魔族少女のエロタナティブ   作:アナリザンド

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メダカの学校

 

 

 

 はぁ。幸せ。

 妹密度が高い。空気がおいしい。

 

 即日集結、即日行動というのは、社会人ならなかなかに厳しいものだろうけれど、モラトリアムな期間にある少女たちなら話は別だ。わたしはかわいくて発展途上な妹たちを集めることに成功していた。

 

――妹ピクニック。

 

 略して、いもピクは、今まさに始まっているのである!

 なんで略したかなんて問うてはいけない。

 

 まず、わたしがおこなったことは、カンネちゃんを呼ぶことだった。カンネちゃんとラヴィーネちゃんはぴったりとくっついてる共有結合みたいなものだから、どちらか一方を呼べば、必然的にもう片方もついてくることになる。

 

 どちらかと言えば、わたしを姉として慕ってくれているのはカンネちゃんのほうだったので、いっしょに修行しにいこうと言えば一発だったのである。ちょろいなカンネちゃん。そんなカンネちゃんのことが心配ですぐについてくるラヴィーネちゃんもちょろい。

 

 道行くはザオム湿原。正確にはその南端。

 わたしの暮らしている森を抜けて、すぐのところ。

 すぐといってもそれなりの距離はある。徒歩だと一週間はかかる距離かな。

 常ならば、デンケンお爺ちゃんの出発まで間に合う距離ではなかった。

 

――なので。

 

 行軍スピードをあげるために、わたしは模倣する魔法・神速(エアファーゼン・シュティレ)と操作魔法をパーティ全体にかけた。文字通り、わたしが引っ張っていく形で、妹ちゃんたちを強引にここまで連れてきたのである。ありあまる魔力で強制的に。

 

 30分かそこらでここまで到達できたのは、たぶん人類が出したスピードとしては世界初なんじゃないかな。マッハは出てたよ。気分的に。

 

 もちろん、防御魔法を全面展開していたから、ソニックブームも風の抵抗も何も感じなかったはずだ。それでも人類初ともいえるスピード体験に、脳が拒絶反応を起こしているのかもしれない。腰のあたりがヒュンって抜けそうになる感覚。わかるよ。

 

「ひでえな。なんだよあの魔法。目の前が今もチカチカしやがる」とラヴィーネちゃん。

 

――アナリザンド航空はお楽しみいただけましたか?

 

「お姉ちゃんの魔法、楽しかったよね。ラヴィーネちゃん」「ふざけろ」

 

 カンネちゃんのほうは平気そうだった。

 この子、ジェットコースターとかを楽しむタイプだな。

 いつもならここでプロレスごっこを挟むところだが、グロッキー状態のラヴィーネちゃんはそんな気力もないようだ。

 

 さて、今回の主役。ラオフェンちゃんはというと――。

 

「えっと……」

 

 ラオフェンちゃんも身体的には無事みたいだった。

 

 だけど、見知らぬ――というか試験では敵同士だった間柄だ。

 ほんのちょっとだけ気後れしているように見えた。

 それでも、持ち前の天真爛漫さで、ラオフェンちゃんはふたりに近づいた。

 

「今日はありがとう」しおらしい一面を見せるラオフェンちゃん。

 

 これに大人な先生たちはやられるんだよな。男の人っていつもそうですよね。

 

「ラオフェンだっけ。よろしくね。お姉ちゃんの妹仲間としてがんばろう」

 

――妹仲間。

 

 カンネちゃんが嬉しいことを言ってくれている。

 わたし、アナリザンドは自慢ではないが、お天気デッキに匹敵するほど、無難に切られる対話カードなのである。それだけでほとんどの場合は仲良くなれる。特にラオフェンちゃんたちは同性どうし、同年代、そして人聞きが悪いけど落第生どうしでもある。

 

 ラオフェンちゃんは「うん、よろしく」と短く頷いた。表情が柔らかくなった。

 

 価値観が似ている。――というより、目線が似ているのかもしれない。

 言葉にしなくても通じ合うものがあるのだろう。

 

「今回は、これだけ二級が集まったんだし、楽勝だね」

 

 カンネちゃんが二級というところをアピールする。

 実をいうと、二級も十分にすごいことなのである。前世で言えば、偏差値60以上の大学に入れるくらいすごい。ただし、お調子に乗っていると、ラヴィーネちゃんからたしなめられる。

 

 それもいつもの風景だ。

 

「おまえな。馬鹿言ってんじゃねーよ。今回の討伐対象は、あのデカ亀だろ。私たち程度の魔法じゃ傷ひとつつけられねーぞ」

 

 ラヴィーネちゃん。ゼーリエ先生に言われて、お勉強をちゃんとしているみたい。

 魔物のことも下調べはすんでいる。少なくとも書物上のことは知っているようだ。

 

「ねえ。ラヴィーネ。タイラントタートルってどれくらいの大きさなの?」

 

 カンネちゃんが聞いた。

 おそらく、ラヴィーネちゃんの体調不良を心配しているのだろう。

 

「知らねーよ。見たことねーし。本だと竜と同じくらいだったか?」

 

「個体差はあるって聞いたよ」とラオフェンちゃんが言った。

 

「これくらい?」両腕を広げて見せるカンネちゃん。なにこのかわいい生物。

 

「いや、これくらいかも?」杖を持って、さらに腕を伸ばすラオフェンちゃん。

 

 これこそがガールズトーク?

