ほんの数時間ほど前のことだ。試験結果をどうにか緩和できないか、せめて借金倍増はなしに。そういう交渉内容だった。

 

 結果は惨敗だった。想像するまでもないだろう。

 あの傲岸不遜のゼーリエ先生だ。

 

 事前にサリーちゃんに聞き出して、フランメの似姿を寸分違うことなく教えてもらい、『フランメちゃん10歳バージョン』の抱き枕になる魔法を使ってみてもダメだった。

 

 そのまま無言でわしづかみにされ、庭園の隅っこに埋められた。まるでウンコ扱いだった。

 それどころか、今のわたしはサリーちゃんにすら劣るという扱いだった。

 

 たぶん、先生は楽しんでいるのだと思う。

 

――わたしは、面接の時の、ゼーリエ先生の様子を思い出す。

 

 人形姿のまま埋められたあと、わたしは魔法を解除して、泥だらけになりながらもなんとか土の中から甦り、再度ゼーリエ先生の前で正座し、必死の命乞いを繰り返した。

 

「先生ぇ。ダメなの? ほんのちょっとだけ。ちょっとだけでいいからぁ」

 

「おまえは、そこまでして、()()私に認めてほしいんだ?」

 

「先生に褒めてほしかったの! それなのに借金倍増なんてひどいよ」

 

「私の問いを理解していないな。おまえがこの試験で望んだものはなんだ?」

 

 先生は玉座からピクリとも動かない。

 ただつまらなそうに問いを繰り返した。

 

「えっと、先生に褒めてもらうこと。それとフリーレンに勝つこと。ついでに借金も減らせれば最高かなって。そう思ってがんばったんだよ! 実際そうでしょ。わたしの活躍っぷりはそこらの魔法使いよりずっとすごかったんだから!」

 

「不合格だ。おまえは私の言葉の意味をなにひとつ理解していない。出直してこい」

 

 こんな感じで、にべもなく――。

 

 わたしは素直に気持ちを伝えているつもりだ。

 魔族だけど、なにひとつ嘘はついていないと女神様に誓える。

 でも、先生はいったいわたしの何が不満なんだろう。

 

 

 

 

 

 二日目の朝。

 

 泣き疲れ、ベッドの上で完全に溶けているわたしの元に、控えめなノックの音が響いた。

 ドアを開けたフェルンちゃんが、少しだけ困ったような顔で、わたしを見ている。

 

「アナリザンド様。デンケン様たちがお見えになっていますよ。お会いになりますか?」

 

「うん。もちろん」

 

 泣いていてもしかたがない。わたしは立ち上がり、階段下で待っていたデンケンお爺ちゃんたちに逢いに行った。リヒターさん、そしてラオフェンちゃんもいる。

 

 試験結果は知っている。デンケンお爺ちゃんとリヒターさんは合格。ラオフェンちゃんは二級昇格だったはずだ。ひとりだけラオフェンちゃんだけは一級という資格からみれば不合格だったわけだけど、ラオフェンちゃんの顔が一番明るい。

 

「アナリザンドよ。昨夜は大変だったと聞いた」

 

 デンケンお爺ちゃんが、代表して口火を切る。

 

「大変というか。国家レベルの予算を超えてるんだけど、どうしたらいいかな」

 

「ふむ。それは儂にはわかりかねるな。今後、帝国と大陸魔法協会の交渉が始まれば、おぬしを交渉役として推薦しようかと思っておるが……、ゼーリエが何を考えているのかわからなければ、焼け石に水だろう」

 

「確かにね」

 

 先生は、わたしの借金を自由に増やせるわけだから、どんなにお金を稼いでも、たぶん無意味な気がする。でも、お爺ちゃんがわたしを交渉人として認めてくれたことはうれしい。

 

「ところで、試験のあと我々でささやかな祝勝会を開いたのだが、おぬしを誘うことができなかった。それが少し心残りでな。今回改めて挨拶にきたというわけだ」

 

「うん。大丈夫だよ。わざわざありがとう」

 

「それより、爺さん。早く――」

 

 ラオフェンちゃんが、ぶんぶんと拳を振り回す。その隣で、リヒターさんが「おちつけラオフェン」と静かにツッコんだ。

 

 なんだろう?

 

「アナリザンドよ。もし気が向くならでよい。ラオフェンと食べに行ったあのドーナツ屋に、皆で甘いものでもどうだろうか」

 

 お爺ちゃんの温かい気遣いに、固まっていた心の氷が、少しだけ溶けるのを感じる。

 

「フェルンちゃんたちも誘っていい?」

 

「ああ、もちろんだとも」

 

 

 

 

 

――ドーナツ店にて。

 

 デンケンお爺ちゃんに半ば引きずられるようにしてやってきたドーナツ店は、ほんのちょっと前に訪れた時と同じく、甘い香りに満ちていた。

 

 テーブルには、色とりどりのドーナツ。もちろん、サタニックドーナツの再現も試みた。

 フェルンちゃんもフリーレンも、シュタルク君も、それぞれお皿の上のドーナツをワクワクした顔で見つめていた。まあ、フリーレンはエルフにしてはって注釈がつくけど。

 

 そして、始まるドーナツパーティ。

 ラオフェンちゃんとフェルンちゃんはドーナツ早食い競争でもしているかのようだ。

 

 ほんのちょっと場違いだと思っているのか、シュタルク君が遠慮している。

 

「遠慮せずに食べなさい」

 

 で、でた! 孫を見るお爺ちゃんの視線。

 シュタルク君も若者だけに、孫属性の範疇だったようだ。

 シュタルク君はおずおずとドーナツに手を伸ばす。ちなみに、フリーレンは先ほどから一言も喋っていない。魔導書片手にドーナツをほおばっている。マイペースというかなんというか。どんだけ無口で人見知りなんだろう。

 

「フリーレンよ」デンケンお爺ちゃんが声をかける。

 

「なに?」

 

「おぬしにも礼を言わねばならなかったな」

 

「試験に合格したのは、私がどうこうしたからじゃないと思うけど」

 

「そうではない。儂は国という巨大なものに目を向けすぎて、魔法が楽しいものだということを忘れていた。おまえたちがそれに気づかせてくれた。礼をいう」

 

「そう。べつにいいよ」塩!

