魔族少女のエロタナティブ   作:アナリザンド

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南の勇者

 

 

 

 シュレディンガーの猫って知ってるかな?

 

 小さな箱の中に子猫が一匹入っている。

 その箱の中には可能性のガスが充満されていて、箱の外側からは、猫が死んでいるか生きているかわからない。鳴き声も姿も聞こえないし見えない。生と死が重ねあわされた状態にある。

 

 つまり、観測者がいないと未来は確定しないという不確定性原理を思考実験的に表現した言葉が『シュレディンガーの猫』ってわけ。

 

 けれど、わたしは猫ちゃんの気持ちを考えたいと思う。

 きっと、猫ちゃんは箱を開けられるのを待っていたんじゃないだろうか。

 

 そして、そっと抱きあげられたとき、その新しいご主人様の顔を舐めたかったんじゃないかって、そんなくだらない想像をしてみたりもする。

 

 あなたに逢いたい――。これはきっとそういう話。

 

 

 

 

 

 ゼーリエ先生のお叱りという名の、禅問答みたいな話が終わり、わたしはいつものようにフリーレン一行といっしょに旅をしている。

 

 わたしは、哲学的な思弁を繰り返すより、フェルンちゃんのほっぺたが丸い理由のほうが知りたい。もしくは、そのほっぺたに指先をぷにっとおしこんで、その感触を確かめたい。

 

 あるいは、その柔らかさをポエミィに表現したいのだ。

 

「なんでしょうか? アナリザンド様」

 

 わたしの視線に気づいたのか、フェルンちゃんが疑問顔。

 もちろん、わたしはお澄まし顔。

 

「なんでもないよ。フェルンちゃんって、旅の間は痩せるなぁって思って。補給しても補給してもなかなか丸くならないのが、少し遺憾の想いが強い」

 

「歩けば痩せますよ」

 

「人間と違って、魔族もエルフもほとんど体重変わらないからね。少し羨ましいかも」

 

「それはとても羨ましいですね」

 

 言葉の意味を反転させるフェルンちゃん。

 

「でも筋肉はつくんじゃねーの?」とシュタルク君。「あのエルフのおっさんみたいにさ」

 

「筋肉モリモリのフリーレンって、すこしだけ面白そうだね」とわたし。

 

「馬鹿なこと言ってないで、行くよ」

 

 フリーレンは少しだけ封魔鉱の出来事を反省しているのか、よくできたリーダーみたいに声をだした。でも、フリーレンの性癖はずっと昔から変わらない。

 

 とある村についた時に、その悪癖が再び露呈した。

 

――くだらない魔法を対価に。

 

 勇者の像を磨くという依頼である。

 

 

 

 

 

 

 

――勇者様の像を磨いてくれんかね?

 

 眼鏡をかけた好々爺といった村長は、そんな依頼をフリーレンにしたのだった。

 もちろん、あの魔法蒐集に命をかけているフリーレンだ。

 たとえどんな魔法であっても、依頼を受けたに違いない。

 

 フリーレンは、村長から受け取った古びた紙を、目を輝かせて広げた。

 

「フェルン。これはすごい魔法だよ。背中の痒いところを掻いてくれる魔法だってさ」

 

「これで、私に掻いてもらわなくても自分でできますね。フリーレン様」

 

「……フェルンじゃないと絶妙な力加減が足りないかも」

 

 フリーレンが、フェルンちゃんに甘えている!