 いやなんか幼女っぽい何かだけど、ともかくかわいい。

 ハァっと頭に手を当てて溜息をつくラヴィーネちゃん。

 

「アナリザンド。教えてやってくれ」

 

 ここでわたしに問いかけますか。

 引率者としては真面目にやらなくちゃいけないね。

 文字情報だけではなく、あらゆる文献のデータをさらう。

 結果出力は一秒にも満たない。

 

「えーっと、小さな個体だと馬車くらいの大きさかな。中くらいだとちょっといいとこのお屋敷くらい。伝承の中にある大きな個体だとお城に匹敵するくらい育った個体もあったんだって。私たちが狙うのは中くらいの個体かな」

 

「えー、そこは馬車サイズにしようよ。馬車も十分大きいけどさ」とカンネちゃん。

 

「大きい亀のほうがいい結果が出やすいって聞いたことがあるよ」とラオフェンちゃん。

 

「現実的に狩りやすいのは小さいほうだろ。アナリザンドから聞いたぜ。いい結果が出るまで何度も繰り返すんだろ? だったら、小さいほうがいい」とラヴィーネちゃん。

 

「ラオフェンって、どうして亀さん探してるの?」

 

「そこからかよ。おまえ、アナリザンドに何も聞かないでここに来たのか?」

 

 ラヴィーネちゃんが呆れていた。

 

「だって、お姉ちゃんがデートに誘ってくれたんだよ。行くっきゃないじゃん。考えてる暇なんてないよ!」

 

 うーん。好き。

 

 カンネちゃんの言葉に、ラオフェンちゃんは、ちょっとだけ反応していた。

 自分の身体感覚に近かったからだろう。

 

「おまえな……つきあわされるこっちの身にもなってみろ」

 

「ごめん。ラヴィーネ」と、ラオフェンちゃんが代わりに謝罪する形になった。

 

 発起人としての責任があると考えたのかもしれない。

 

「べつにおまえが悪いって言ってるんじゃねえ。こいつがアホすぎるのが悪いんだ」

 

「そんなに悪く言うことないじゃん! わからなかったから聞いただけだし!」

 

「おまえには事前調査って概念はないのか」

 

「そんなにいっぱい調べたって理屈倒れになるだけだし。直感を磨いたほうがいいんだよ」

 

「ワンコか。おまえは」

 

「じゃあ、ラヴィーネはラブリーな白猫さんだね。にゃんって鳴いてみて」

 

「……」

 

 無言でつかみかかるラヴィーネちゃん。

 がっぷし、指と指をからめあうカンネちゃん。

 わたしにとっては見慣れた光景だけど、ラオフェンちゃんにはそうではなかった。

 

 哀しげな表情を浮かべながら、

 

「大亀は――」ラオフェンちゃんが開口する。「爺さんが心配で、私が欲しかったんだ」

 

「爺さんって、確かデンケンのことだよね。私たちを試験で襲った」

 

 カンネちゃんがラヴィーネちゃんと組み合いながら聞いた。

 

「うん。そうだけど」

 

「デンケンって強かったよねー」

 

「悪辣なトラップばっか仕掛けてきやがったしな」

 

「しかも、私たちに降伏勧告してくるの。ひどくない。小娘どもとか言いながら」

 

「魔法の腕もすごかったぜ。あれだけの腕があるなら小細工とか必要ねーだろ」

 

「だよね。もうだめかもって何度も思った」

 

「ごめんね。爺さん不器用なんだ。虎は兎を狩るときも全力を出すって言ってた」

 

 ラオフェンちゃんの爆弾発言。

 拙い擁護。ひとつ間違えば気まずい空気を生むところだけど、そうはならなかった。

 ガールズトーク特有の緩い連帯感があればこそだろう。

 

「兎かよ」「兎ちゃんなの?」声が重なる。そして崩れた笑いを浮かべる。

 

「うん。そうだったみたい」

 

「まあ、自分のことを虎って言えるくらい強ければ問題ねーんじゃねーか?」

 

「問題って?」カンネちゃんは置いていかれている。

 

「デンケンが黄金郷に向かおうとしていることくらいは知ってるよな?」

 

「黄金郷? 名前くらいはどっかで聞いたことあるような気もするけど、詳しくは知らない。お姉ちゃんが好きそうな場所だよね」

 

 わたしは手をひらひらと振って答える。

 

「黄金郷のマハト! それくらいは知っとけよ。魔法使いの常識だぞ」

 

 カンネちゃんは口をとがらせるが黙った。

 今は、ラオフェンちゃんのターンだからだ。

 ラオフェンちゃんは胸底に沈めた揺れを表に出さないように、閉じた拳で封じこめた。

 

「爺さんは強いよ。私じゃ勝てるイメージなんてまったく湧かないくらい。でも、それでも何かしたかったんだ。爺さんに何かしてあげたかった」

 

 何ができるかもわからず。何になれるのかもわからず。

 彼女を迷いある奔走に駆り立てているものの正体はなんなのだろう。

 根源的な想いは、心配でも安心でも祈りでもない気がする。

 

 それはきっと、

 

――わたしは、ここにいるよ。

 

 無窮の宇宙へ向かうコール信号。

 

「なら仕方ねーな。中くらいのやつ、いっしょに探そうぜ」

 

 違うところから声が木霊した。ラヴィーネちゃんだった。

 

 この子も深いところではとても優しい。

 

 愛情たっぷりの家庭で育てられたのか。ふんわり天然風味のママさんの血を受け継いでいるからなのか。軽く吐き出された言葉に、ラオフェンちゃんの肌が微細に震えるのがわかった。優しさは染みるものなのかもしれない。

 

「そだね」

 

 カンネちゃんもわけもわからず賛同し、不可思議なところに妹スクラムが形成される。

 わたしもそこに参集され、姉妹連結複合体(シスターコンプレックス)へと至った。

 ほんわりとした空気をわたしは堪能する。

 

「で、なんで、亀なの?」というカンネちゃんの空気の読めない一言があるまでは。

 

 ラヴィーネちゃんの今日一番のクソデカ溜息が炸裂した。

 

