魔族少女のエロタナティブ   作:アナリザンド

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アメイジング・グレイス

 

 

 

 街の鐘の余韻が、風に溶けていく。

 その静寂の中で、不意に、澄んだ声が響いた。

 

 街を見下ろす崖の位置。

 そこに腰かけながら魔族が謡う。

 

大いなる恵み(アメイジング・グレイス)甘やかなる旋律よ(ハウ・スウィート・ザ・サウンド)

 

 透明で、正確で、情感の乏しい声。

 

 祈りのようでいて、祈りではない。

 慰めのようでいて、慰めではない。

 

 ただ旋律だけをなぞる。

 ああ、中間項なき存在よ。

 

「私のような()()()()でも救われた……」

 

 ソリテールは微笑んでいる。

 だがその目は、街の下で交錯する魔力の残滓をただ観測していた。

 救済の歌を、救済の意味を理解せずに歌う。

 

 いや、理解はしている。

 理解したうえで、切り離している。

 

「魔族が歌を謡うなんて世も末だね」

 

 ソリテールのすぐ後ろ。わずか十メートルほどの距離にフリーレンは立っていた。

 

 本当は高みの見物を決めこみたかったところだ。最近の人間は自分の想像を超えるスピードで進化している。それで実際にフェルンとシュタルクを先に行かせたわけであるが、そういうわけにもいかなくなった。

 

 ここに魔族がいる。

 しかも、血臭と死臭が周囲に漂うほどのおぞましい存在が。もしかすると決定的な瞬間に介入するつもりだったのかもしれない。あるいは、部下である魔族が街を蹂躙する様を見届けたかったとか。魔族には戦いを好まない個体も少なからずいる。

 

 ソリテールが振り返った。HUDを使い、フリーレンの魔力発生の兆候を見定めながら、何十年ぶりに逢った友人を出迎えるように微笑を浮かべた。

 

「歌、うまいでしょう? どうして歌うのかはわからないけど、私にはそれができるの」

 

「おまえは誰だ?」杖先を固定し、フリーレンが聞いた。

 

 ソリテールは応えない。代わりに回答する。

 

「あなたはフリーレンね」

 

 否定ではない否定形。

 相手の存在を応答可能性ではなく、ただの現象として見定めている。

 

「知っているのか、私を」

 

「有名だもの」過剰なほどの微笑。「人間たちは君を英雄にしたがっている。便利な記号としてね。よかったわね。大人気よ、葬送のフリーレン」

 

「記号でもいい。私は勇者一行の魔法使いだ」

 

「またそれなの? あなたはアップデートすらできない古臭い記号のままなのね」

 

「その古臭い記号がおまえたち魔族を葬ってきた」

 

「ヒンメルはもういないじゃない」微笑。「なんて――アウラは最期に言ったのかしら?」

 

「……」

 

 ソリテールはゆっくりと立ち上がる。

 視線を一度もはずさず、不敵な笑みをこぼしながら。

 ゾルトラークを撃ったとしても防がれる予感があった。

 それほど、この魔族は得体が知れない。

 ともすれば、アナリザンドよりも。

 

 崖の下で、爆ぜる魔力が霧を裂いた。

 遅れて衝撃が届く。石壁が崩れ、黄昏時に灯りかけた街灯が倒される。

 

「いい音ね。これも人の歌と言えるかもしれない」

 

 ソリテールは映画を鑑賞するかのように楽しげに呟いた。

 

「フェルンちゃんだったかしら。あの子は強い。でも迷いがある。魔族すら救いたいと願っている。アナリザンドの妹として――優しい理想を抱えたまま戦っている」

 

 遠くで閃光が弾ける。

 

「だから死ぬかもしれない」音が遠くで響く。「そのとき君は干渉するのかな?」

 

「しない」

 

 くすりと笑うソリテール。

 

「そう。君は干渉しない。人はすぐ死ぬものね。勇者ヒンメルと同じ」

 

「ヒンメルは死んでない。私の中で生きている物語だ。フェルンも――」

 

「君は実体(インスタンス)ではなく、種族(クラス)に着目しているのね」

 

「それはおまえのほうだろう」

 

「いいえ。私は人間の実体を見ているの。切り裂かれた時の断末魔。裏切られた時の意外そうな表情。死にたくないという絶望。どれもひとりひとり異なる、かけがえのない観測結果だわ。私は人間という存在を愛しているの。君よりもずっとね」

