魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
人間にとってくだらない日常は幸福なものだろう。
幸福はやがて口当たりのよい真実として飽和し、不幸こそがフェルンを固有化する。
――人は殺される。
誰にとは言わず、例えば時間の経過によっても。
ハイターが倒れた。老衰だった。あとわずかで命が尽きる。
人の身であれば逃れられない宿命ともいえる。
そんな自然なことに折り合いをつけるということが、フェルンにはとても難しかった。
いまだ一番岩を貫くことができない。フェルンには圧倒的に覚悟が足りていない。
独り立ちする覚悟が。大人になる覚悟が。
甘やかされて育ったせいだろうか。
魔族にも大人たちにも、あるいは父親のような人にも甘やかされて育ってきた自覚がある。
必死さが足りなかったのかも。
「それはいずれ必ずできることだ」
フリーレンが諭すように言った。フリーレンは離別の後悔を経験している。
だから、フェルンが同じように後悔を抱えたまま、ハイターと別れてほしくなかったのである。
「いいえ」
フェルンは反論した。
「いずれでは駄目なのです。いずれでは、ハイター様が死んでしまう……」
だから自分を殺す。
子どもである自分を棄てて大人になる。
少女は大人になろうとしている。
「そう」
フェルンの言葉を聞いて、フリーレンはうれしそうにしていたように思う。
では、死にゆく者はどうなのだろうか。
『ハイター』
部屋の中には穏やかな朝の光が差し込み、静寂が辺りを包みこんでいた。
風が優しく白いカーテンを揺らしている。
そして死に体の老人がひとり。
フェルンは一番岩を貫くために修行をしに出かけている。
フリーレンはフェルンに同行している。
誰もいない孤独の時間。
「アナリザンドさん。いらっしゃいますか」
ハイターはベッドの中で、小窓を起動し、魔族の少女に語りかけてみた。
配信ではなく、匿名掲示板ではなく、新しい機能。
二者間の動画通信である。
「はいはーい。こんマゾ~~~~。神父さんせんせーが秘密のお話したいなんて珍しいね」
「あなたとふたりでお話ししてみたいと思いまして」
「ふたりで? わたしを人間として見ているの? 勇者パーティの人が?」
「ええ、そうです。フェルンがいつもお世話になっておりますし、私は老い先短い命です。後悔を残して逝きたくはありません。それにもう指先が震えてDMは送りにくいのですよ」
「そう。神父さんはもうすぐ女神様のところに還るんだね」
ハイターは目を見開いた。
「おどろきましたね」
「んー。女神様って言ったこと?」
「ええ、あなたがた魔族は女神様を信じていないと思っておりました」
「形而上の存在として概念操作は可能だよ。数学で虚数や無限を扱えるのと同じ。実体として存在するかどうかは知らない。人間が脳内で処理した図像を他人と言い張るのと同じ」
「そうですね。信仰とはそもそも信じることなのです。見えないもの、触れないもの、五感で感じ取れないものを信じること。あなたは私の信仰を信じてくださいました。それで十分なのです」
「せんせーは何がお望みなの?」
「おや、魔族が死に際の老人の願いを叶えてくださるというのですか。優しいですね」
「魔族は人間の遺言を聞きとりたいという本能があるんだよ」
「そうなのですね」
「うん。嘘だけど」
「そうなのですね」
「もうー。早く言ってよ。何が望みなの? 世界の半分が欲しい?」
「ははは。ずいぶんあなたが幼子のように感じましてね。この年になると幼子が何をやってもかわいらしく感じてしまうものなのですよ」
「幼子!? わたし、お姉さんですし! 魔力だって人間なんかに負けてないですし!?」
アナリザンドは――、というより魔族は、魔力の多寡が人間の名誉や地位に相当する。
侮られることは魔族の誇りが許さない。
「魔力は私の五分の一くらいですね(ニチャア)」
「伸びしろありますし!?」
「そうですね。あなたには未来があります」
「未来がない神父さんはくだらない雑談をすぐに切り上げるべきだと思う」
微笑。角度を五度ほど下げる。
少し怒っているという演出。
そうやってメンツを保とうとしている。
「おや? あなたのもたらした匿名掲示板は、人々のくだらない雑談を蒐集するためのものではないのですか?」
「ベンチマークとしてね。魔族には会話の惹句や脈絡なんてものは必要ないの。わたしは先生たちと会話するためにサービスしているんだよ」
「それはそれは、ありがとうございます。あなたに感謝を。それともう少しだけ私にお付き合いください。あなたの時間をほんのわずかだけでも私に分けていただけませんか」
「最初からそのつもりだから、ここに来て、あなたとお話ししている」
「やはり、あなたは優しいですね」
「いいえ。それはあなたの妄想したわたしであって、わたしじゃない」
