魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
エルフは雑食である。
この厳然たる事実に気づいたのは、もちろんフリーレンと一緒に旅をするようになってからだ。エルフは野菜もお肉もよく食べる。よくあるファンタジーのエルフのように、お肉はダメだとか、乳製品すら受けつけないとかそんなことはない。あるいは空気中のマナを取りこんで活動できるなんて、訳の分からない身体構造をしてはいない。
そんな益体もない思考をしてしまっているのは、とある配信でのコメントが元ネタにある。その子は魔法学校の生徒さんで、たぶん10歳くらいの男の子だった。
男の子らしく生物に興味があるらしい。それも異類であればあるほどよい。昆虫や機械に興味があるのも、男の子らしい趣味といえるかな。もちろん、わたしのこの発言はジェンダー的にはダメなんだろうけど、人間の精神分析をするなら、その統計的な傾向として、男の子のほうが言葉や構造に対する興味が強いといえる。十億人分のアンケート結果なので、まず間違いないだろう。
自分を囲う世界に向かうという凸構造を持つのが男の子だからね。逆に女の子は自分自身が世界そのものだから、そういった興味は抱きにくいという話。とはいえ、個性という概念を密輸すれば、どこまでも曖昧にできることではあるけれど。今はその話は置いておこう。
その少年曰く――。
自由研究の課題を与えられたとのことだった。
自由というのは人間にとって何よりも欲しいものであるはずだが、無限大の自由は、逆に人間の選択を奪う機能がある。100種以上のトッピングできますよと言ったところで、オーソドックスなバニラ味のアイスが好まれるのもそれが理由である。そういった場合に、人間がハングアップしない手法はあまり多くない。
ひとつが純粋な好み。そしてもう一つが、好みからの連想ゲーム。
そこで少年君が題材として選んだのが、身近な異類であるわたしだったというわけだ。
『アナお姉ちゃん。魔族って身体も服も魔力でできてるから裸なんだよな。それなのに、なんで服着てるの?』
言ってることはエロガキだった。でも、ちっちゃくてかわいい質問でもある。
この質問に対しては、魔族が人間を騙すためとか、そういった方面の回答も存在しうるが、生物種としての差異を知りたがっているのだろうと推測された。
わたしは以下のように答えた。
周りを行き交う野次のような言葉『そうだぞ。アナ様。脱げ脱げ』の大合唱を無視しつつ。
「猫さんも毛皮を着てると言えるよね。でも、猫さんは裸だって言えるかな?」
『どうだろう。わかんないけど……裸だと思う』
「その答え方が答えだよ。君は猫を裸だと
『ん-。でも、毛皮は皮膚にくっついてるから、姉ちゃんみたいに脱ぎ着はできないじゃん。だから猫は裸だけど、アナ姉ちゃんは裸じゃないんだよ』
なかなかに鋭い質問だ。将来は研究者かな。
「猫さんもね。毛皮を脱ぎ着してるよ。ちょっとずつだからわかりにくいかもしれないけど、季節が移り変わるときに、毛並が異なってるのは知ってる?」
『なんとなくだけど……。冬のほうがごわごわしてる』
「いい観察眼だよ。触って確かめてみるというのも良い手法だね。お姉ちゃんのことも触ってみたい?」
姉心がうずく。いかんな。
これではショタの心をもてあそぶ魔性の女になってしまう。
『え、いやそれは』
気持ちを落ち着かせるために紅茶を一飲み。
にっこりと真っ白な歯を見せながら言う。
「魔族も同じなの。魔族も魔力で服をまとっているように視えるけど、わたし自身にとって、これは毛皮みたいなものなんだよ」
『じゃあ、姉ちゃんは裸で過ごしてるみたいな感覚なのか?』
「いえいえ、視点の話だって言ったよね。さっきの話で言えば、猫さんが毛皮を着ている感覚があるかどうかは猫さんに聞いてみないとわからないよ」
『猫じゃなくて、姉ちゃんはどうなのって話なんだけど?』
妙にねちょついた質問。リビドー感じちゃう。
「君って、もしかしてだけど――、お姉ちゃんが裸で過ごしてる気分って答えたら、じゃあ、服に見えるそれを脱いでも同じじゃんとか言うつもりでしょ」
『魔族と人間って違うのかなって……』と少年君。
研究無罪ってことにはならないからね。
『いやー、将来有望なお子さんですな』
『アナ様。ここは一肌脱いでみては?』
『我はニーソは悪であると思うマン』
『いや、ニーソはいるだろ。スカートとニーソの間に覗くまっしろいおみ足がよいのだ』
