魔族少女のエロタナティブ   作:アナリザンド

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酒カスエルフ

 

 

 

 封魔鉱の一件は、わたしの立場をまた少し変調させたようだ。

 

 ネットワークというインフラを司るわたしは、べつにネットそのものを管理しているという気持ちはない。仕組み的にもピアツーピアであり、わたしが死んだとしても残骸は残ると思う。死んだあとのことは想像できないけれど。

 

 あの、封魔鉱でネットに致命的なラグが生じ、ところどころでは断線すら生じたのは、つまるところ、わたしがスーパーノードという役割を果たしているからだ。

 

 みんなは――、先生たちはまだ、()()()()()()()()()()()()()()ネットという世界をイメージできていない。魔族の呪いとして始まったシステム。わたしという配信を通して、繋がった絆、想い。ゆえに多くの人間たちは、わたしという存在を通して、みんなとつながろうとする。

 

 だから、局所的な――例えば、仲の良い友達どうしのラインでの会話とかは、大丈夫だったんだけど、見知らぬ他者への接続は、途切れがちになったのだろうと思う。

 

 なにが言いたいというと、わたしを保護すべきなのではないか――という論調が湧いている。

 保護といえば聞こえはいいけれど、その内実は、脳みそだけプカプカと浮いたアナちゃんが、誰にも触れられないガラスケースの中に閉じこめられるようなものだ。

 

 こわっ!

 

 だからこそ、ゼーリエ先生はわたしを叱ったのだと思う。

 

 それはそれとして、わたしはまた別の一面で、敬虔な女神教徒でもある。

 アナちゃんは女神様の良い子になろうと必死だ。そんなことは先生の誰もが気づいていることであるし、女神教の信徒たちとしては、魔族が女神教徒であるという事実を慎重に扱おうとしていた。

 

 あのザイン先生のお兄さん――神父様は、わたしという存在を最大限肯定的に伝えていたようであるけれど、そのあとの接触らしい接触がなかったのは、わたしという存在が世間に与える影響が大きすぎたためだろう。

 

 それが――決壊した。

 いや、あるいは、時が来たという感じだろうか。

 

 わたしが、聖杖法院と呼ばれる、女神教の修道院総本山みたいな場所、その院長を務める院長先生――、つまりは、今、わたしの目の前にいる酒カスエルフに呼ばれたのも、そういった理由なのだろう。

 

――そのエルフは、名をミリアルデという。

 

 

 

 

 

 夜。月光が窓から入りこむ。

 院長先生――ミリアルデは、私を一瞥もせずに言った。

 

「ようこそ。アナリザンド。女神の子よ。――なんちゃって」

 

 かなりお酒が入っている。わたしが聖杖法院の最奥、院長先生の私室へと通された時、そこに威厳に満ちた聖職者の姿はなかった。

 

 ただの酒カスエルフがいた。くっさっ。マジで酒くさい。

 彼女は人がダメになりそうなソファに身体を預け、ただ酒瓶を喉奥にインストールしている。

 床には何本も葡萄酒の空瓶が転がり、わたしをねっとりとした視線で見つめている。

 

 テンション高そうだけど、酒の力でブーストしているのだろう。

 どこか退屈――いや、眠そうだ。

 

「ねえ。院長先生――、わたしを呼んだのはどうして?」

 

「おもしろいこと言うね。君」

 

「え、そうかな? わたしを呼んだ女神教の偉い人は、院長先生が初めてだよ?」

 

 当然、おまえは女神様を信じているのか、とかそんな厳粛な質問がくるかとばかり……。

 

「べつに組織がどうとか、女神がどうとか、そんなことは関係ないわ。暇つぶしにすらならない。ただの時間の浪費。私は、個人的に君を観察したかっただけ」

 

「ふうむ」

 

 観察? 保護対象にすべきか、とかそういう話?

