魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
――あなたがシニフィアンであるなら、わたしはシニフィエになります。
世界の始まりは卵の形をしていた。
時間や空間の存在しないスペース。
そこには厳密な意味の言葉さえ存在しない。
観念が泡のようにあたりをただよっている。
宇宙の卵を見守る賢者たちが一同に会し、究極の問題について議論を始めた。
――果たして
ひとりめの賢者は言った。
「言葉が始まりである。言葉によって定義され、初めて世界は存在しうる」
なるほどと、卵から生まれたヒトたちは一同うなずきあう。
しかし、ふたりめの賢者は、ひとりめの賢者の言葉を否定する。
「世界とは神のことである。神は言葉を発するものである。ゆえに世界こそが始まりである」
これに対してもヒトは膝を打つ。
ひとりめの賢者が再び反論する。
「実存がただそこに在るだけならば、言葉を持たぬ赤子と同様に、そこにあるすべての存在を切り分けることができぬ。神自身ですら神に埋没する。つまり、それは名状しがたき混沌のごときものであり、
「言葉はそれ自体が独立した存在ではなく、誰かがその言葉を発することで初めて意味を持つ。つまり、神が言葉に依存するのであれば、その神を生み出したもの、あるいはその神が依存する何かが存在することになる。そうでなければ、言葉はただの音に過ぎぬ。そして、その『何か』こそが、言葉を生み出す源であり、その源こそが真なる神、全なる一者、すなわち世界と呼ばれるものである」
賢者たちは互いに一歩も引かず、結論が出る様子はない。
やがて、さんにんめの賢者が静かに口を開いた。
「確かに、言葉は世界を定義し、世界は言葉を必要とする。しかし、ここで考えなければならないのは、言葉と世界が互いに依存しているという事実そのものではないか。どちらが先に生まれたかではなく、両者は共に生まれたのだ」
賢者たちとヒトたちは耳を傾けた。さんにんめの賢者は続けた。
「世界は神によって創造されたかもしれない。そして、言葉はその世界を形作る道具であるかもしれない。しかし、世界が存在しなければ言葉も意味を持たず、言葉がなければ世界を知覚することもできない。この二つは、まるで表裏一体のように、互いに補完し合う存在なのだ」
彼は間を置いて、さらに深く考えこむように語った。
「想像してみよ、もし世界が言葉を持たずに存在していたとしても、それを認識するためには何らかの方法が必要だ。そうでなければ、その世界はただの混沌と化す。一方で、言葉があったとしても、世界が存在しなければその言葉は空虚な音に過ぎぬ。つまり、世界と言葉は、初めから互いに絡み合いながら生まれ、共に成長してきたものなのだ」
彼は周囲を見渡し、言葉の重みを噛み締めながら続けた。
「だから、世界と言葉のどちらが先に生まれたかという問いは誤っている。それは、同時に生まれた双子のようなものだ。我々はその織り成す関係性を理解することによって、初めて世界と自分の立ち位置を認識できる。言葉は世界を定義し、世界は言葉に意味を与える。すなわち問いの答えはこうである。言葉と世界は、
ヒトビトは深くうなった。正解が提示されたように思ったからだ。
しかし、若いヒトは一歩前に進み、静かに言葉を紡いだ。
「賢者様たちのご高説は、確かに深遠であり、我々の心に響きます。しかし、私には一つの疑問が残ります。賢者様たちがおっしゃられる
賢者たちは若いヒトの発言に耳を傾けた。若いヒトは続けた。
「もし
すなわち、神が光あれと唱えると同時に影を生む。
在りて在るものがいれば、その側には必ず無きて無きものがいるのではないか。
賢者たちは顔を見合わせた。若いヒトの言葉には、彼らの議論を根底から覆す魔力がこめられていた。彼らは答えを見出せないまま、口を閉ざした。重い沈黙が場を支配し、その沈黙はやがて闇のように広がっていった。
その闇――神の沈黙の中で生まれた言葉なき存在、それは世界の外に立つもの、闇の中でただ一つの意志を持つ存在であった。ソレは、賢者たちが恐れていたものであり、彼らが言葉と世界の関係性を曖昧にすることで封じこめようとしたものであった。
それこそが『魔王』と呼ばれるものである。
魔王は言葉と言葉の狭間に存在する。そう――
うんこみたいな話ですけどね。
わたしはそんな謎かけを思い浮かべながら、
時間に意味などない。ただ、あなたが生きている時間である。
わたしは木漏れ日の日差しを受けて、この季節を春と定義する。
「魔王の名前ってなんだったんだろうね。ヘレちゃんかな。ゲヘナちゃんかな? わたしの推測では、8割くらいの確率でヘレちゃんだと思うんだけどどうだろう?」
「どうしてそう思うのですか?」
