魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
「ゼーリエ様。お久しぶりでございます」
魔法都市オイサースト。
大陸魔法協会の最深部にある静謐と魔力が支配する広間。
ゼーリエの途方もない魔力が盈ちるその場所で、一級魔法使いデンケンは、かつての権力者としての威厳を鎧のように纏いながらも、その口調にはどこか疲れが見えた。
「墓参りはすませてきたのか。デンケン」
「それが、古巣より依頼がございましてな」
「80になろうかという老人に、偉大なる皇帝陛下も酷なことをするものだな」
それには応えず、デンケンはわずかに嘆息する。
実を言えば、老体に鞭をうち、数か月の間に帝国とオイサーストを行き来してきたのである。
一級魔法使いの資格を得たのは、黄金卿の管理権をゼーリエに譲り渡してもらうためだった。それなのに、デンケンは都合よく宮廷へと呼び出されたのだ。
追い出すのも連れ戻すのも、自分勝手なのが人間の法――権力の仕草である。
デンケンも一級魔法使いではあるものの宮廷魔法使いとしての地位を退いたわけではない。
その命令に逆らうことは、信条としてもであるが、責務としてもできない。
「ゼーリエ様。陛下からの親書でございます。あの方は、今の帝国を沈みゆく太陽だと仰っておいでだ。しかし、いずれ来る黄昏を、ただ座して待つおつもりはないとのこと」
デンケンが懐から取り出したのは、帝国の封蝋が施された書簡である。
書簡といっても、手紙のような精緻なものではなく、くるくる巻きにされた巻物にしっかりとした細い紐縄がくくりつけられ、そこに魔法を施した蝋印がおされているといった次第だった。
帝国の最も格式高い書式。
古くは千年近く前のフランメの時代から使われている正式な政治的文章に使われる様式である。
ゼーリエは視線だけをゼンゼに向けた。
傍らにいるゼンゼがデンケンからそれを受け取り、ゼーリエに渡す。
髪の毛を使ったりはしない。きちんと手で渡した。
それが政治的に正しい受け取り方だったから。
「ふんっ……あの小僧」
ゼーリエは気づいた。わずかに含み笑いを浮かべる。
その書簡に施された封蝋は、格式高いものではあったが、国印ではなく、皇帝個人の私印が押されていた。ゼーリエは封印を無造作に破り一読する。
「くだらないことを考えたものだ」それがゼーリエの感想である。
デンケンは口を開かない。使者が書かれた内容に意見することは許されていない。
だが、ゼーリエの弟子としては?
一級魔法使いは、すべてゼーリエの弟子でもある。
師であるゼーリエは、書簡をぴらぴらとさせながら、弟子であるデンケンに聞いた。
「デンケン、弟子として問う。これをどう思う?」
「どう、とは?」
ピンっと書簡を飛ばし、それは魔法の風に乗って、デンケンの元に届く。
もちろんデンケンも皇帝より幾分か内容は聞いていた。
デンケンは皇帝にお願いされたのである。命令ではなくお願い。
この文章を余の心だと思って、大魔法使いゼーリエに届けてくれまいか、と。
実際にそう言われたわけではない。だがまなざしがそう告げていた。
一国の頂に位置するものが一介の宮廷魔法使いに頭を下げることはできない。
ましてや、デンケンは一級魔法使いであり、大陸魔法協会に鞍替えしたとみなされている。それは客観的に見れば、帝国を棄てたに等しく政治の中枢からは既にはずされている。名目的な席次くらいは残っているが閑職にまわされたのだ。
そのデンケンに皇帝陛下が頼んだのである。無碍にできようはずがない。
デンケンは書簡に視線を這わせた。
「これは……」
内容は以下のようなものである。
ゼーリエの弟子、一級魔法使い(仮)アナリザンドを帝国の名において承認したい。
そして、彼女をゲナウの故郷における特命騎士爵として叙する用意がある。
大魔法使いゼーリエにおかれては、この件をどう思われるか。
そういった内容が、きわめて文化的で格式張った教養高い文章で書かれていた。
これが皇帝の直筆であることは、癖のある字であることからすぐにわかる。
