魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
「なんか増えちゃいましたよ。レヴォルテ様」
ミミがファイティングポーズをとりながら言った。
そんな竹の子がにょっきり生えてきたみたいな表現せんでも。
と思わなくもなかったが、結局のところミミは命のやりとりをしたことがないのだろう。
これまでの観測結果からもたらされた推測であるが、ほぼ事実だと思われる。
彼女の食性は、
――スカヴェンジャー。
別名死体喰い。
ミミの能力だと、戦闘のおこぼれに与るのがせいぜいで、あるいはギリギリ暗殺するのがやっとで、行きずりの孤独な旅人のひとりくらいは食べたかもしれないけれど、それも数えるほどしかなかった。命を数えるなんてやっちゃいけないことだとは思うけど、わたしが希望を抱いているのは、あのソリテールに比べれば死臭がさほど漂っていないことだった。
死に浸りきっていない。殺しに耽溺していない。
命のやりとりをおこなったことがない。
自分という存在をさほど疑ったこともなければ、レヴォルテを盲信し、レヴォルテの意図はどうであれ庇護され、ミミの心は格納されている。
つまり未熟。未成熟。卵で言えば半熟ってところ。
まだ心が柔らかくて、まだ自分の考えすら固定しきれていない。それが唯一の希望。
だけど――どうしよう。
ゲナウ先生は、視線だけで殺せるならとっくにレヴォルテを殺せる程度には、憎悪と殺意に満ち溢れた眼差しで、レヴォルテを睨んでいる。ミミに対する視線も同じ。
いくらミミの風貌がかわいらしい少女のそれだとしても、ゲナウ先生にとっては排除すべき敵だ。ほんの少しの迷いもなく、ミミの小さな身体は寸断される。
「ゲナウ先生。もう一度だけわたしにチャンスをお願い。五分でも十分でもいいから」
「下がれ。アナリザンド」
まったく熱のない言葉。
しかし一皮剥けば、マグマのような覚悟が煮えたぎっている。
たった一言で、わたしの時間は終わった。
「一級魔法使いだな。どこかで見た顔だ。何者だ?」
レヴォルテは油断なく剣を構え、突然現れた刺客――ゲナウ先生を見ている。
ゲナウ先生は、わたしの前に立つ。
もうそこは剣の届く距離。
わたしは守られたわけじゃない。邪魔者扱いされたのだ。
「手を出すなよ。おまえは邪魔だ。下がれ」
「やだ!」
「貴様はゼーリエ様の弟子だろう。黙って見ていろ」
「わたしはわたしだよ! 先生の弟子でもあるけど! 先生だってそうでしょ」
「私は魔族を殺す者だ」
無視された形になったレヴォルテはわずかに苛立ち、もう一度尋ねた。
「何者だと聞いている。人が尋ねているときに無視をするな」
「お前は害虫を駆除するときに、いちいち名乗りをあげるのか?」
空気が凍った。
ミミの身体が、ぴくりと揺れる。
レヴォルテの四剣が、静かに角度を変え、突き刺すようにゲナウ先生を狙う。
「ずいぶんと変わった個体だ。おまえたち人間は対話を選ぶ習性があるというのに。そこの魔族の小娘ですらそうしていたぞ」
「おまえはそれを望んでいないだろう。害虫を殺すのに理由はいらん。わざわざ対話などという迂遠な手段を選択する必要はない」
「そのとおりだな。話がわかるやつだ」
戦闘こそがレヴォルテの望み。
ゲナウ先生も同じ。
だから対話が成立する。
成立してしまった。
「殺し合いに話など不要だ!」
先に動いたのはゲナウ先生だった。
四本の剣の隙間を縫うように、鋼鉄の翼が旋回し、玉座の間の石柱をバターのように切り裂く。レヴォルテは巨躯に似合わぬ速度でそれを受け流し、蛇の下半身でゲナウを叩き潰そうとする。
――俊敏。
蛇よりも俊敏。人間の反射速度を遥かに超えるスピードで尾をふるう。
鋼の黒翼が防御膜のように展開され、尻尾をはじいた。
わたしのシミュレータでも予想できない事態が起こっている。
ゲナウ先生の魔力数はけっして高くはない。せいぜいが350程度しかない。
だが、その運用方法が驚くほどうまい。
――そうか。HUDか。
ゼーリエ先生が創った人間のための魔法は、一級魔法使いなら誰もが使える魔法となっている。それは様々なパラメータを数値化し、自分によって有用なカスタマイズをすることも可能だ。