 

「虫唾が走る……。おまえたち魔族にとって言葉はただの記号だ。殺し喰らい欺くためのサインだ。おまえは人間をただの物としてしか見ていない」

 

「いいえ。違うわ。サイン化しているのは人間のほう」ソリテールは虚無の言葉を返した。「物語。神話素。記号論。それら言葉も人間たちが創り出したものに過ぎない。ネットは君という存在をおもしろおかしく脚色しているわ。例えば――君が焼肉を食べ過ぎるというだけで、それが君の本質として流通する。象徴を劣化させている」

 

「人間が私をどう評価しようとかまわないよ。愛称みたいなもんでしょ」

 

「エルフらしい時間感覚ね……。でも、人間たちはそうは見なさない。例えば、魔族が絶滅したとして、人間たちの矛先が次に向くのは誰かしら――。言うまでもなく英雄よ。別種族であるエルフのあなたは真っ先に槍玉にあげられる」

 

「魔族らしい妄言だね。そんな言葉は聞き飽きたよ」

 

「君は薄々気づいているんじゃないかな。魔族がいたから、魔王がいたから、人間は勇者という存在を認めることができた。魔王がいなければ、それは秩序の破壊者。一般的な力を持たない人間にとって、敵がいなければ勇者は邪魔な存在なのよ」

 

 ソリテールは、崖下の街の灯りを眺めた。

 黄昏、太陽の残滓は急速に夜の闇に覆われていく。

 

「視えるかしら。ネットを観測していたらわかるわ。この街には誰でもない誰かがたくさん住んでいるの。街はいま呼吸停止寸前の老人みたいだけど、どこかには勇者の活躍を寝物語として娘に聞かせる父親がいるかもしれない」

 

 彼は祈っている。無力に、無責任に祈っている。

 魔族に街が襲われていても、勇者を信じ祈っている。

 そんな姿が実際に見えるわけではない。だが、途切れ途切れの言葉が、その言葉の主体の存在を伝えてくる。ソリテールが言いたいのは、そういうことだ。

 

「彼は今、あなたを尊敬している。信じてもいる。でも同時に、兵士の維持費や税の高さに文句を言っているわ。敵がいる間は、彼は恐怖のために我慢できる。けれど、怖いものがなくなったらどうなると思う?」

 

 ソリテールが石を拾い谷へ落とす。音は聞こえない。

 

「矛先は常に内側に向く。内側が外側になるの。境界線は常に揺らぎ差延が発生する。勇者は――

 

 数十年で風刺画になり。

 数百年で商品になり。

 数千年で風化する。

 でも物語は死なない。

 醜く生き続ける。

 

 脚色され編纂されながらも誰かが引き継ぐからよ」

 

 ソリテールはゆっくりと微笑む。

 

「エルフは便利な存在だわ。長命で、理解されきらない異物。だから物語の橋渡し役にちょうどいい。英雄が朽ちても、あなたが次を育てる」

 

 胸元で手を組み、祈る仕草を真似る。

 

「私は英雄を育ててるつもりはないよ」

 

「ある少女がいたとしましょう。いつも遠くを見ていた幼い少女。その子はあなたの隣で魔法を学んでいた、君は魔族を殺すことを教える。英雄になる術を教える。あなたが象徴である限り、彼女は正義でいられる。たとえ彼女が死んだとしても他の誰かが英雄の名を引き継ぐから。つまりね――君は物語を終わらせないための装置なの、物語の延命装置――それが君という存在」

 

「違う」

 

「いいえ。違わない。君の時間はあらゆる価値観から距離を置いている。主観ではなく客観に置いて、つまり、構造の結語としてそうなる。それを人間たちは空観と呼ぶのよ」

 

「空観?」

 

「徹底的な相対主義と言えば少しはわかりやすいかもしれない。多様性のパラドクス。消極的虚無主義。アナちゃんも言ってた言葉。つまりそれはあなたたちの言葉」

 

「ずいぶんアナリザンドにご執心なんだね」

 

「ファンだもの」ソリテールはくすりと笑う。

 

「あいつの言葉なんか知らないよ。魔族の言葉なんて私は知らない」

 