 こんな暴挙が赦されていいはずがない。

 

「フリーレンの背中がかゆいなら、わたしがゴリゴリ削ってあげようか。大体なんでも切る魔法(レイルザイデン)で、背中の肉ごと削り切ってあげれば、二度とかゆくなくなるよ」

 

「失せろ」

 

「なんでや!」

 

「またこの手の依頼かぁ」シュタルク君は、今ではもう定番となったフリーレンとわたしの口喧嘩を前に、なんの感動もなく言い放った。

 

 わかるよ、シュタルク君。

 それが君なりの処世術だってこと。お姉ちゃんは理解してる。

 

「ヒンメル様の像って本当にどこにでもありますよね。執念深いといいますか……」

 

 少し遅れてフェルンちゃんもいつもの調子に戻った。

 

「まあこういう細々とした仕事も楽しいんだけどな」

 

 いつもと同じ、なんということもない日常。

 だけど、そうはならなかった。

 

「って、誰このおっさん!」シュタルク君が驚き叫ぶ。

 

 そこに在ったのは、ヒンメルの像ではなかった。

 

 そして、わたしは思い出す。

 

 記憶にあるのは魔族の瞳。鉤爪の視線――。

 そこにいるはずのない、過去の友人。未来視を持つ魔族。

 

――シュラハト。

 

 違う。もちろん違うけれど。

 

 シュラハトは、わたしにコンタクトをとってきた過去に生きる魔族。

 

 そして、(シュラハト)と刺し違えた人間。

 

 過去と未来が交差するあの瞬間に、わたしは彼のこともきっと視たと思う。

 

 驚きではない。わたしはシュラハトに感情移入してしまっていたから。

 

 彼の眼底に、冷たい剣先が突き刺さる。その痛み。苦しみ。そして安らぎ。

 

 シュラハトは、魔王を死なせたくなかった。たとえ自分が死んででも魔王を甦らせようとしていた。その想いは、魔族の特性であるレジデューすら超えて、昏いけれど、ほのかな輝きを放っていたように思う。

 

 無数の分かたれた未来を見るうちに、シュラハトは南の勇者と刺し違えることが最善だと判断した。彼は最大の対価――すなわち自らの命を差し出すことで、魔族全体の未来を購入することを選んだのだ。その売買相手が、彼。いま像という名の墓として、わたしたちを待っていた者。

 

 沈黙という言葉を返す者。

 

「ふたりは初めて見るのか」フリーレンが言葉を継いでくれた。

 

――南の勇者だよ。

 

「みなみの? 勇者?」シュタルク君は疑問顔だ。「ミナミノって変な名前だな」

 

「名前じゃなくて、方角のことだよ」

 

 フリーレンは淡々と知ってる事実を陳列する。

 わたしでも知ってる、歴史的事実を。

 

「魔王を倒したのはヒンメルだけど、勇者はひとりじゃない。色々な勇者が魔王討伐に挑んだんだ。その中でも南の勇者は()()()()()()()と呼ばれていた」

 

「人類最強? なんだか大げさだな。いい年したおっさんが中二病っぽいつーかさ」

 

「そうでもない。これは彼に相応しい二つ名だ」

 

 フリーレンが語る。

 

 誰も見たことのないはずの過去の出来事。

 

 ヒンメルたちは、あの最強の魔王の手駒だった七崩賢をたったふたりしか倒していないという事実を述べた。一方、南の勇者は快進撃を続け、最終的に魔王の腹心でもあった未来視の魔法を持つシュラハトと、集結した七崩賢全員で盛大に出待ちされて果てたのだと。その際に、三人も七崩賢を道連れにした。

 

 そして、最後に全知のシュラハトと相打ちになったのだと。

 

 つまりは、魔王様のほとんど全戦力を投入して、ようやく討ち取ったというのが、魔族側の視点であり、南の勇者の実力ということになる。人類最強という呼び名でも、まだ生ぬるい。

 

「でもよぉ……なんかその話おかしくねえか?」とシュタルク君。

 

「なにが?」とフリーレン。

 

「七崩賢とシュラハトっていう、つえー魔族と戦って死んだってんなら、誰がそのシーンを見てたんだ? 勝手に誰かが想像した話かもしれねーぜ?」

 

「真実は藪の中ですね」とフェルンちゃん。

 