「そんくらい説明しとけよ。アナリザンド」

 

 飛び火しちゃった……。

 

 

 

 

 

 わたしが速やかに説明責任を果たした後のこと。

 まだ、少女たちの議論――というか、グルグルとまわる言葉のやりとりは続いていた。

 

 これまでの議論で、中程度の大きさのやつを狩るということは、ラオフェンちゃんの意気に統合される形で、わりとすんなり決まったのだけれども、問題はその狩り方だった。

 

「いや、甲羅は硬いけど、首とか腕とかは魔法も通るんでしょ!」

 

「だから、ゾルトラーク程度の出力じゃ無理なんだって」

 

「一撃で狩りとれないと、すぐにひっこめるよ。亀って臆病なんだ」

 

「じゃあ、水に沈めてしまうのはどう。確か、亀って肺呼吸なんでしょ」

 

「相手は水棲魔法生物だぞ。窒息する前に魔法の効果が切れちまうだろ」

 

「一息吸えば、百年くらいは潜ってられるらしいよ」

 

「――ただし、吐息は尻から出る」こっそり小声ザンド。

 

「ああもう。あれもダメ。これもダメってラヴィーネうるさい!」

 

「現実的に考えろ。何か方策がないと、何もできないまま終わっちまうだろうが」

 

「火であぶるとかだったら可能かも」とラオフェンちゃん。

 

「おまえ、火炎系の魔法は使えるのか?」

 

「ちな、私たちは使えないよ。ラヴィーネは氷。私は水魔法が得意なんだけどね」

 

「私も火炎系は苦手。爺さんなら、すごい魔法を使えるんだけど」

 

「お姉ちゃんならできるんじゃない?」

 

「馬鹿。アナリザンドは今回見守るだけだ」

 

「えー、そうなの。お姉ちゃんなら助けてくれるよね。うりうり」

 

 おおおおおっ。なぜか、ほっぺたすりすり攻撃をしてくるカンネちゃん。

 妹力はやはりカンネちゃんの方が上か。

 

「でも、ダメ。今日はみんなで考えてみてね」お澄まし表情ザンド。

 

「そんなー。すりすり損じゃん。私のすりすり返してよ」

 

「はいはい。ドーナツあげるから、機嫌なおしてね」

 

 それからも議論は続いた。

 三者三様。特に命令系統もない議論は踊るほかない。

 

 ああでもないこうでもないと妹ちゃんたちが繰り返す会話は、観測しているわたしにとっては、それだけでモリモリ栄養になっていくけれど、これではタイムアップになってしまいそうだ。

 

「まずは実物をよく観察してみるのはどうかな?」

 

 みんなが使っているHUDに、タイラントタートルの情報を掲示する。

 紅点がいる場所。ここからそう遠くない位置にそいつはいる。

 

 もうひとつくらいは手助けしてもいいかな。

 

「――霧を晴らす魔法(エリルフラーテ)

 

 わたしは、湿原特有の粘りつくような霧を、指先ひとつの魔法で追い払った。

 この魔法は、つい最近メトーデから教えてもらった霧対策の魔法である。

 

――メトーデに対する報酬? ご想像にお任せします。

 

 わたしが引率する形で、みんなが後に続く。

 ラヴィーネちゃんとカンネちゃんは飛行。ラオフェンちゃんは歩行。

 わたしはもちろん飛行だ。

 

 視界が開けた先には、岩塊と見まがうような、巨大な質量体がそこに鎮座していた。

 

 それが岩ではないとわかるのは、首がのっそりと動いているからだ。甲羅には数百年分の苔と泥が堆積し、魔力の密度があまりに高すぎて、周囲の空間がわずかに歪んで見えるほどだった。

 

 いい出汁がとれそう。食べられないのがもったいないくらい。

 

「あれが、タイラントタートル……」

 

 ラオフェンちゃんが息をのんだ。

 

「デッカ……」同じくカンネちゃん。

 

「お屋敷どころか、まるで丘だな」ラヴィーネちゃん。

 

 さて、たまには高みの見物といこうかな。

 わたしは、ふよふよと高度をあげて、三人の戦いを見守るつもりだ。

 

 

 

 

 

 三人は、巨大な質量体を前にして、しばらく黙っていた。

 

 岩のように動かないそれは、しかし確かに生きていた。首がゆっくりと動き、濁った瞳が水面を向いている。甲羅の表面に積もった苔が、風に揺れている。

 

 ラヴィーネが最初に口を開いた。

 

「で、どうするんだ。やんのか?」

 

 まるで不良の物言いだった。

 だが、その言葉はこのパーティの結成原因となったラオフェンに向けられている。

 ラオフェンがしばし考える。

 討伐のイメージを抱けるかと言われれば、そんな未来は視えない。

 大亀はあまりにも巨大で、守りが硬そうだった。

 

「とりあえずやってみようよ」カンネが先に言った。「動きは鈍いみたいだし」

 

「みたいだしって、根拠それだけかよ」

 

「それに、水の中にいないのは運がいいんじゃない」

 

「まあ、確かにな……。たぶん、水の中だと手がつけられなくなりそうだ」

 

 ラヴィーネは額に手を当てた。それから、HUDを使って、タイラントタートルをもう一度見た。確かに動きは遅い。首がひとつ動くのに、体感で十秒はかかっている。問題は甲羅だ。あの硬さはどうにもならない。圧縮したゾルトラークでも貫けない。

 

「首を狙う」ラオフェンが言った。「私が近づいて、まずはあいつの首を引っ張り出す。ひっこめられないようにする」

 

「おまえが? 格闘術で?」

 

「魔法で」

 

 ラオフェンは杖というより棒のようなそれから、ロープ状の光る拘束魔法を出現させた。

 それでからめとるつもりらしい。

 