 

 でも、フリーレンにしては珍しく、表情が柔らかい。

 

「もちろん、おぬしにもな。アナリザンドよ」

 

「ううん、わたしは何も。みんなが頑張ったからだよ」

 

「アナ姉! 私、また三年後に試験受けるからさ。アナ姉も受けよう! んで、今度こそ、一緒に合格しようよ!」

 

 ラオフェンちゃんが、ドーナツを頬張りながら、太陽みたいに笑う。

 その二人の言葉に、胸が温かくなる。

 

 でも、その一方で、リヒターさんはテーブルの隅で、難しい顔をして黙りこんでいた。

 そして、不意に、隣に座るフェルンちゃんに声をかける。

 

「おい、嬢ちゃん。ちょっといいか」

 

「はい、リヒター様?」

 

「あんたが使ってる杖、見せてみろ」

 

 リヒターさんは、フェルンちゃんから杖を受け取ると、熟練の職人の目で、その細部を検分し始めた。

 

「これはひどいな。二次試験で無理な使い方をしたのか。いや今までの蓄積か。魔力回路の一部が焼き切れかけてる。このままじゃ、いずれ満足に魔法も使えなくなるぞ」

 

 その指摘に、わたしははっとした。

 フェルンちゃんの杖は、ハイターから贈られた、大切な形見。

 それを、わたしが気づいてあげられなかったなんて。

 フリーレンも目を細めている。

 

 それにしても――リヒターさんは、試験の間のわずかな時間に気づいていたってこと。

 すごい。これがプロの魔道具職人。

 

「フリーレン。あんたほどの魔法使いが気づかなかったのか?」

 

「気づいてはいたよ。でもそれはフェルン自身が気づかなきゃ意味がない」

 

 そっか。フリーレンも気づいていたんだ。

 抗議しようかとも思ったけど、フェルンちゃんは静かに受け入れている。

 わたしがすべきは、現実的な対応策だ。

 

「リヒターさん! お願い、直して! お金なら、ちょっとはあるから!」

 

「買い替えたほうが早いぞ」

 

「これはダメ。フェルンちゃんにとって、ううん。わたしにとっても大事なものなの!」

 

「アナリザンド様……」

 

 わたしは、なけなしの金貨をテーブルに置いた。足りないなら、いくらでも出すつもりだ。

 一級魔法使いで、一流の魔道具の腕が、この程度の金額で足りるかはわからない。

 魔法使いの杖は、本来とても高いのだ。

 

「足りないなら、私も出すよ。杖は魔法使いにとって一番大事な武器だからね」

 

 フリーレンもお金をだしてくれるらしい。

 

 けれどリヒターさんはその金貨を一瞥すると、「いらん」と、ぶっきらぼうに呟いた。

 壊れているものを直す。それがリヒターさんの仕事のはず。

 

「直せないってこと?」

 

「そんなことは言ってない」

 

 リヒターさんは金貨には目もくれず、両腕を軽く掲げた。

 淡い緑色の魔法の光が満ち、黙々と杖の修復を始めた。

 その横顔は、いつになく真剣だった。

 

――それは、魔道具店の店主としての、彼の矜持。

 

 わたしは、その光景を、ただ黙って見つめていた。

 ドーナツの甘さとは違う、じんわりとした温かいものが、心の奥底に広がっていく。

 

「あのときの礼だ。その金は爺さんにでもめぐんでやれ」

 

 吐き捨てるような言葉。デンケンお爺ちゃんも言葉を返さない。

 

「ありがとう、リヒターさん」

 

 小さく呟いたお礼に、彼は答えなかった。

 ただ、カチャリ、という、心地よい部品のはまる音だけが、店内に響いていた。

 

 

 

 

 

 三日目の朝は、いつもより少し早かった。

 

 わたしはいつもとは違い、ひとりでカフェにでかけ、そこで妄想という名の返済計画を先生からもらった日記帳に書きなぐっていた。

 

 ファック! どう考えても、借金が膨れ上がるスピードが早い。言うまでもないが、借金には利子という上乗せが発生するのである。これでは、わたしが稼ぐスピードを遥かに凌駕してしまう可能性が高い。

 

――こうなれば、通貨価値を崩壊させる魔法(ハイパーインフレ)でも起こして経済を崩壊させるしか。

 

 そんな危険思想に染まりかけたとき、とことことこちらに歩いてきたのは、レンゲちゃんだった。隣には、神の信徒であるリーニエちゃんもいる。

 

「杖を、ここで……挿入する」ナニに!?

 

「神的発想。さすが神」

 

「剣だと危険。もう二度とウンコできなくなる」

 

「まさに」

 

 何の会話をしているんだろう。

 

「あ、アナリザンド」

 

 レンゲちゃんがわたしに気づいた。

 

「うん。レンゲちゃん。元気してた?」

 

「私は元気。でも、アナリザンドのほうが元気なさそう」

 

「そりゃそうだよ。だって200兆だよ。200兆の女。ゼーリエ先生って絶対愉悦ってるよね」

 

「それは、とてもよいこと」

 

 レンゲちゃんの魂が輝きだす。

 え、なにがトリガーだったの!?

 レンゲちゃんの思考は測りしれない。

 

「なにがいいの?」

 

「二百兆の借金を背負わされ、かつて愛した男――ハイターに裏切られ、絶対権力者のゼーリエに慰みものにされるヒンメル。心は嫌がっても身体は快楽に戸惑う。燃えるシチュ」

 

「レンゲちゃんの脳内で、先生ってどんな立ち位置なの!?」

 

「先生は、男の人。アナリザンドも知ってるはず」

 

「まあ、我が強いところは、そうかもしれないけど」

 

「ゼーリエ先生は究極の攻め属性!」「さすが神、慧眼」

 

「魂のおちん――」

 

「ストップ! ストッ~ップ! レンゲちゃん、お店! ここお店だからね!」

 

 わたしは慌てて、暴走しかける腐り神の口を両手で塞いだ。

 戦闘能力皆無なレンゲちゃんは、しょぼ魔力状態のわたしでも簡単に制圧できた。

 借り物の力を使うまでもない。

 大人しくなったレンゲちゃんからそっと手を離す。

 まるで爆弾みたいな子だと思う。

 この世界の基底をなす魔力という数字では測れない。

 

「でも本当に」レンゲちゃんは静かに言った。「200兆なんてただの数字だと思う」

 

 まるで世界の真理を語るかのように、時折レンゲちゃんは本当の神様になる。

 

「え……。200兆だよ?」

 

「アナリザンドが本当に嫌なら。その全部を消してしまえばいい」

 

 レンゲちゃんは、わたしの目を真っ直ぐに見つめる。

 神は魔族を恐れない。普通の人間なら、魔族の茫洋とした眼差しは恐怖の対象のはずだ。

 けれど、そうならない。

 レンゲちゃんは強い子だから。

 

「アナリザンドには、それができるはず。この世界の理をハッキングして、数字の概念そのものを書き換えることだって簡単。……前に教えてくれた。妄想の世界ならなんだってできる。なんだってしていいって」

 

 わたしは、息を呑んだ。

 レンゲちゃんが言っているのは、数年前のできごと。

 まだ幼かったレンゲちゃんが、自らの妄想の世界を否定して、自分を歪めさせようとした時。

 

 わたしが、彼女に言った言葉。

 

――いいんだよ、レンゲちゃん。妄想の世界に逃げたって。そこが、レンゲちゃんがレンゲちゃんらしくいられる場所なら。現実なんて、面白くなかったら、レンゲちゃんの好きなように書き換えちゃえばいいんだから。

 

「アナリザンドは、私に逃げ道をくれた」

 

 レンゲちゃんは続ける。

 

「妄想の世界に退避してもいいって。そこは、誰にも穢されない、私だけの聖域だって。だから、私もあなたに言う。二百兆の借金なんていうくだらない数字に、縛られる必要はない」

 

「レンゲちゃん……」

 

 わたしが、その言葉に何かを返そうとした、その時だった。

 これまで黙ってリンゴをかじっていたリーニエちゃんが、ふぅ、と息をついた。

 

「人間って、やっぱり面倒くさいな」

 

 その声は、いつも通り無機質で、感情を感じさせない。

 

「そうかな」

 

「レンゲの言う通り、二百兆なんてただの数字でしょ。おまえには力も権限もある。なのになんで、消せるはずの数字に振りまわされるのか、これがわからない」

 