『アナ様は足がかわいいのよ。足が。ニーソを被せたら折角の良さがスポイルされてしまう』
『なんだ、てめぇ……!』
『お、戦争か?』
「まーた、すぐにえっちな話になる」ジト目ザンド。「いくらわたしが軽い女だからって、柔肌をそんなに簡単に見せたりはしないからね。これは服だよ。わたしは裸族じゃないの。魔族にだって恥ずかしいって感情くらいはあるんだから」
『変態魔族なんていなかった?』
『でも、リーニエちゃんはおっぱい見せてくれそうだった!』
『そうだそうだ。リーニエ様を思い出せ、アナ様!』
『魔族の本分を思い出すんだ。アナちゃん!』
ここにおいてもリーニエちゃん反証万能説が……。
『せめてニーソ脱いで。ニーソ!』
『いや、ニーソは脱ぐな。ドレスの上のボタンだけでいい』
『いや、猫耳つけてよ。変身魔法使えるでしょ!』
『そんな獣好きの変態コメントはやめてもらっていいですか?』
『生まれたままの姿のアナ様が一番美しい。服なんて邪道』
『服は脱ぎかけが一番エロいんだよ!』
『ワンピース……がいいと思うです。白ワンピイズ神』
『赤いランドセルとかいう例の背嚢を見るとですね。なぜか興奮します。10000AP』
『わかるわ。カチャカチャ音が好きなんですよねぇ(ねっとり)10000AP』
『このロリコンどもめ!』
そんなわけで喧々諤々の議論が朝まで続いたのだった。
少年君はいつのまにか寝落ちしてたけど大丈夫だろうか。
自由研究がんばってね。
さて、そんなわけでわたしは思ったのである。
少年君の問いは『魔族と人間の違い』に着目したものであったが(あるいは男の子と女の子の身体の違いかもしれないが)、同じ問いは『エルフと人間』あるいは『エルフと魔族』にも適用されうると。
愕然とした。
わたし、ゼーリエ先生のことをあまりにも知らなさ過ぎた。正確にはエルフという種族との物理的かつ生物種的な差異をあまり重視してこなかったのだ。
なんということだろう。他ならぬ先生のことなのに!
ツンデレとか、人間のことが好きすぎるエルフとか、時間感覚が長大すぎて、全部が風景に視えてしまう心性とか、そういう心理学的なアプローチはたくさんしてきたけれど、目に見える差異をとりこぼしてきたのは、このアナリザンド、魔族生における最大の失態である。
――わたし、先生のこともっと知りたい。
こうして少年君と同じように、ひそやかな生物種エルフの観察記録が始まったのである。
「くんくん……先生の匂いはこっちかな」
昼間の時間、だいたい先生はいつもそこにいる。
HUDを使うまでもなく、魔力探知をするまでもなく、先生の習性をわたしは理解しているのだ。
いつもの謁見室の重い扉を開けて、わたしはこっそり中を覗き見た。
いた。ゼーリエ先生はゼンゼ先生からなにかしらの書類を受け取り、それに視線をやっていた。
それから、すぐにわたしの気配を察したのか、こっちに視線を向けてきた。
「何の用だ。アナリザンド」
「お仕事お疲れ様です。ゼーリエ先生」
「なんだその言い方は、気持ちが悪い」
これまたストレートな。わたしが何か譲歩を狙っているとでも思ったのだろうか。
わたしは、とてとてと近づき、背中に隠していた紙袋を先生に差し出す。
「これ、お仕事の間の休憩にと思って。ゼンゼ先生もおひとつよかったら」
中に入っているのは、なんの変哲もないただのドーナツだ。
もちろん、ただのドーナツとはいえ、そんじょそこらのドーナツではない。
あのフェルンちゃんも認めた、とてつもなく甘く重く、そして美味なる有名店のものである。
わたしは中身に異常なものがないことを証明するために、ドーナツのひとつを掲げて見せた。
「借金の猶予でも欲しいのか?」
「違うよ。師匠を敬うのは弟子として当然でしょ。これは先生への捧げものなの」
「何を狙っている? また変なことでも考えついたのか?」
ゼーリエ先生はいぶかしんでいるのか、わたしのドーナツを受け取ろうとしない。
エルフってもしかして甘いものが苦手だったりする? 思い出してみたら、フリーレンもなかなかわたしからドーナツを受け取ろうとしなかったし、ミリアルデ院長先生は酒には塩っ辛いのが合うのよねーとか言いながら、イカの塩辛を食べてた。いや、でもフリーレンはプリンが好き……。いや、メルクーアプリンはほんのり酸っぱいベリィ味なのだ。
永遠の少女という概念にまどわされてはいけないのかもしれない!
