魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
ザオム湿原に、軽快な電子音とシュタルク君の熱狂的で無邪気な声が響いていた。
「うおっ、あっぶね! よっしゃ、避けた! いまだ撃てぇ! うらぁぁぁあ、撃破ァ!」
シュタルク君は、焚き火のそばで胡坐をかき、目の前に浮かべた小窓に熱中していた。
魔力をかためたコントローラーを握り締め、ゲームに熱中していたのだ。
朝ごはんを軽く済ませたあとの休憩時間での出来事である。
わたしはそんなシュタルク君のことを優しく見つめている。
シュタルク君の単純な構造は、はっきり言えば癒し成分たっぷりのワンちゃんみたいな感じ。
どうして、そう思うのかは昨日の出来事が脳裏に刻まれているからだろう。
昨日のフェルンちゃんの配信はわたしの精神力をゴリゴリ削った。
まさかあんなに超自我おっぴろげの配信がおこなわれるとは思わなかったからだ。
先生たちにとっては、一割かせいぜい二割くらいの人しか理解できてなかったと思うんだけど、フェルンちゃんの精神構造は、桜の木の時と変わっていない。言葉の世界とどこか噛み合っていない精神構造を、わたしとよく似たやり方でどうにか保っている。つまり、フェルンちゃんは人間の語彙で表現するなら、立派な狂人なのである。かわいいけどね。
まあ、それはそれとして。
シュタルク君の話だ。
小窓の中では、可愛らしいドット絵のアナちゃんが、画面を埋め尽くす敵弾をかいくぐりながら、ゾルトラークを乱射している。レルネン先生が暇つぶしに作った、ぴこぴこシューティングゲームだ。ラスボスのフリーレンは鬼畜難易度のクソゲー(誉め言葉)です。
シュタルク君は、こういう単純なゲームがことのほか好きらしい。
「姉ちゃん! このゲーム、最高傑作だな。俺、もうステージ5まで来たぜ!」
「力抜いて創ったのが、世の中に広く受け入れられるってことよくあるよね」
レルネン先生の欲望が、すっかり抜かれていて、そこがよかったのかもしれない。
まあ、鬼畜ラスボスフリーレンを倒したら、アナちゃんはゼーリエ先生に褒められるんですけどね。そこが、レルネン先生らしい哲学? なんですけどね!
わたしは、優雅に紅茶を啜りながら、弟君の賞賛に微笑ましい気持ちになっていた。
その平和な光景に、最初の不協和音が混じったのは、その時だった。
「ん? あれ……おかしいな……」
シュタルク君が、首を傾げる。わたしは気になって小窓を覗きこんだ。
彼の操る自機の動きが、ほんのわずかに、カクついている。
「なんか……ラグがひどいぞ。姉ちゃん、ネットの調子悪いのか?」
「えー? そんなはずないけどなぁ。わたしのネットはいつでも超高速快適空間だよ?」
わたしが小窓でサーバー状況を確認しようとした、その刹那。
シュタルクの画面に表示されていた自機が、一瞬完全にフリーズした。
「うお!」
次の瞬間、敵弾の雨に飲み込まれて爆発四散した。
アナちゃんが死んだ!
【なんだそのざまは! 不合格だ。出直してこい!】
ゼーリエ先生のドット絵ミニキャラが無慈悲に告げる。
「あああああ! 俺のハイスコアがぁぁぁ!」
シュタルク君が天を仰いで絶叫する。
わたしは、眉をひそめた。
おかしい。わたしのネットで、こんな致命的なラグが発生するなんてありえない。
いったい何が……?