 リーニエちゃんは、魔族としての絶対的な合理性で、わたしの矛盾を喝破したのだ。

 そのとおりだった。わたしは、二百兆の借金を消すことができる。

 ネットの管理者として、その権限を行使すれば、なにもなかったことにできる。

 でも、それをしない。

 

 なぜなら――。

 

「面倒くさいのが、人間だからだよ、リーニエちゃん」

 

 わたしは、力なく笑った。

 

 この、どうしようもない借金も、ゼーリエ先生との不器用な関係も、フリーレンとのくだらない競争も、その全てが、わたしをこの世界に繋ぎ止めている、

 

 面倒くさくて、でも、愛おしい()なのだから。

 飼われてるつもりも、去勢されてるつもりもないけどね。

 

 その答えに、リーニエちゃんは納得したのかしないのか、ただ小さく首を傾げるだけだった。

 

「そうしたいからそうしてるってこと? 馬鹿なのか、おまえ」

 

「そうだよ。きっと」

 

 カフェの窓から差し込む陽光が、そんな奇妙なわたしたちを、何も裁かずに照らしていた。

 

 

 

 

 

 カフェを出ると、まだ昼前だった。

 午前の空気は思ったよりも冷たかった。

 陽射しは柔らかいのに、風だけがやけに現実的だ。

 

「アナリザンドさん」

 

 呼び止められて振り返ると、そこにいたのはメトーデだった。

 相変わらず背筋が伸びていて、立ち姿だけで『ちゃんとした大人の女性』だとわかる。

 

「おはようメトーデ。どこかに行く途中?」

 

「はい。レンゲさんを送っていく準備をと思いまして」

 

 その言葉に、自然とレンゲちゃんのほうを見る。

 本人はといえば、店先の石畳をじっと眺めていて、あまり別れを意識していないようだった。

 

「レンゲちゃんの故郷って、北部高原を抜けたところにあるんだっけ。メトーデのところにも近いの?」

 

「そうですね。ここよりは近い場所です」

 

 メトーデは、一級魔法使いになるために、オイサーストにきたと言っていた。

 わたしに出逢ったのは偶然。いっしょに暮らし始めたのも、たまたまメトーデの趣味にわたしの容貌が合致しただけだといえるけれども。

 

 冬の間までという約束が、指先の感覚として思い出された。

 

「リーニエちゃんはいっしょについていくつもりなのかな」

 

「グラナト領に戻られるそうです。一度、伯爵様に報告をなされるとか」

 

 その言葉に、胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。

 

 あのリーニエちゃんが。

 あんなにもレンゲちゃんを最優先にしていた彼女が。

 それでも、自分の立場と責任の場所へ戻ることを選んだ。

 

 喜ばしいことのはずだ。

 魔族が自分の欲望じゃなくて、人間らしい所作を身に着けている。

 でも、わたしだけ置いていかれるみたいで。

 

「……ちゃんと、戻るんだね」

 

「はい」

 

 メトーデは静かに頷いた。

 

「それができるようになったのは、成長だと思います。魔族であっても、人であっても」

 

「メトーデも帰るんだよね」

 

「あらあら。そんなかわいらしく言われたら、帰れなくなっちゃいますよ」

 

「そうだね。ごめん」

 

「謝らなくてもよろしいのです」

 

「でも、みんな、偉いなって思って。わたしだけ居場所がないみたい」

 

 ぽろりと漏れた言葉は、独り言に近かった。

 

 メトーデは、わずかに微笑んだ。

 

「アナリザンドさんも、ですよ」

 

「え、わたしも?」

 

「アナリザンドさんは、いるべき場所に既にいらっしゃるんです」

 

「しがらみってやつかも」

 

「それを選び続けるのは、立派なことだと思います」

 

 評価として受け取るのは、少しむず痒い。

 でも、悪い気はしなかった。

 

 それぞれが、それぞれの道を選んでいく。

 同じ方向じゃなくてもいい。

 一緒にいなきゃいけないわけじゃない。

 

 そうわかっているからこそ、胸の奥が、少しだけ寂しい。

 

 でも同時に、思うのだ。

 

――みんな、ちゃんと生きてるな、って。

 

「時々は逢いに行ってもいい?」

 

「もちろんです。その時は、また抱きしめさせていただいても?」

 

「うん。いいよ」

 

 わたしは、きちんとそう言えた。

 

 

 

 

 

 四日目の朝は、ゼーリエ先生にもう一回挑戦しようかなって思ったけどやめた。

 

 借金自体は、レンゲちゃんやリーニエちゃんが言うように、無視してしまえばどうにでもなる。アナリザンド二十年債を発効するなんて手もあるかな。

 

 だから、わたしがゼーリエ先生の合格をもらいたいのは、たぶん別の理由だ。

 

「アナリザンド様。ラヴィーネ様とカンネ様がいらっしゃいましたよ」

 

 なんだか最近は、わたしに逢いに来る人が多いな。

 試験が終わったはずなのに、まだ終わった気がしない。

 

 また、女子会でも開きにきたのだろうか。

 カンネちゃんとラヴィーネちゃんは、一次試験でフリーレンと戦った仲間だ。

 実力及ばず、今回は二級の資格を得るにとどまったけれど、大健闘したと言えるだろう。

 カンネちゃんはわたしのことをお姉ちゃんだと慕ってくれてるけど、試験結果に貢献したのは、フリーレンのほうだと思う。ラヴィーネちゃんもカンネちゃんもフリーレンのことを師匠みたいに慕っている。

 

 どちらかと言えば、フリーレンに逢いにきたんじゃないだろうか。

 

 階下に行くと、ラヴィーネちゃんもカンネちゃんもいつもの恰好をしていて、その両手には紙袋がぶらさがっていた。

 

 うん。やっぱり女子会だね。

 

――アナリザンドの部屋。もとい、宿屋の一室。

 

 シュタルク君だけ、一部屋まるまる使うってひどくないって思うけれど、女の子はどうしてもという時以外は、男の子といっしょの部屋で寝てはいけないというフェルンちゃんの教えによって、そうなっている。

 

 見ようによっては、妹ハウスの完成だ。

 

 みんなはベッドと床に適当に散らばって、即席の女子会みたいな空気になっていた。

 小さめなテーブルの上には、カンネちゃんたちが持ってきたお菓子とお茶。

 もちろん、わたしも供出する。

 

 フリーレンは壁際で静かに座り、フェルンちゃんはその少し手前。

 向かいにカンネちゃんとラヴィーネちゃん。

 

 わたしは、なんとなく中央にいる。

 

「……ねえさ」

 

 カンネが、カップを揺らしながら言った。

 

「フリーレンが一級なのはさ、まあ、当然じゃん」

 

 フリーレンは答えない。

 

「でもさあ」カンネはちらっとフェルンを見る。「フェルンまで受かるの、なんか癪だなぁ」

 

 カンネちゃんの言葉には棘はない。

 ただ、ほんのりとした嫉妬心が感じられる。

 

 ラヴィーネちゃんが鼻で笑った。

 

「フェルンの実力もわからねぇうちは、まだまだだな」

 

「うっさいな!」

 

 カンネが即座に返す。

 

「でも」

 

 カンネちゃんは少しだけ間を置いた。

 

「……少し安心もしたんだよね」

 