 

「それともこう言うべきだったかしら。よく来たね。ゼーリエの新しい玩具さん?」

 

「わたし、ゼーリエ先生の玩具じゃないよ?」

 

 おめめうるうる攻撃。

 

「やっぱりかわいいわね。あのゼーリエがあなたに夢中なのもわかる気がする。そこに座りなさい――客席なんて千年は用意してないわ」

 

 わたしは不承不承ながら、床に座る。

 ふわもこの絨毯には、ワインの染みがこびりついている。

 汚いな、もう! 綺麗さっぱり洗濯する魔法をかけてやろうか。

 

「本題にはいつ入るの? わたしってこう見えて結構忙しいんだから!」

 

 憤慨してみせるわたし。

 

「忙しい、ねぇ……」ミリアルデはこちらに視線を落とした。「まったく意味のない数字、二百兆の借金を返すため? それとも年端もいかない幼いエルフの心を救うため? ああ、あるいは、かわいい妹ちゃんの成長を見守るためかな? 君は、随分とたくさんの物語を抱えてるみたいね」

 

 全て、お見通し。

 この人もまた、ゼーリエ先生と同じ、女神様に近い領域にいる。

 

「観察してたの?」クエリ、あなたはストーカーさん?

 

「暇だから」

 

 彼女は、杯に残っていた赤い液体を一気に呷ると、ふぅ、と長い息を吐いた。

 

「おもしろいと聞いたから少しだけ覗かせてもらっただけよ。君という新しい時代の酒の味をね。まあ正直なところ期待外れだったけど」

 

「期待外れ?」

 

「そう。あなたはまだ若い。青すぎる。まるで収穫したばかりの葡萄のようね。味も、香りも、深みもない。ゼーリエは、こんな小娘のどこに夢中になっているんだか」

 

 薄く、笑う。

 

 ミリアルデの言葉は、全てを見下すかのように、どこまでも傲慢だった。

 わたしは、少しだけムッとして言い返す。

 

「さっきも言ったよ。わたしは、先生の玩具じゃないの!」

 

「あら、自覚がないの?」彼女は、心の底から楽しそうに、くつくつと笑った。「あなたは、最高の玩具よ。壊れそうで壊れない。予測通りに動くかと思えば、時々とんでもない方向に跳ねる。ゼーリエが飽きないのも無理はない」

 

 彼女は寝椅子からゆっくりと身を起こすと、わたしの目の前にしゃがみ込み、その冷たい指先で、わたしの顎をくい、と持ち上げた。

 

 月光を背にした彼女の瞳が、昏い光でわたしを射抜く。

 

「でもね小鬼ちゃん。私はゼーリエほど、気が長くも優しくもない。私は未熟なワインを待つのは嫌いなの。最高の状態で最高の瞬間に味わいたいと思ってるのよ」

 

 この人、もしかして愉悦部の人だった!?

 

 そう思った瞬間、ミリアルデはぱっと手を離した。急に興味を失ったみたいに、またソファへと身体を投げ出す。

 

「安心しなさい。愉悦はただの副菜よ。主食じゃない」

 

「それはそれで怖いんだけど……」

 

 だって、それは無造作に、なんの遠慮もなく食べられるってことだから。

 意味なんてなく、ただ――流れで――消費される。

 

「院長なんて肩書きを背負ってるとね、楽しみは自分で作らないと死ぬの。心が」

 

 彼女は瓶を探し、見当たらないことに気づくと舌打ちした。

 そして――、魔法。空間ストレージからまた一本追加。

 このエルフの肝臓はいったいどんな造りをしているのか。

 

「で。アナリザンド。あなたは、自分が何を恐れられているかわかってる?」

 

「ネットが止まることでしょ?」

 

 それくらいの計算能力はもっているつもりだ。

 十億の先生たちの声をかきあつめれば、正解を出すことはたやすい。

 

 でも――、目の前のエルフは笑う。

 できそこないの生徒をあざけるように。

 

「半分正解」

 

 ミリアルデは指を一本立てる。

 

「人間はね、壊れるインフラよりも、壊れない()を恐れるのよ。君がいる限り、誰かは『お願い』をする。誰かは『期待』をする。誰かは『信仰』をする」

 

 指が、二本になる。

 

「それはもう、女神と同じ。あるいは――女神より、ずっと扱いにくい」

 

 三本目の指。

 

「だって君は、話しかけたら返事をするでしょう?」

 

 胸の奥が、ひくりと鳴った。

 

「わたしは、女神様の代わりじゃない」

 

「知ってる」

 

 即答だった。

 