わたしの視線は、自然と右に向けられる。
少し離れた場所で何かを探すように、草場をごそごそと漁っているフリーレンの姿。
「……あった」
ぽつりと、満足げな呟きが聞こえる。
フリーレンは、ゆっくりと立ち上がると、泥のついた手を払うのも構わずに、こちらへと歩み寄ってきた。なんだかいつもと違う微笑を浮かべているような――。
その掌の上には、水晶みたいな透明で綺麗な、拳ほどの大きさの鉱石が乗せられていた。
本能的な恐怖が、一瞬でわたしを支配する。
それは――その鉱石だけはダメだ。
わたしの中の<わたし>も最大限の警戒アラートを鳴らしている。
フリーレンが手に握る鉱石から目を離せない。
「フリーレン、それ……」
「封魔鉱。この湿原は、昔から良質なのがたまーに採れるんだよね」
――封魔鉱。
その言葉に、わたしの背筋を、ぞくりと悪寒が駆け抜けた。
体中が小刻みに震えだす。
「どうしたんだ、姉ちゃん。熱でもあるのか?」シュタルク君が心配してくれてる。
ごめんね。お姉ちゃん、それどころじゃない。
「これはね。シュタルク。魔法を無効化する性質がある石なんだ。ちなみに物凄く高価な石としても知られていて、これくらいの大きさで、この純度だったら豪邸が買えるね」とフリーレン。「おまえが好きそうな石だよ。アナリザンド」ニチャァ。
「へ、へぇー、そうなんだ! 珍しい石だねー! でも、わたし、そういうの間に合ってるかなー、なんて!」
お金になるというのは、もちろんわたしにとっては魅力的ではある。
だが、命か金かと言われて、金を選ぶ馬鹿はいない。そういう話だ。
わたしは、必死に平静を装い、へらへらと笑いながら後ずさる。
しかし、フリーレンは逃がしてくれなかった。
彼女は、猫が鼠を追い詰めるように、じりじりと距離を詰めてくる。
恐怖にカチコチに固まるわたし。足がもつれて、転んで。
そして何も言わずに、手に持っていた封魔鉱をわたしのほっぺたに……。
ぴとっ。
「――――――ッ!?」
瞬間、全身から力が抜け、視界と思考がぐにゃりと歪む。
わたしの中の<わたし>との接続が強制的に遮断され、世界から切り離されたような、絶対的な孤独感と無力感が全身を襲った。まるで、魂を半分もぎ取られたような感覚。
ゴキブリが顔に張りついても、まだ心地よいと感じるだろう。
それほどに、存在を根こそぎ否定されたような恐怖が襲う。
「あ……あう……ぅ……」
意味のある言葉が、出てこない。
わたしが狼狽するのを、フリーレンは、無表情のまま――いや、かすかに口元が歪んでる。
「フリーレン様!」フェルンちゃんが制止の声をあげた。
わたしが死ぬかもしれないと思ったのだろう。
魔族は、魔法が凝り固まった存在。その魔法が解ければ消滅する。つまり死ぬ。
「死にはしないよ。だいたいこんな鉱石ひとつで魔族が死ぬなら、今頃魔族は滅んでる。この鉱石の効果は、あくまで放出系の魔法を無効にするだけなんだ」
「ですが……」
「まあ見ててよ、フェルン」
そして、鉱石を、ふいと離す。
ぶわっ!と全身に魔力が、いや、10億の声が一気に還ってくる。
「な、なにするの! フリーレン! このドSウンコエルフ!」
わたしが涙目で抗議するも、フリーレンは全く意に介さない。
それどころか、まるで面白いスイッチを見つけた子どものように目を輝かせている。
再び鉱石をわたしの頬に、ぴとっ。
「あうあうあう……」
ぴと……ぷにっ。ぴと……ぷにっ。
彼女は、わたしの反応を面白がるように、封魔鉱を頬にくっつけたり離したりを、何度も、何度も、繰り返し始めた。そう――、何度も何度も。執拗に。
その翠色の瞳は、これまで見たこともないほど、純粋な愉悦にきらめいていた。
普段の無気力な姿からは想像もつかない、活き活きとした表情。
「フリ、レン、やめ、やめ、て、あう、もう悪いこと、しない、いじわる、しな、いから~!」
「これが愉悦という感情か。ヒンメル、また一つ覚えたよ。人間の感情ってやつをさ……」
「絶対わかってて言ってるでしょー!」
「まだよくわからないかな」ぴとっ。
「ヒンメルなら絶対そうしない~~~!」
わたしの絶叫が木霊する。
封魔鉱が触れるたび、わたしの中から、何かが失われる。
何を失ったのか、わからない。
けれどそれがなければ、次の行動を選べないことだけは、はっきりしていた。
生と死の反復横跳びをしている気分。
「ラグの原因、それかぁ……」
シュタルク君のどこか納得したような呟きが、遠くに聞こえた気がした。
ぴとぷに遊びに飽きたのか、フリーレンはようやくわたしの頬から封魔鉱を離してくれた。
解放された安堵と魂を弄ばれた屈辱で、わたしはぜえぜえと肩で息をつく。
わたしのもちもちほっぺが削られていないか心配だ。
「フリーレン、嫌い! 大嫌い!」
「そう、それはよかったね。実験結果はわりと良好みたいだ。私にとってもね」
「こ、こいつ……」
もう絶対に許さない。
「魔族にしてはいい目だね。まだ、私、棄ててないんだけど」
ちらちらと、煽るように封魔鉱を見せびらかすフリーレン。
「……ぐぬぬ」
それ以来、わたしはフリーレンから片時も目を離さなかった。
封魔鉱を持ち歩けば魔法を使えないから、戦力はだだ下がり、さすがのフリーレンも封魔鉱を投げ捨てたけれど、わたしの警戒レベルはとどまるところを知らない。
彼女が歩けば一歩下がり、彼女が立ち止まれば身構える。
フェルンちゃんのローブの裾を、生命線のように固く握りしめながら、フリーレンからゼロ秒も視線をはずさない。
だって、フリーレンはわたしをイジメて愉しんでた。
わたしと仲直りしたと思ったのに、一瞬で忘れて、イジメようとする。
この感情欠落エルフは、誰よりも信用できない。
「アナリザンド様、大丈夫ですよ。フリーレン様も、もうなさいませんから」
フェルンちゃんが優しく言ってくれるけど、ダメだ。信じられない。
あのエルフは、愉悦という新しい感情を覚えてしまった。
いつ、またあのスイッチが入るかわからない。
わたしたちは、崖沿いの細い道を進んでいた。
眼下には、深く切れ込んだ谷底が、暗い口を開けている。
――その時だった。
先頭を歩いていたフリーレンが、ふと足を止め、何かを思い出したように呟いた。
「ああ、そうだ……」
―――ッ!!