「安心、ですか?」とフェルンちゃん。

 

「同じ世代が、ちゃんと前に行けたってわかったから」

 

 フェルンちゃんは何も言わず、ただ、ドーナツを口に運ぶ。

 

 沈黙が落ちた、そのタイミングで。

 

「ねえ」今度はカンネが、わたしを見る。「アナお姉ちゃんはさ」

 

「うん?」

 

「次も、受けるんでしょ?」

 

 部屋の視線が、いっせいに集まる。

 フリーレンは何も言わない。ただ、少しだけこちらを見ている。

 

「どうだろうね」わたしは、肩をすくめた。「受けないって決めるほど、割り切れてないかな」

 

「逃げない、ってこと?」

 

「うん。たぶん」

 

 カンネは少し考えてから、ふっと笑った。

 

「そっか安心した。でもさ。お姉ちゃんって一級魔法使いになんでなりたいの?」

 

 純粋な好奇心。他愛ないガールズトーク。

 わたしは無数の声の中から、正解らしい答えを選ぶ。

 

「ゼーリエ先生に褒められたいからだよ」

 

「えー、でもゼーリエ先生が褒めるって想像できないな。おまえごときが私に褒められるのかって言われそう。私が一級魔法使いになるよりイメージできないよ」

 

「おまえ、そんなこと言ってると、三年後も落ちるぞ」とラヴィーネちゃん。

 

「そんなこと言わなくてもいいじゃん。ラヴィーネのいじわる!」

 

「私たちじゃ、まだ追いつけないだろ。なぁ、フリーレン」

 

 パタンと、魔導書を閉じて。

 

 フリーレンが、最後に一言だけ。

 

「時間は、逃げないよ」

 

 その言葉を、誰も拾わなかった。

 でも、誰も否定もしなかった。

 

 部屋には、さっきより少しだけ落ち着いた空気が流れていた。

 

 

 

 

 

 五日目の午後。

 わたしは、あてどなくオイサーストの街を散歩していた。

 昨日、フリーレンが言った「時間は逃げない」という言葉が、まだ胸の奥で残響している。

 

 ふと、通りの向こうが少し騒がしいのに気づいた。

 

 人々が、露骨に顔をしかめ、あるいは怯えたように道を開けている。

 その中心にいたのは、見上げるほど巨大な黒い影――幻想鬼のサリーちゃんと、その隣を堂々と歩くエーデルちゃんの姿だった。

 

 そしてその後ろには、少し申し訳なさそうに歩くドゥンスト先生の姿。

 

「アナリザンドさん!」

 

 わたしに気づいたドゥンスト先生が、小走りに駆け寄ってきた。

 

「あの時は、本当にお世話になりました。お礼を言うのが遅くなり、申し訳ありません」

 

「ううん、気にしないで。ドゥンスト先生、二級昇格おめでとう。これからどうするの?」

 

「はい。私は、ブライさんのいる辺境の地へ向かい、共に修行をするつもりです。彼は百年と言われましたが、私は三年後、必ず戻ってきます」

 

 気弱そうに見えたドゥンスト先生の瞳には、かつてないほど強い光が宿っている。

 

「アナリザンドさんは、いかがなされるのでしょう?」

 

「うん――。わたしは、いつもと変わりないかも?」

 

 そう答えながら、自分でも少しだけ可笑しかった。

 

 だって、わたしは十億の人の力を借り受けることができる。

 魔力総量だけで言えば、既にゼーリエ先生よりもずっと強い。

 それに、わたしは、あんまり強くなりたくない。

 強すぎる力が恐怖を生むことを識っている。

 

「そうですか。アナリザンドさんらしいですね」

 

 ドゥンスト先生は柔らかく笑った。

 

「アナリザンドよ。奇遇じゃな」

 

 話が一区切りついて、エーデルちゃんが話しかけてくる。

 サリーちゃんの頭を撫でながら、こちらをじっと見ていた。

 周囲の冷たい視線など、全く意に介していない。

 むしろ、その異端者としての孤独を、王者のマントのように堂々と羽織っている。そして、サリーちゃんは、何の話かもわからないまま、エーデルちゃんに撫でられながら、静かに瞬きをしていた。

 

「エーデルちゃんはどうするの? すぐに協会で働くの?」

 

「いや、儂にはそんな暇はない。ゼーリエとの約束があるからのう」

 

 エーデルちゃんは、少しだけ目を細め、遠くの空を見上げた。

 約束ってなんだろう。

 そもそも、先生が、誰かと約束するという姿があまりイメージできない。

 

「ゼーリエは孤独じゃ。最強であるがゆえに、誰ともわかりあえん。王者とは、そもそも孤独な存在。だからこそ、あやつは探し求めている。己の孤独を癒す、対等な存在をな」

 

「……」

 

「儂ひとりでは無理じゃ。じゃが、それに並び立つ者を育てる土壌を創ることはできるかもしれんと、そう考えた。儂は、そういう学び舎を創る。気が遠くなるほど先の話じゃがな」

 

 人間の権能は時間という概念を操ることにある。

 千の秋を一日として感じ取れるのが人間の言葉だ。

 

「エーデルちゃんには、しっかり未来が視えてるんだね」

 

「そんなわけなかろう」すぐに否定された。「試行錯誤。模索の連続じゃ。どうやればいいのかもまったくわかってはおらん」

 

「そうしたいって気持ちはあるんだよね」

 

「無論。想いがなければ、どんな事柄も実現せぬ。じゃが――」エーデルちゃんはわずかに視線を揺らして、わたしを見た。「ヒントくらいは掴んでいるつもりじゃ」

 

「ヒントって?」

 

「おぬしじゃ、アナリザンド。おぬしの人を繋ぐ魔法があれば、儂の夢物語も実現できるかもしれん。どうじゃ――、おぬしも、一枚噛んでみんか? 儂の夢が実現すれば、おぬしの天文学的な借金も返済できるやもしれん」

 

 わたしはすぐには答えられなかった。

 

 エーデルちゃんの提案は、すごく魅力的だった。

 エーデルちゃんといっしょに未来を創り、いつかゼーリエ先生に並び立つ存在を生み出す。

 先生の孤独が少しでも癒されるなら、わたしもうれしい。

 

――でも。

 

 わたしの脳裏に浮かんだのは、ゼーリエ先生に褒められたくて、泣いてすがりついた、あの日のみっともない自分の姿だった。

 

 そして、フリーレンの、あの少しだけ困ったような優しい目。

 

 わたしは、ゆっくりと首を横に振った。

 

「ごめんね、エーデルちゃん。すごくありがたい提案だけど、やっぱり違うかな」

 

「ほう。なぜじゃ?」

 

「わたしは、先生に並び立つ誰かが見たいわけじゃない。わたし自身が、先生に褒められたいだけなんだと思う。とってもちっぽけな願いだけどね」

 

「そうか。おぬしは、案外……いや、誰よりも人間くさいな」

 

「え?」

 

「いや、独り言じゃ。達者でなアナリザンド。借金返済、せいぜい頑張るんじゃぞ」

 

 エーデルちゃんはそう言うと、踵を返し、再び堂々とした足取りで歩き出した。

 サリーちゃんが、すれ違いざまに、大きな手でわたしの頭をぽん、と撫でた。

 

「むぎゅ」

 

 言葉にならない、温かいエール。

 