「七崩賢に三つも空席ができたというのは事実だからね。後世の人間たちが物語を勝手に紡いだのも確かだけど、当たらずといえども遠からずといったところじゃないかな」

 

 道端では、人形劇が繰り広げられていた。

 全知のシュラハトに対するは南の勇者。

 子どもたちが、キラキラとした眼差しで、その物語に聞き入っている。

 

『おお、南の勇者。我が好敵手よ。よくぞここまで辿りついた。おまえはここで終わりだ』

『シュラハトよ。私は命をかけて人類の未来を切り開こう。たとえ私の身がここで朽ちても』

 

 キンキンキン。響き渡る剣戟。盛り上がる子どもたち。

 アウラ様人形がいい味だしてる。もう逃げ腰だ。

 

「この地域では、その戦いで七崩賢の支配から救われた人々が大勢いたんだ」

 

 それが、物語が遺った理由。

 

「だったら、なおさらなんだけどよ……」シュタルク君がさらに話を続ける。「どうして、その人は南の勇者なんて呼ばれ方をしているんだ?」

 

「彼の出身地だったからだよ。それと誰も彼の名を呼ぶ者はいなかったからだ。南の勇者はヒンメルと違って、ずっとひとりで戦っていたからね。彼の名を呼ぶ仲間もいなければ、当然、敵である魔族も名を呼ぶ必要がなかった」

 

「なんだか寂しい話ですね」とフェルンちゃん。

 

「そうだね」フリーレンは一度、像を見上げた。「――じゃあ、綺麗にしようか」

 

「手伝います。……アナリザンド様?」

 

 フェルンちゃんが、わたしを見ていた。

 いつもは騒がしいわたしが、一心に像を見ていたことが不思議だったのだろう。

 

 でも――、わたしは像の中に眠る沈黙を聞き取ろうとしていたのだ。

 

 何と言えばいいか。よくわからないけれども、ゼンゼ先生と月の神殿でおこなったことに似ている。壁画に書かれた象徴文字を読み取るときのような。過去からの声を聞き取る作業。

 

 当然、それは言語と呼べるほど了解がたやすいものでもないけれど。

 魔族的な魔法に対する鋭敏さが、その鳴き声を感知する――と言えば、わかりやすいか。

 

 でも、わたしは何も言わなかった。

 

 騒がしさは、外部からもたらされた。

 

「わああああ! アナちゃんだ! かわいー」子どもたちが一斉にこちらに近づいてくる。

 

「実物ちっちゃい」「わたしと同じくらいー」「すこすこのすこ」

 

 囲まれる。ぐるぐる周りをまわる。かわいい。かわいいの暴力。

 あわわわ。

 わたし、無想転生されちゃってる!

 かごめかごめされちゃってる!

 

「君達、な、なにかなぁ?」

 

「アナちゃんも、シュラハトみたいに悪い魔族なの?」

 

 子どもたちのひとりがそんなことを聞いた。

 悪いとか良いとかはないけれど、わたしの妹、弟ちゃんたちにはまだ早い話かも。

 

「そうだよー。わたしは悪い魔族なの」両腕をあげて熊のポーズ。「がおー。食べちゃうぞー」

 

「逃げろー!」「きゃああああ」「こわーい!」笑顔で逃げ出す子どもたち。

 

 蜘蛛の子を散らすというのはよく言ったものだと思う。

 騒がしさは弾け飛んで、そこからは真の静寂が訪れた。

 

「シュタルク君。みんなと遊んできてあげて」

 

「そうだな。フリーレンが像を綺麗にする間、ちょっとつきあってくるよ」

 

 そう言って、シュタルク君は離れていった。

 

 

 

 

 

 沈黙――。ただ、ひたすら像を綺麗にする。

 

 像を綺麗にする魔法は確かにあるけれど、丁寧に磨き上げるにはそれなりに時間がかかる。

 苔のはえた、鈍色を放つ銅像。わたしとしてはやはり墓という印象が強い。

 だから、これは作業ではなく、弔いに近い。死者と対話するための所作。

 