もし書記官に書かせていたのならば、アナリザンドが出力するようななんの感情も感じさせない精緻な文字が配置されているはずだからだ。
――正直なところ。
ここが政治的な場であったら、デンケンは『正気の沙汰ではない』とこぼしていただろう。
いくらアナリザンドが人の子に近い感性を有しているとはいえ、政治にはうとく、また、関心もない。地位や名誉といった言葉も本質的に理解しているわけではないからだ。
だが、使者としてはその発信者の言葉を貶めるわけにはいかない。
ましてや帝国という大陸の雄、その頂点に立つ者の言葉であれば、なおのことそうだ。
「陛下はアナリザンド殿がもたらす新しい風を、帝国の延命措置ではなく後に残される民への贈り物と考えておいでなのでしょう。ゼーリエ様の管理下にあることは承知の上。これは従属の要求ではなく、対等なる協力の申し出にございます」
「弟子としての意見を聞いたのだがな……。だが、まあいい。皇帝陛下の使者として来た以上、おまえの意見を聞くのは酷だった。私には陛下と違って老人をいたぶる趣味はない」
デンケンはただ静かに頭をさげた。
皇帝が老臣に願った。その重みをデンケンは知っている。
ゼーリエは指先で椅子を叩いた。
「アナリザンド。出てこい。皇帝陛下から直々のスカウトだぞ」
空中の小窓すら開いていない状態で、ゼーリエが召喚する。
果たして、魔力の波がすぐに震え、瞬く間にアナリザンドはそこに立っていた。
「なあに先生。いま、ちょうどご飯食べてるところだったのにぃ」
両手にはパン。口元にはチョコがべったりとついている。
それでもすぐにやってきた。
童女が遊んでいる時ですらずっと親を見ていたいような、そんな様子。
デンケンは目を伏せた。
政治とは、子どもの口元の甘さを拭う場所ではないはずだ。
そのことにわずかばかりの罪悪感を覚えて。
「むううううん。せんせぇ。むううううううん」
この場合の先生っていうのは、ゼーリエ先生ではなくてゼンゼ先生のこと。
わたしの口元がチョコまみれなことに気づいて、ゼーリエ先生がちょっとだけ視線をやったら、ゼンゼ先生が髪の毛でハンカチーフを持った状態で、わたしの口元をぬぐってくれたのである。
なんだか奇妙な緊張感の漂う場面だったから、これから真面目な話をするよということなのだろう。正直に言えば、デンケンお爺ちゃんの話は半分くらいしか理解できていない。
わたしは政治とは無関係な存在だからね。
魔族に政治を学ばせるのは、赤ちゃんにバク転を覚えさせるくらい難しい。
さて、綺麗になりました。
「ありがとう。ゼンゼ先生」
ゼンゼ先生は沈黙を貫いたまま、こくりと頷いた。
いわゆるゼンゼ式激励ってやつだ。
「話は聞いていたなアナリザンド。皇帝陛下がおまえに爵位を授けたいとのことだ」
ゼーリエ先生の声からは感情を推察できない。
デンケンお爺ちゃんに対する言葉からは、わずかに苛立ちのようなものを感じたけれど、それでも皇帝陛下は礼を失していなかったと思う。
わたしがちゃんとゼーリエ先生の弟子だってわかっていて、最初から私的なお願いという形をとっていた。形式はそう。でも皇帝という地位にいる者が私的に文書を書いたとしても、きっとそれは公の影響を受ける。それくらいはわたしにもわかる。
「爵位って、伯爵とか公爵とかそういうやつ?」
「それほど大仰なものではないがな」
ゼーリエ先生が小窓を出現させた。
そこには、ゲナウ先生の故郷の街。いまわたしが守護している街が近隣の街とともに周辺マップ情報として映し出されていた。
「街の実質的な管理者はおまえだ。物流も防衛も、心理的な安全性もすべておまえが回している」
「うん。そうかな。アンデア君もだけどね」
「わかっているのか? おまえは期せずして既に政治に携わっているんだ」
「違うと思うけど。物流も防衛も、わたしはお手伝いしているだけだし。なにか公的な事業をおこなっているわけじゃないよ。なにより――わたし。
お金もらってないのに政治してるって、ただ働きじゃん。
そんなのヤダ!