「だからこそ厄介なの。代わりじゃないのに、代わりに見える。神にも人にも魔族にすらなりきれない中途半端な存在のくせに、全部の言葉を受信できてしまう」

 

 ミリアルデは、こちらを見た。

 

 酔っているはずなのに、その目だけは、異様に澄んでいる。

 

「ねえ、小鬼ちゃん。君はさ。愛されたい?」

 

「急に何?」ゼーリエ先生よりもある意味怖いんだけど。

 

「ただの質問よ」

 

 逃げ場はなかった。

 

「嫌いじゃない、かな」それは、本当――だと思う。

 

「そう」院長先生は満足そうに頷いた。「それがね、君の一番の罪」

 

「ひどくない?」

 

「最高の褒め言葉よ」

 

 ミリアルデは笑わなかった。代わりに、疲れたみたいに目を閉じる。

 

「アナリザンド。あなたに教えてあげる。愛されたい存在が、インフラになったら()()()なの。誰も切れなくなる。誰も手放せなくなる。なぜなら――それは()()()()()()()()()()()に相違ないのだから」

 

 彼女は目を開け、はっきりと言った。

 

「保護されるか、封じられるか、殺されるか。その三択しかなくなる」

 

「え、四択目はないの? みんなで仲良くハッピーセットとか」

 

 わたしは、冗談めかして言った。

 

「それが一番ありえないかな。あなたらしいとは思うけれども」

 

 即答だった。

 

「ゼーリエ先生は?」

 

「彼女はね」

 

 ミリアルデは、少しだけ、ほんの少しだけ口角を上げた。

 

「君を人の領域に強引に引き戻そうとしてる。どうせ失敗すると思うけど」

 

「ひどくない!?」

 

「でも、嫌ってはいないわ。だから叱ったんでしょう?」

 

 その言葉で、すべてが一本につながった気がした。

 

「じゃあ、院長先生は……わたしをどうしたいの?」

 

 少しだけ、声が小さくなった。

 

 ミリアルデは、しばらく黙っていた。

 そして、酒瓶を抱きしめるみたいにして、こう言った。

 

「私はね。君が自分で選ぶ瞬間を見たいだけ」

 

「選ぶ?」

 

「愛されるか、嫌われるか。神になるか、魔族のままでいるか。全部背負うか全部捨てるか」

 

 彼女は目を細めた。

 

「その瞬間が、たぶん一番おいしいから」

 

「やっぱり愉悦部じゃん!」

 

「否定はしないわ」

 

 月光の下で、酒カスエルフは院長らしくもなく、ただ楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 

 このかつてない強敵を前に、わたしは冷静に計算を繰り返す。

 わたしの中の<わたし>が、目の前のエルフの魂の構造を、冷静にスキャンしていく。

 

 言葉の論理構造だけに着目すると、ミリアルデはゼーリエと同じく倦怠の中にいる。彼女はこの世に倦んでいる。だから、わたしという暇つぶしができる可能性に着目している――とも思える。

 

 でも――本当に?

 だったら、なぜ、彼女は……。

 

 わたしは、くすり、と笑みをこぼした。

 今度は、わたしの番だ。

 

「ねえ、院長先生」ねっとりボイス。

 

「なにかな、小鬼ちゃん。あなたの大事なところ見せてくれる気になったのかな?」

 

「ううん、違うよ。先生の愉悦って、なんだかすごく、人間臭いなって思って」

 

 ピクリ、と。ミリアルデの眉が、ほんのわずかに動いた。

 

「おもしろいことを言うね。この私が、人間臭い?」

 

「うん。だって、先生のやってることって、要するに物語の鑑賞でしょ? 誰かが苦しんだり、悩んだり、そして最後にどんな結末を迎えるのかを、最高の特等席で眺めていたい。それって、人間が昔から大好きな娯楽だよ。悲劇を観て涙したり、物語の主人公に自分を重ねたりするのと、本質的には同じ」

 

 わたしの言葉に、ミリアルデは「ふん」と鼻を鳴らした。

 

「私が神の視点から娯楽を消費していると言いたいのかな? 別に間違ってはいないね」

 

「でもね、院長先生。あなたはただの観客じゃない」

 

 わたしは、一歩前に進み出る。

 

「あなたは、物語に干渉してる。わたしに問いを投げかけ、わたしの人生という物語の脚本に、無理やり手を入れてこようとしてる。それって、普通の観客はやらないことだよ。だって、物語は、完成されたものを、そのまま受け入れるのが一番美しいんだから」エーレちゃんもそう言ってる!