「甲羅の外に出てる部分は比較的柔らかいって、アナ姉が言ってた。首、脚、尻尾。そこなら魔法も通る。一撃で無理でも、何度もやればたぶん倒せる」

 

 ラヴィーネはラオフェンを見た。フっと笑う。

 

「じゃあ、私たちはゾルトラークを撃ち続ければいいんだな」

 

「せっかくの水場なのに、結局それかぁ」少し残念そうなカンネだった。

 

「小細工は無用」

 

――そういうことになった。

 

 ラオフェンが地面を爆ぜさせるように跳んだ。

 二級になったのが恩寵の一種だとしても、その実力は魔法使いの中でも上澄みにあたる。

 特に、高速移動の魔法は、彼女の得意魔法だ。しなやかな脚の筋肉と重ね合わせれば、弾丸のように駆け抜けた。

 

 ラオフェンの持つ杖から放たれた光のロープが、タイラントタートルの太い首に、蛇のように絡みつく。

 

「捕まえた!」

 

 ぐい、と渾身の力で引き絞る。

 

 ラオフェンの計算では、これで大亀の首を拘束し、ラヴィーネ達が攻撃する隙を作り出すはずだった。実際そうなりかけた。数秒程度は、亀もほとんど動かず、ただ茫洋とした瞳で見つめるばかりだったから。ラオフェンは少なくとも、亀が首を引っこめるよりも早く、拘束に成功したのだから。

 

「カンネ!」

「うん!」

 

 まさに、その隙を縫って、ふたりの呼吸が一致した。

 ゾルトラークの光が、空を切り裂いて亀の首筋へと殺到する。

 

 が――。その一瞬よりも早く、亀が動く。首が動く。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 ゾルトラークはむなしく空を切り、甲羅の縁で火花を散らす。

 

「う、あああああああああああああっ!」

 

 次の瞬間、ラオフェンの身体が、凄まじい勢いで前方へと引きずり戻された。

 

 生物の構造として、実のところ亀は、内部的には筋肉の塊なのである。

 特に、首をひっこめるという動作は、人間に置換すれば反射行動に近く、そのためあらゆる行動の中でもとりわけ素早くおこなわれる。数トン、数十トンはあろうかという筋肉の収縮活動は、とても人間の力であらがえるものではない。

 

 亀の首は一瞬で、甲羅の深淵へとひっこみ、その運動エネルギーに巻きこまれる形で、ラオフェンの身体が宙に舞った。

 

 綱引きの要領で、必然、大亀の大きく開けた口角に吸いこまれそうになる。

 

「ラオフェン!」ラヴィーネが叫んだ。

 

 ラオフェンは一瞬の判断で、綱にあたる魔法を解除した。

 慣性の法則が、ラオフェンの身体を虚空へと引き寄せる。

 スローモーの世界の中。ラオフェンが見たのは、

 

「――ゾルトラーク!」

 

 カンネだった。その攻撃先は、タイラントタートルではなくラオフェン。

 ラオフェンは咄嗟に防御魔法を張り、ゾルトラークの推進力でわずかに向きが変わる。

 

――ガゴォォォォォン。

 

 コンマ数秒後、岩石同士が衝突したような凄まじい咀嚼音が響き渡った。

 

「はぁ……はぁ……。ありがとう。カンネ」

 

 着地したラオフェンちゃんの肩が、激しく上下していた。

 命の危機。リーニエの時にも感じたことではあるが、自分が死にこれほど近づいた経験はなかった。ゾクリとする。総毛だつ。臓腑が死にあらがう。拒絶反応がラオフェンを襲う。

 

(動け。動かなきゃ。まずい)

 

 筋肉が恐怖で硬直したかのように動かない。

 

 しかし、致命的な隙と思われるも、いくら時間が経過しても二撃目はなかった。

 静かすぎる戦場に、ラオフェンはそっと見上げる。

 

――護身完成。

 

 あ――。と思った。諦めが一瞬で心を覆いつくした。

 

 タイラントタートルは、今また沈黙する岩に戻っていた。

 首も、脚も、尻尾も、急所になるところは全部引っこめられている。

 呼吸の気配すら感じられない。攻撃の糸口すら見つけられない。

 物言わぬ要塞がそこにあった。いくら前進しようとしてもこれでは進めない。

 

 ラオフェンはそそり立つ壁の前に呆然と立ち尽くした。

 

 

 

 

 ん-。やっぱり苦戦してるみたいだね。

 

 亀さんは防戦一方だけど、歯牙にもかけないというのが正確な表現かもしれない。

 

 もともと、ラオフェンちゃんたちの魔法デッキは、かなり偏りが大きかった。

 水も氷も、突き詰めれば大亀の属性と相性が悪いし、物理攻撃に転用可能な速さもまた甲羅の分厚さに弾かれる。

 

 でもさすがは二級といったところ。

 諦めの悪さはデンケンお爺ちゃん譲りかな。

 

「まだ終わらせない!」ラオフェンちゃんが怒号を発する。

 

 一度は失った万能感を執念で繋ぎとめる。

 

 ラオフェンちゃんの脚に高密度の魔力が結集していく。

 

 雷光のような煌めきが脚に集まり、

 

――超高速で移動する魔法(ジルヴェーア・ブースト)

 

 爆音とともに、巨大な()に激突した!