もしかすると味覚はお婆ちゃんかもしれない!
「一度、おまえの脳内を覗いてみたい」とゼーリエ先生。
「そんなに変な顔してた?」変顔ザンドだったり?「もちろん、先生だったらわたしの全部見せちゃってもいいよ」
たぶんゼーリエ先生なら、わたしの精神構造を見ても、頭がパァーンとなったりはしないだろう。
「目的を言え」
「目的なんてひとつだと思うんだけど。先生に食べてほしいの。喜んでほしいからだよ」
それは本当。93パーセントくらいは本当の気持ちだ。
しかし、交渉は難航している。ゼーリエ先生はわたしの言葉を疑っているのか、まだドーナツに手を伸ばそうとしない。
硬直した時間を破ったのは、わたしでもゼーリエ先生でもなく、ゼンゼ先生だった。
「ゼーリエ様」とゼンゼ先生。「そろそろ三時のおやつの時間です」
ピクっと反応するゼーリエ先生。
「ゼンゼ……。わたしがいつも三時のおやつを食べてるみたいに言うな」
「三時のティータイムの時間です」
「意味変わってないだろ」先生が折れた。「まあいい……。少し休憩する」
ほっと一息。ゼンゼ先生も呼吸をゆるめるのを感じた。
そして、わたしにチラっと視線を飛ばしてくる。連携プレイはお手の物だね。
「君は、いったい何の狙いがあるんだ?」
部屋の隅っこのほうで、紅茶を用意しながら、ゼンゼ先生が小声で話してくる。もちろん、ゼーリエ先生には聞こえているだろうけど、気分のようなものだ。
「ゼンゼ先生、笑って」
「笑う?」
「イーってして」
「こうか?」
ゼンゼ先生も硬直性の顔面を持つダウナーロリ風味なお姉さんだけど、わたしの言葉を遂行してくれた。ものすごく不自然ながらも、笑ってくれる。
「先生、歯がキレイだね。真っ白くてお月様みたい」
「君は……その、ずいぶんと恥ずかしいことを言うんだな。月なら黄ばんでるだろう。それに歯の構造は真円じゃない。台形だ。立体的に言えばクレーターに近い」
髪の毛で雲隠れしちゃうお月様。
照れ隠しだろうけど、あんまりロマンティックじゃなかった。
「実は、わたしすごく気になることができちゃったんだよ」わたしは文脈を重視して続けた。
「ゼーリエ様のことで?」
わたしは頷いた。
「でも、ちょっと違うかな。ゼーリエ先生じゃなくてエルフという生物についての興味だよ」
「どんなことだ?」
「歯」
「は?」
「だから歯だよ。先生が今見せてくれた歯。人間は歯の生え変わりって乳歯から永久歯になる一回だけだよね」
「それはそうだが……。まさか」
「うん。そのまさか。エルフって千年とか万年とか生きてるんだから、何回歯が生え変わるのかなぁって。あるいは、魔力か何かでコーティングしているのかな。それともタングステンみたいにメチャクチャ硬いとか。超再生能力があるとか。すごく気になったの」
「なんでそんなことが気になるんだ?」
「だって、ゼーリエ先生が、もし入れ歯だったらおもしろいじゃん」
「君は本当に命知らずだな。聞かなかったことにしておくよ」
「答えはゼンゼ式ってやつだね。でも……」
振り返ると、ゼーリエ先生が不敵な顔で笑っていた。
歯茎すら見せる、傲岸不遜の権化。
「死刑宣告まであと五分ってところかな」
紅茶の茶葉が開かれるまでの間、わたしは命の猶予を楽しんでいた。
紅茶の湯気がまるで魔力の揺らぎのように立ち昇った。
ゼーリエ先生が座る玉座のすぐ横には小さな三脚テーブルが備えつけられている。
ゼンゼ先生はわたしと自分が座る椅子を持ってきて、その小さなテーブルを囲んだ。
普段、ゼンゼ先生は給仕をするだけで、ゼーリエ先生といっしょに食卓を囲ったりはしないのだろうが、わたしがいるからそうしてくれたのだろう。ちなみに、今のゼンゼ先生はフェルンちゃんよりも魔力を隠匿して存在感を消し、完全に無に徹している。一級魔法使いの超絶技能がこんなところで発揮されている。
「実におもしろい話だったぞ。アナリザンド」
ドーナツ片手にゼーリエ先生が言った。
「ん。なにが? なんの話?」わたしは既にドーナツにかぶりついてます。
「とぼけるなよ。エルフの歯について、だ」
「先生、内緒話は聞いちゃダメなんだよ」たしなめるようにわたしは言った。
まちがったこと言ってないよね?