「デンケン。説明しろ」ゼーリエ先生が弟子に命じた。
デンケンお爺ちゃんが、長い顎髭をひと撫でしつつ説明してくれる。
「アナリザンドよ。政治とは突き詰めれば、パンを平等に漏れなく配るということに他ならん。貴殿が既にそれをなしている以上、実質的には政治に携わっているともいえるのだ」
「それは定義の問題だよね? わたしって商売してるだけなんだけど」
「人間側はそうは考えんということだ」
デンケンお爺ちゃんの言うこともわからないでもないけど……。
規模が大きいだけで、本質的にはただのパン配りなんだけどな。
ゼーリエ先生が引き継ぐ形で口を開く。
「形式上はあの街にも――いや、帝国法ではまだ村だったか――、村長がいるんだ。おまえは出逢ってすらいないだろうがな」
「そうなんだ。知らなかった」
でも考えてみれば当たり前か。
どんなに小さな村でも、あるいは大きな街でも、統治権はその国のトップから与えられた人がいるはず。街の守護者であるアンデア君のイメージが強すぎて視えなかったのだろう。
「じゃあ、わたし。税金を徴収してもいいの?」
わくわくする。税金――おお、税金よ。
これこそわたしの魔力の根源なり。
「それほど大仰ではないと言っただろう。騎士爵とは本来なら土地持ちではなく名誉職に近い。税金を徴収する権限は与えられていない。帝国がおまえの働きを公的に認めるだけだ」
「何だガッカリ。そんなの意味ないじゃん」
「税を取れないなら、守る価値もないと思うか?」
「それは違うよ。街のパン屋さんはすごく努力してて、お父さんが亡くなったあとに同じ味をだせないかすごく苦労してたの。それで流通が回復してきてようやくこの前、チョコパンを開発したんだよ。すごく大当たりして、すごくおいしいんだから」
パン屋さんはお父さんのパンをきちんと引き継いでいる。
土台として、それは遺っていた。わたしはそれには守る価値があると思う。
「なら、おまえは帝国の承認をわざわざ受ける必要はないと考えているのか?」
「んぅ……」
わたしは少し迷う。これを言ったら先生に怒られるかもしれないけれど。
甘えてるって思われるかもしれないけれど。
「ねえ先生」
「なんだ?」
「あのね。もしわたしが爵位を受けたら、わたしは皇帝陛下のものになっちゃうの?」
「私は帝国の小僧に、無料で弟子をくれてやるほどお人好しじゃない」
うれしかった。パタパタザンドになっちゃいそうなくらい。
試し行動ってやつかも。
「じゃあ――」
行かない。
そう言おうとしたところで、ゼーリエ先生が機先を制する。
「おまえは私の弟子だ。だが私の所有物ではない。魔法使いは誰の所有物にもならないんだ。行くも残るもおまえが決めろ。それくらいはもうできるだろう?」
自分のてのひらで飛び出そうとした言葉をおしこめる。
うん、脊髄反射はよくないよね。掲示板でもよく言われてる。
「わかったよ先生。ちゃんと考えてみるね」
その日、黄金の輝きと栄光をまといし帝国の太陽。
偉大なる皇帝陛下のもとにひとつのメッセージが届いた。
『皇帝陛下の真意をお聞きしたく、参上つかまつりたく存じます。ザンド』
『かまわぬ』
返答は短かった。
その口元に、わずかな笑みが浮かんだとも知らず。
少し歴史の話をしよう。
この世界における帝国の立場は、立憲君主制と呼べるほど成熟はしていない。
帝国は女神様から承認を受けた神の子――皇帝が神様からその権限を賜っていることを正統の証としている。簡単に言えば、王権神授説を採用しているのである。