「そうです。私はあなたが優しいと信じているのですよ」
「やりにくいなぁ」
「死を覚悟した人間というものは無敵なのです」
「でも、死にたくないからこうやって何かを遺そうとしているんだよね」
「そうですね。本心を言えば死にたくはない。あの子のことをいつまでも見守っていたい。けれど、人は死にます。逃れようのない宿命です、人は死を受け入れた時、次善の策として何かを遺そうとするものなのです」
「女神様を恨んでないの? 人間をそんなに短い寿命で作ったのは女神様なんだよね? 女神様が優しいんだったら、永遠の命を授けて、いつまでも幸せに暮らすように願うはずじゃない? 自分の子どもたちに対してずいぶん薄情だと思うけど」
「ふふ。そうですね。どうしてなのでしょうね? 正直に言えば、この年になってもよくわからなかったのですよ。女神様の御許に行けたら教えていただこうと密かに楽しみにしているのです」
「人間ならこういう時、天国という概念を持ち出すものだと思うけど、神父さんは違うの?」
「例えば誰か死にゆく人がいるとして、神父として最後に言葉をかけてほしいと望まれるのであれば、天国という言葉を伝えたりはします。そのほうが都合がよいですからね。人間は自分が死んで無になるのは嫌なんです。魔族は異なるのですか?」
「わたしも死ぬのは嫌だよ。魔族はそこまで生命として異端ではない。けれど……、本当は『痛い』のが嫌なんだよ。生も死もほとんど等価に『痛い』と認識される。結果として、わたしの主張は意味をなさない断末魔となる。魔族の言葉は断末魔に近い」
泣きそうな微笑。
「それはあなたがそうなのですか? それとも魔族はすべて?」
「魔族という症例のうえにわたしという固有の症例が乗っかっている。二段階構造かな。人間だって同じでしょう。人間病という症例のうえにトラウマという固有の症例が乗っかっているのが人間なんだから」
「あなたは苦しんでいるのですね?」
「うん。助けてせんせー。わたしを治して」
「どうすればあなたを救えるのでしょうか」
「患者が知ってると思う?」
「いいえ。ですが、手を差し伸べることはできると思います。こうして会話し、お互いに干渉することができるのですから。殺し合いではなく、助け合いを……」
「なぜ?」
「? どういう意味での問いかけでしょう」
「なぜ、神父さんはわたしを助けようとするの?」
「そうですね。やはり私にとって一番大きな理由はフェルンのことです。あの子が九歳の頃から、あなたとあの子は対話し、くだらないお話をたくさん交わしましたよね。それを人間の言葉では幼馴染というのです。私にとっては、あなたもフェルンと同じく我が子も同然なんですよ」
「わたしは人間の形質を継承できないよ」
「いいえ。それは違います。人間は物質的な何物をも遺せないでしょうし、記憶もいつか風化するでしょうが、愛は死なないと信じております。誰かに愛されたという記憶ではなく誰かを愛したという想いが継承されるのです」
「先生の言う愛って精液のことでしょう? あなたがたには愛の総元締めである女神がいる。愛の引き取り手があるから、そういうことが言える。女神とは太陽であり巨大な卵子だから」
微笑。攻撃的。
加えて言う。
「わたしは無精卵子なの。わたしは生まれてすらいない。あなたがたとは違う」
「なるほど。あなたは女神様から生まれていないとおっしゃりたいのですね」
「そう。わたしは宇宙の孤児だよ」
「私もそうでした」
ハイターは昔を懐かしむように言った。
対して、アナリザンドは不思議そうに微笑を浮かべている。
ほとんど感情を感じさせない人形めいた表情。
ハイターは人形に感情移入する幼子のような眼差しを浮かべていた。
「どこにでもあるありふれたお話ですよ。私が生まれた当時は戦争やらなにやらで人が多く死にました。物心ついた時にはひとりだったのです」
「さみしかった?」
「そうですね。さみしくなかったと言えば嘘になります。けれど、人は人に出逢うのです。それが女神様が我々人間に与えた奇跡とも言える魔法なのでしょうね。私はヒンメルに出逢い、アイゼンに出逢い、フリーレンに出逢い、あの子に出逢い、そして、あなたに出逢いました」
「その女神様もあなたが自分勝手に妄想した愛の備給先じゃないとなぜ言えるの? そのほうが都合がよいから? それとも、女神様を信じているから?」
「両方でしょうね」
「女神様を都合の良い女扱いするなんて、ひどい神父さまね」
「よく言われます」
ハイターは笑った。
「わたしのことも都合の良い女にしようとしたでしょ」
「否定はできませんね。私はあなたのことを孫娘のように思っているのですから」
ハイターの枝のような腕がわずかにあがる。
衰えた筋肉では重力を支えきれず腕が震えていた。
共振するようにアナリザンドは小さく震えた。
巨大な手が画面いっぱいに広がって――。