例えば、魔力数が1000の個体も全身にまんべんなく魔力が行きわたっているということもなく、剣をふるえば、腕の筋肉に力が入っているというように、力のいれどころがポイントごとに絞られる。
だから、手数のひとつひとつで、局所的に上まわるなんてことも可能だ。
レヴォルテは人間よりも遥かに身体能力が優れる。力も速さもゲナウ先生を圧倒的に上まわっている。それでもレヴォルテの剣は宙を切る。当たらない。そしてゲナウ先生の攻撃は致命的ではないものの細かい傷をレヴォルテに与えた。
――このままであれば、ゲナウ先生が押し切るかもしれない。
ゲナウ先生の冷徹な一撃一撃が、レヴォルテの四本腕の剣筋を、精密機械のように削り取っていく。魔力数1000、身体能力の極致。そのレヴォルテですら、一級魔法使いの
この街がまだ村だった頃、レヴォルテの手勢が襲ってきたのかはわからないけれど、魔族に蹂躙された過去があるのはまちがいないのだから。
あるいはそれこそが、ゲナウ先生流の守りたいという意志なのかもしれない。
「貴様。私の魔法を知っているな……」
レヴォルテが、剣を二本振るい守りをかため、もう一本は地を切り裂きながら、もう一本の剣が袈裟斬りに迫る。ゲナウ先生はこれを回避。
ゲナウ先生はけっしてレヴォルテの剣を真正面から受けない。
レヴォルテの魔法は単純だ。剣の重さを自在に変える魔法。
時には羽のように軽く、時には巨岩のように重く。
だから、剣をまともに受ければ命はない。あくまで真正面から受けて立てば。
流線形の翼の魔法は相性がいい。
だが、それには極限まで研ぎ澄まされた集中力を要する。
「種の割れた手品などに価値はないな。貴様はここで終われ。レヴォルテ!」
――ギィィィン!!
硬質な金属音が夜の静寂をズタズタに引き裂く。
ゲナウ先生の黒翼が、レヴォルテの二本目と三本目の剣を同時に弾き飛ばし、その軌道のままレヴォルテの鱗のような腹筋へと肉薄する。
「……チィッ!!」
レヴォルテが初めて苦い声を漏らし、巨躯を捻って回避した。
石畳を削る蛇の尾。しかし、ゲナウ先生の追撃は止まらない。
「遅いな。害虫の分際で、その巨体は的でしかないぞ」
「増長するなよ、人間!」
レヴォルテの魔力が膨れ上がる。身体強化の限界突破。
四本の剣が残像を残すほどの高速回転でゲナウ先生を包囲するが、先生は翼を流水のように展開し、火花を散らしながらすべてを完璧に防御してみせた。
――圧倒的。
ゲナウ先生は、魔族を殺すことだけに特化している。ゲナウ先生は怒りを表に出さないタイプだ。冷酷で冷徹で、人の心なんかないように思われる。
けど――、『気にかけてくれると、助かる』。
彼はわたしにそう言った。はっきりと聞こえた。
故郷が傷つけられて、攻撃されて、ゲナウ先生は怒っていた。
アンデア君が傷ついて、それでも故郷を守ってくれた。
そんな勇気ある姿に自分も奮い立たせていた。
こんなにも早くこの場所に辿りついたのは、ゲナウ先生がそうしたかったからだ。
怒りが力に変わり、憎悪が速さに変わる。
冷徹な義憤。
その無駄のない動きの前に、レヴォルテの武の誇りが、単なるまがいものとして切り捨てられていく。
「レヴォルテ様……っ!? 危ない!!」
ミミが叫ぶ。
彼女の目にも、レヴォルテが押されていることがわかったのだろう。
ゲナウ先生の翼が、レヴォルテの肩口を浅く切り裂く。
魔族の血が、切り裂かれた傷口から黒いモヤに変わり月光に散る。
「なるほど。容赦がない」
その瞬間だった。
レヴォルテの口元が、冷酷な最適解を導き出したように歪んだ。
「おまえは私を、対等な戦士ではなく害虫と呼んだな」
「だからどうした? 本当のことを言ってるんだ、私は」
「ならば、こちらも戦士の誇りなどという雑音は切り捨てるとしよう」
レヴォルテの四本腕の一本が、剣を投擲する。
ゲナウ先生は後ろに飛翔してこれを回避。
その一瞬の隙に、目にも留まらぬ速さでレヴォルテの空になった腕が横合いに伸びた。
標的はゲナウ先生じゃない!