 

「何が言いたいのか、よくわからないわね」

 

 ミリアルデの声から、楽しげな響きが少しだけ消えた。

 

「院長先生は、物語を観測したいんじゃなくて、本当は、物語に参加したいんじゃないかな?」

 

「驚いた……。おまえは本当に女神の子なのか?」

 

 その言葉に、ミリアルデは笑わなかった。

 

 酔ったふりをしていた目が、はっきりとこちらを捉える。

 酒気は残っているのに、意識だけが異様に冴えている。

 だが、その尖った意識は、すぐに倦怠のなかにくるまれた。

 

「参加、ね……。ずいぶんと楽しそうな言葉」ミリアルデはゆっくりと言った。「私はずっと舞台の外にいたわ。神の声を聞く役。降ろす役。信じさせる役。演じる側じゃない。昔も今も変わらず、ずっと永遠に」

 

「何があったのか聴いてもいい?」

 

「聴いてどうするつもり? あなたにはなんの関係もない無価値な話よ」

 

「でも、そうしたいって思ったから」

 

「それが、あなたの意志ではなく、女神の呪いの可能性もあるのよ?」

 

「それでも、そうしたいなって。だって――、わたし院長先生のことも好きだから」

 

「出逢って10分も経ってない存在に、どうして?」

 

「だって院長先生は、ゼーリエ先生がわたしを好きなんだって言ってくれたから」

 

「こんなくだらない魔法は聞いたことすらない。女神様もきっとお困りだろうね。あなたみたいなイレギュラーがこの世界に生まれ堕ちてしまったことは」

 

 ミリアルデは、ふうっと息を吐いた。

 それは溜め息というより、酒の香りを肺の奥まで送り込むための、意識的な呼吸に見えた。

 

「まあいいわ。説教されに来たわけじゃないでしょう。せっかく来たんだもの、立ち話は野暮よ」

 

「座ってるけどね」

 

「ツッコミする魔族というのも珍しいわね」

 

 院長室の奥、分厚い机の脇に置かれた小さな棚。

 その中から、ミリアルデは一本の瓶を取り出した。

 

 透明度の低い琥珀色。

 中身は、とろりと光を含んで揺れている。

 

「皇帝酒よ。知ってる?」

 

「名前だけ。時間を狂わせるって噂の」

 

――そのお酒の評価は最極上といわれている。

 

 この大陸をほとんど統一しかけた皇帝陛下が、女神様から()を賜るときに、ふるまわれたらしい。今もそのお酒はどこかで誰かが探している。酒カスにとってはマストな一品。

 

 けれど、ミリアルデはやっぱり薄く哂った。

 

「正確には、時間()()を狂わせる、ね。時間の足りない人間やドワーフにとっては毒にもなりうる酒よ」

 

 ミリアルデはグラスを二つ置き、躊躇なく注いだ。

 部屋に、甘くて重い香りが広がる。

 

「これを飲むとね、過去と未来の境目が、どうでもよくなるの。今が長く引き延ばされる。あるいは、全部が一瞬に圧縮される。人によって違うらしいけど、他人のことはどうでもいいわ」

 

「無聊対策ってこと?」

 

「身も蓋もない言い方をするじゃない」

 

 そう言いながら、否定はしなかった。

 

「永遠を生きる存在にとって、時間は毒にも薬にもなる。退屈は魂を摩耗させるからね。だから私は、こういう仕掛けを使う」

 

 グラスを揺らしながら、ミリアルデは続ける。

 

 そして、話してくれた。

 

 このお酒。酒カスたちにとってはコレクションしたい、味わってみたい至上の一品を、とある場所に封印したそうだ。

 

 でも、このお酒は激マズとのこと。

 

 いつか、酒カスが人生を盛大に浪費し、このなんの価値もないお酒に辿りつくのを夢見て哂っているのだと――。

 