「どうやら死にたいらしいな。貴様は最後に殺すといったが、ついに履行するときがきたようだ」
魔力が揺らいでいる。
ほんの少しの微細な揺れだけど、魔族であるわたしにはわかる。
「先生、お食事前に会話するのはマナー違反だよ。まずはドーナツを食べてよ。せっかく買ってきたんだからさ」
わたしは密かに期待していたのだ。
ゼーリエ先生って優雅に紅茶をたしなんだりはするけど、あんまり物を食べたりはしない。胃腸が弱くなっちゃってるのだろうか。
あるいは物を食べるというのは、本質的には
ゼーリエ先生はみんなの先生として、品格のある振る舞いを自然とおこなってるし、おそらく食べるという行為にも人並みならぬ美学があるのだろう。
――ここで、ドーナツ。
この食べ物について追記するとすれば、わたしが買ってきたドーナツはとんでもなく甘く、重く、べたついている。最初のひとくちで、必ず口の周りに砂糖がつく構造になっている。
ゼーリエ先生が、口の周りに砂糖をつけながらドーナツを食べる姿を想像すると、絶対かわいいと思うんだよね。さぁ、食べるがよい。そして痴態を見せよ。
「他人が食事している姿をあまり見つめるな。マナー違反だ」
「見てないよ」即座に否定するわたし。
「見てるだろう」
「見てないよ」視線はそらしている。けれど、わたしの視覚野は相当広い。HUDによる魔力視は人間の視野角度を超えている。
「ゼンゼ」ゼーリエ先生が無を召喚した。
「はい」無は応えた。
「姉弟子として、アナリザンドにテーブルマナーのひとつくらい教えてやれ」
「ご命令とあらば」
そして、また無は無に戻った。
ゼンゼ先生も少しは楽しんでもらえたらいいのに、緊張しているのかな。まあ、ゼンゼ先生の立場から言えば、普段、身の回りの世話をすることはあっても、いっしょに食卓を囲うという経験はなかなかないだろうし、居心地が悪いのかもしれない。
「おまえは都合が悪くなるといつもそれだな」
なしのつぶてだったことに諦めたのか、ゼーリエ先生がようやくドーナツを口にする。
いつもの野性味あふれる姿はそこにはなく、ついばむような一口。
咀嚼。白い喉がかすかに動く。綺麗だった。一分の隙もない優雅な所作だ。
「先生、おいしい?」と、わたしは聞いた。
「人間たちの料理という文化も、そこそこのレベルに達しているようだな」
なんで無駄に壮大なんだろう。エルフ視点って……。
まあ、わかるよ。照れ隠し。照れ隠し。
いつもの先生らしい所作だ。
それからはしばらく、三人で静かにおやつの時間を過ごした。
紅茶の湯気が、部屋に広がっていく。ドーナツは胃の中に沈んだ。
頃合いだろう。
「で、先生。エルフ歯の話なんだけど」
「まだ言うのか」
「だって気になるし、可愛い弟子の自由研究くらいは認めてくれるよね? 今のわたしの研究テーマはエルフという生物種についてなんだよ。もしかして本当に入れ歯だったりするの? かわいそう?」
「そんなわけあるか!」ゼーリエ先生、お怒りのご様子。「失礼にもほどがあるだろ。誰がこんなやつを弟子にしたんだ」
「だったら教えてよ。ちなみに魔族は歯がすり減ってきても、魔力でまた伸ばせるからなんの問題もないんだよ。先生は? エルフは? 先生はぁ?」
「ミリアルデにでも聞け」
「先生のことが知りたいの。先生から教えてもらいたいの。だって、先生はわたしの先生でしょ」
魔族のうるうる懇願攻撃。しかし効果はいまいちだ。
「それを知ってどうするつもりだ?」