「うきゃあぁっ!?」
短い悲鳴。
レヴォルテの巨大な手が、隣でうろたえていたミミの細い首を鷲掴みにした。
「レ、レヴォルテ様……? 苦しい、です……」
「動くなミミ。おまえは私の役に立ちたいと言ったな。今がその時だ」
レヴォルテは、ミミの小さな身体を自分の前面に、まるで肉の盾のように突き出した。
ミミをバリアにされたら、わたしだったら停まるほかなかっただろう。
ゲナウ先生ならどうか――。
合理の塊であるゲナウ先生は止まらない、はず。
だが、わたしの予想をはずれ、ゲナウ先生の次の翼撃が、ピタリと止まった。
先生の眉間が、これまでで最も深く、険しく寄った。
「自分の配下でさえ盾にするつもりか。貴様は武人らしく散る者だと思っていたのだがな。害虫は所詮、ただの害虫だったか」
「害虫の駆除に手段を選ぶなと言ったのはおまえだ。この小娘の首を刎ねる覚悟があるなら、そのまま翼を振るえ。人間は子どもに甘い。おまえたちを観測してわかったことだ」
「子どもだと? そいつは子どもなんかじゃない。魔族は魔族だ」
「そのとおりだ人間。だが――、おまえの仲間はそうではなかったみたいだぞ」
アンデア君の勇気を侮辱するレヴォルテ。
ゲナウ先生がピクリと反応する。
レヴォルテはミミの背後に完全に隠れ、蛇の尾を鎌首のようにもたげ、ゲナウ先生の隙を伺っている。ゲナウ先生はアンデア君みたいに甘くはない。けれど、それでも停まっているのは――、躊躇しているのは。
――わたしがいるから?
「レヴォルテ様? あたし死んじゃいますよ?」
ミミの瞳は、理解と否認のあいだで激しく揺れている。
信じていた父親の指が、自分の喉を、いつでもへし折れる強さで食いこんでいる。
信じたくなくて、信じたくて。ミミは微笑の仮面の下で激しく動揺していた。
「そうだ。死んで私の役に立て。それがおまえの望みだろう」
わたしは動けない。だけど、ゲナウ先生は動く。
翼を一瞬広げ、その中心点を穿つ。ミミごと貫く勢い。
わたしは叫ぶような勢いで手を伸ばす。
「――
翼が、散る。
音もなく、光の羽片になって崩れる。
ゲナウ先生の身体が一歩、たたらを踏んだ。
先生がわたしに振り返る。その視線の意味は――。
驚愕ではない。叱責だ。
「アナリザンド! どういうつもりだ!」
「……」
胸が痛い。叱られたからじゃない。
わたしは、識っている。
あのままなら、合理的だった。
人間的な意味合いにおいて正しかった。
被害は最小限で済んだ。
ミミは死ぬ。レヴォルテも死ぬ。
魔族が死んで終わり。人間が勝利して終わり。
大団円。
きれいな計算。
たぶん、将来においては救われる魔族すら多くなるかもしれない。
魔族に殺される人間の数も最小化できるかもしれない。
でも――。
それは、嫌だ。
声が出ない。わたしは空観なんてできない。
距離を取れない。整えられない。目の前の震えを、数字にできない。
わたしは偏っている。すべてを数値化できる存在のはずなのに偏頗している。
あらゆる価値を数値化できるということは、つまり等距離をとれるということだ。
けれど特異点へと近づいてしまう。
「そうだ。それでいいぞ……アナリザンド」
レヴォルテが笑う。初めて唇の端が醜くつりあがった。
武人ではなく、ただの化け物としての役割を果たそうとしている。
人間に倒され、無に帰す存在としてわかりやすくあろうとしている。
「貴様はミミが欲しいのだったな。ならば貴様に選ばせてやろう」蛇の尾が、わずかにしなる。「そこの一級魔法使いを殺せ!」
盤面が裏返った。胃がそりかえるような感触がする。
魔族が到達しうる最も洗練された悪意をレヴォルテは体現している。
人か魔族か、選ばせるために。
沈黙が、石畳の上に溜まっていく。
わたしは動かない。動けない。
ゲナウ先生を見る。先生の視線がわたしに返ってくる。
叱責。失望。そして――ほんのわずかな、何か。
名前のつけられない何かが、先生の眼の奥にあった。
「選べ」レヴォルテが静かに繰り返す。「魔族か、人間か」
わたしは選ばない。
選べない。
選べるはずがない。だって。
――わたし、人間のことが好きだ。
ゲナウ先生のことだって好きだ。ここで人間を殺すということは、いままでわたしが積み上げてきたものを、その全部を、一度に裏切ることになる。そんなことができるわけもなかった。
でも、ミミのことだって諦めたくはない。
ミミは幼くてかわいくて、まだ世界を知らない子どもだから。
誰かが守るべきだから。わたしが守りたいから。
わたしも誰かにそうしてほしかったから。
そうされてきてそうなったから。
「どうしたアナリザンド? 時間はあまり残されていないぞ。貴様が答えなければ、このままミミの首はへし折られるだけのことだ」