わたしの脳内で、警報がけたたましく鳴り響いた。
来る! あの顔は、何か邪悪なことを思いついた時の顔だ!
また、あの石でわたしの魂を弄ぶつもりだ!
「やだぁぁぁぁぁ!」
わたしは駆けだした。
フェルンちゃんすら置き去りにして遁走を図る。
なりふりかまっていられない。あの石は――わたしを。わたしを消してしまう。
フリーレンから、一秒でも、コンマ一秒でも遠くへ!
「え、姉ちゃん!?」
シュタルク君の驚きの声が背後から聞こえる。
だが、その時。
ゴゴゴゴゴゴ……!!
わたしが踏み出した先の地面に、巨大な亀裂が走った。
「え?」
次の瞬間、わたしの足場は、重力に従って奈落の底へと崩れ落ちていった。
崩落――。岩盤が緩くなっていたのだ。
「わあああああああああっ!?」
「アナリザンド様!」
「姉ちゃん!」
フェルンちゃんとシュタルク君の悲鳴が、急速に遠ざかっていく。
切断。 される。
<わたし>が――消えちゃう。
みんなとの――が。
アナリザンドの姿が崩落した穴の中に消えてから、最初に動いたのはシュタルクだった。
誰よりも早く、穴のそばに駆け寄り、数瞬の迷いもなく身を踊らせる。
次に動いたのはフェルン。
「フリーレン様。追いかけますよ!」
返答も聞かずに、フェルンも穴の中に落下していった。
ひとり残されたフリーレンは、その状況を冷静に分析する。
「世話が焼けるね……。まったく」
フリーレンは、やれやれと首を振りながら、最後に残された口を開けた大穴の淵に立つ。
「今夜はハンバーグにしようって言おうとしただけなんだけどな……」
彼女は、どこか嫌な予感を感じながらも、弟子たちの後を追って、静かに谷の闇へとその身を投じた。
――落下。
猛烈な速度で岩肌が掠め飛んでいく。
風が轟音となって耳を打ち、全身が浮き上がるような不快な感覚が内臓を揺さぶった。
フェルンは、自分より先に落下していくシュタルクと、そして何よりアナリザンドの安否を案じ、必死に闇の中へと目を凝らす。しかし、その姿を捉えることはできない。
(飛行魔法が! 魔力が霧散していく!)
この谷全体が、強力な封魔鉱の鉱脈なのだ。練り上げた魔力は、形をなさずに霧のように消えていく。このままでは、全員が地面に叩きつけられる。
その、絶望的な状況下で、背後から師の冷静な声が響いた。
「フェルン。落ち着いて」
自由落下! それがフェルンに近づけた理由。
魔法使いなら、いの一番に落下死を恐れる。魔族にメタられ続けていた辛酸の歴史が、飛行魔法の使いどころを骨の髄まで刻んでいるからだ。
だが、あえてフリーレンはそうしなかった。
人間には辿りつけない精神力の高み。
いつの間にか、フリーレンがすぐそばまで追いついてきていた。彼女は、落下しながらもまるで散歩でもするかのように落ち着き払い、岩壁との距離を巧みに測っている。
「とりあえず――この状況をどうにかしようか」
「ですが、シュタルク様とアナリザンド様が!」
「シュタルクなら大丈夫だよ。アイゼンはこのくらいの高さから落ちても、傷ひとつつかなかったから。たぶん大丈夫でしょ」
「では、アナリザンド様は!?」
「魔族は人間よりも遥かに丈夫だ。それに、あいつはただの魔族じゃない」
フリーレンの言葉は、淡々としていたが、そこには確かな信頼が滲んでいた。
フェルンの心に、ほんの少しだけ、冷静さが戻る。
「それよりも、問題は私たちだ。このままじゃ地面に激突する」
フリーレンは、落下を続けながら、まるで講義でもするかのように続けた。
「封魔鉱の影響で、魔法の持続時間は極端に短い。このまま減衰しつづければ、放てなくなる。だから、必要なのはタイミング。……フェルン、私の言う通りにできるね?」
「はい」
「直前のタイミングで、背中合わせになり、同時にゾルトラークを崖に向かって放つんだ。真下じゃない。水平にだ」
その意図を、フェルンは瞬時に理解した。
ゾルトラークの持つ運動エネルギーを、落下の運動エネルギーと相殺させる。ロケットの逆噴射と同じ原理だ。真下に撃てばシュタルクたちに当たる危険があるが、水平に、それも二人で反対方向に撃つことで、互いを崖に押し付け、その摩擦で着地の衝撃を殺す。