 墓はなにも語ってはくれない。けれど確かに語っている。

 

 先生たちには、何度も言ってることだけど、魔族の言葉は人間のそれとは大きく異なる。

 

 わたしは、それを人間の言葉に翻案して、わかりやすく伝えている。

 

――だから、そう。

 

 ものすごく簡単に言えば、それは()()だった。

 

 穢れが剥がれ落ち、雑草が抜き取られ、地面が綺麗になめされる。

 汚れらしい汚れが大まかに消えていく。そこにあるのはノイズのような言葉。象徴的ともいえる言葉だ。木々の配置。周りの家との調和の程度。草花が揺れる音。人々の声。子どもたちの騒ぐ声。それらが総体化されて、ひとつの巨大なテキストを構成する。

 

 実はたいしたことじゃないのかもしれない。

 

 人間たちだって日々やってること。人間は普段からアルファベットみたいな文字の形、言葉の影を読んでいるといえる。

 

 人間たちはそれを無意識に、毎日おこなっている。

 

 わたしは、違う。

 わたしは意識的に、そんな暗号めいたことを毎日解き明かしている。

 

 だから、みんなより少しだけ努力している。

 その努力の方向性は、わたしの目の前にある言葉でも変わらない。

 

 だから、読める。

 だから、この言葉はわたしにだけ向けられた言葉だった。

 

『久しぶりだな。アナリザンド』

 

 シュラハトの言葉が見えたのだ。

 

 像という墓に刻まれた言葉を読んでいる。人間たちの多くは理解できないだろうけれども、わたしの中の<わたし>ならできる。

 

「――うん。お久しぶりだね」

 

 綺麗に磨かれた像から声が聞こえる。

 

『あいかわらず未来は騒がしいか?』

 

「そうだね。そうかも。でも悪くないよ」

 

「アナリザンド様。いかがなされたのですか?」フェルンちゃんが聞いた。「もしかして南の勇者様にお逢いしたことが?」

 

「そうじゃないよ。わたしは彼のことは知らないんだ」

 

 知ってるのは、シュラハトのほう。そして彼は言う。

 

『おまえは私に願うだろう』

 

「なにを?」

 

『私はおまえの願いを聞くつもりだ。おまえの贖いに対して礼を返すために』

 

 あいかわらず因果を俯瞰するシュラハトの視点はわかりにくい。

 でも、彼とは仲良くなれた。和睦した。だから、きっと彼はわたしに配慮してくれている。

 

「信じるよ」

 

「おまえは――」フリーレンがわたしを観察していた。「何が見えている? もしかして、おまえも見えているのか?」

 

 フリーレンの言葉の意味は、わたしにも未来が見えているのかと問うているのだろう。

 南の勇者も、シュラハトと同じく未来が見えていた。

 その事実は、人類の歴史では影に堕ちてしまい、どこにも存在しない。

 

 つまり、フリーレンは南の勇者に逢ったことがあるということ。

 

「わたしには未来は見えないよ。ただ、死者の声が少しだけ聴こえるだけ。ねえ、フリーレン。一日だけこの村にいていい? もっと聞きたいことがあるの」

 

「死者の声をか?」

 

「うん。まだわからないことがあって」

 

「勝手にすればいい」

 

「じゃあ、勝手にするね」

 

 それでも、フリーレンはわたしを置いて旅に出ることはなかった。

 子どもたちに追いかけまわされるシュタルク君を回収して、村長にお願いして一日だけ泊まらせてもらえることになった。

 

 ピカピカになった像は、何も語らず、ただ未来を見つめている。

 

 

 

 

 

 月夜。わたしは猫ちゃんのように徘徊する。

 

――願い。

 

 ってなんだろう。

 そんな素朴な疑問が、わたしを駆動する。

 未来を識ってるシュラハトからすれば、当然、わたしが何を願うかもわかっていたはずだ。

 