レヴォルテの指に、わずかに力がこもる。
ミミの首が、きしむ音がした。
「れ……レヴォルテ、さ、ま……」
ミミの手が、自分の首を掴む巨大な指をかきむしろうとしていた。
だが剥がれない。傷が増えていく。ミミ自身の爪で。
それでも――ミミは叫ばなかった。
泣かなかった。怒らなかった。
ただ、ぼんやりとした目でレヴォルテを見ていた。
「レヴォルテ様……痛いです……」
それだけを、ぼんやりと言った。
訴えた。
その声の中には、なんの恨みもなかった。
責める言葉もなかった。ただ、事実を告げた。痛いということを。
道具の痛みを気に留める人間はいない。
それと同じく、レヴォルテもミミの吐き出すエラー音をただ感動もなく聞いていた。
このままだと、本当にミミが死ぬ。
「わかった……」震える声を抑えるわたし。「殺すよ」
――レヴォルテの指が、停止する。
沈黙が数秒あった。
レヴォルテはわたしをじっと見ていた。
嘘を測るように。値踏みするように。
魔族の観測眼が、わたしの言葉の真偽を精査している。
魔族は嘘をつくが、人の嘘を見破れるほど嘘に慣れてはいない。
嘘になりきれないといったほうが正しいかもしれない。
魔族はどこまでいっても魔族。
人間の魔法を棄却してしまうから。
やがて、レヴォルテの口元がわずかに緩んだ。
「それでいい。異常な個体が正常に戻った」
ゲナウ先生の眼が、わずかに細くなった。
叱責ではない。問いだ。
――おまえは何を言っている。
わたしはゲナウ先生に向かって、ただ視線を合わせた。
人間たちがよくそうするように。フェルンちゃんとシュタルク君がそうするように。
阿吽の呼吸なんて、できるわけないけれど。
先生は、何も言わなかった。ただほんの少しだけ長い息を吐いた。
信じたわけではないだろう。
ただ、一秒だけ待つことを選んでくれた。
それだけだ。
それだけで、十分だった。
「殺す」わたしはもう一度言った。「レヴォルテ、あなたをわたしは殺す」
思考は明瞭で、これ以上なく醒めている。
過負荷の熱さえも抑えこみ<わたし>は最適な言動をおこなう。
「なるほど」レヴォルテが低く笑った。「それが貴様の答えか」
「うん。そうだよ」
「ミミを人質にとれば、貴様は動けなくなると思っていたが――、違うのか」
「違う」
「魔族にしてはうまい嘘をつくな。貴様がなぜそう思っているかはわからないが、この個体を大事に思っている。守ろうとしている。そうだろう?」
「確かに大事だよ。ミミちゃんのことは助けたいと思っている。でも、あなたをいままで殺さなかったのは、ミミちゃんにとってあなたが大事な存在だったから。ただそれだけなの。今この瞬間、ミミを傷つけているあなたは、ミミにとって必要なデータじゃなくなった。不要なデータは切除するしかない。それがわたしの出した答えだよ」
わたしは一歩前に出た。
魔力の抑制を少しだけ解く。
爆発的な魔力の奔流。
「わたしはずっとまちがえてた。あなたは弱いの。とても弱い。正直、お話にすらならないレベル」挑発的な視線でレヴォルテを射抜く。「わたしはあなたを殺せる。あなたは指一本すら動かすこともできずに、戦闘にすらならずに……誇りもなく、矜持もなく、ただの処理として殺せる。ミミちゃんを傷つけるよりはそうしたほうが合理的だよね」
わたしはうっすらと微笑すら浮かべる。
「まさに害虫駆除というわけだ」
「そう、害虫ですらない。ただのゴミ処理……」
「私が指先にほんの少し力をくわえるだけでミミは死ぬ。賭けるつもりか。これの命を」
「賭ける必要なんかないよ。確信してる。ミミはもう役に立たない。あなたがどう足掻こうと結末は変わらない。試してみたらいい」
ミミの息を呑む音が聞こえた。
嘘だった。
確信なんて欠片もなかった。ミミの心の傷がどうなるかなんて、計算できていなかった。
でも確信しているように言わなければならなかった。
レヴォルテが求めているのは、値踏みしながら近づいてくる相手ではなく、本気で向かってくる存在だから。臆病な祈りを携えたままでは、この男の視線の中心には立てない。
「レヴォルテ様……?」ミミの声が掠れている。
「いいだろう」
ニチャリと開く口と同時に、レヴォルテの指がゆっくりと開いた。
ミミが、石畳に崩れ落ちる。
咳き込む音が、静寂を破った。
「面白い」そう言いながらレヴォルテの視線が一瞬だけミミに落ちる。「では来い。アナリザンド。おまえが本当に私を殺せるなら、それはそれで本望だ」
わたしは、ミミに視線を向けた。
ほんのわずか一秒だけ。
――逃げて。
ミミは、わたしの視線の意味を理解したかどうかわからない。
ただ、喉を押さえたまま、ぼんやりとわたしを見ていた。
ゲナウ先生が、わたしの隣に並んだ。声もなく、説明もなく、ただそこに立った。翼は失われている。それでも先生の重心は微塵も揺れていない。