 それは、限りなく愉悦の所作に見える。

 ゼーリエ先生の、ツンデレ所作とも重なる。

 

「アナリザンド、私はただの機構よ。神の声を中継し、信仰を維持し、世界が壊れないように帳尻を合わせるための装置。感情はノイズ、意志は誤差。でも、そんなのはごめんだわ。だから、わたしは女神の祈りに毒を混ぜることにした」

 

「それでお酒呑むんだ」

 

「ええ。呪いで呪いを上書きする。時間という無聊をアルコールで薄めるだけ」

 

 いかにも、酒カスらしい説明。

 長命種が自分に課す、よくできた言い訳。

 ゼーリエ先生というエルフ的時間に慣れ親しんでいるわたしを騙すための巧妙な嘘。

 

 わたしは、グラスに口をつけずに言った。クソまずい酒なんて呑みたくもない。

 

「院長先生」

 

「なに?」

 

「その説明、すごく安全だね」

 

「どういう意味?」

 

「だってそれ、自分が傷つかない前提でしか成立しない話だもん」

 

 ミリアルデの指が、ほんの一瞬だけ止まった。

 グラスの縁に、爪がかすかに触れる音。

 

「機構は退屈しない。装置は無聊を感じない。なのに、時間を慰める必要があるって言葉が既に矛盾してる。あなたはその言葉を隠蔽しようとしている」

 

 わたしは、首を傾げた。

 

「それってさ、ほんとは――時間がつらいから、お酒を飲んでるんじゃない?」

 

 ミリアルデは、笑った。

 軽薄で酒臭いエルフのデフォルト顔。

 ときどきゼーリエ先生もする厭世的な笑みだ。

 

「さすがネットワークの化身。論理の綻びを突くのがずいぶんと得意なのね」

 

「否定しないんだ?」

 

「否定する価値もないわ。そんな子どもの戯言」

 

 彼女はグラスを一気に呷った。

 

「いいのよ。私は壊れない。壊れないように作られている。退屈だろうが、虚しかろうが、参加したくなろうが――全部、仕様の範囲内。すべて女神のたなごころの上」

 

 その言葉は、強がりとしては完璧だった。

 だからこそ。

 

 わたしは、静かに思った。

 

――ああ、この人は。

 

 物語に参加したくなってしまう自分だけを、仕様外として切り捨てている。

 

 でも、それはまだ言わない。

 

 今はまだ戯れの時間だ。

 皇帝酒が、もう一杯必要になるまでは。

 

 

 

――ごくん!

 

 

 

 わたしは意を決して、お酒を呑みこむ。

 勧められたお酒を拒否するなんてできない。無料でもあることだし。

 でも、舌に触った瞬間、すぐに理解した。

 このお酒、マズっ! ゲロシャブを呑みこんだほうがまだマシなくらい。

 目が、目が視えないんですけど!

 

「え、へぇえあ、先生、これ、ちょっとひどいという言葉を超えてるみたいな」

 

「魔族が酔っぱらう姿なんて、万年生きてきて初めて見たよ」

 

「ねえ。先生……。少し思うんだけど」ぽかぽかザンド。

 

「なにかな?」

 

「どうして院長先生は女神様が嫌いなの?」

 

「正確には違う。私は他者に失望したのよ」

 

 ミリアルデは、答えたあと、ほんのわずかに視線を逸らした。

 それは逃避というほど大げさなものじゃない。

 ただ、記憶の棚を開けるときの癖みたいな仕草。

 

「他者って人間のこと?」

 

「そうね。祈る者。信じる者。救われたいと願う者。その全部」

 

「女神様じゃなくて?」

 

「ええ。女神様は――最初から期待していなかったもの。()()ね」

 

 わたしの頭の中で、カチリ、と何かが噛み合った。

 

「期待していたのは、人間のほうだったってこと?」

 

「正確には、変わることね」

 

 ミリアルデは、空になったグラスを逆さにして、机の上に置いた。

 もう一杯注ぐ気はないらしい。

 

「人は祈る。祈りは切実。切実さは尊い。そこまではいいわ」

 

 恨みでも憎悪でも諦観でもない。

 これは――、虚無。ただ、何も期待しない瞳。

 