「そうなの? じゃあ人間のことはどう? 君は人間のことをどれだけ知ってる?」

 

 風が、崖の縁を撫でる。

 フリーレンは答えない。

 ソリテールは急かさない。

 

「寿命。恐怖。群れ。縮小再生産される倫理。記号化される感情」

 

 ソリテールは指折り数えるように謡う。

 

「人間はね、自分の心理を理解していないわけじゃないの。ただ、直視しないだけ」

 

 崖下の家の窓に、父親の影が揺れる。娘はもう眠ったらしい。

 

「彼は勇者を尊敬している。本当にそう思っている。でも同時に、どこかで願っている。自分より高みにいる存在が、いつか同じ高さまで降りてきてくれないか、って。英雄が敵を打ち払うことを祈りながら、どこかで英雄が殺され醜い死体に変わるさまを夢見ているの」

 

『一級魔法使い様もざまぁねぇな』

『アンデア君。一級魔法使いだろ。しっかりしろよ』

『天才様がきちんと外敵は殺してくれないとな。税金はしっかり払ってるんだ』

 

 そんな言葉も星のように流れた。流れることで残したかった生の軌跡。

 誰かにとっての善意は、誰かにとっての悪意になる。

 

 フリーレンの視線が、わずかに動いた。

 

「敵がいるあいだ英雄は象徴でいられる。束ねられる。繋がる。連帯する」

 

 ソリテールは微笑まない。

 ただ貼りつけられたテクスチャのように微笑を浮かべている。

 

「敵がいなくなった瞬間、象徴は比較対象になる。切断される。物語は下世話なレポートに堕ちる。誰も勇者の本当の姿なんて見ていない。最後に待っているのは物語の死。絶滅」

 

「それが人間の自由だからだ」フリーレンは言った。

 

「いいえ。君は長命だもの。何度も見てきたでしょう?」

 

 村から招かれ、讃えられ、数十年後に“昔話”に押し込められる構図を。

 どんな英雄も最後には苔むした石像と化す様を。

 

「人間は英雄の物語を愛する。でも英雄が生き続けることは許さない。最終的に生き残るのは非連続で不確かな非物語。匿名によって囁かれ喚き散らされるだけの理想。幻想。正義。真実。善意。愛」

 

 ゆえに――。

 哂う。

 その天啓に。神の啓示に。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それを人は愛と呼び、善意と呼び、物語と呼ぶ。

 だが未去勢の存在にとって、魔族にとって、それは個体境界を溶かす毒に他ならない。

 

「あは! あはははははははは。そう。これが――()()()()()()()()()()()()なの。私はわかったの! 理解したのよ! 魔族である私が! 人間たちが光を――()()()()()()()()()()()()()()()。私は史上初の悪意を理解した魔族なんだわ」

 

 愉悦。そこには純粋な魔族の姿はない。

 人間たちの光の闇という構造を理解してしまったソリテールは、既に魔族という生物学的限界を逸脱しはじめていた。穢れた言葉の海に身を浸した結果がそこにある。

 

 だが、フリーレンは――。祈るように一瞬だけ眼を閉じた。

 

「おまえはあいつのようにはなれないよ」

 

 洪笑がピタリと停まる。

 

「……何が違うって言うの? 私は悪意を理解してるのよ」

 

「おまえはまだ誰かを失った痛みを知らない」

 

「アナリザンドがそれを知っているとでも? そんなものは私たちにはないわ」

 

「わからないよ。あいつのことなんて」

 

「矛盾している。君はあいつが痛みを知ってると言った。なのに――不合理だわ……。いや、あなたも人間のように魔族の嘘に騙されているの? あの子がフェルンちゃんの死体の前で泣いてみせたら心があるなんて思うのかしら」

 

「知らない。でも知らないまま、そうかもしれないと思っている」

 

「ふ……ふふ。あはは……ようやくわかったわ。君がどうしてアナリザンドにそんな曖昧な態度をとるのか。答えを保留しようとするのか」

 

 ソリテールは、含み笑いをたっぷりと浮かべた。

 やがて、笑いは高らかな感情の揺らぎになり、静寂を切り裂く洪笑へと変わる。

 禍々しい悪意を知った魔族の嗤い。

 

「君に教えてあげる――。君はあの子に呪われているの。ずっと前から」

 