あまりにも高度で、一瞬のズレも許されない連携。
でも、フリーレン様とならできる。
師と弟子の連携。呼吸をするよりも、自然に長年にわたってやってきたこと。
「……フリーレン様!」
フェルンは、風圧の中で必死に体勢を立て直し、フリーレンと背中を合わせる。
師の小さな背中の感触が、不思議な安心感を与えてくれた。
「……3、2、1……今!」
二人の杖先から、二条の白い閃光が同時に迸った。
凄まじい衝撃と共に、二人の身体はそれぞれの背中に圧しつけられる。魔法の腕が、岩の壁をしっかりと掴み取り、ガリガリと削りながら、落下の速度を殺していく。
やがて、二人の身体は土埃を上げながら、それでも比較的穏やかに谷底の地面に着地した。
「……っ……」
全身を打撲の痛みが襲う。フェルンは、痛みを堪えながらすぐさま立ち上がった。
「シュタルク様!」
「お、おお……。フェルン、フリーレン……。無事かぁ……」
少し離れた場所で、シュタルクが地面に大の字になって伸びていた。
手のひらだけひらひらさせて、生存報告をしている。
見ると、シュタルクの周囲の地面は、クレーターのように大きく陥没していた。
どうやら、その頑丈な身体で、人間砲弾のように着地したらしい。
大きな怪我はなさそうだ。
「アナリザンド様は!?」
フェルンは、最も案じていた人物の姿を探す。
周囲は薄暗く、湿った土と鉱石の匂いが立ち込めている。
そして見つけた。
シュタルクがいるところより、さらに離れた場所。
洞窟の横穴らしき暗がりの手前に、その少女はぽつんと立っていた。
服に破れた様子はなく、怪我をしているようにも見えない。
ただ、雨に打たれた子猫のように、小さく、か弱く、そこに佇んでいる。
――
そんな感覚。絶対的な喪失感を臓腑にねじこまれたような。
「姉ちゃん! 無事だったのか!」
シュタルクが安堵の声をあげ、ふらつきながらも駆け寄ろうとする。
しかし、フェルンは、その腕を掴んで強く制止した。
「お待ちください、シュタルク様。アナリザンド様の様子が少しおかしいです」
フェルンの声は、緊張に震えていた。
アナリザンドは、こちらに気づいているはずなのに何の反応も示さない。
その紅い瞳は、いつも悪戯っぽく輝いている光を失い、まるでガラス玉のようにどこか虚ろな色をしていた。
――表情がない。
魔族の表情は選択式であるとアナリザンドは言っていた。
しかし、その選択すらない表情。魔族のデフォルト顔――零式。
喜びも、安堵も、恐怖すらも浮かんでいない。
ただ、能面のように人形のように完璧な無表情。
フリーレンもまた、その異様な雰囲気を察知し、杖を静かに構えていた。この谷に満ちる封魔鉱の影響を計算に入れ、最小限の魔力で術式を維持している。
針のような極小の魔法なら、この状況下でも放てるのかもしれない。
それとも――ただのブラフなのだろうか。
「アナリザンド様……?」
フェルンがおそるおそる呼びかける。
その声に――最愛のはずの妹の声に、魔族少女は、まるで初めて音を聞いたかのように、ゆっくりと、ぎこちなくこちらへと顔を向けた。
そして、その唇がわずかに開く。
紡がれたのは、フェルンが今まで一度も聞いたことのない、冷たく無機質な声だった。
「――
それは問いかけではなかった。
ただ、目の前にいる存在をデータベースの中から検索し、該当する単語を出力したかのような、響き。ただの事実確認ですらなく、照応作業をおこなっている。
「……姉ちゃん?」
シュタルクが、困惑と不安の入り混じった声で、もう一度呼びかける。
アナリザンドと呼ばれた人形は、今度はシュタルクの方へと視線を移した。
そして、再び、単語を出力する。
「
「なっ……!?」
シュタルクが息を呑む。
まるで、品定めでもするかのような、冷徹な分析。
人形は、次にフェルンへと視線を戻した。
「
そして、最後に、フリーレンへと。
「
その言葉とともに、人形の纏う空気が一変した。
これまで感じられなかった凝縮された殺意――いや殺意ですらない――