魔族を殺すためだけに研ぎ澄まされた存在が、わたしの隣に、たった一歩分の距離で並んでいる。それだけで、わかった。
先生はわたしを信じたわけじゃない。
ただ、もう少しだけ見ていようと決めてくれた。それで十分だった。
「先生」わたしは言った。「ミミを」
「わかっている」
短く、先生は言った。
それが排除するという意味なのか、見逃すという意味なのか。
わたしには判断できなかった。でも判断しなかった。
ゲナウ先生を信じると、そう決めた。今、決めた。
「――
先生が再び鋼鉄の翼を出現させる。
レヴォルテの残った三本の剣が、月光を反射して光る。
「さあ――来い」
わたしは魔力の制限を全て解いた。
ドクン、と鼓動が一度跳ねる。
私の魔力の抑圧が消えた瞬間、廃城を包んでいた夜の闇が、物理的な重圧へと変質した。石畳が悲鳴を上げ、玉座の間の巨大な石柱がミシミシと音を立ててひび割れていく。
「……これが、お前の真体か」
レヴォルテの声に、初めて歓喜以外の戦慄が混じる。
彼は三本の剣を正眼に、何も握っていない腕を背後に、まるで千手観音のような異形の構えを取った。
「先生、行って」
「余計な心配はするな」
ゲナウ先生の黒翼が、私の放出した魔力の奔流を追い風にして、視認不可能な速度で加速する。
わたしの溢れ出した魔力がゲナウ先生の術式を強制的に補強し、彼の翼が私の通るべき最短の道を切り拓く――。
「我が神技を見せてやるッ!!」
レヴォルテが咆哮し、三本の剣を交差するように重ねる。さらに蛇の尾で石床を叩き、その反動で弾丸のごとく突進してくる。
一本は羽のように軽く。
一本は巨岩のように重く。
そして、もう一本はゆっくりと遅延したが最も鋭く殺意に溢れている。
だが――。無意味。
「
私は指先一つ動かさない。
ただ視認するだけで、レヴォルテの剣にこめられた魔力構造をデコンパイルする。
――おまえの魔法は棄却された。
羽のように軽かった剣も、巨岩と化した剣も、殺意に溢れた剣もすべては質量。
その概念が消えた今、剣はただの鉄くずへと戻り、次の瞬間には塵へと還った。
「なに……っ!?」
驚愕に目を見開くレヴォルテの懐に、ゲナウ先生の翼が黒い稲妻となって食いこむ。
右翼が蛇の尾を。
そして左翼が、レヴォルテの左わき腹を、深く鮮烈に切り裂く。
「ガ、ハッ……!!」
黒いモヤのような血が噴き出す。
だが、レヴォルテは止まらない。彼は斬られながらも、最後の一本――分厚い筋肉に覆われた腕そのものを武器として、ゲナウ先生に突き刺してきた。
「――させない。あなたは指一本動かせないって言ったでしょ」
レヴォルテの腕を、不可視の触手がからめとる。
「ぐぁあああああっ!」
魔族の身体を崩壊させる。突き刺そうとした腕が、まるで大根おろしにすり下ろされるみたいに消えていく。存在自体の崩壊だ。耐えられるようなものじゃない。まるで煮立った鉛を胃の中に流しこむような痛みを感じたはずだ。レヴォルテはねじ切られるような狂った声をあげ、大蛇の尾をビタンビタンと叩きつける。
「人間を侮るなよ」ゲナウ先生が渾身の力で、レヴォルテを両断しようとする。
「貴様こそ! 魔族を侮るな!」
それでもレヴォルテは残った腕を振るい、ゲナウ先生を殴った。
ただの殴打。されど、魔族の殴打。
人間の身体は魔族に比べれば遥かに脆弱だ。
吹き飛ばされたゲナウ先生は、遥か後方までふっとび、石柱にあたってようやく静止する。
「前衛は退けた。次はおまえだ」
レヴォルテは満身創痍だった。
腕はもう三本しかなく、脇腹も血だらけで、尾っぽも途中で切れている。
この戦いになんの意味があるのか、わたしにはわからない。
ちらりと視線を向ければ、ミミが廃城の柱の陰に張りついていた。
膝を抱え、喉を押さえたまま、それでも目だけはレヴォルテから離せないでいた。
泣いているのか、泣けないのか。その顔はわたしには判別できなかった。
溶けて崩れてしまいそうな姿だった。
「もうやめよう。これ以上は本当に無意味だよ。だいたいこんなものが戦いと呼べるの? あなたはわたしに傷一つつけられない。命を奪いたくないって思えば、服従させることだってできる。でも――そうしなかったのは、わたしの温情にすぎないの」
「貴様ほど、残酷な化け物は見たことがない」
「それでいい。もうあなたの意見は聞かない。服従して――。わたしの言葉に逆らうな」
それが最後の嘘。
わたしはレヴォルテの誇りすら踏みにじって、彼の生存を試みる。
が――。レヴォルテは嗤った。
擦り切れたバネの玩具が突然跳ねるように。
「断る。おまえの意図などお見通しだ」
そして、呪詛。
親が子に向ける命令ほど強烈な呪いがあるだろうか。