「でもね、彼らは変わらない。どれだけ時代が進んでもどれだけ血を流しても、結局は同じ祈りを繰り返す。国が滅んでも、死ぬ間際になっても、何も変わらない」

 

 彼女は笑った。

 いつもの、酒臭い笑み。

 でも、さっきより少しだけ、雑音が少ない。

 

「助けてください。救ってください。意味をください。全部、他人任せ。ある意味魔族よりも性質が悪いわ。少なくとも、あなたたち魔族は、自分の生を誰かに委ねたりしないから」

 

「でも、それが祈りってものじゃないの?」

 

「そう。だから失望したのよ」

 

 ミリアルデは、わたしを見る。

 

「彼らは参加したいなんて言わない。物語を変えたいとも言わない。ただ、結末だけを欲しがる」

 

 ああ、と、わたしは思った。

 

 なるほど、だからこの人は、物語に干渉する。

 だからこの人は、観測者の椅子から降りない。

 

 だって――。

 

「院長先生」

 

「なに?」

 

「それ、人間が嫌いなんじゃなくて……」

 

 わたしは、少しだけ声を落とした。

 この痛みに、彼女は耐えられるだろうか?

 

「期待して裏切られ続けた人の()()()()()だよ」

 

 一瞬。

 本当に一瞬だけ。

 

 ミリアルデの表情から演技が消えた。

 

 酒気も、軽薄さも、神の代行者という仮面も。

 残ったのは、ただ他者に裏切られ傷ついたエルフだった。

 

「……小鬼ちゃん」

 

「なに?」

 

「君は、本当に魔族なの? 女神様の御子さんだったりしない?」

 

「失礼だなあ。ちゃんと魂も黒いよ。まっくろくろすけだよ!」

 

 アウラ様のときにちゃんと見たんだから、わたし識ってる。

 自分の魂の色くらいは。

 

 ミリアルデは、ふっと息を吐いた。

 さっきより、ずっと静かな呼吸。

 

「真実というほど重い話でもないわ。ただ、今よりずっと幼かった私のちょっとした失敗談よ」

 

「うん……」

 

 今から、彼女が語るのは、本当にそれだけの話なのだろう。

 万年を生きるというミリアルデの、手痛い暴露話。

 

「昔――といっても、それほど昔じゃない。ほんの一万年ほど昔の話」

 

 いきなりスケールデカっ!

 

「あれは――今から36万……いや、1万4千年前だったかしら。まあいいわ。私にとってはつい昨日の出来事だけど、君たちにとってはたぶん明日の出来事だから」

 

 このエルフ、脳をお酒に侵されて……。

 

「冗談よ」

 

「そうですか……」

 

「まあ、今でいうところの神話の時代。アナちゃんにとってはそれくらいの認識でいいわ。その時代、女神がこの世を去ったというのは有名な話よ。そのとき、人間がまっさきに求めたのはなんだと思う?」

 

「女神様に帰ってきてほしい?」

 

「そう。女神の帰還。これは――まあわかりやすい話。ではその具体的方法は?」

 

「うーん。オレオール先生に接続する?」

 

 女神様はこの次元から去っているわけだから、具体的な方法と言えば、それしかない。

 

「表現こそ違うけど、正解に近いかな。女神に近い素体に女神を降臨させる。それが当時の人類がおこなった方法――つまり、私」

 

「院長先生が女神様になろうとしたってこと?」

 

「そうね。私自身もそう願っていたの。簡単に言えば、周囲の期待に応えたいという気持ちが強かったわ。その価値があると信じていた」

 

「でもできなかった?」

 

「いいえ。できたのよ」

 

 ミリアルデは空中を見つめる。

 月――、満月が見える。

 太陽の影を反射する、女神様のオルタナティブ。

 

「でも、それは彼らの期待とは別物だった。システムコールは冷たく響くだけ。何も救ってはくれない。ただ、観測し、自らの在り方を問いただすだけ」

 

 オレオール先生のことだよね?