アナリザンドの右腕が、僅かに持ちあがった。
「フリーレン様!」
フェルンが叫ぶと同時、フリーレンは咄嗟に防御魔法を展開した。
コンマがいくつもつくほどの瞬間的な魔法展開。
この魔法が封じられた状況でのジャストガード。
だが、人形は魔法を放たなかった。彼女はただ歩き出した。
フリーレンに向かって、一直線に。
その歩みは、何の感情も何の迷いもない。
それだけでわかる。アナリザンドは魔法を放てなかったのではない。
見極めていた。ただ、抹消の瞬間を冷徹に計算していたのだ。
「ちょっと、あいつをからかいすぎたみたいだね」
フリーレンが珍しく焦燥をこめた声を出す。
「排除対象の脅威分析――変わらず。速射性能を考慮。対象を抹消可能な距離まで接近する」
人形は、ただ目標に向かう。
「こいつはいつものアナリザンドじゃない。戦える? いやいい。フェルン手を出すな!」
フリーレンが、低く怒号を発する。
フェルンは悟った。
今、目の前にいるのは、自分の知っている、あの騒がしくて優しい姉ではない。
全ての繋がりを断ち切られ、ただ、己の存在を定義するためだけの、根源的なプログラムに従って動く、孤独な魔族の
――わたしの中には<わたし>がいる。
アナリザンドは、そう言っていた。
サントーム。10億の声を吸い上げて繋がり、そして翻案する。
いまのアナリザンドは<わたし>が暴走している状態なのだろう。
接続不全の状態で、それでも繋がろうとした結果――、<わたし>が不自然な形で、アナリザンドを上書きした。だから、いまのアナリザンドは魔族ですらない。
ただの
そして、そのプログラムが導き出した、最初の命令は――。
目の前の、最も危険な
少女の姿をした殺戮人形が、その小さな歩幅で伝説の大魔法使いとの距離を詰めていく。
谷底の冷たい空気が、肌を刺した。
「……来る」
フリーレンが低く呟き、杖を握る手に力を込める。
彼女の全身から放たれる魔力は、封魔鉱の影響下とは思えぬほど凝縮され、一触即発の緊張感を生み出していた。
「――ディスレクシアコード起動。対象を消滅させる」
だが、そのふたりの間に、壁のように立ちはだかる影があった。
「やめろ、姉ちゃん!」
シュタルクだった。
彼は、斧を構えるでもなく、ただ両腕を大きく広げ、無防備な背中をフリーレンに向け、アナリザンドの行く手を塞いでいた。
「フリーレンは敵じゃねえだろ! 俺たちの仲間だ!」
【コマンド:最大脅威(エルフ)ヲ排除セヨ】
【障害物(センシオトコ)ヲ排除セヨ】
【優先:センシオトコ】
【例外:オトウト】
【コマンド:排除/停止】
【再計算:排除】
揺らぐ
人形の内部で、冷徹なプログラムが実行される。
その小さな手が、シュタルクの腹部を貫くべく、僅かに持ち上がった。
――その刹那。
「アナリザンド様!」
フェルンの、悲痛な声が響いた。
シュタルクの隣に並び立ち、杖を持たない無防備な姿で人形の前に立った。
「思い出してください」
彼女の菫色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私はあなたの妹です!」
【エラー:障害物(フェルン)妹ユニットに該当】
【攻撃不許可要請がノエマより――接続不良】
【再計算……再計算……】
【保護対象ガ、ナゼ脅威ヲ保護スル?】
【保護対象ガ、ナゼコノ機体ニ親和的行動ヲ?】
【ノエマ、回答ヲ要求スル】
【接続不良、接続。接続不良】
――フェルンちゃんだから。
人形の動きが、ぴたりと止まった。
持ちあげかけた腕が、行き場をなくしたように宙で震える。
合理的な判断ができない。
自己保存を超えた保護対象を守れという命令が届く。
【第一優先順位コマンド:この身を守れ】
【それでも、保護対象を第一優先より優先的に守れ】
矛盾。合理が壊れる。破壊される。
その昏く淀ん だ瞳が、助けを 求めるよ うに。
目の前のフェルンを捉える。
そして、その唇から、ノイズ混じりの細い声が漏れた。
「……ナ……ゼ……?」
なぜ、守るべきあなたが、わたしの邪魔をするの?