 私は、三人の背中が確かな未来へと進んでいくのを、いつまでも見送っていた。

 

 わたしは、ゼーリエ先生の何になりたいのだろう。

 

 

 

 

 

 六日目。

 わたしは、答えを探すように街中を練り歩く。

 

 残された時間はあとわずか。わたしはどこか焦ってるみたい。

 魔族の合理性で考えれば、そんな概念は捨象してしまえるはず。

 

 わたしは何も選ばなくていいし、どこにも行く必要はない。

 何も求めず、ただひたすら反射的な行動を繰り返すのが魔族の特性だ。

 今のわたしは、どこか不具合があるみたい。

 

 そんな折、細い脇道の向こう側から歩いてくるラント君とユーベルちゃんの姿が見えた。ユーベルちゃんは下から覗きこむようにして、ラント君を見ている。ラント君はすごく迷惑そうだったけど、そのことをおくびにも出さず、ひたすら歩みを進めている。

 

 軽くストーカー案件だった。

 

 やがて、わたしとの距離が近づいた。

 

「お、アナちゃんじゃん。200兆の女になったんだってね。ウケるんだけど」

 

 先に話しかけてきたのは、ユーベルちゃんだった。

 

「そんなイジワルな言い方しなくてもいいじゃない」

 

「あはは。アナちゃんって、本当泣き虫だよね。そんなにかわいいから、壊したくなっちゃう人って多いんじゃない?」

 

 泣くぞ。ピーピー泣くぞ。

 

 もちろん、ユーベルちゃんに悪意がないことはわかってる。

 彼女はいつだって自然体だし、究極的に言えば、他人の価値観に興味がないのだ。

 自分の価値観にすら。だから、共感できる――。

 曇りのない鏡みたいなもの。

 

「まあ、私も鬼じゃないし――。アナちゃんが何を迷ってるか知らないけどさぁ。ゼーリエ先生がいくら怖いからって、媚を売ることないんじゃない?」

 

「媚なんて、ちょっとしか売ってないよ」

 

「本当に?」

 

「本当に」嘘はついていない。

 

「だったら今度、どうやって200兆の借金を踏み倒すか、作戦会議しよーよ」

 

「ユーベルちゃんになんの得があるの?」

 

「べつにぃ。おもしろそうだっただけだし。アナちゃんがゼーリエ先生にズタズタに引き裂かれるところ、見たいかなって」

 

 この子の価値観、壊れちゃってる!

 

「ラントくぅん」

 

 わたしは傍らで無言のまま立っていたラント君に助けを求めた。

 他の誰にも秘密だけど、ラント君はわたしがマンガという概念を教えた初めての弟子だ。

 そこには切っても切れない絆みたいなものがあるはずだ。

 ラント君がドライすぎて、ほとんど感じたことはないけれど。

 

「僕も、この女と同意見かな。業腹だけどね」

 

 ら、ラント君!? どうして! あなたの唯一の先生じゃなかったの!?

 

「師だから、絶対に敬わないといけないなんて前時代的だからね。僕も一級魔法使いになったわけだけど、ゼーリエのことは、せいぜい利用できるところは利用しようと思っている。君がゼーリエの考えに盲目的に従う理由なんて、ないと思うけど」

 

「まあ、確かに――そうだけど」

 

 わたしが先生に従う理由はない。

 ユーベルちゃんが言うように、感情的にも。

 ラント君が言うように、論理的にも。

 

 でも。

 

「わたしがそうしたいの」

 

 わたしは小さな欲望を口にした。

 

「ふぅん。まあ好きにすればいいんじゃない」

 

 ラント君の言葉はZ世代を超えて、もはやZ戦士だ。

 下手すると、フリーレンより塩対応。

 

「まあ君の配信はおもしろいし、結果くらいは見ておくよ。チャンネル登録はまだしないけど」

 

「アナちゃんってさぁ」ねっとりユーベルちゃん。「ゼーリエ先生のこと、本当好きだよね」

 

 面食らった。

 そんなの、当たり前すぎて、逆に思いもよらなかったからだ。

 そっか。わたしって、先生のことが好きなんだ。

 

 だから、褒めてもらいたいのかな?

 

 

 

 

 

 六日目の夕暮れ時。

 広場にあるベンチで、わたしはひとり、ぼーっと道行く人を見ていた。

 ぼんやりと物思いにふける。

 

「好き、かぁ……」

 

 ゼーリエ先生のことが好きなのは間違いない。

 でも、それを言葉にすると、なんだか、心をもてあましそうになる。

 よくわからないモヤモヤした感情が湧き出てきて、わたしの身体的反応はエラーを返す。

 わたしの中にある<わたし>、十億の声も、答えを出せない。

 それは、わたしだけのクオリアだからだろう。

 

「なに黄昏てやがんだ、アナリザンド。らしくねぇな」

 

 背後から声をかけられた。

 振り返ってみると、ヴィアベル君。そして、エーレちゃんに、シャルフ君の三人だ。

 わたしは立ち上がって、三人に向きなおる。

 

 ヴィアベル君はいつもどおりの不遜な声で。

 

「借金が大変らしいな。おまえが軍属になる気なら、部下に加えてやってもいいぜ」

 

「わたしは戦わない主義なの」

 

「だろうな。聞いてみただけだ」

 

「アナ様。俺でよければ……少しは蓄えがあるが」とシャルフ君。

 

 マジかよ。修行僧みたいな君がわたしにスパチャしてくれるとは!

 嬉しい。すごく嬉しいよ。

 

「シャルフ。あんた、病が悪化してるわよ」とエーレちゃん。

 

 いつもどおりの、安定したパーティプレイだ。

 

「まったく、男どもったら――」

 

 エーレちゃんは、ヴィアベル君たちをあしらいながら、わたしをベンチに座らせる。

 

 エーレちゃんは、この世界では稀有な存在。

 ネットを創ったその日から、わたしは誰かの姉でありつづけた。

 そんななかで、エーレちゃんだけは友人になってくれた存在だ。

 そんな友人が、わたしに語りかけてくる。

 

「……らしくないわね。なんか考えごと?」

 

「うん。まあ……なんというか」

 

 なんというか、だ。

 うまく言葉にできないから、事実だけを素直に出力する。

 

「わたしって、ゼーリエ先生のことが好きなんだなって、さっき気づいて」

 

 その告白に、エーレちゃんは驚きもしない。

 理知的な眼差しが、とても近い距離で、わたしと結ばれている。

 

「で、どういう好きなの?」

 

「え、どういうって……?」

 

「いろいろあるでしょ。好きにも」

 

「……」

 

 エーレちゃんは乙女ゲームの創始者だ。

 彼女はいくつものルート分岐を提示する。

 

「守ってほしい感じ?」それはあるかな。

 

「褒められたい感じ?」それもある。

 

「一緒に並びたい感じ?」それはちょっと違う。

 

「置いていかれたくない感じ?」そうかも?