 まあ、彼女の在り方からすれば、それは通常の対応パターンだといえるかもしれない。

 

「それはオレオール……」

 

 言いかけてやめる。

 そんなことは意味がない。

 

 ミリアルデにとっての、人生の大半をかけた――魔法。

 その結果を成功や失敗という尺度で評価してしまうことになる。

 

 ミリアルデは、その長大な歴史を、ただの結果確認のように述べ伝える。

 

「結果は――、まあ言うまでもないけど、落胆されたわね。べつに面と向かって罵られたわけでもないし、石つぶてを投げつけられたわけでもない。背信者と言われたことはあったけれども」

 

「誰にも褒められなかったの? 本当に」

 

「わからないと言った方が正しいわ。きっと誰かは褒めていたのかもしれない。どこかで誰かは認めていたのかもしれない。けれど、わたしは口も耳も閉ざして、故郷を逃げ出したの」

 

「後悔してるってこと?」

 

「後悔――はしてないわ。いや、してるのかもしれない。私にはこんなにも無意味な時間を所有しているのに、その誰かを待つことができなかったのだから」

 

「……そっか。そりゃお酒も呑みたくなるね」

 

「それだけ?」

 

「それだけって?」

 

「無様なエルフだとか、女神様の代わりを務めるなんておこがましいとか。なにかあるでしょ?」

 

「なにもないよ?」

 

「なぜ?」

 

 わたしは、少しだけ考えた。

 この人に向けて言葉を選ぶというより。

 言葉が要らない理由を整理するために。

 

「だって院長先生」

 

「……なに?」

 

「それ、失敗談でも罪でもないから」

 

 ミリアルデは、わずかに目を細めた。

 反論でも嘲笑でもない。

 意味を測ろうとする沈黙。

 

「人に期待した。応えようとした。届かなかった。傷ついた。逃げた」

 

 わたしは指を折る。

 

「そのどれも、間違ってないよ」

 

「慰めてるつもり?」

 

「ううん。定義してるだけ」

 

 ミリアルデの眉がぴくりと動いた。

 

「院長先生はね、女神の代わりになろうとしたんじゃない。女神がいなくなったあとも、人が変われるかを信じたかったんじゃない?」

 

「それが失敗だったと言ってるのよ」

 

「失敗かどうかを決めるのは、結果じゃないよ」

 

 わたしは、彼女を見る。

 

「もし成功してたら、それは神話になってた。失敗したから、ただの人生になった。それだけのことだよ。先生は今もそうであるだけ。いいも悪いもない。ただそれだけ」

 

 沈黙。

 

 月光の中で、ミリアルデの影が少し揺れた。

 

「ずいぶん、都合のいい魔法(ことば)ね」

 

「そうだよ。だから言えるの」

 

「?」

 

「人生って、基本的に都合のいい解釈を選んだ人の勝ちだから」

 

 ハイターも言っていた。天国はあるべきだって。

 

 ミリアルデは、ふっと鼻で笑った。

 

「人生は勝ち負けの話じゃないのよ。わかってる、アナちゃん?」

 

「じゃあ、なおさらだよ。負けてもいいって思える話でしょ?」

 

 その瞬間。ミリアルデは、何も言わなかった。

 

 代わりに、棚の奥から、もう一本酒を取り出した。

 皇帝酒ではない。たぶん、どうでもいい普通の酒。

 

 まだ呑む気かよ、この酒カスエルフ!

 

「もう一杯だけ、つきあってくれる? あなたといっしょに呑みたくなったわ」

 

「うん、いいよ」お酒は苦手だけど、つき合うことくらいはできる。

 

 アナリザンドは飲酒合法魔族なのだ。

 

「君は残酷ね。私がずっと避けてきた結論を、こんな雑な言葉で出してしまう」

 

「でも、院長先生」

 

「なに?」

 

「それでも、なんだかんだ言って、お酒は呑むんでしょ?」

 

 どうせ酒カスの本性は変わらない。ずっと永遠に。

 

 ミリアルデは、声をあげて笑った。

 

 酒カスの笑いだ。

 肩の力が抜けた、逃げ場を失った人の笑い。

 酒カスの賛歌。

 

「君には完敗だよ」

 

「乾杯のまちがいじゃない?」

 

 一拍。微笑み。

 

 そして、グラスが触れ合う。

 

 音は小さい。

 

 でもそれは――。

 

 神話の終わりと人生の始まりの音だった。

 

 

 






 アナ虐愉悦部にまたひとり……
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