これは近代的な立憲君主制とは異なり、政治と宗教が明確に分離されていない体制である。宗教的防波堤として聖杖法院という機関を設置しなければならなかったことが、その証左だ。
皇帝陛下は、絶対的な権限を持っているわけではない。多くの政治体制がそうであったとおり、絶対王政というのがむしろ例外であり、王は王でありながらもすべてをコントロールできる存在ではなかった。
貴族、聖職者、軍、官僚機構、そして民。すべての均衡のもとに成り立つ浜辺に寄せる波のような存在なのである。
もちろん口ではわかったふりしてるけど、パラメータが多すぎて、わたしには理解できないのが本当のところだけどね。
それでも皇帝陛下がとても疲れた顔をしているのはわかるよ。
わたしは皇帝陛下との対談の日取りを――まあ、わたし的にはデートだけど――設定して、その日、空間をなめらかに跳躍した。
その跳躍すらも実をいうと一苦労だった。なにしろ皇帝陛下自身もわかっていない防御魔法が幾重にも張り巡らされていて、わたしは直接、皇帝陛下のもとには跳べなかったからだ。
けれど、アンカー機能は、わたしが逢った人間なら誰にでも可能だから、デンケンお爺ちゃんの残された私室に飛ぶことはできたのである。そこからはステルスザンドでがんばりました。
さすがに皇帝陛下の私室前の近衛兵さんたちは、皇帝陛下自らの口添えが必要だったけどね。
ザンっと槍を構えたまま、無言のまま近衛兵さんたちは何もしない。
何も見てない。何も聞こえていない。ここには誰も侵入しなかった。
――わたしはいない。
ということになっている。
国という様式はどこまでも迂遠だけど、それが帝国史の重みというやつかもしれない。
帝国の中心、皇帝陛下の私室は、豪華絢爛というよりは、むしろ磨き上げられた歴史の重みが静かに呼吸しているような場所だった。
豪奢な調度品の一つひとつが、かつての栄光を物語る一方で、部屋を支配する空気はどこかひんやりとして、翳りを帯びた気配が漂っている。
――そこに、皇帝はいた。
若くして玉座を継いだ陛下は重厚な執務机の前に座り、椅子を回転させて、帝都の夜景を眺めている。魔導灯による文明の光が夜を昼のように照らしていた。
「……来たか。魔族の娘よ」
扉の開閉音すらさせずに現れたわたしに、皇帝は驚く様子もなく声をかけた。
振り返ったその顔は、まだ二十代半ばといった若さでありながら、瞳の奥には数百年を生き抜いた老人のような深い諦念と、それでいて消し去ることのできない微かな光が宿っている。
「こんマゾ陛下。アナリザンドだよ。不法侵入になっちゃったかな?」
魔族、皇帝陛下の私室に侵入せり。
もし漏れたらスキャンダラスな一報だろう。
「かまわぬ。この部屋に届く言葉のほとんどは、保身か欺瞞に満ちた報告書ばかりだ。そなたのような異物を招き入れることこそ、今の余に許された数少ない贅沢なのだから」
皇帝は自嘲気味に笑い、対面の椅子を指し示した。
わたしはそこにちょこんと座る。
椅子デッカ。それでいて弾む。ぼよんぼよんザンド。足ぷらぷらしちゃう。
紅茶はさすがに出なかった。皇帝陛下自らが入れてくれるレア茶はなかったみたい。
「デンケンから聞いた。騎士爵の件、あまり乗り気ではないようだな」