「もちろん、研究発表するつもりだけど? みんなも知りたがってるんじゃないかな。ブログってね。本来は、インフルエンサーとかアイドルが、自分の生活スタイルを公開する場所なんだよ。本人にとっては塵屑みたいな情報でも、先生を慕ってる人にとってはとても価値があるんだ」
「昨晩はチーズ入りハンバーグを食べました。すごくおいしかった……です」ぼそっと呟くようにゼンゼ先生。お人形さんみたいにかわいらしい。
あの時、叱られたって言ってたからなぁ。でも、あのブログって難解な魔法理論よりも、PV数多かったよ。まちがいなくみんなにとって価値の高い情報だった。
「それともなんだけど……。もしかしてエルフって神秘的な存在で、その秘密を暴かれたら死んじゃうとか、そういう話だったりするの?」
エルフが女神様に近い存在なら、そういうこともありうるかもしれない。
エルフは受肉している存在ではあるけれども、魔法の高みに最も近いと言われているから。
「エルフの長命を求める人間は、昔はたくさんいたがな」
「昔って?」
「私が昔と言うくらい昔だ」
「それって神話の時代?」
「人間たちにとってはどれも同じ昔だろう。そんな言葉に意味はない」
「今はいないの?」
「今もいるだろう。ただ、エルフが絶滅を危惧されるほど数が少なくなり、表だっては行われなくなった。簡単な話だ。弱いエルフは捕まった。そうでないエルフだけが生き延びた。人間たちが手をこまねいているうちに、今度は魔族が攻撃してきた。結果としてエルフは絶滅寸前まで追いこまれた」
「ごめんなさい」
「おまえはどの立場で謝ってるんだ」
「どっちもだよ」
「あいかわらず節操がないことだ……」
ゼーリエ先生は少し笑っていた。寂しそうな笑い。
空になったコップにゼンゼ先生が紅茶を注ごうとする。
ゼーリエ先生は手をそっと添えて、それを制した。
「昔は、エルフを捕まえて、その身体を解剖しようとする人間が確かにいたんだ。エルフの血を呑めば永遠の命を得られるとか、エルフの骨を粉にして飲めば若返るとか。眉唾だが、そういった話が人間の世界にはあった。今も、どこかにあるだろう」
「それで先生は教えたくないの?」
「エルフが――実用に耐えうる実験材料として数を確保できなくなった今、その代替物足りえるのは、おまえのような人間に友好的な魔族だ」
「心配してくれたの?」
「心配? わたしがおまえを心配すると思うか?」
「思うよ。だって、先生って心配性だもん」
「ゼンゼ。やはり茶を一杯もらおう」ゼーリエ先生が言った。
「……」ゼンゼ先生が無言で注ぎ足す。
ゼーリエ先生が口元をひきしぼるようにして、歯の一本すら見せずに紅茶を呑みこむ。
それから、ゼーリエ先生はわたしを視た。
いつものすべてを見透かすようなまなざしが、わたしを射貫くように見ていた。
「エルフの身体の仕組みを知ったとして、おまえはどうするつもりだ?」
「研究記録に――」
「嘘をつくな」
わたしは少し黙った。
「先生のことをもっと知りたいだけだよ」
「それだけか?」
「それだけだよ。いますぐ発表するのがダメなら、先生にもらった日記帳に書いておいて、わたしの死後に発表されるようにするとかどうかな?」
「なぜそんなにわたしのことを知りたい?」
「だって、先生って自分のブログに自分のことを全然書かないよね? 魔法についてはいっぱい書いてるし、お弟子さんたちにコメントはいっぱいつけるけど」
「自分のことは自分がよくわかっている。弟子たちを教え導くのが私の役目だ」
「今日は何を食べたとか、晩御飯が美味しかったとか。風呂キャンセルはしてないとか。歯磨きはちゃんと毎日しているとか。そういうちっちゃな情報が知りたいんだよ」
「そんなくだらないことに時間を割く必要はない」