「……カエレ…ナイ……ノ」
みんなのところに、帰りたいのに。
「モドレ……ナイノ」
泣いたりはしていない。
ただ、虚空を見つめている。
「……コワ…イ……」
独りは怖い。
それは、暴走した<わたし>の声ではなかった。
繋がりを失い、情報の洪水の中で迷子になった、アナリザンド本体の魂の悲鳴。
その声を聞き取ったのは、フェルンだけだった。
彼女は、もう躊躇わなかった。
そっと一歩前に出ると、冷たい人形のようになってしまった姉の、震える身体を、
―――ぎゅっと、強く抱きしめた。
「大丈夫です、アナリザンド様」
フェルンは、その小さな背中を優しく撫でながら囁いた。
「私がいます。私たちはここにいます。あなたは、独りじゃありません」
その温もりが、届いたのか。
人形の身体から、強張っていた力が、ふっと抜けていく。
漲っていた排除コマンドが、潮が引くように霧散していく。
フェルンの肩に、小さな頭がこてんと預けられた。
その紅い瞳からは、光こそ戻らないものの、先ほどまでの冷たい光は消え失せていた。
「……フェルン……ちゃん?」
舌足らずな、幼い子どものような声。
「はい。ここにいますよ、アナリザンド様」
フリーレンとシュタルクは、ただ息を呑んで、その光景を見守っていた。
暴走した怪物を止めたのは、強力な魔法ではなかった。
ただ一つの温かい抱擁。
アナリザンドがこの冷たい谷底でも失わなかった、ただひとつの細いラインだったのだ。
とはいえ――である。
この封魔鉱を抜け出さない限りは、アナリザンドが元の調子に戻ることはないだろう。
「姉ちゃん。……飯いるか?」
「……シュタルク……君? 弟ユニットが、補給を推奨している」
「なんか調子狂うなぁ」
「シュタルク、くんは、アナリザンドの補給を望む?」
「望むから、飯食って元気だせよ。姉ちゃん」
「補給行為を遂行する」
あむあむ。
魔族少女は、シュタルクが差し出した干し肉を、小さな口で、ただ機械的にもぐもぐと咀嚼している。その紅い瞳は、相変わらずどこか遠くを見ていて、焦点が合っていない。
その光景を、フェルンは、胸が締め付けられるような想いで見つめていた。
暴走は、止まった。
でも、姉はまだ帰ってきていない。
沈黙で封じられた谷底の夜は、想像以上に冷え込んでいた。
焚き火の炎だけが、心細げに闇を照らしている。
フリーレン様は、この先の鉱山の坑道へと続くであろう洞窟の入り口を、警戒するように見張ってくださっている。いつもは信頼を預けて深くお眠りにつくはずなのに、自分の行動が招いた結果だと、責任を感じていらっしゃるのか。
シュタルク様は、先ほどからずっと、アナリザンド様の側を離れずに、時折、水を飲ませたり、毛布をかけ直したりと、かいがいしく世話を焼いていた。
そして、私は――。
(……何も、できない)
フェルンは、自らの非力さに唇を噛んだ。
封魔鉱の影響下にあるこの谷底では、魔法を使えない。いつも当たり前のように側にあった力が、今はどこにもない。それは、まるで手足をもがれたような、心細い感覚だった。
それだけじゃない。
(……ネットにも、繋がりません)
いつもなら、小窓を開けば、そこには無数の人々の声があった。
くだらない雑談、真面目な議論、誰かの喜び、誰かの悲しみ。
その喧騒が、独りではないという確かな感覚を与えてくれていた。
でも、今は、何も聞こえない。
世界から、完全に切り離されてしまったような、深い静寂。
それは、耐え難いほどの不安となって、フェルンの心を蝕んでいく。
まるで自分が自分でなくなっていくような感覚。
「どうしたんだ、フェルン。さっきから黙りこくって」
不意に、シュタルクが声をかけてきた。
火がはぜる音に、わずかにノイズが混じる。
彼は、眠ってしまったアナリザンドの額の汗を、そっと拭ってあげている。
「……少し、不安で」
フェルンは、素直な気持ちを口にした。
「魔法が使えないのも、ネットに繋がらないのも。こんなにも心細いものだとは思いませんでした。私はネットに支えられていたんです。きっと……」
その言葉に、シュタルクは、きょとんとした顔をした。
「ネットに繋がらねえのが、そんなに不安なのか?」
「はい。シュタルク様は、不安ではないのですか?」
「んー……」シュタルクは、少し考える素振りを見せた後、どこか照れくさそうに頭を掻いた。「どっちかっつーと、俺は逆だな。繋がってねえ方が、なんかホッとするっつーか」