 悪意の風が吹いた。

 遠くで、魔力が爆ぜる音がした。

 

「可哀想な人……」

 

 

 

 

 

 フェルンが街に到着したとき、状況は惨憺たる有様だった。

 膝をついた一級魔法使いアンデアは腹を押さえ、顔には脂汗がにじんでいる。

 姉の分身たる168は羽をむしられ、無数の傷を負っている。

 この場には、アナリザンドはいない。――どこへ。

 

 いや、それよりもフェルンはずっと前から、アナリザンドに逢った頃から、殺し合いが好きではなかった。それどころか戦うことすら好きではなかった。それは姉の思想に殉じたというよりは、自分が桜の木に共感したころから続く呪いのようなものだった。ここで無為に魔族を殺せば、アナリザンドは心を痛めるだろう。

 

 姉を言い訳にして、姉に依存して、姉に甘えて。

 それで殺さない選択をする。境界線のギリギリまでは遅延させる。

 

――そんな惰弱ともとれる思想。

 

 だから、フェルンは口を開く。

 戦う前から戦ったりはしない。

 

「ひとつお聞きしたいのですが」

 

 対するは目の前にいる片角の青年魔族。

 そして目隠しをした刀で武装した少女魔族。

 魔族は、人間と語らおうとする存在である。

 それは人を騙して喰らってきたという本能的所作でもあるが、魔法使いでもある魔族が唯一、自らの価値を他者にこびりつかせる手段でもあるからである。

 問いかけられたら応じてしまう。

 そうしなければ、魔法生命体の精神構造に罅が入ってしまうからだ。

 それほどに魔族の精神は脆弱なのである。

 

「何者だ。いや愚問か。おまえも一級魔法使いだな」メカクレが確認するように聞いた。

 

「一級魔法使いフェルンです」

 

「たいした速さだが――、ひとりで現れるとはずいぶんな自信家だ」とネベル。

 

「ひとりではありません」

 

 遅れて霧の中を駆けてきたのは戦士シュタルク。

 持ち前のタフネスで、汗ひとつかかずに、巨大な斧をかまえたままこちらにやってきた。

 状況をいまいち把握しきれていないようだが、目の前に傷ついたアンデアの姿と、姉アナリザンドに似た分身の姿を見て、シュタルクの腹筋に力がこもるのがわかった。

 だが、視線は一瞬だけフェルンにやって、無言の連携を測ろうとしている。

 これまでの旅の中で培われた、阿吽の呼吸。

 交渉は続けてフェルンの役目だ。

 

「ここは退いてくれませんか。いずれここには一級が集まります」

 

「何を言うかと思えば、ひとりがふたりになったところで我々を止められるとでも思っているのか。他のやつらがやってくる前に、街を蹂躙しつくせば済む話だ」

 

――もう遅いのかもしれない。

 

 フェルンは思考より先に結論を感じ取る。

 それでも淡い希望を抱いているのは、アナリザンドの泣く姿を見たくないからだ。

 おそらく、アナリザンドは選んだのだろう。ここにいないのがその証拠。

 ネベルやメカクレの優先順位を落とした。

 それでも彼等が死ぬのを望んではいない。ここに私がいるのがその証拠。

 つまり、フェルンはアナリザンドに託されていると感じていた。

 

「人間たちは自分たちが侵略されれば、連帯し、互いに守り合おうとするものです。いまあなたがたが街を破壊すれば、今度はもっと多くの人間があなたがたを滅ぼしにやってきます」

 

「上等だと言っている」メカクレは口元を緩めた。「その時はもっと多くの人間を殺せるからな」

 

「退いてはいただけないのですね」

 

「もう言葉遊びには飽きた」メカクレは刀を掲げる。

 

「貴様らなど霧の中にすべてを沈めてやる」ネベルが錫杖を地に突き刺す。

 

 時間と空間が一時停止した。

 フェルンの杖先が一瞬動くその刹那。

 

 メカクレが先に到達した。

 

 霧の誤認作用はまだ続いている。いくら魔力探知に優れているとはいえ、フェルンもその影響を免れない。速射のゾルトラークも、その発射元であるフェルンの認識を発生点とする。

 

「フェルン!」

 

 ガイィィィン。シュタルクの斧がメカクレの刀と激しく衝突した。

 

 つばぜり合いをしながら、シュタルクが声をかける。

 