「ミミ、こっちへ来い。私の傍に寄れ。私を守れ。私を助けろ」
ミミが立ち上がった。
膝が震えていた。喉はまだ赤く腫れていた。それでも立ち上がった。
一歩、二歩、よろめきながらレヴォルテのほうへ向かっていく。
止められない。
わたしが声を出せば、ミミは引き裂かれる。レヴォルテの命令は呪いだ。親が子に向ける声の重さは、理屈を超える。ミミの足はその呪いに従って動いている。自分でも止められないまま、近づいていく。
レヴォルテの残った腕が、ゆっくりと持ち上がった。
迎えるためではなかった。抱擁するためではなかった。
わたしは見た。その手の角度を。その指の向きを。
――殺す気だ。
だから撃った。
渾身の力をこめて、殺意を乗せて、それでもミミを殺さないように気をつけながら――。
宇宙を揺るがすほどの計算量が、最適な正解を導きだす。
――ゾルトラーク。
レヴォルテの枢要部。胸のあたりを容赦なく貫く。
「グハっ」
魔力の血しぶきが空に舞った。
もう崩壊は止まらない。彼の身体はあと数十秒もしないうちに塵と消える。
――その瞬間、わたしは見た。
レヴォルテがニィと嗤ったのを。
読まれていた。違う。わたしはレヴォルテに騙されたんだ。
最初からレヴォルテはミミを殺す気なんて……なかった。
なのにわたしはレヴォルテを殺して――。
後悔が一瞬で押し寄せる。エラーハンドルが、わたしの行動を制止させる。
まるで停まった映画の一瞬みたいに、すべての映像が立ち止まる。
貫かれた腕とは別の手が、すでに動いていた。ミミが石畳に伏せた拍子に手放した魔力の刃を、レヴォルテはすでに掴んでいた。いつ掴んだのかわからなかった。見えなかった。魔族の膂力で握りしめられた刃が、次の瞬間には空気を切り裂いていた。
頬に細い熱が走った。崩壊しつつある彼の姿。
わたしは何もできずに立ち止まる。
頬が熱い。分厚い魔力に守られた身体は、傷一つついていない。
なのに、痛い。
レヴォルテの身体が、ゆっくりと崩れていく。
巨躯が石畳に沈み、残された腕はもう動かない。
黒いモヤが傷口から溢れ、月光の中に溶けていく。
あと数十秒。彼に残された時間はたったそれだけ。
「レヴォルテ……様?」
ミミが、近づいた。魔族のデフォルト顔である微笑を浮かべ、無垢な子どもを演じている。
わたしが止める間もなかった。よろめきながら、喉を押さえながら、それでもミミはレヴォルテの傍に膝をついた。崩れていく巨躯の前で、小さな身体がさらに小さく見えた。
レヴォルテの目がミミを捉えた。
――長い沈黙があった。
「レヴォルテ様。あたしがんばりました。役に立ちましたよね。褒めてもらえますか?」
「ああ……。ご苦労。大義だった……」
「なんでレヴォルテ様、崩れてるんです? おかしいですよ?」
「これが死ぬということだ」
「どうして? どうして?」泣いていない。鳴いている。
「私が望んだことだからだ」
伸ばした手が崩れた。
ミミの髪に触れようとして、触れられなかった。
「違う。違う……」まだ消えていないお腹に角をすりつけるようにして。
「何が違う?」
「レヴォルテ様が消えちゃうから」
レヴォルテは答えなかった。
ただ、その沈黙が何を意味するのか、わたしにはわからなかった。
魔族の言葉を、わたしはまだ全ては読めない。
「……そうか」
それがレヴォルテの最後の言葉となった。
黒いモヤが、月光の中に広がっていく。巨躯の輪郭が薄れていく。
最後まで、レヴォルテはくず折れたまま動かなかった。逃げなかった。嘆かなかった。
ただ、静かに塵になった。
廃城に、冷たい風が吹いた。黒い塵は虚無に還る。
ミミはしばらく、レヴォルテのいた場所を見ていた。
塵すら残っていない場所を。
それからミミは顔を上げて、わたしを見た。
泣いていなかった。怒ってもいなかった。
ただ、世界が急に知らない場所になってしまったような顔をしていた。
わたしはゆっくりと近づいた。しゃがんで、目線を合わせた。
何も言えなかった。言葉が出てこない。
「……」
ごめんなんて言えない。お姉ちゃんになりたいなんて言えない。
言葉が死んでいく感覚がする。反吐が出る。気持ち悪い。
ミミのほうが先に口を開いた。
「お姉ちゃんが殺したの?」
「うん。そうだよ」
嘘はつけなかった。
足音が聞こえた。
コツ。コツ。
整った歩調。石柱に激突してもなお揺れていない重心。
ゲナウ先生が、廃城の瓦礫を踏み越えてこちらに向かってくる。
額から血が一筋流れているが、目はひどく醒めている。翼は再び展開されていた。
先生の視線が、ミミに向いた。
わたしは立ち上がった。ミミの前に出た。
「どけ」
「やだ」
「アナリザンド。そいつは魔族だ」
「知ってる」
「街を襲った。相棒も傷ついた。誰かが死んでいたかもしれん」