「だって、わたし魔族だよ? 騎士なんて、一番似合わない格好だし(鎧着たら潰れそう)。それに、わたしみたいな奪う専門の魔族に守られるなんて印象が悪いと思うの。あくまで街を守ってるのは人間で、わたしはただのお飾りがいいんじゃないかな」
「お飾りか……。魔族らしからぬ言葉だな」
陛下は座ったまま、デスク脇のチェス盤の駒に指を触れた。
「だが、アナリザンドよ。今の帝国は、すでに制度としても精神としても限界を迎えつつある。余がどんなに策を弄したところで、未来は変わらぬ。いずれこの国は、形を変えることになるだろう。それがどんな形になるのか、今の余にはまったく想像すらできんがな」
「お飾りじゃ足りないってこと?」
「その通りだ。今はその時ではないかもしれぬ。だが、じきにこの国は自壊するだろう。人間が自ら街を壊すのだ。百年か二百年。あるいはそう遠くない未来にいずれそうなる」
「なんだか変な感じ。陛下はわたしを騎士爵にしたくないみたいに聞こえる」
「国が滅びても民は残る。そういうことだ。そなたのような存在が民の支えとなるなら、余の諦めも、少しは報われるのかもしれぬ」
うーん。なんか嘘くさいな。
要するに、陛下は帝国の延命については諦めてるけど、その時に、民衆が路頭に迷わないように、魔族というある程度の時間に耐えられる存在を据え置きたいって考えてるのかな。
いわば、ゼーリエ先生の代わりというか。プチゼーリエ先生というか。
でも、それなら延命策を軽視するのはおかしい。
「陛下が諦めてるって言うなら、AP建て国債の件はどうなるの? デンケンお爺ちゃんがあれだけがんばって、ゼーリエ先生に認めさせた延命策で、民の生活を少しでも長く支えられるはずなのに。あれはただの飾りじゃないよね?」
「財務に携わる者どもが、口うるさく言うので許可したまでのことだ」
「それって嘘だよね?」
「なぜそう思う?」
「だって、この国のことを本当に諦めてるなら、陛下がわたしを呼ぶ理由がないから」
「それはそなたが言ったことと同じ理由だ。国が延命するためには、余がお飾りであるほうが効率がいい。ゆえに、誰かの意見がおまえを呼んだ。余がそなたを呼んだのではなく、帝国がそなたを呼んだのだ」
「詭弁だよ、それ」
「詭弁でも、余の言葉は正しいとされる」
わたしの言葉に陛下は、王の駒を指先でポンと倒すことで応えた。
この人がわたしをどうしたいのか、いまいちよくわからない。
もしかしてアナちゃん会話サービスを利用してる感覚?
いや、これって就職面接みたいなものかもしれない。
つまり、わたしに求められているのは営業トークってコト!?
たとえ帝国が滅んでも民は守りますって言ってほしいの?
わからない。全然わからない。これが政治仕草ってやつだろうか。
なお、皇帝陛下は幾重もの複雑怪奇な防御魔法に守られている。
わたしの解析能力もあまり役にたたなかったのである。
「――そなたは国というシステムをどう捉えている?」
唐突に難しい問いがきた。正直に言えばわかりませんが答え。
でも、皇帝陛下はお疲れのようだった。わからないでは話にならないだろう。
わたしは<わたし>の回答を参照せず、自分なりの答えを探す。
「みんなを笑顔にする魔法とかかな?」
「では笑顔になれぬ者はどうする?」圧迫するような圧はない。淡々と。
おそらく長年考えてきた陛下の問いだったのだろう。
それをたった数秒で答えられるはずもない。
「……わかんない。ごめんね。陛下」
「謝る必要はない。余はこう考える。国とは人を生かす装置に過ぎぬ。