「ここは街中だ! 姉ちゃんとおっさんはさっさと逃げろ」

 

 剣戟を繰り返しながら、シュタルクはゆっくりと後退している。

 後退することで、メカクレを誘っている。

 街中という言葉は、フェルンに向けられたものだった。

 自分は外に誘導する。だから、ここでネベルを討て、と。

 

 No.168は淡い琥珀色の光を掌にまといながら、アンデアの回復を優先している。

 アンデアも168も動ける状況にない。アナリザンドのような超常の魔力を持たない168の回復魔法は、かなりの時間をかけてゆっくりと傷を癒す。おそらく致命に達していたアンデアの傷をいやすには少なくとも30分以上、あるいはそれ以上の時間がかかるだろう。

 

「一対一をご所望か、人間の戦士。いいだろう……そのほうが面白い。いざ尋常に――」

 

「かかってこい。おまえの剣はぜんぜん重くねえんだよ」

 

「ぬかせ。小僧!」

 

 シュタルクが火花を散らしながら、メカクレの剣士を大通りの向こう側――外へと力尽くで引き剥がしていく。重い斧の打撃音と、鋭い抜刀の音が遠ざかる。

 

 残されたのは、深い霧に包まれた広場。

 傍らに小さく固まるアンデアと168。

 そしてフェルンと、錫杖を携えた魔族ネベル。

 

「フェルンとか言ったな。おまえは……あの異常な小娘のお気に入りだったな。つまり異常者の仲間というわけだ」

 

「あなたは、アナリザンド様のネットを使ったことがあるのですね?」

 

 フェルンは聞いた。

 

「そうではない。霧は無制限に切断する。その過程で、あの小娘が出す塵の山に触れてしまったというだけのことだ」

 

「あなたにとって、霧は防衛なのでしょう。ですが、そうする必要はないのでは? アナリザンド様はあなたも救いたいと願ってるはずです。わたしたち人間も、あなたがたが矛を収めるなら、これ以上戦う理由を持ちません」

 

「それがいい迷惑だと言っている!」

 

――カツーン。

 

 ネベルが錫杖を地面に突く。

 波紋のように広がった魔力が、フェルンの五感をさらに狂わせた。

 

「……っ」

 

 フェルンは即座に杖を向け、ゾルトラークを放つ。

 通常の魔法使いであれば回避不能な、無詠唱の光線。

 だが、光はネベルの数センチ横を虚しく通り抜けた。

 

「狙いが甘いな」

 

 ネベルの声が右から聞こえる。しかし、フェルンの魔力探知が示す彼の位置は正面だ。視覚、聴覚、魔力探知。そのすべてが異なる座標を示している。狂っている。ズレている。思考すら定まらない。

 

 フェルンは自分の不利を悟った。相性が悪すぎる。

 フェルンの強みは、徹底的に削ぎ落とされた最短経路による速射にある。

 しかし、そのプロセスは以下の論理で成立している。

 

 索敵: 魔力探知で敵の核を定義する。

 演算: 距離、弾道を思考より速く、無意識下で確定させる。

 発射: 定義された一点へ反射に近い速度で魔力を叩きこむ。

 

 ネベルの霧は、この索敵を根本から破壊していた。認識位相をずらされたフェルンにとって、世界は鏡張りの迷宮と同じだ。撃てば撃つほど、自分の認識のズレが蓄積し、焦りが精度を狂わせていく。

 

――ゾルトラーク。

 

 二射、三射。

 空を裂く光条が霧を白く焼くが、ネベルの衣をかすめることさえない。

 

「無駄だ。おまえの魔法は直線上にある。だがこの霧の中では、直線すらも曲線に捻じ曲がる」

 

 ネベルの反撃。

 ゾルトラークに似た、攻撃力は高くないが、決して低くもない攻撃魔法。

 霧そのものが刃となり、フェルンの防御魔法の側面を叩いた。

 

「くっ……!」

 

 削られる。衝撃で姿勢が崩れる。

 フェルンは冷静さを保とうと努めるが呼吸が荒くなる。フェルンの速攻ビルドは、相手を捉えてさえいれば最強最速の攻撃力を誇るが、長期戦や、このように当てること自体が困難な不確定領域での戦いには適していない。

 