 

「見てほしい感じ?」それは感じる。

 

「名前を呼んでほしい感じ?」うん。

 

「ずっと覚えていてほしい?」うん。いや。違うかな。過去にはなりたくない。

 

 わたしは言う。

 

「よくわからない、かな?」

 

「そう……。あなたって、すごく乙女チックよね。ちょっと羨ましいくらい」

 

「そうかな?」自分のことはよくわからない。

 

「私が言ったら嘘になるけど、あなたって、先生に大切にされたいんじゃない?」

 

 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。

 エーレちゃんに定義されたら、それはその瞬間に、エーレちゃんの言葉になる。

 

 わたしは答えを出せないまま、次の日を迎えた。

 

 

 

 

 七日目の朝。

 最後の試験がようやく終わりを迎える日。

 

「今夜特権の授与があるのですが、同伴者がいてもいいそうです」

 

 フェルンちゃんが、ベッドに座りながら、同伴を求めていた。

 未来に対する不安と期待というより、単にわたしを心配してのことだと感じる。

 フェルンちゃんには、ここ一週間ほど、ずっと気弱な姿を見せてきたから。

 

「せっかくですし、皆でいっしょに行きましょう」

 

 皆のなかには、シュタルク君やわたし――そして、フリーレンも含まれる。

 

 フリーレンは突然エルフ顔になり、消極的に拒絶している。

 なんで? フリーレンは受かったのに。

 

「フェルン、私は、ゼーリエに既に魔法をもらってるんだ。だから、行っても意味ないよ」

 

 そして、突然の告白。

 叱られるのを恐れて、罪を隠していた子どものように、フリーレンの顔がしおれている。

 

「え、そうなのですか?」

 

「うん……まあね」

 

「どんな魔法を?」

 

「怒らないでよ。……魔族をピーピー泣かせる魔法」

 

 マジかよ。このエルフ、わたしをガン泣きさせたのは魔法の効果だったのか。

 あの時の恨みはらさでおくべきかぁ!

 

「この! うんこエルフ!」

 

「アナリザンド様。お言葉が汚いです」

 

 フェルンちゃんにたしなめられちゃった。シュン。

 

「フリーレン様も、アナリザンド様を泣かせる魔法を選ぶなんて、もう少しプラスになるような魔法をどうしてお選びできなかったんですか? いくら食べても太らない魔法とか、いろいろあるじゃないですか!」

 

 フェルンちゃん、やっぱり良い子。

 ちょっと、ドーナツ攻めはやめとこうかな。

 叱られたフリーレンは、自嘲気味に笑った。

 

「本当のところは、そんな魔法は存在しないよ。矛盾した魔法をあえて選んだからね」

 

 うーん。そりゃそうか。

 魔族を泣かせるなんて、存在様式からしておかしいもんね。

 わたしがすぐにピーピー泣くのは、この際、女神様の祭壇に飾っておく。

 

 わたしが泣く行為を模倣できるのは、人間の無意識を借り受けてるからこそできることだし、たぶん他の魔族にはできないことだから。

 

 おそらく、人間の魔法使いも苦手だと理解している。人間になればなるほど魔法使いとしては死んでしまうというのが、この世界の理なのである。

 

「姉ちゃんだけ。ダメだったんだよな……」シュタルク君がわたしを痛ましそうに見ている。

 

 この中で、不合格なのはわたしだけ。

 

「うん。不甲斐ないお姉ちゃんでごめんね」

 

「そんなことねえって。魔法のことはわかんねーけど、姉ちゃんを落とすなんて、そのゼーリエって人、見る目がねえんだよ。べつにフェルンにつき合うことねーんじゃねぇか?」

 

「んぅ……そんなことはない、かな。フェルンちゃんが合格したのはうれしいよ」

 

「姉ちゃんがそう言うなら、べつにいいけどよ」

 

 シュタルク君は、わたしという存在を認めてくれる。

 それはうれしい。かわいい弟がかわいい。

 でも、わたしの試験はまだ終わってない。だから、少し物足りない。

 

「では、行きましょう」

 

 フェルンちゃんの声にしたがって、わたし達は大陸魔法協会へと向かった。

 

 

 

 

 

 結論から言うと、わたしたちは門前にすら立てなかった。

 

 大陸魔法協会、ゼーリエ先生への門はフェルンちゃんだけが通され、フリーレンは、あのメガネをかけた生真面目な受付のお姉さんに突き放された。

 

――千年の出禁。

 

 はじめから、フリーレンは知っていたらしい。

 知っていたのに言わない。そんなフリーレンは、当たり前のようにフェルンちゃんに叱られ、これ以上なくしょんぼりしていた。

 

 もちろん、不合格通知を言い渡されているわたしも、先生に逢う資格はない。

 

 シュタルク君は、わたしたちにつき合い、大陸魔法協会の建物前の広場で、フェルンちゃんの帰りを待つことになったのである。

 

 特権が渡されるのは夜。

 無為な時間が流れていく。

 

 そして夜のとばりが降りる頃。

 その人が、ぬるりと現れた――。

 

 レルネン先生。最初の一級魔法使い。

 ゼーリエラブな、おそらく最も優秀な人間の魔法使いである。

 

「フリーレン様」

 

「誰?」とシュタルク君。気配もなく現れたレルネン先生に、警戒度をあげている。

 

「大陸魔法協会の人だね」

 

「先生、どうしたの。こんな夜更けに……。もしかして、フリーレンを倒して悪名を遺すとか言わないよね」

 

 昔、先生には襲われたことがある。

 ゼーリエ先生の記憶に残りたいという切実な思いから、わたしアナリザンドを滅しようとした。

 そうすれば、死後も名は残るというのがレルネン先生の考えだったからだ。

 

 フリーレンも打倒すれば、名は残るだろう。

 だから、少しだけ嫌な予感がした。

 もちろん、今のレルネン先生はそんなことはしないって断言できる。

 わたしと、ちゃんと話し合って、握手できた。

 

 悪名を残すだなんて悪手。とるはずがない。

 

 でも――それもわたしの勝手な考えだった。

 

「フリーレン様。貴女様のお耳を拝借したく――」

 

「どういう意味?」

 

「文字通りの意味です」

 

「うーん」フリーレンは唸る。

 

 考えてる。意味を。魔族よりも難解な人間の言葉を。

 そして、フリーレンはレルネン先生の言葉を魔法使いの言語に翻案した。

 

「やっぱり見えているね。魔力の揺らぎが」

 

 レルネン先生は、フリーレンの魔力制御を見抜いている。

 そのことを、フリーレンは見抜いている。

 

「とんでもない手練れだ。平和な時代には似つかわしくないね」

 

「そうですね。私は戦いしか知らない時代遅れの魔法使いです」

 

 シュンとした坊やのように、レルネン先生は言った。

 

「ゼーリエ様にもよく言われます。魔王軍との戦火の時代に生まれていれば、名だたる英雄たちとともに、その名を歴史に遺したであろうと……」

 

「そう。それで、私になんの用?」

 

「私が老いて死ねば、ゼーリエ様が生きた証が、また一つ消えることになります」

 

「……本当に、そう思っているの?」

 

「そう思っておりました。アナリザンド様と逢うまでは!」

 

 レルネン先生が、杖を出現させる。

 乙女のパワーが、杖先にこもる。

 黒い閃光は、放たれれば通常のゾルトラークの三倍の貫通性能を誇る。

 平和な時代には、あまりにも過剰な魔力だった。

 

「今では、私も歴史に名を残せるのではないか、と淡い希望を抱いております。アナリザンド様とともに、ひとつの傑作を創った後、私はゼーリエ様に褒められました。ですが……実のところ、私にはひとつの不満がくすぶっております。私は、人の記憶や感覚を()()だけでなく、辿()()()形で残したいのです」