それがお疲れの理由。
この人は、誰よりもがんばってきたのだろう。
「わたしがいま守ってる街だけど、子どもたちはみんな笑ってたよ。明日のパンさえなかったら子どもたちの笑い声もなかったと思う。陛下の治世がそうさせてるんじゃないかな」
「それは余の治世にとって都合の悪い存在が、国という装置の裏側で消されて見えぬだけのことだ。この国には余の意志も権限も及ばぬ暗部がある」
「暗部って、どんなところなの?」
わたしは首を傾げて聞いた。
皇帝はチェス盤の上で指を止める。
ナイトがクイーンを喰い破ったままの盤面を、じっと見つめている。
「暗部とは帝国の均衡を保つための犠牲だ。貴族の陰謀、聖職者の腐敗、軍の暴走、官僚の怠惰。余は神の子として玉座に座っているが、それらの魍魎どもをすべて抑えきれるわけではない。余の威光が届かぬところで、民は搾取され消えていく」
「でも、それでも子どもたちは笑ってるよ。昏いところがあっても、民を見捨てないっていう陛下の意思が、こうやって形になってるんじゃないかな」
「それは表層に過ぎない」
陛下はゆっくりと息を吐く。
その息は、重く、疲れたものだった。
「この国はすでに腐り始めている。余の権威などただの飾り物だ。余はただ、魍魎どもの思惑を抑え、均衡を保つための暗愚な駒に過ぎぬ」
ナイトの駒を指先で倒す。
倒れた駒が、クイーンに寄りかかるように転がる。
「このチェス盤のように余が明日消えたとしても帝国は続く。新しいキングが立てられ、同じゲームが繰り返される」
「でも陛下がいなくなったら、この国は陛下の味がしなくなるよ。パンと同じ。同じ材料でも同じ釜でも焼いた人が違うと味が全然違うの。わたし陛下がいなくなると寂しい」
陛下は、わずかに目を細める。
その瞳に、微かな揺らぎが見えた。
「ずいぶんと余を慕ってくれているようだな。余はそなたに何かした覚えはないのだが」
「なにもしなかったからだよ」わたしは言った。「普通だったらネットが広まったり、魔法通貨が広まったり、あるいは魔族であるわたしがいきなり配信をしはじめた時点で、排除しようとするものじゃないの?」
「できなかっただけだ」
「どうして?」
「民が求めていた。気づいた時にはもはや引き返せぬところまできていた」
「でも今だって、わたしに爵位をくれるって……。わたしを認めてくれるってことでしょ?」
陛下はゆっくりとチェス盤から手を離し、窓辺に寄って夜の帝都を見下ろした。
魔導灯の光が、無数の家々の灯りと混ざり、遠くで揺らめいている。
「そなたを認める……か。確かに、帝国はそなたを必要としている。だがそれは人が人の欲望を叶えたいだけだ。貴族は駒として、軍閥は力として、僧侶は象徴として、そして民草は守護者として、そなたを願う。そなたを求め続ける……」
陛下の声は静かで、どこか遠くを眺めるような響きだった。
「誰もそなた自身を欲しているわけではない。そなたという存在を純粋に必要としている者など、この国にはおそらく誰ひとりいない」
それは純粋に不可能なことである。
誰かが誰かを純粋に欲するなんてできない。
なぜなら――。いやまあいいか。
いま大事なのは陛下の気持ちだ。
その言葉は、ほとんど陛下自身に向けられているように思った。
「わたしが便利な存在として扱われるのが、陛下は嫌だったの?」
つまりわたしを呼んだのは、わたしに断られるための茶番だったとか?