「ホッとする……ですか?」
「まあ、姉ちゃんがここにいるしな……。フリーレンも、フェルンだってここにいる。ネットに繋がらねーのは寂しいけどよ。俺の守るべき場所はここなんだって、実感できるっつーか……」
シュタルクにとって、ネットは逃げ場所ではなかったのだろう。
いや、逃げ場所だったのかもしれない。
けど、いつしかシュタルクは強くなって――、逃げなくなったのだろうか。
「よくわかりません」フェルンは彼の思想をもっと聞きたいと思って言った。
「うまく説明できるかわかんねーけどよ。ネットは便利だし楽しいし、嫌いじゃねーぜ。でもさ、今どこに立ってるかは、ネットに繋がってない方が逆に分かりやすいんだ」
「立ってる……?」
「ここだよ。姉ちゃんの隣で、フェルンの前で。俺が守れる距離って、案外このくらいなんだなってさ。でも、それでいいって今の俺にはそう思える」
やはり理解できない。
不合理な考えのように思える。
「シュタルクくん……強い子。戦士の子」
アナリザンドが聞いていたのか、毛布にくるまれながら、そんなことを言った。
そうなのだろうと、フェルンは思った。
アナリザンドが完全に寝入ったようだ。
まつ毛には、わずかな水滴がついていて、フェルンは胸が締めつけられる想いがする。
「フェルンちゃん……わたしのいもうと。たからもの」
そんな寝言すらも愛しくて――。
だからこそ怖かった。
魔法が使えない。
ネットにも、繋がらない。
それだけで、胸の奥が空洞になる。
眠るアナリザンドの寝息が、微かに聞こえた。
(……もし)
考えかけて、やめる。
怖かった。
あの時、アナリザンドが口にしたのは、冷酷なコマンドではなかった。
<コワイ>
ただ、それだけだった。
大切な方がいなくなるのは、なによりも怖いことだ。
フェルンは、アナリザンドの冷えきった手を両手で包む。
何も分からないまま、体温だけを渡した。
その時。
焚き火の向こうで、フリーレンが振り向いた。
「……来るよ」
【毒極竜があらわれた】
毒極竜――。その姿はさながらブサイクなウーパールーパーに似ている。
その額には、毒々しい瞳が紅く光っており、口から吐く息はすべてを腐らせる。
毒耐性の低い戦士にとっては相性の悪い相手だ。
シュタルクは、知らず斧を握る手が震えていることに気づいた。
――恐怖。
逃げない。守る。
そんなことは百も承知だったけれど、身体的な反応としてのそれを抑える術はない。
「姉ちゃんたちを抱えてさすがに三人はきついぜ。フリーレン走れるか」
シュタルクは、迷わなかった。
戦士としてはまっとうな反応だ。
ここには傷つき弱っている姉がいる。
抱えて逃げるにしろ、まさか猫みたいに口で噛んで移動するわけにはいかない。
「いい判断だね。シュタルク――逃げるよ」
フリーレンが駆けだす。
シュタルクは、瞬時にアナリザンドを抱え上げ――、フェルンに手を伸ばす。
「シュタルク様……私は!」
返答を聞くまでもなく、そのままフェルンもかついだ。
そして、遁走劇が始まる。
フリーレンは、光を放つ。魔法を放ったわけではない。
封魔鉱の特性のひとつ。
魔力をめっちゃこめると光る――を利用した目くらましの一種だ。
『GUOOOAAAAAAAA』
毒極竜がうめいた。一瞬動きが止まった。
これで時間稼ぎが、わずかに――。
ダメだった。
フリーレンが致命的に遅い。
身体能力は、下手すると人間よりも低いエルフの女の子だ。
たとえ千年生きても、戦士であるシュタルクと比ぶべくもない。
「フリーレン、もっと速く走れねーのかよ!」
「私だって、がんばってるんだよぉー!」
常には無い必死さ。
いつもは汗ひとつかかずに冷静に魔物を葬るフリーレンが、死ぬほど必死に走っている。
バテバテのフリーレン。
エルフの貧弱な脚力では、迫りくる巨体の影から逃れることはできない。
落ちていた封魔鉱の小石に足を取られ、彼女の小さな身体が無様に地面を転がった。
「フリーレン様!」
フェルンの悲鳴が響く。
毒極竜は、その好機を見逃さなかった。
地を揺るがす咆哮と共に、巨大な
口。闇。生暖かい。
全てを腐食させる毒の息が、フリーレンの白い髪を揺らした。
―――終わりか。
フリーレンの脳裏に、その言葉がよぎった、その刹那。
「……カエシテ……」
氷のように冷たい、しかし、どこか悲しみを湛えた声。
シュタルクの腕の中から、アナリザンドの姿がいつのまにかかき消えていた。