 

 ああ、やっぱりレルネン先生は、すごい魔法使いだ。

 こんなにも一途で。強い。

 先生は()()()()()を創ろうとしているんだ。

 

「書物でも像でもなく。触れ、聞き、感じることで、その存在を追体験できるような――そんな魔法を――私はゼーリエ様に捧げたい。そのために、誰も触れることが叶わなかった、エルフの耳の感触を、あなたから拝借する」

 

「本当に文字通りの意味だったわけだ。でも、私はゼーリエじゃない。ゼーリエの代わりにはなれないよ。わかってるでしょ?」

 

「わかっております。ですが、人間とはオルタナティブを求めるもの。手合わせを願えますか。フリーレン様」

 

 すごく変態だけど、すごく紳士的だ。

 レルネン先生の気迫に、あのフリーレンがちょっとだけ引いてた。

 

 そして――、溜息。

 

「時間の無駄だよ」

 

 だから、戦闘にはならない。

 レルネン先生も知っているから。

 フリーレンも知ってるから。

 そして、わたしも。

 

「触れてなくても覚えている。遺さなくても消えていない」

 

 それが、エルフの本性。エルフの在り方。

 フリーレンも、ゼーリエ先生もたぶん同じ。

 

「どういう意味でしょうか」

 

「歴史に名を残す必要なんてないよ。ゼーリエはちゃんと覚えている」

 

 どくん、と小さな鼓動がした。

 

 それから後。

 レルネン先生は、何も奪わず、何も残さず、夜の闇に溶けていった。

 まるで最初から、そこにいなかったみたいに。

 

 沈黙が落ちる。

 

「……変な人だったな」

 

 シュタルク君が、ぽつりと言った。

 

「うん、不器用な人間だよ」

 

 フリーレンは、どうでもよさそうに答えた。

 

 それ以上、誰も何も言わなかった。

 言えなかった、のかもしれない。

 

 わたしの胸の奥で、さっきの「どくん」が、まだ残響している。

 意味は、まだわからない。

 でも、消えない。

 

 そのとき協会の扉が、静かに開いた。

 

 フェルンちゃんだ。

 

 夜の光を背に、ひとりで歩いてくる。

 足取りはいつも通りで、顔色も変わらない。

 けれど、空気が違う。

 

「おかえり。思ったより遅かったね」フリーレンが言った。

 

「ただいま戻りました」

 

 フェルンちゃんもいつものように応える。

 

「フェルン。どうだったんだ?」

 

 シュタルク君は、魔法をよく理解していない。

 けれど、フェルンちゃんが褒められているってことは、きちんと理解している。

 

「特権は受け取りました。ゼーリエ様はご不満そうでしたけれど」

 

 そして、わたしに視線が向く。

 

 これで、試験は終わりだ。

 

 わたしの中の答えも出せないまま――ここで終わる。

 

「ゼーリエ様が……」

 

 フェルンちゃんが、口を開く。

 

「アナリザンド様を呼んでこい、と」

 

「先生が?」

 

「はい。最後の回答を聞くとおっしゃってました」

 

「うん。わかった。ありがとう、フェルンちゃん」

 

「がんばってください。アナリザンドお姉様」

 

 

 

 

 

 夜の大陸魔法協会は、昼よりもずっと静かだった。

 人の気配が薄れ、石の床が、建物そのものの呼吸を取り戻している。

 

 玉座の上に、ゼーリエ先生がいる。

 

 見た瞬間、わたしは理解してしまった。

 この人は、ずっと前から、わたしを待っていたのだと。

 

「遅い」

 

 それだけ。

 呼びつけておいて、それだけ。

 

 その表情は、虚無に等しく、どんな感情も反射させない。

 読み取れない。ネットから抽出したどんな言葉もゼーリエ先生の魂を表現できない。

 

 先生が怖い。

 逢ったことないけど、たぶん魔王よりも、ずっと――。

 

 それでも、わたしは一歩足を踏み出した。

 

 たぶん、わたしが不合格という結果は揺らがない。

 先生は裁定を終えていて、ただ確認のために、わたしを呼んだのだろう。

 

「おまえは、私に何を望んでいる?」

 

 最初と同じ問い。

 わたしは答えを出せないままだ。

 

 だから、過程を説明する。

 行きつかなくても、もしかしたら出口が見えてくるかもしれない。

 そんな悪あがきにも似た連続試行。

 

「先生に褒められたいからって答えは嘘じゃないよ。先生は、人類の最高峰。人類の極致ともいえる存在だよね。そんな先生に認められたら――、たぶん、わたしはここにいていいんだって思えたから」

 

 先生は応えない。

 

 黄金の瞳はわたしを見ているのに、そこには肯定も否定もない。

 ただ、待っているだけだ。

 

――違う。

 

 待っているのですらない。

 置いている。わたしを、ここに。悠久の時の中に置き去りにしている。

 

 だからわたしは考えるしかなかった。

 

 この七日間で、出逢った人たちのことを。

 

 デンケンお爺ちゃんたちは、強さを誇らなかった。

 代わりに、責任を引き受けた。ただ、自分であることに誇りを持っていた。

 自分の判断で誰かが傷つくことを、魔法よりも先に、当然のこととして受け入れていた。

 

 カンネちゃんたちは、人の名前を呼ぶときがいちばん真剣だった。

 ラヴィーネちゃんも独りで立つより、誰かと並ぶことを選ぶ。

 それを弱さだと言う人は、きっと誰かの隣に立ったことがない。

 

 レンゲちゃんたちは逃げてもいいって教えてくれた。

 リーニエちゃんは面倒くさかったらやめてもいいと。

 メトーデは、ただ、抱きしめて、わたしがここにいてもいいと。

 

 エーデルちゃんたちは、いつも一歩引いた場所にいた。

 自分の欲望すら、感情としてではなく、構造として測っていた。

 どう見られるか。どう誤解されるか。

 その全部を計算したうえで、それでも欲しいものを手放さなかった。

 

 ユーベルちゃんたちは、先生が絶対の存在じゃないと教えてくれる。

 自分のために利用する。そんな中で誰かに利用されてもいいと考えている。

 

 ヴィアベル君たちは、世界を信じていなかった。

 誰よりも世界を、人を信じたかったから。

 だからこそ、強さを求めた。

 

 特にエーレちゃんは、まっすぐだった。

 取り繕わない。

 遠回しにもしない。

 

 実力を見てほしい。

 正当に評価してほしい。

 

 その欲望を、恥じなかった。

 理想でも、自己正当化でもなく、

 測られること、そのものを引き受けていた。

 

 それは、甘えのない肯定だった。

 努力すれば、届くかもしれないという乙女のような残酷な希望。

 

 そして、フェルンちゃん――、わたしの妹。

 

 フェルンちゃんは、わたしを説得しなかった。

 引き留めもしなかった。

 逃げろとも、行こうとも言わなかった。

 

 ただ、静かに側にいて、同じ方向を見ていた。

 

 選択は、あなたのものだと。

 どこへ行くかも、誰に認められるかも。

 誰を愛し、誰に愛されるのかも。

 

 その沈黙は選択する力が、最初からわたしにあると信じている人の態度だった。

 