 強い。

 これは魔法を撃つ技術の問題ではない。

 フェルンは背後で傷ついた168とアンデアを感じる。

 退けない。

 だが、今のまま撃ち続けても、魔力を浪費するだけで終わる。

 そんな予感がある。死の予感。

 

「認識が……定まりません……」

 

 目の前のネベルが二重、三重にブレて見える。

 霧がフェルンの生物学的な眼を曇らせるのではない。

 フェルンの魔法使いとしての計算をバグらせているのだ。

 

「終わりだ。速さしか取り柄のない小娘」

 

 ネベルの錫杖が不吉な光を放ち、広場全体を飲み込むような大規模な魔力の収束が始まる。

 霧を晴らす手段を持たないフェルンに、この広域の暴力を回避する術はない。

 

 それでもフェルンは諦めない。

 フリーレンが大敵と戦う際に教えてくれた心構え。

 敵を理解しようとしない。敵を敵として冷徹に処理する。

 

――ゾルトラーク。

 

 一撃。

 

「なんだ。それは……。くだらない。破れかぶれの一撃か」

 

 霧の中で、ネベルが嘲った。

 

――ゾルトラーク。

 

 二撃。三撃。

 

 てんで見当違いのほうに向けて、フェルンは発射する。

 

 正解など求めない。失敗など恐れない。

 外壁は破壊され、家の壁は壊れる。街灯は倒れる。

 

「無意味な足掻きはやめろ。美しくない。魔法使いとしての誇りはないのか?」

 

――ゾルトラーク。

 

 シュン。ネベルの頬を光がカスる。

 

「なぜ、当たる……。貴様。演算すらしていないのか?」

 

 結果も見ずに撃っている。

 それは考えなしに魔法を放つのと変わらない。

 自我を消し、思考もなしに撃ってるのと同じ。

 虚無の魔法――。そんなものが認められるはずもなかった。

 魔族にとって、唯一の現実への蜘蛛の糸を否定する。

 魔法使いにとっての誇りを侮辱する行為だったからだ。

 

「私にはあなたがいる場所はわかりません。でも撃ちます。届かせてみせます」

 

「やめろ……そんなでたらめな魔法……」

 

――ゾルトラーク。ゾルトラーク。ゾルトラーク。

 

「やめろと言っている!」

 

 ネベルも反撃した。

 しかし、反撃した瞬間、その座標は撃ちぬかれる。

 反撃よりも速いスピードで覚知される。

 

「なんだ……おまえは……。おまえはいったいなんなんだ?」

 

 当然だった。霧がいかに認識にズレをもたらしたとしても、攻撃を加えた瞬間、それは確定されたデータとして流れる。その一瞬のデータを読み取って、フェルンは反撃しているのだ。

 

――ゾルトラーク。

 

 何度目かの光条がついにネベルを捉えた。

 肩口を大きく削られ、錫杖がカランと地面に倒れる。

 フェルンは、杖をかまえたまま、一歩一歩確定へと近づく。

 認識のズレを限りなくゼロへ近づけるため、杖が触れるほどの距離へ。

 目の前いっぱいに、感情を感じさせないフェルンの姿が近づく。

 一メートルほどの距離。霧すら感じさせない近さへ。

 

――光が灯る。

 

 滅殺の光。

 

「撃つな……。やめろ。やめてくれ」

 

 ネベルはここで初めて命乞いをした。

 

「わかりました」フェルンはゆっくりと杖をおろした。「あなたがやめてくださるのなら、わたしもやめます。後も追いません……。あの目隠しをした方と共に街を出てください。餓えているなら後で、食料を届けさせましょう。それであなたは足りるでしょうか?」

 

「…………」

 

 次の瞬間、霧が濃くなる。

 殺意。ネベルの掌に魔力の塊。

 

――ゾルトラーク。

 

 フェルンはすでに撃っていた。

 杖ではなく、空間に設置された魔法陣が四方からネベルを貫いた。

 

「……読んでいたのか。まさか……」

 

「いいえ」フェルンは哀しげに漏らす。「あなたが撃つなら、撃てるようにしていました」

 

「人間は嘘つきだ……」

 

「そのとおりです」

 

 介錯のゾルトラーク。

 こうして、接続の対比構造たる霧を魔法にした魔族――。

 ネベルは祓われた霧とともに静かに消えた。

 

 

 

 

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