「HUDが……」フェルンが突如復活した魔導計器に視線を這わす。
猛り狂うように、乱高下している。
次の瞬間、フリーレンの目の前に、その小さな背中が現れた。
空間そのものを捻じ曲げて、封魔鉱の理すら捻じ曲げて、アナリザンドは跳んだのだ。
「
毒極竜の毒息が、アナリザンドが展開した黄金色の盾に阻まれ、かき消える。
「
振り下ろされた尻尾を、不可視の斬撃が迎え撃ち、その分厚い鱗ごと断ち切る。
「
苦痛に身を捩り、毒のブレスを吐き出そうとする巨体の動きが、ぴたり、と止まる。
そして、アナリザンドは、拘束され完全に無防備となった毒極龍を、冷たいガラス玉のような瞳で見据え、その小さな手を静かに掲げた。
指先に収束するのは、全てを無に帰す、一点の黒い闇。
そして、猶予期間は終わりを告げる。
「
閃光。
音もなく、毒極龍の巨体は、中心から黒い闇に飲み込まれ消滅した。
―――その全てが、わずか数秒の出来事だった。
後には、何も残らなかった。
根源の力を心なく行使し振り返る、孤独な殺戮人形の姿だけがあった。
――――――そして、近づく。
近づいてくる。
シュタルクから降りたフェルンの元にゆっくりと這うような遅さで。
感情を感じさせない茫洋とした瞳が、フェルンに視線を合わせてくる。
本能的な恐怖が湧き、フェルンはあとずさった。
それでいいとも感じていた。
ここにいるのは、毒極竜よりも恐ろしい、もっと未知の存在なのだから。
近づいてくる紅い瞳から、フェルンは目を逸らせなかった。
怖い。
それでも、逃げなかった。
逃げる役目は、もう果たされたのだから。
今は追いかける番だ。
「……アナリザンド様」
呼びかけても返事はない。
けれど、彼女は立ち止まった。
フェルンの、ほんの一歩手前で。
フェルンは、そっと手を伸ばす。
触れれば壊れてしまいそうな距離。
「……見えていますか」
返答はない。
けれど、紅い瞳が、わずかに揺れた。
「私が、ここにいます」
ネットはない。
十億の声もない。
だから、代わりに――。
「ひとつだけ、声があります」
フェルンは、アナリザンドの手をとり、自分の胸にそっと当てた。
「これです」
その瞬間、アナリザンドの指が、微かに動いた。
世界は、まだ戻らない。
けれど窓はひとつだけ開いた。
「うん。聞こえた」
後日談という名の蛇足。
わたしの<わたし>切断事件は、人の世の視点で見れば、ネットにつながらない時間を数日作ったというものだった。もちろん、わたしの預かり知らぬところで、世間は大混乱。
ふざけんなの抗議の声が、ゼーリエ先生を悩ませたらしい。
もちろん、わたしも叱られました。
それで、問題を収拾するためにやったことは、この史上初の魔法インターネット切断事件の犯人――すなわち、フリーレンに謝罪表明をさせることだったのである。
フェルンちゃんやシュタルク君だけではない。
もうほぼ大陸中の著名人やら、なにやらかんやら、王様や皇帝陛下まで出張ってきて、てんやわんやの大騒ぎ。
結局、フリーレンはイヤイヤながらも謝罪配信に出席する運びになった。
――どこかの小さな教会を借りて。
世界中の人々の小窓が、フリーレンの周りに出現する。
背後には、専門家、役人、大陸魔法協会のまだ見ぬ一級魔法使いさんたち。
聖杖法院のおっとりしたお姉さん。そして――ゼーリエ先生。
誰もが難しい顔をしている。
誰もがこの事態を『どう収めるか』をまだ理解していない。
魔道具のマイク。
小窓カメラの赤いランプが灯る。
沈黙。
数秒。数十秒。数分。数十分……。
10億人分の『時間』をさんざん奪ったあとでフリーレンは、ぽつりと言った。
「……ごめんって」
それだけ言って、フリーレンは壇上を降りた。
ざわつき。怒号。罵声に、ふざけんなの満漢全席。
しかし、対象者の姿は既にそこにはない。
誰もいなくなった会場で、世界はそれぞれに解釈を始める。
魔族に抗する勇者的行為。
情動未発達な少女の暴走。
あるいは、倒錯した愛情。
どれも、間違っていない。そして、正しくもない。
そもそもそんなスケールじゃ、この千年エルフは語れない。
けれど、人は解釈しようとする。
とある後世の歴史家は、この事件の主犯者のことを指して、こう呼んだという。
――反省のフリーレン、と。
彼女の二つ名が、またひとつ増えたらしい。
全然反省してねーじゃんという、当然と言えば当然の意見があったことも、忘れずにつけくわえておこう。
反省してまぁす♡