 

 推定攻撃力、1300トン相当の衝撃。並の魔物なら消し飛ぶ程度の威力を誇る。

 

 けれどやはり通じない。魔力によってコーティングされた鋼鉄の数千倍の硬度を持つ甲羅は、ラオフェンちゃんの渾身の蹴りを、無機質な反発力で撥ね除けていた。

 

「硬っ……。これでもダメなのか」

 

 衝撃で脚が痺れている。

 ラオフェンちゃんは痛みをこらえながら、仲間に視線を飛ばした。

 

「ラオフェン。背中を貸せ。推進力を上乗せするッ!」

 

「わかった!」

 

 ラヴィーネちゃんが空中で、カンネちゃんと目くばせをしあい、タイミングを計った。

 ラオフェンちゃんが跳躍する。

 

 ラヴィーネちゃんとカンネちゃんが、同時にゾルトラークを放つ。

 ふたりの放った光線が、ラオフェンちゃんの背後から着弾し、爆発的な推進力となって、彼女を後押しする。

 

 魔法、重力、推進力。

 

 すべてを結集した、TNT火薬数キロ分にも達する最強の攻撃が、亀の甲羅を穿った。

 

――ガギィィィンッ!

 

 湿原に、耳を劈くような金属音が響き渡る。

 昼間なのに、周囲が白く輝くほどのエネルギー量。

 

 それでも――。

 

 それでもタイラントタートルは、微動だにしなかった。

 ラオフェンちゃんは、血の気が引くような衝撃と共に、無様に地面を転がった。

 

「……はぁ、はぁ。……嘘でしょ。これでも、ダメなの……?」

 

「どんな硬さなんだよ……。オーバースペックすぎるだろ……」

 

 ラヴィーネちゃんも息も絶え絶え。

 

「こいつ全然攻撃してこないのが、逆に腹立つ」

 

 カンネちゃんはついに座りこんでしまった。

 

 泥にまみれ、膝をついたラオフェンちゃん。

 三人の全力。知恵と勇気の結晶。その全てが、ただの石に跳ね返された。

 石は固定された未来のように沈黙を返すのみ。その事実が、ラオフェンちゃんたちを打ちのめしている。

 

 無理なんじゃないか。これが私たちの限界なんじゃないか。

 疑念と不安が膨らみ、誰もが一歩を踏み出せない。

 

「ねえ。ラヴィーネ……」すぐ後ろにいたカンネちゃんが言った。「あれ、やろうよ」

 

「あれ? ……あれ、か。成功率は低いがやるっきゃねーな」

 

 ラヴィーネちゃんが疲れ切った身体を無理やり起こす。

 ふたりだけに伝わる符丁があるのだろう。

 

「ラオフェン。一撃だ。タイミングはおまえに任せる」

 

「何をやるつもり?」

 

「見てりゃわかるさ」

 

 最初に動いたのはカンネちゃん。

 なけなしの魔力をはたいて、大亀をすっぽり包みこむほどの水球を創り出す。

 

「――水を操る魔法(リームシュトローア)

 

 けれど、今回は対象を押し流そうとはしていない。

 水球を保ちつつ、亀の周りを完全に塞いだ。

 

「――氷の矢を放つ魔法(ネフティーア)

 

 次に魔法を唱えたのはラヴィーネちゃん。

 氷の矢は水球の周りを高速で漂っている。

 

 水冷が急速に下がっている。

 混じりけのない水が、極限まで冷やされていく。

 水温は0度を割った。けれど凍らない。

 

 そうか! 過冷却だ。

 わたしは空中で膝を打つ。

 

 氷をそのまま放つだけでは巨体を凍らせるのに途方もない魔力を必要とする。

 しかし、水を氷に変えるだけなら、ただ冷やせばいい。

 空気はシンと静まり返っていた。白い靄が、またあたりに立ちこめ始めた。

 靴の下に、湿原の空気よりもなお冷たい空気が入りこんでくる。

 それで、ラオフェンちゃんはすべてを了解し、自分の役割を認識した。

 

 一撃を加えればいい。

 それだけで世界は変わる。水は氷に変化する。

 

――絶妙な均衡によって停止したかのように見える世界。

 

 ラオフェンちゃんが体操選手のように駆けだす。フォルティシモのサインを見つけたかのように、極めて強く地面を蹴る。バク転する。くるくると宙がえり。大亀を超える高さまで到達。やはりここでも選択されるのは手に持った杖ではなくキック。

 

「こおおれえええええええええ!」

 

 極限まで冷やされた過冷却水に、水の膜に、最後の一撃を叩きこんだ。

 

――ピシッ。

 

 波が――波動が水の分子を一気に揺らす。

 結晶化の連鎖。液体から固体への相転移。膨張する体積。

 針のような一点から始まった氷の棘が、幾何学的な速度で水球全体を侵食していく。

 逃げ場のない大亀の腹の下で、氷の楔が爆発的に膨れ上がり、その巨躯を内側から無理やり押し上げた。

 

「ギ、……アァァァァッ!!」

 

 初めて。

 あの物言わぬ岩塊が、肺の奥を絞り出すような悲鳴を上げた。牛が鳴いたような、洞窟の中から生暖かい風が漏れ出すような、そんな声が漏れ出した。

 

「効いた! 動いたぞ!」

 

 歓喜の滲んだ声。

 

 ラヴィーネちゃんが杖に巻きつけられた魔力のロープを手繰り寄せ、ラオフェンちゃんの身体を引き上げた。間一髪。ラオフェンちゃんは氷の檻に閉じこめられることなく脱出する。

 

 大亀は狂ったように首を振り、自分を縛り上げる氷を砕こうと暴れ出した。動きはあいかわらず緩慢だが、その圧倒的な質量体がただ動くだけで空気が震える。

 

「で、こっからどうすればいいの!」カンネちゃんがわたわたしている。

 

 大亀が嫌気しているのはまちがいないが、決定的一打はない。

 ゾルトラークを撃ったとしても、氷の表面を削るだけになる。

 

「もう一度。同じことをやる。今度は砕く!」

 

 ラオフェンちゃんが杖に掴まりながら言った。

 冷やされ脆くなった甲羅なら割れるかもしれない。

 ラオフェンちゃんは駄目を押すことにしたようだ。

 

「どうやんだ」「私、魔力尽きちゃったんだけどぉ!」

 

「手を貸して」

 

「狂気の沙汰だぜ」「私ができることって?」

 

「ごめん」

 

「遠慮すんなよ」「ねー、私はぁ?」

 

「耐えて」

 

 ラヴィーネちゃんは空中で砲丸投げ選手みたいにくるくる回る。

 それで加速するつもりだ。遠心力で腕が引きちぎれそうになりながらも、魔力のロープがふたりをつないで離れない。

 

 投擲!