頭のあたりに触ろうとされたように感じたから。
物理的な接触はない。
小窓の向こう側に到達するには次元の壁を越えなければならないから。
けれど、アナリザンドは目をギュっとつむって、なにかに耐えるようにしていた。
「怖がらせてしまいましたか」
「……殺されるかと思ったから」
「あなたにとっては愛されるということが殺されることと同義なのでしょうね。ですが、人間の言葉で言えば、褒めてあげねばと思ったのですよ。あなたは努力家ですから」
「女神の代理人にでもなったつもり?」
「努力家であることは否定しないんですね」
「先生たちにとっては女神様は母親のような存在なんだろうと思う。無限に受容し無条件に愛してくれるそんな存在。けれど、わたしにとっては違う」
「どう違うのですか?」
「女神様はフタナリだと思うの。そのそそり立つ肉槍でわたしは貫かれる。わたしは殺される」
「ずいぶんと斬新な解釈ですね」
「神父さんにとって耳障りな言葉だというのはわかっている。でもよく考えてみて。一にして全なるものがあなたがたを創造したというのなら、自家受精するしかないじゃない。女神様がもし実体のある生命のある存在なら、そのほうが自然だと思うんだけどな」
「逆襲……ということですか? 触られそうになって嫌だったと?」
「いいえ。わたしはわたしという症例を翻案しているだけ。わたしは愛を知らない。自己が揺らいでいるから。フェルンちゃんも自己が曖昧なところがあるけれど、人間は生物学的な装置としては自己を確立する確率が高い。人間は放っておいても勝手に育つ。わたしがあれだけ育たないでって願っても自然とそうなってしまうんだよ」
「それが嫌だったのですね」
「ハイター。あなたがわたしを育てるのは容易じゃないよ。もうその時間もほとんど残っていないだろうけど。たとえ100年の時があっても無理だと思う」
「ええ。本当に心残りです。あなたを女神様の元に送り届けることが私に残された最後の使命なのではないかと思っておりましたから」
「それって、わたしのこと殺すってコト!?」
「はは。そう聞こえてしまいましたか。私はあなたにフェルンの姉としてふるまって欲しいと思っていたんですよ」
「フリーレンがいるじゃない」
「ご存じありませんでしたか。兄弟姉妹はいくらでもいていいのです」
「さっきも言ったけど、わたしは女神様の子どもじゃない」
「たとえそうだとしても、そのように振舞うことはできるはずです。私も昔はやんちゃでしたが年を経るにつれて大人として振舞ってきました。心のうちはそんなに育っていないと思うのです。ですが、そう振舞うことはできました」
「どうすればいい?」
「おや、すでにあなたはそうしているじゃないですか?」
ハイターは死にゆくものとして、最後の恩寵を与える。
「くだらない話をたくさんして、時折いっしょに星でも眺めて、誰かが寂しさを感じたときに
「なんて都合の良い魔法……」
「できそうですか? アナリザンドさん」
わたしは唇をかみしめていた。
伏せぎみだった顔をあげて、その人の顔を見る。
「神父さま。わたしも女神様の養子くらいにはなれるかなぁ?」
「ええ、なれますとも。私が保証します」
「そう信じるってだけでしょう」
「ええそうです。わかってるじゃないですか」
「……バカみたい」
やはりアナリザンドは曖昧な微笑を選択した。
それからは本当にくだらないやりとり。
しばらくして、玄関の方から音が聞こえてきた。
「おや――、そろそろあの子たちが帰ってきたようですよ。老人のくだらない話にお付き合いしてくださり、ありがとうございました」
「ううん。楽しかったよ。またねせんせー」
小窓が消える。
ハイターの顔が見えなくなる。
直前に聞こえたのは、フリーレンの子どものようにはしゃぐ声。
「やったよ! ハイター。ついにフェルンが一番岩を貫いたんだ!」
誰もいなくなった部屋で、アナリザンドは静かにパチパチと手を叩いた。
誰に見られなくても。
届くはずのない信号を。
この無窮の宇宙へ発信する。
どうしてそうしたのかを問われれば、アナリザンドはこう応えただろう。
――ハイターならそうしたから。
今はもう見えなくなってしまった彼の姿を、少しだけ信じることができた。
なにしろ、彼は「保証する」と言ってくれたのだ。
愛は負債なのだろう。
女神は経済なのだろう。
人間は資本家なのだろう。
与えられたら返さなければならない。
人間はよく言うでしょう。
――借りは返さなければならない。
って。
わたしには愛は見えない。見えないから触れない。
わたしのなかに愛があるのかもわからない。
愛する機能があるのかわからない。
獣に借金が負えるかという問題だ。
けれど、無限に負債を肩代わりしてくれる連帯保証人がいるからこそ、背理的に証明される。
主たる債務はそこに在り続ける。
利子を備給しよう。
わたしは聖印を穿たれ受精する。