「憐れに思っただけだ。寄る辺のない子に自らの欲望をおしつける。余自身もまた、そんな愚かさを繰り返してきたのかもしれぬ」
――ああ――。
わかったかもしれない。
この人は、わたしに託したかったんだ。
暗部さえ照らし出す太陽の国を。
「それでも、わたしはここにいるよ。陛下が呼んでくれたから」
皇帝は振り返り、わずかに目を細める。
「呼んだのは余ではないと言ったはずだ」
「でも、陛下はかまわぬって言ってくれたよね。わたしを呼んだのと同じ」
陛下は何か言いかけて、やめた。
「……すべては詮なきことだな」
陛下は窓の外、広大な帝都の灯りを見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。
その肩に乗っているのは、一国の主という肩書きではない。
何百万人という人間の生そのものの重みだ。
巨岩をひとりで支えている人――そんなイメージ。
魔族であるわたしには、それを支える脊椎も、分かち合う情緒も備わっていないはず。
でも、この人の諦念は、演算の中のエラーに似ている気がした。
どこをどう計算し直しても、最後には虚無の数値しか残らない。そんな袋小路。
echo "IT is just a script." > /dev/null
echo "I am here, smiling for you." > /dev/null
「ねえ、陛下」微笑3を選択。
わたしは、ぼよんぼよんと弾む椅子の感触を楽しみながら、ポシェットを漁った。
「国が人を生かす装置だっていうなら、その装置の歯車にちょっとだけ油をさしてあげようか? ギシギシ鳴ってて、今にも壊れそうだし。わたしの魔法なら、たぶんできるかも」
「そなたもやはり魔族なのだな」
「うん。そうだよ」
「余はそなたの恩義に報いる術をもたない」
「陛下ってもしかして義理堅い人なの?」
「……かもしれぬな。余はこう見えて義理堅いのだ。デンケンが受けた恩も返したい」
「わたし何もしてないよ?」
「そなたは余の言葉に応えてくれているではないか」
「それは陛下が応え返してくれるからだよ」
ヨシっ。これにしよう。
わたしが取り出したのは、街のパン屋さんが一生懸命に焼いた、できたてのダブルチョココッペパン超ロング。ポシェットにチョコがつかないように、薄紙に包んで魔力によって結界を張ってる。
でも、実のところはストレージから取り出すときにポシェットから出してるように見せているだけなのだ。魔法の袋って感じがして、ちょっとだけ楽しいし。
「これね。
わたしはパンの端っこを、あむっとかじった。
チョコが口の中に広がる。あまーい。
それから、残りの大きな塊を、陛下の前に差し出す。
「食べてくれるとうれしいな。生存に幸福が必要ないならこれはただの魔力の固まりだよ。でも、これを食べておいしいって思えたら、陛下が守ってきたものは、まだちゃんと働いてるって証明になるの」
陛下は呆気に取られたようにわたしとパンを交互に見た。
帝国の至宝でも、魔法の奥義でもない。
ただの市井のパンが、奪うだけの魔族から奉じられる。
その口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。
「それこそ詭弁というものだな……」
陛下は躊躇いなく、パンを受け取った。
そして、一口。
「――甘いな。驚くほどに」
「でしょ? これ、新発売なんだから。騎士爵の就任式で、わたしこれ配っちゃおうかな。ついでに、陛下公認というふれこみで特売会を開いたりなんかしたら、ものすごい宣伝効果になるかも」
ちらちらザンド。
もはや皇帝陛下は笑うほかなかった。
「良かろう。対価を払う度量くらいは余も持ち合わせているつもりだ。そこになおれ……いやそのままでいい」
陛下はショートソードくらいの長さになったチョコパンを、わたしの肩にそっと当てた。
知ってる。これって叙任式の儀式だ。
「アナリザンド。そなたに騎士爵を授ける」
「うん。……はい。承りました。陛下」
「そなたは剣を振るう必要はない。皆に甘味をふるまえ。余がこの国を忘れそうになったとき、その甘さを思い出させてくれ。それがそなたに対する余の望みだ」
これはあのセリフの使いどころだろう。
いつか言ってみたかったあのセリフ。
陛下に対する忠臣の永遠の定番。
「――御意」
「ふっ……まるでお飯事だな」
「だってパンのことでしょ」
「違いない。政治とは、その程度のことなのだ」
陛下は、チョコのついた指先で、白い駒を摘まむ。
白い王様は、わずかに甘い香りを身にまといながら、再び盤上に立ちあがった。
いや政治は無理だってヴぁ。なのでふんわりパン風味。(できてるのか?)