「知ってる」
先生の眼が射殺せそうなほど細くなる。
「知ったうえで庇うのか」
「うん」
一言も言い訳しなかった。説明もしなかった。ミミが改心したとも、もう戦えないとも、これからどうするとも言わなかった。そんな言葉は今のミミには関係がない。今のミミはただ、塵になった場所を見ていた男の傍で膝をついている子どもだ。
ゲナウ先生は止まった。
三歩ほどの距離で、黒翼を保ったまま、わたしを見ていた。
「もう一度だけ聞く。おまえに責任がとれるのか? いつか誰かが殺されるかもしれない。この魔族がおまえに復讐しにやってくるかもしれない。せっかくここまで積み上げた信頼を自ら無に帰すつもりか?」
「……」
わたしはすぐには答えなかった。
責任。その言葉の重さを、一度だけ正面から受け取った。
とれないかもしれない。ミミがこれから誰かを傷つけるかもしれない。わたしの判断が間違いだったと証明される日が来るかもしれない。シミュレーションを回せば、最悪の結末はいくつも出てくる。それは知っている。
でも。
「責任はとれないと思う」
先生の眼が、わずかに動いた。
「正直に言えば、わたしはミミちゃんが将来誰かを傷つけないと保証できない。今夜正しかったと言い切る自信もない。責任をとれるかと聞かれたら、とれないと答えるしかない」
それでも――。
「わたしはミミちゃんが正しい道を選択できるように見守りたいの」
「魔族にとっての正しさなど、人を殺すことだろう?」
「人としての正しさを教えるつもり」
「そんなことが本当にできると思っているのか」
「できるかできないかじゃなくて、そうしたいの。誰だってそうでしょう? 先生だって、アンデア君がずっといつでも正しい道を歩んでいけるなんて保証できない。アンデア君は必死にがんばって街を守っていたけど、ほんの少しまちがったら、街は――先生の故郷は滅んでいたかもしれないんだから」
ゲナウ先生は鼻を鳴らした。
「おまえはアンデアを守っていたつもりか」
「そうだよ。わたしがいなければ、アンデア君は死んでたし、街は滅んでいたかもしれない。合理的に裁定されれば、わたしは人間的文脈においても、もっと褒められてもいいと思う。そのご褒美として、ミミを殺さないで。お願い先生!」
「おまえと話していると、頭がおかしくなりそうだ」
先生は長い息を吐いた。
翼が、ゆっくりと収束した。完全には消えなかった。半展開のまま、臨戦態勢を解かずに保持している。それがゲナウ先生の裁定だった。
殺さない。だが許可もしない。
今夜この場においては、それ以上でも以下でもない。
「条件がある」
「なんでしょうか」わたしは素直さを模倣する。
「そいつが人を殺したとき。そのときはおまえが一秒も待たずに始末をつけろ。泣き言も言い訳も聞かん。誰かに言われる前にやれ。わかったな」
「……わかりました」
「もうひとつ」
「まだあるの?」
「そいつの食事の面倒はおまえが見ろ。人を喰わせるな。以上だ」
わたしは少しだけ笑った。笑えた。
「パンなら毎日あげられるよ。先生もご存じのパン屋さん。先生にも食べてもらいたいなって言ってたよ。なんと! 皇帝陛下も認めたパンなんだから。甘いチョコパンが超有名なの」
「黙れ。あいつのパンは昔からクソ不味い。誰がなんと言おうとな」
先生は向きを変え、来た方向へ歩き始めた。
三歩ほど進んだところで止まった。
振り返らないまま言った。
「今夜は、よくやった」
それだけだった。また歩き始めた。足音が遠ざかる。
コツ。コツ。コツ。コツ……。
やがて聞こえなくなった。
わたしはその場に座り込んだ。
力が抜けた。膝が笑っていた。
今夜ずっと堪えていたものが、先生の背中が見えなくなった瞬間に、どっと出てきた。
頬の傷がじくじくしていた。
ミミがわたしを不思議そうに見ていた。
魔力数億の途方もないわたしが、たかが数百の魔力しかないゲナウ先生を恐れていたことが、理解できなかったのだろう。
「お姉ちゃん、泣いてる?」
「泣いてないよ」本当に泣いてるのは君のほうだよ。
「泣いてるよ」
「泣いてない。頬の傷がちょっと痛いだけ」
ミミはしばらくわたしの顔を見ていた。
それから、また塵の場所に目を向けた。
「レヴォルテ様、いなくなっちゃった」
「うん」
「あたし、どうしたらいいの」
どうしたらいいかなんて、わたしにもわからない。
正しい答えなんてない。でも。
「今夜は、いっしょにいるよ」
「それになんの意味があるの?」
「なんの意味があるんだろうね。答えは宿題にしておこうかな」
ミミは何も言わなかった。
わたしも何も言わなかった。
廃城に風が吹いた。塵はとっくに消えていた。
何も残っていなかった。
それでもふたりでしばらく同じ場所を見ていた。