 けれど、正解は与えられなかった。

 物語のように読まれることを望んでいるのだろうか。

 

 虫の音が遠くで近くで鳴いている。

 

 そういえば、全然関係のないことかもしれないけれど、虫の鳴き声を美しいと感じることができるのは、わりと日本人に限られるらしい。西洋人はあんまりそういう感覚はないみたいってどこかで聞いたことがある。

 

 そんな虫たちの囁きに、魔族の声が紛れこむ。

 

『人間を襲撃にでも行くつもりか? アナリザンド』

 

「そんなつもりじゃないよ。わかってるくせに」

 

『南の勇者の声は聴こえない。やつの未来視は、私とは異なる次元にある』

 

「そうなんだ? どういうカラクリなのか教えてもらってもいい?」

 

『カウンター未来視。そう言えば、少しはわかりやすいかもしれない』

 

 なかなか興味深いことを言っている。

 

 シュラハトは、無数の分かたれた未来を視ることができた。

 その分岐点までの因果を、過去という時空から調律することで、未来を選ぶことができた。

 因果調律の魔法だといえる。

 

 そして、南の勇者は、そんなシュラハトの魔法に対して、確定された運命に向かってアジャストする能力を持っていたのだろう。

 

 シュラハトの言葉が正しいとすれば――だが。

 

 例えば、このことをわかりやすく説明すれば、確定された未来からやってきた未来人みたいな捉え方もできる。魔王が討たれた未来からやってきた南の勇者は、シュラハトがどんな未来を選んでも、そのことごとくを『歴史』という名の暴力で断絶させる。

 

 魔王は討たれた。その確実な現在という時空からアジャストされるのだから、シュラハトは絶対に魔王を生かすことができない。だからこそ、魔王の復活を願ったわけだけど――。

 

 それから後の話については、もう既にわたしにとっては過去の話なので繰り返さない。

 わたしは、シュラハトに見えない未来を約束した。

 

「ねえ、シュラハト――」

 

『なんだ?』

 

「南の勇者ってどんな人だったの?」

 

『事実だけ拾えば、魔族にとっての最大の脅威だったといえるだろう。こちらの戦力を大いに削り、最終的にはヒンメルに魔王様が弑せられるという因果を創った者だ。それでも、あの時、あの場所で南の勇者の未来を奪えたことは、千年後の魔族にとって最大の戦果だったといえる』

 

「そんなことじゃなくて――」

 

『おまえがそう言うのは知っていた。ただの愚痴だ。私にもやつに言いたいことくらいはある』

 

 未来視持ちとの会話って面倒くせぇ!

 

「じゃあ、わたしが何を聞きたいか知ってるでしょ。正確に応答してよ」

 

『貴様は――、南の勇者が覚悟を決めた人間だと思っている』

 

「それはそうでしょ。あなたと同じ。人類のためか。誰か大事な人がいたのか。それはわからないけど、南の勇者は、自分が死ぬのをわかっていて、あなたに挑んだんでしょ? それは自分の死という運命を受け入れていたってことじゃないの?」

 

 言った瞬間、夜闇の中で、ぴょんとコオロギが横切った。

 うわっと驚いて、わたしは転んだ。シュラハトの因果攻撃だ。

 

「なにするの、シュラハト」

 

『違う。おまえは勘違いをしている』

 

「コオロギがあなたの因果攻撃って話じゃなくて?」

 

『やつは、自分の死を受け入れてなどいない。受け入れていたのなら、私と刺し違える必要はなかった。過去から未来を操る私と、未来から過去を定める奴の意志がぶつかりあった。結果として、刺し違えるという必然が生まれただけだ』

 

「つまり、あなたが南の勇者の未来を変えたってこと?」

 

『そうだ。あくまで選んだのは私だ。奴ではない』

 

 うーん。頭がこんがらがってきた。

 コオロギさんは森へお帰り。道端で佇んでいたコオロギを、そっと掴んで畑に離す。

 

「でも、シュラハトも望む未来を手に入れられなかったわけでしょ」

 

『ずいぶんと人間的な言葉を語るものだな』

 

「あなたが人間的な願いをわたしに言ったからじゃん!」

 

 魔王様を返してって!