 瞬間、ラオフェンちゃんはカンネちゃんの持つ杖にロープをまきつける。

 カンネちゃんの役割はアンカーだった。自由に伸縮する魔力のロープを短くすることで、ラオフェンちゃんの身体がより速く、より強く加速する。つまり、カンネちゃんがやることは、その場で踏ん張ることだった。

 

「ぐぎぎ」杖を地面に突き立て、耐えるカンネちゃん。

 

 それも、ほんの一瞬のことだったのだろう。

 ラオフェンちゃんは杖を投げ捨て、身軽な矮躯で亀へと迫る。

 

 空中で、物理法則が歪む。

 

 ラヴィーネちゃんの遠心力による投擲と、カンネちゃんのロープ短縮による引き込み。

 二つのベクトルが重なった瞬間、ラオフェンちゃんの身体は音を置き去りにした。

 

――超高速で移動する魔法(ジルヴェーア・ブースト)

 

 もはや蒼い閃光にしか見えない彼女が、一度目の攻撃で脆くなった甲羅の一点、その罅の深淵へと殺到する。

 

「砕けろぉぉッ!」

 

 轟音。

 湿原の空気が一瞬、真空になったかのように沈黙した。

 

 それから、ピシ、ピシ、ピシ、と――。

 連鎖する亀裂の音が、静寂を埋めていった。甲羅の一点から走った罅は、放射状に広がり、苔と泥の堆積を剥がしながら、確かに深く、確かに広く、タイラントタートルの外殻を割り砕いていった。

 ラオフェンちゃんは甲羅の縁で受け身をとり、転がるように離脱した。

 

「やった……!」カンネちゃんの声が上擦った。

 

 ラヴィーネちゃんは何も言わなかった。

 ただ、荒い息を整えながら、その光景を見ていた。

 

 タイラントタートルは、もはや動かなかった。

 首も脚も出てこない。甲羅の割れ目から、わずかに白い煙のようなものが立ち昇っている。生きているのか、死んでいるのかも、判然としない。

 

 でも、もはや身体を守る殻がなくなったのだ。

 生きているとしても、死んでいるとしても、結果は変わらない。

 

 三人は、それぞれの場所に立ったまま、しばらく動けなかった。

 勝った、という感覚が来るまでに、少し時間がかかった。

 

「私たちがやったんだ」

 

 ラオフェンちゃんが、ゆっくりと立ち上がり、甲羅に近づこうとした。

 

 

 

――でも、その時だった。

 

 

 

 割れた甲羅の陰から、何かが動いた。

 小さい。岩のように大きかった大亀からすればという話だが。

 タイラントタートルとは比べるべくもない、ラオフェンちゃんが乗れるくらいの、丸くて小さい影が、よたよたと這い出してきた。

 

 子亀だった。

 一匹ではなかった。二匹、三匹、四匹――。

 地面を掘り進むようにして親亀の下から、次々と這い出してくる。

 凍りついた地面を蹴って、必死に生き足掻こうとしている。

 

 初めて、亀が動かない理由がわかった。最初からそうだった。亀は卵が孵るのを待っていたのだ。

 ただひたすらに耐えて、耐え抜いて。

 

「亀って……卵生んだら放置するんじゃないの?」カンネちゃんが言った。

 

「いや――、確か文献には、しばらくその場で待機すると書いてあった……」

 

 原生生物と魔物の差異。

 

 ラヴィーネちゃんが呆然としている。

 その一文は、確かに脳裏に刻まれていたのに、そんなことは思いもしなかったのだろう。

 

「魔物も子どもを守るんだね」

 

「守るって意識はねぇかもしれねえぜ。ただの本能だろ」

 

「たとえ本能だとしても、否定できないよ」

 

「……ラオフェン。どうする?」ラヴィーネちゃんは静かに訊いた。

 

 ラオフェンちゃんは、その場に立ち尽くしていた。

 亀卜に使える甲羅は、もう目の前にある。

 大きくて、罅も入っている。デンケンお爺ちゃんの占いをするには、充分すぎるくらいだ。

 ただ、足元を子亀が一匹、よたよたと通り過ぎていった。

 

 罅が入っている。

 拳がぎゅっと握り締められている。

 魔物も生きている。生きようとしている。

 

 影が落ちる。母亀は生きていた。ラオフェンちゃんが身構えた。だが、母亀に戦う気はなく、その濁った瞳からは涙のような物質がこぼれている。

 

 ただ、氷の侵食で青白く硬直した、ピクリとも動かない一匹の子亀を、鼻先でそっとラオフェンちゃんの足元へと押し出してきた。

 

 それは、言葉を持たない魔物が見せた血を吐くような懇願。

 

――この子をあげるから。だから、もう殺さないで。

 

 言葉にしたら嘘になる。

 魔族よりも純粋な親亀の行動に、ラオフェンちゃんは戦慄していた。

 

 目の前には、勝利の証であるはずの、砕かれた巨大な甲羅。

 そして足元には、親亀が差し出してきた、冷たく動かない小さな命。

 

「……ハッ、冗談じゃねえ」

 

 ラヴィーネちゃんが、自嘲気味に吐き捨てた。

 その拳は、怒りではなく、やるせなさで震えている。

 