 フリーレンも同じかもしれない。

 翆色の瞳が、そう告げている。沈黙が雄弁に語っている。

 人の営みをずっと観測し続けた孤独の存在が、ただ人の存在を忘れない。

 

――みんな違っていた。

 

 強さの形も、弱さの置き方も。

 前に出る人も、誰かの背中を支える人もいた。

 

 でも――、ひとつだけ、共通していた。

 

 誰もが、自分の居場所を、世界の中に求めていた。

 

 戦うことで。

 並ぶことで。

 認められることで。

 逃げてもいいと、許されることで。

 ただ側にあることで。

 

 方法は違っても、

 欲望の向きだけは、同じだった。

 

 世界の誰かに「あなたにここにいて欲しい」と言ってもらえる場所を探していた。

 

 わたしは。

 

 わたしは、少しだけ違うのかもしれない。

 

 人の子に混ざりたいわけじゃない。

 同じだと、言ってほしいわけでもない。

 

 魔族で。

 合理で。

 間違った存在で。

 

 そのままで、それでも、ここに立っていたい。

 

 オレオール先生に認められても、女神様に自分の子だと言ってもらっても、その欲望を止めることはできない。

 

 人の子の世界に、席をひとつもらいたかった。

 

――人の子に人の子として認められたかったんだ。

 

 だから、わたしは、この人に向かってしまった。

 

 人類の最高峰。

 歴史の生き証人。

 

 この人に「良い」と言われたら、

 わたしは、わたしで在っていいと、信じられる気がしたから。

 

 それが理由。それが動機。

 それが、わたしの欲望。

 

 ゼーリエ先生は、何も言わない。

 

 肯定もしない。

 否定もしない。

 

 借り物の言葉では、答えるに値しないと、そう言われている気がした。

 

 黄金の瞳が、静かに告げる。

 

――それで。

 

「おまえは何を望む? どんな魔法でも一つだけ授けてやろう」

 

 試験は最終シーケンスへ向かっている。

 

 

 

 

 

 黄金の瞳が、わたしを見下ろしている。

 測っているわけでも、裁いているわけでもない。

 

 ただ、待っている。

 

 この問いに――。

 もう一度、言葉を与えるかどうかを。

 

 喉が鳴る。

 

 ここまで考えておいて、ここまで辿り着いておいて。

 それでもなお、正解なんてわからない。

 

 たぶん正しい答えなんて、最初から存在しない。

 

 ゼーリエ先生は、望む魔法をくれると言った。

 どんな魔法でも、一つだけ。

 

 それは祝福で、同時に呪いだ。

 

 世界を変える魔法も言える。

 歴史に名を残す魔法も言える。

 人類を救う魔法だって、きっと許される。

 

 でも。

 

 それらは全部、

 もう誰かが言った言葉だ。

 

 英雄の言葉。

 賢者の言葉。

 後世に整えられた、立派な欲望。

 

 借り物だ。

 

 それを口にした瞬間、わたしはまた例外(アノマリー)であり続ける。

 

 人の子の言葉を借りて、人の子のふりをして、理解されたふりをするだけだ。

 

――嫌だ。

 

 それだけは、嫌だった。

 

 胸の奥で、あの『どくん』が、もう一度鳴る。

 

 わたしは、息を吸って少しだけ、肩をすくめた。

 

「……先生」

 

 自分でも驚くくらい、

 声は軽かった。自分が消えちゃいそうなくらい。

 

「わたしが欲しい魔法ってね。たぶん、すごくくだらないよ。先生、笑っちゃうかも。それとも怒っちゃうかな。できれば、あんまり叱らないでほしいな」

 

 ゼーリエ先生は、眉一つ動かさない。

 

 だから、続ける。

 

「魔族を――」

 

 一瞬、ゼーリエの気配が揺れたのがわかった。

 でも、もう止まらない。

 

「にっこり笑わせる魔法が、欲しい」

 

 沈黙。

 

 大陸魔法協会の夜が、さらに深く沈む。

 

 笑われるかもしれない。

 一蹴されるかもしれない。

 

 魔族を笑わせる魔法なんて、先生が好きな戦争でも、先生が嫌いな救済でもない。

 

 効率も、合理も、ない。

 勝利すら保証しない。

 

 ただ――笑わせるだけだ。

 

「殺さない。支配もしない。ただ、ちゃんと笑わせる」

 

 声が、少しだけ震える。

 

「自分が何をしたのか。何を与えたのか。何を奪ったのか。それを逃げずに感じさせる魔法」

 

 魔族は合理的だ。

 痛みを切り捨て、感情を不要とする。

 

 だからこそ、笑うという行為そのものが、例外だ。

 

「それは、きっと残酷で非効率で、先生がいちばん嫌いな魔法だと思う」

 

 それでも、顔を上げる。

 

「でもね」

 

 黄金の瞳を、真正面から見る。

 

「わたしは、魔族で、間違った存在で、それでも人の子の世界に立ってきた。くだらない話をたくさんして、時折、星でもいっしょに眺めて、ただ側にいただけなんだ」

 

 誰かを理解したくて。

 理解されなくても、諦めきれなくて。

 

「だから、せめて」言葉が、自然にこぼれた。「笑うことだけは、人と同じでありたかった」

 

 沈黙。

 

 相変わらず、ゼーリエ先生は何も言わない。

 

 肯定も、否定もない。

 

 それでも、もう逃げなかった。

 

 わたしは、小さく笑って付け足す。

 

「……それでさ」

 

 子どもみたいな、情けない声で。

 

「こんな魔法を欲しがるわたしでも」

 

 一瞬だけ、視線が揺れる。

 

()()()()――先生に、褒めてほしいなって思うんだ」

 

 評価でも、称号でもない。

 

 ただ一言でいい。『それでいい』と先生に褒められたい。

 

 ゼーリエ先生の黄金の瞳が初めて、ほんのわずかに――。

 揺れた気がした。

 

 やがて、ゼーリエ先生は重々しく口を開く。

 わたしの呼吸が停止する。ただ祈り待つ。

 

「アナリザンド。おまえが求める魔法を、私は与えることはできない。その魔法は――人間になる魔法の別称だ。貴様は既にその魔法を持っている。同じ魔法を二度与えることはできないからな。魔法学校の一年生でもわかる、基礎の基礎だ」

 

「うん。わかってる。それでも、先生に褒めてほしい……」

 

「不合格――、と言いたいところだが、私はこの試験を相対評価だといったな」

 

 ゼーリエ先生は、玉座から立ち上がった。庭園に向かう。

 ついていこうとしたが、視線だけで止められた。

 

「この試験では、合格を与えすぎた……。歴代の私の弟子たちと比較してみれば、私からしてみても甘い裁定だったかもしれない。アナリザンド、おまえは補欠合格ということにしておこう。だが、借金は減らさんぞ。まだ、なにもかも足りん」

 

「いいの?」

 

「私が()()()()()と言っている。不満か?」

 

「ううん」

 

 かくして、人の子アナリザンドは、ゼーリエ先生の人間試験に合格したのだ。

 

 あとから、みんなには『一級魔法使い(仮)』って何って言われたけど。

 

 わたしは、にっこり笑っている。

 

 世界のどこかで、魔族が笑う。

 

【アナリザンド:補欠合格(ただし、一級魔法使い(仮)の資格を授与される)】

 

 

 

 




NKT……長く苦しい戦いだった。
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