 

『おまえの価値観は、ことごとく無だ』風の音。

 

『それは我々のような普通の魔族と、何ひとつ変わらない』川のせせらぎ。

 

『私の中に人間のような感情を見出そうとするな』月の波動。

 

「ごめんって……。そういう意味じゃないから」

 

『おまえの問いに戻ろう』

 

「南の勇者は、あなたにとってどんな存在だったの?」わたしは問いを繰り返す。

 

『南の勇者とは、私と対等な者だった――。一言で集約するとそういうことになる』

 

「敵でも味方でもない?」

 

『そんな言葉はとうに超えている。だからこそ、やつは名を遺すことを望まなかった』

 

「あなたの創りだした因果に取りこまれてしまうから?」

 

『それもあるが、それだけではない。歴史の必然が忘却を望んだからだ』

 

 そうか。そういうことだったのか。

 わたしはなんとなくだけど、この複雑な因果の流れを理解した。

 そして、わたしの願いの正体も。

 

 南の勇者が覚悟していたのは、死じゃない。

 人々から忘れさられることだった。

 

 剣を握る前から、彼は知っていたのだろう。自分が英雄として語られることも、その英雄譚がやがて擦り切れ、都合のいい形に削られ、最後には名前だけが邪魔になって捨てられることも。

 

 すべて見えていた。だから、名を遺さなかった。遺さないことを選んだ。

 

 それは謙遜でも、自己犠牲でもない。覚悟でも運命の流れに乗ったわけでもない。

 物語に回収されないための、たったひとつの抵抗だったのかもしれない。

 

 死すら超越する存在の消滅への覚悟。

 

 名を与えられた瞬間、人は出来事になる。

 そして出来事になった人間は、もう未来を選べない。

 

 彼は名を遺すより、人々に未来を遺したかったのだ。

 

――わたしは、南の勇者と話がしたかった。

 

 英雄としてではなく。

 歴史の登場人物としてでもなく。

 未来を確定させる装置としてでもない。

 

 ただ、時間という孤独の中で、ひとりで立っていた人間と話がしたかった。

 

 けれど、その声は聴こえない。

 確定された未来そのものに身を置いた者の声は、現在には反響しない。

 残響。カウンターエコー。

 

 だから――、南の勇者に辿り着く道は、ひとつしかない。

 

 彼と最後まで向き合い、彼と同じ高さに立ち、彼を理解し、そして彼を殺した存在。

 未来を視る魔族。シュラハト。

 

 わたしは、月明かりの下で立ち止まる。虫の声が少しだけ遠ざかった。

 

「ねえ、シュラハト」

 

『なんだ』

 

 ここで、ようやく言葉が定まった。

 願いというには小さく、問いというには重すぎる言葉。

 

「あなたは、彼の名前を知らないんだよね」

 

『――当然だ』

 

「じゃあさ」

 

 わたしは、空を見上げる。

 月は、何も答えない。

 

「あなたが、彼の名前を聞いてあげてよ」

 

 未来視の魔族は、すぐには応答しなかった。

 因果が、わずかに軋む音がした。

 

 それでも、これは取引じゃない。救済でもない。

 ただの、お願いだ。わたしがそうしたいからそうするだけだ。

 

 時間という孤独に立ち向かったふたりが、せめて最後の瞬間だけは、互いに互いを名のある存在として認識できるように。魔族と人間が、ほんの少しだけでも歩み寄れるように。

 

 そのためだけの願い。

 

『了解した』

 

 短い返答だった。

 けれど、それで十分だった。

 

 わたしは知っている。

 因果が交差したその瞬間、シュラハトは問いかける。

 

 敵でも、味方でもない者に。

 対等だった者に。

 

――私を殺す者よ。おまえの名はなんという?