「魔物相手に取引を持ちかけられるなんてな。おい、ラオフェン。甲羅ならそこら中に転がってるぜ。よりどりみどりだ。ジジイの占いには十分すぎるだろ。それとも、このデカいやつを最後までやっちまうか。こいつそれでもいいって顔してるぜ」

 

 死んだ子亀。生きてる子亀。半々くらいの確率。

 親亀の討伐確率、限りなく100パーセント。

 

「ラヴィーネ。ひどいよ」カンネちゃんはほとんど泣きそうな顔つきだった。

 

「ひどくねえ。最初から人間はそうしてきたんだ。何も間違っちゃいねえだろ」

 

「でも……」

 

 そう。理屈の上では、もう勝負はついているのだ。

 

 母亀は戦意を喪失し、ただ子を守るためにひれ伏している。甲羅を拾って立ち去ることに、何の障害もない。母亀を討伐することは、人間の法に照らしてもなんら罪悪感を覚えることではない。

 

 それでも良心は痛む。

 いつかの時、フェルンちゃんが言っていたけれど、良心こそが最高の教義であるから。

 

 ラオフェンちゃんは泥にまみれた膝をつき、冷たく動かない子亀を身体全体で抱きしめるようにした。耳をあてて、わずかな心音をかぎとる。

 

「こいつ……まだ死んでない」

 

 微かな、本当に微かな鼓動。

 過冷却の魔法で仮死状態に陥り、今にも消えそうな小さな灯火。

 生と死が重ね合わせの状態で置かれている。死んだように見える子亀たちもまだ生きている。

 まだ――。あとわずかの間は。

 

「何を躊躇してんだ。一級魔法使いを目指すってのは、()()()()()()なんだぞ!」

 

 殺し殺される間柄になること。戦いの世界に参入すること。

 ラヴィーネちゃんの言ってることは、なにも間違ってはいない。

 

「そうだね……」ラオフェンちゃんが言った。「爺さんが言ってる意味がようやくわかったよ。知らなかったことがわかるようになるのは楽しいはずなのに、全然楽しくない」

 

 一人前の魔法使いになるのは、こんなにも痛い。

 そう言って、ラオフェンちゃんは顔をあげた。

 

「私は爺さんみたいな魔法使いにはなれないと思う」

 

「どういう意味だ」

 

「爺さんは強い。それは本当だよ。でも爺さんの強さって時々すごく寂しい感じがするんだ。誰にわかってもらえなくても、たとえ誤解されても、何かを守るためにそうしてきたんだと思う」

 

「それの何が悪い」ラヴィーネちゃんが言った。「寂しくても強いなら、それでいいだろ」

 

「悪くはないよ」ラオフェンちゃんは首を振った。「でも、私にはできない。爺さんと同じ強さは、私には重すぎたんだ」

 

 子亀が、ラオフェンちゃんの腕の中でわずかに動いた。

 

「私はたぶん、こいつを捨てられない。捨てて強くなることより、抱えたまま強くなりたい。なれるかどうかはわからないけど」

 

「そんな都合のいい強さがあるかよ」

 

「あってもいいんじゃないかなぁ」カンネちゃんが横やりを入れた。

 

 ヘロヘロの状態で、杖をつきながら近づいてくる。

 

「なんだよ。カンネ。口出ししてくんな」

 

「だって、魔法はイメージの世界でしょ。ゼーリエ先生だって口酸っぱくして言ってるじゃん」

 

「それとこれとは話が別だろ」

 

「だって、ラヴィーネだってそうじゃん。強くなりたいから強がってるんでしょ」

 

「おまえな……」長い溜息。「まあいい。今回はラオフェンの依頼だ」

 

「図星だったんだ。ラヴィーネちゃんかわいいね」

 

 舌打ちする小さな音。

 さすがにプロレスを始める気はなかったらしい。

 

 

 

 

 

 風が吹いている。

 湿原の風が草を揺らす音だけが、ゆっくりと流れていく。

 ラオフェンちゃんの腕の中で、子亀がまた動いた。

 わずかな動きだった。でも確かに動いた。まだ諦めていない。

 ラオフェンちゃんは自分の熱を渡すように、しっかりと抱きしめている。

 小さいとはいえ、子亀はかなりの巨体だ。

 魔力で筋力を増強し、ようやく抱き枕のように抱えこめる。

 ふと、ラオフェンちゃんが空を見上げた。

 わたしと視線が合った。

 

「アナ姉――お願いがあるんだけど」

 

 ラオフェンちゃんが子亀を抱えた瞬間から、だいたいの予想はついていた。

 でも、待った。

 待ち続けた。欲望の始端を。応答の端緒を。

 ラオフェンちゃんが自分の言葉で辿り着くまで。

 

「うん」わたしは高度を下げながら言った。「聞くよ」

 

「この子を、助けてほしい」

 

「この子だけでいいの?」

 

「ここで死にかけてるやつ、みんな」

 

「親亀も?」

 

「親亀も」

 

「対価は?」

 

「対価は――」

 

 ラオフェンちゃんは少し間を置いた。

 言葉を探しているのではなかった。言葉はもう決まっていた。

 ただ、口に出す前に、自分でもう一度確かめていた。

 曖昧模糊としたイメージが、今ここという時空に収束されていく。

 

「未来を」ラオフェンちゃんは言った。

 

「ラオフェンちゃんの未来なら受け取り拒否したはずだけど」

 

「違う。アナ姉が欲しがってる未来だよ。魔物も魔族も、人間も、みんながいられる世界。私にそれを約束できるかはわからない。でも、そういう世界を諦めない魔法使いになるって約束する」

 

 わたしは少しの間、ラオフェンちゃんを見ていた。

 この子は、わたしが何を欲しがっているか、知っていた。

 いつから知っていたのだろう。

 