「歯磨きしてないの?」
「言葉を混ぜるなと言っている。書き留める必要性を感じないだけだ」
「そりゃ先生にとってはそうかもしれないけど、他の子たちにとってはそうじゃないよ。わたしにとってもそう。ゼンゼ先生もそうだよね?」
「……まぁ」ちっちゃく同意。
これが決定打になったのか。
ゼーリエ先生は、最後の一杯をすすった。
「エルフはもともと人間と同じ雑食性だ。肉を喰らう生物は牙がなければ獲物を狩れず、やがて餓えて死ぬ。超硬度だろうが、魔力でコーティングしようが、歯は必ず摩耗するんだ。それがそのままその生物にとっての寿命になる」
「雑食なら、純粋にそうはならないよね」
「生き延びること自体は可能だろうな。騙し騙し生きながらえることはできるだろう。だが、人間の生物種としての耐用年数はせいぜいが百年程度。それが生物的な寿命だ」
「エルフは違うの?」
「違う。おまえはわたしが老いを恐れているようにみえるか?」
「みえないかな。先生は他者の老いは恐れているけど、自分の老いは恐れていない」
総じて言えば、老いという現象自体を恐れているとも言えるけど。
「千年も万年も、死なない限り永遠に欠損が続く――そうなれば、どうなると思う?」
「わかんないかな。怖いって思うけど」
「肉体の前に精神が失調する。自分が削れることを極度に恐れ、戦闘行動は採りえない。だが、私やフリーレンはそうなってはいない。どういうことかわかるか?」
「つまり、欠損しないってこと? 百年に一回生え変わるとか?」
腕とかを失くしても、スポンって生えてくるとか?
「生え変わる、という言い方も正確ではない。削れた分だけ少しずつ戻る。意識的に魔法を使うわけでもなく、ただ、生物種としてそうなっている、おそらくは魔力をもとに肉体を再構築しているのだろう」
「超再生説ってことだね」
「そう名づけたければ勝手にしろ」
「じゃあさ。先生が魔力を失ったら、歯の再生も止まっちゃうの?」
「知らん。試したことはないからな。魔力が枯渇寸前までいったとしても、その状態がずっと続くわけではない。百年以上も魔力が枯渇するという状態を私自身が想像できない」
「先生にもイメージできないことってあるんだ」
「当たり前だ。私は全知でも全能でもない」
ゼーリエ先生が哂う。
視線は、ゼンゼ先生へと向かう。
「幻滅したか。ゼンゼ? おまえの師匠は無敵の存在ではない。風化に抗い、長生きしているだけの生き物にすぎないんだ」
「いえ……。むしろ、知ることができてよかったと思います」
ゼーリエ先生は、その言葉を聞いてフッと息を吐いた。
「休憩時間は終わりだ」
「ありがとう先生。教えてくれて」
わたしはピョンと椅子から飛び降りて礼を述べた。
「書くなよ」ゼーリエ先生は無表情に言った。
「書かないよ。約束だし。わたしは約束を守る生物なの」
それにわたしが書く必要はないのだ。
先生はきっと書いてくれるだろうから。
その日。ゼーリエ先生のブログ――というよりあの毒々しいホームページが久方ぶりに更新された。その内容は、新たな魔法理論についてでもなく、複雑な結界構築術に対する批判でもない。
ただ、晩御飯のことが書かれてあった。
お世話をしたのは、ファルシュ先生で、今日の晩御飯はハンバーグだったらしい。
美的な慣用句や感情を排したとても味気ない批評だったが、刮目すべきは最後の一行だろう。
『食事の後には歯を磨いた。長生きの秘訣だ』
先生らしいと、わたしは思った。
他のを書いてたら、どうにもうまく進まずに遅れちゃった。
橋の話は、なんとなく書けそうな予感がしてます。
興味を持ってくれるとうれしいです。