 

――そんな未来は。

 

――私の言葉ではない。おまえの名を知りたがっている者がいる。

 

 そこから先は、もう歴史だ。

 わたしの手を離れた、過去の話。

 

 それでも想像はできる。

 南の勇者はきっと驚いただろう。

 突然、因果の外側から――いや内側からかな――。

 真偽不明(ノンリケット)の子猫ちゃんが語りかけたのだから。

 

 きっと、彼はシュラハトの問いに答えなかったと思う。

 未来を視る者に名を渡すことは、魂を譲り渡すことになってしまうから。

 彼の覚悟は一度も揺らぐことはなかったのだから。

 

 けれど――、語らない存在ならどうだろう。

 わたしの魔法は届いたのだろうか。

 

 わからない。わたしに未来は見えないから。

 けれど、わかる。きっと、()()はそういう存在だから。

 

 

 

 

 

『君には言っても問題ないな』

 

『君は私の魔法(ひみつ)を知ったとしても、一生誰にも言うことはない』

 

『だから君だけには教えよう。この私の、人類最強たる所以を』

 

『私には未来が見えるのだ』

 

『一つだけ頼み事をしていいか?』

 

 

 

「何?」とエルフの少女は応える。

 

 

 

『その青年に逢ったら伝えてくれ』

 

『道は必ず私が切り開くと』

 

『人類最強である、この南の勇者が』

 

『ああ、それと……』

 

『彼女には私の名を教えてやってくれ』

 

 

 

「ふたつめじゃん。それに彼女って誰?」

 

 

 

『いずれわかる』

 

『少し変わった少女だ。君と旅をすることになる』

 

『きっと、今の君に言っても信じないだろうが』

 

 

 

「どうして名前を? なんの意味があるの?」

 

 

 

『話しかけられたからだよ。私のファンだとね』

 

『たとえ名もなき勇者であっても応えねばなるまい』

 

 

 

 

 

 

 次の日の朝。

 出発前に、南の勇者を讃えるささやかな祭りが村の中で開かれた。

 

 勇者の像の周りに色とりどりの花が添えられる。

 穀物、果物。そして祝祭を言祝ぐ感謝の声。

 

――ありがとう。南の勇者さま。

 

 彼の名を知る者は、もう誰ひとりいなかった。

 その名が刻まれた碑も、記された書も、どこにも残されてはいない。

 

 けれど、この土地の上を歩く人は、誰ひとりとしてそれを知らないまま、彼が切り開いた未来の上を歩いている。踊っている。謳っている。

 

 道も、村も、平穏も、祈りさえも。

 すべては、名を棄てた一人の通過点の、その先に在る。

 

 それで、十分だったのだ。

 未来は閉じきられなかったのだから。

 彼が歩いた事実は消えない。

 

「みんな、やっぱり勇者の名前、誰も知らないんだよな。昨日子どもたちといっしょに遊んだときも、そうだったけどよ。時の流れって残酷だよな」

 

「勇者ヒンメル様も、いずれそうなってしまうのかもしれませんね」

 

 フェルンちゃんも寂しそうに。

 

 けれど、フリーレンは違った。わたしのほうをチラリとみて。

 

()()の意味が、ようやくわかったよ。趣味が悪いな。あの勇者」

 

「ねえ、フリーレン。もしかして……」

 

 わたしの話を打ち切るように、定められた魔法(ひみつ)を唱える。

 

「覚えている。知っているよ。彼の名は――」

 

 刹那の時、沈黙が広がる。

 

 あなたに逢えた未来へ。

 わたしが逢える過去へ。

 

――もうすぐ、箱は開くよ。

 

 

 

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