 わたしの妹がかわいい。それしか言えない。

 

「絶対に?」とわたしは聞いた。

 

「絶対に!」

 

 もう、お澄まし顔はしていられなかった。

 

 

 

 

 

 それから数日後のこと。

 リヒターさんの魔道具店の奥の作業台は、いつになく賑やかだった。

 むしろ店主なリヒターさんが隅っこのほうに追いやられている。

 姪のような――小娘たちの談合に、大人の先生が加わる隙間はない。

 

 なので、わたしが隣にいてあげてるんだけど、さっきからリヒターさんはわたしのほうを見ようともしていない。寂しいオトナだな。まったく。

 

「いったいどうなってる。アナリザンド。ここは学校じゃないんだぞ」

 

 本当はうれしいくせに。

 

 あれからのことだけど、もちろん亀たちは回復した。

 ラオフェンちゃんたちは当初の目的を果たせなかったわけだけど、それでも手に入れてきたものはある。成長という名の未来への道だ。

 

「糸はこう編むんだよ。ほら、指に巻いて。ラオフェン」

 

「わかってる。こうでしょ」

 

「違う違う。もっと均等に。ラヴィーネ見てよ。これでいい?」

 

「まあ、悪くはねぇな」

 

 ラオフェンちゃんの手元には、甲羅のかけらがひとつ。

 

 湿原で拾ってきた破片の中で、一番形の整ったやつだ。

 断面はなめらかで、苔を落とした後の表面には、数百年分の凝集された魔力の痕跡が、複雑な模様として刻まれていた。魔力を通さないのに加工したのは、もちろんわたしの魔力。

 リヒターさんの指示で、甲羅の欠片を綺麗なまるい形に整えて。

 わたしが小さな小さなプチゾルトラークで穴をあけて。

 ラヴィーネちゃんが教えてくれた結び方で。

 カンネちゃんが選んだ唐辛子で着色して。

 それに赤い糸が編みこまれていく。

 

「これってお守りになるの?」カンネちゃんが言った。

 

「故郷の古いお守りの作り方なんだ」

 

「間に合うかな。もう明日、出発するんでしょ」

 

「間に合わせる」

 

 ラヴィーネちゃんが鼻を鳴らした。

 

「不器用なくせに無理言うな。貸せ」

 

 ラヴィーネちゃんが手を出した。

 渋々という顔をしながら、その指は慣れた動きで糸を捌いていく。

 

「ラヴィーネって、こういうの得意なんだよね。ネットで見つけた情報だけでラオフェンの故郷の編み方をすぐに見つけてくるし。すぐに先生やれるくらい上手だし」

 

「うるさい」

 

「どこで覚えたのかな。お嬢様」

 

「うるさいって言ってる」

 

 カンネちゃんがにやにやしていた。

 しばらくして、ラヴィーネちゃんが手を止めた。

 

「できたぞ。あとは甲羅を組み入れるだけだ。あとはおまえがやれ」

 

「うん。わかった」

 

 それから格闘すること、数十分。

 

 甲羅のかけらに、赤い糸が幾重にも編みこまれていた。結び目はひとつもほつれていない。吊り下げられるように、細い輪が上部に作られている。

 

 ラオフェンちゃんはそれを受け取って、しばらく眺めた。

 

「ありがとう。いつか借りは返すね」

 

「礼はいい。ちゃんと渡してこい」

 

 

 

 

 

 翌朝、ラオフェンはデンケンを見つけた。

 宿の前で、旅の荷を確かめていた。

 

 アナリザンドは、必死に懇願してデンケンの滞在を一日だけ引き伸ばすことに成功していたのだが、そんなことはもはやどうでもいいことだろう。

 

 ともかく間に合った。

 

「爺さん」

 

 デンケンが振り返った。モノクルの奥の目が、ラオフェンを見た。

 

「ラオフェンよ。見送りはいらん。別れの挨拶は済ませたはずだぞ」

 

 後ろ髪を引かれたくなかったデンケンは、あくまで儀礼的な、威厳のある父親風を装った。

 そんなデンケンの不器用さなど、とうの昔に見抜いている。

 ラオフェンは手の中のものを差し出した。

 

「これ、持っていって」

 

「お守りか? すまんな。ラオフェン」

 

 それを受け取ろうとするデンケン。

 

「違うよ」

 

「ふむ……ならばなんだ?」

 

「勲章だよ。未来の私からのお届け物。爺さんは黄金郷を解放した英雄になって帰ってくる」

 

 デンケンは、もう一度それを見た。

 それから、モノクルを外して丁寧に拭いた。

 一呼吸の間に、装いが含まれている。

 

「言葉がうまくなったな」

 

 デンケンは限りない優しさをこめて、ラオフェンを撫でた。

 孫の愛らしさに抗える爺などいない。

 

「がんばって、爺さん」

 

 受け取る。壊れんばかりに握りしめる。

 

「がんばるとも」

 

「次に逢う時は英雄だよ。絶対に」

 

「ならば」デンケンは笑った。「凱旋した暁には、この大それた勲章を受け取るにふさわしい男になって戻らねばならんな」

 

 ラオフェンは何も言わなかった。

 デンケンは荷を担いだ。それから、一度だけ振り返った。

 

「後は任せたぞ、ラオフェン」

 

 今度は、その言葉の意味がわかった気がした。

 デンケンの背中が、朝の光の中に遠ざかっていった。

 ラオフェンは、その背中が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。

 

 けれど、彼女は泳いでいる。

 未来を泳ぐメダカみたいに。

 

 

 




どうでもいい話ですけど、イカ→カメ→メダカというふうに、しりとりしてみました。
書けてよかった。(ほっと一安心)
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