その夜の戦いが終わったあと、街には当然のことであるが朝が来た。
ゲナウとアナリザンドの間で、ミミの処遇については長い言葉を必要としなかった。アナリザンドが引き取る。ただし直接ではない。アナリザンドから分かたれ、今やアナリザンドとは別個の個体として存在するNo.168が、当面の保護者となることに決まった。
戦闘力がほぼ皆無に等しいミミを御するには、フリーレン達の旅に従っているより、この街に半ば定住しているNo.168の穏やかな強さのほうが適している。
そんなことをアンデアやフェルンに言われた際には、アナリザンドは地面に寝っ転がってジタバタするほかなかったが。
当の168に「姉さん。見苦しい」と言われてしまえば、そうするほかなかったのである。
朝の路地裏は、まだ戦闘の痕が残っていた。
崩れた石壁。割れた石畳。ひっくり返った荷台。
人々が逃げ出す際に落としていった、誰のものともわからない荷物が散らばっていた。
168がミミの手を引いて歩いていたのは、そういう場所だった。
ミミは黙っていた。昨夜からずっと、言葉が少なかった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、世界の解像度が変わってしまったような顔をして、168の隣を歩いていた。
路地の隅で、ミミが立ち止まった。
荷台の陰に、黒い子猫がいた。
小さかった。片耳が少し欠けていた。魔族の襲来で餌をもらえなかったのか、肋骨が浮き出るほど痩せていた。逃げ惑う人波に蹴り飛ばされたのか、後ろ脚をうまく動かせないでいた。それでも生きていた。息をしていた。目だけが、かすかに光っていた。
ミミはしゃがんで、その子猫をしばらく見ていた。
168は何も言わない。
裁定者として、養育者として、姉として、ただミミを見守っている。
「どうかしましたか?」
「これは何?」
「猫ですね。死にかけています」
「それ、治らないの?」
それに手を伸ばし、168に向かって言った。
――なぜ?
「治してほしいから」
それを抱きしめながら、ミミは少し考えてから言った。
――なぜ?
「なんでだろう」
――なぜ?
ミミはまた考えた。
今度は少し長く。路地の朝の光が、ミミの横顔を照らしていた。
「こいつも消えたくないかなって思って」
168は答えなかった。
ただ、しゃがんだ。それの傍にそっと手を伸ばした。
女神の魔法は、派手ではない。光が溢れるわけでも、音がするわけでもない。
ただ、168の手のひらから、朝の光に似た何かが、静かに子猫に移っていった。
しばらくして、それが動いた。
後ろ脚を使った。バタバタと元気よく動かす。
ミミの手から離れ、それはトコトコと我が物顔で歩く。
先ほどまで死にかけてたなんて嘘のように駆けだしていく。
路地裏から日のあたる大通りへ。
そして、人の子がそれを抱きあげた。
子猫は、奇跡も知らずにニャーと鳴いた。
myth=closed
while [ "$myth" = "closed" ]; do
echo "Myth only produces myth" > /dev/null
done
consciousness=0
while true; do
consciousness=$((consciousness + 1))
echo "Process never completes" > /dev/null
done
desire=sacred
if [ "$desire" != "instinctual" ]; then
echo "Desire or no immaculate conception" >&2
fi
echo "New world from struggling ideas" > /dev/stderr
# petit a: the elusive mortal life / desire-object
object_petit_a="mortal_life"
# Protect petit a (the impossible object of desire)
# It must remain lost / barred, yet drive the process forever
protect "$object_petit_a" ||
{echo "petit a slips away... process continues" >&2}
# The loop never truly ends
exec "$0"
# but if...
不本意ですが、一応ギリギリ最低のラインは守れたって感じです。
次は、ふわふわであまあまな話を書きたい。
シリアルは書いてるほうもだけど、読んでるほうも疲れるかもだし。