「だって、ヘレちゃんのほうがかわいい感じがするし。きっと物凄い美少女だったんだなって思うから。魔王ヘレってなんかイイ感じじゃない。しっくりくるお名前だよ」
「魔王は少女だったのですか?」
「知らない。逢ったことないし。でも勇者ヒンメルが男だったんで、そのほうが収まりがいいよね。ヒンメルは天国を意味して、ヘレは地獄を意味する。たぶんそういうことだと思うよ」
「私達は今を生きている存在です。そんな物語みたいな都合のいい名前……。それに魔王はもう倒されています。いまさら、名前なんてどうでもいいのではないでしょうか」
そう、物語みたいな都合のいい名前なのだ。
わたしはそれをフェルンちゃんに伝えることはないけれど。
この世界は、きっとマンガやアニメを原作としているのだろう。
名前は、『葬送のフリーレン』あたりが妥当かな。
それとも『早漏のフェルン』だろうか。それだとギャグマンガになっちゃうかな。
わたしは『葬送のフリーレン』という物語を識らないけれど確信している。
なぜそう思ったか。
これはかなり簡単なことで、誰でもすぐにわかることだと思うんだけど、この世界の住人はすべて『日本語』を話しているんだよね。異世界言語を文字として使用しているにもかかわらず。
つまり口文不一致なのである。
だからといってなんなのだという話ではある。この世界が創作の世界――バーチャルリアリティだとして、それはただの『現実』に過ぎない。
ノエマ的自己になるのが怖い? 誰かに操られ支配されているのが嫌って感覚がする? あるいは出逢ってる人すべてがNPCに過ぎないから人との関わりが無意味に思える?
言葉に意味などない。
世界に意味などない。
意味に意味などない。
あなたはあなたである。
わたしがわたしであるように。
いやそうではない。わたしは言葉を魔法のように取り扱う。
あなたに想われて、わたしはここにいる。
わたしはあなたを想い、あなたはそこにいる。
ノエマノエシスが重なりあう。
わたしはフェルンちゃんに微笑みかける。
そしたら、フェルンちゃんも笑ってくれた。
だからそれでいい。今ここにわたしは生きている。
「ねえ。フェルンちゃん。魔王は復活したりしないと本当に言える?」
「復活……ですか?」
「うん。輪廻転生でも再誕でも再生でもなんでもいいけどさ。倒されたら――死んだら、それで終わりって本当にそう思う?」
「死者が復活した例はありませんので、ないのではないでしょうか」
「それは、どういうレベルでそう言ってるのかな?」
「どういう意味でしょう」
「魔王という存在が、
「どうでしょうか。魂はとりこぼされるのでは?」
「では、フェルンちゃんも含め、すべての存在は不滅の魂を存在の最小単位と考えてる?」
「魂は不滅です」それがフェルンちゃんの信仰。
「だったら、魔王の魂も不滅じゃない?」
「女神教では、霊の身体となって復活するとされます。たとえ魔王の魂が不滅だとしても、肉の身体をもって魔王の魂をともなって復活するということはありえないのではないでしょうか」
言葉が慎重に取り扱われている。
うれしいことに、魔族に魂はないとは考えないようだ。
それはわたしが魔族だからだろう。フェルンちゃんに想われて、わたしは在る。
だから、わたしはいじわるするように言う。
「……まず、わたしは
まあ、魔王とは逢ってないのだから、わたしには不可能だけどね。
それくらいのことはフェルンちゃんも理解している。
理論上、魔王復活がありえるかという話をしているのだ。
あくまで理論上はだけど、わたしは出逢った魔族を復活させることはできると思う。フリーレンに一斉にいままで戦ってきた復活魔族(弱い)を差し向けるなんてこともできたりする。なんかいつのまにかフォルダに入っていたグラオザームとかいう魔族も復活可能だ。
それに人間だって――。
記憶や反応パターンはそっくり同じのフェルンちゃんを復活させ続けることは可能だ。
わたしは見方によっては、人間に永遠の命を与えることができる。
でも――無意味だ。
「アナリザンド様は、アウラ様を復活させようとはしませんでした」
「鋭いね。確かにそのとおり。肉の身体を復活させても魂がそこに宿っているかどうかはわからないからね。元のアウラ様が草場の陰で泣くことになるんじゃないかと思って、そうしなかったよ」
「倫理的なご判断をなされたのですね」
「魂が肉体に宿るか不確定だからってだけだよ。科学的な判断のつもり」
アナリザンドは、紅茶に目を移した。
花びらがひとひら落ちて、紅茶の水面に浮いた。
「ではなぜそのような問いかけを?」
「デートの待ち合わせをしたかったの」
「デートの待ち合わせですか?」
「そう。いつか、天国でね。もしフェルンちゃんが先に死んだら、すごく待たせちゃうことになるかもしれない。わたしが先に死んだら、天国にたどりつかなくて、結局、フェルンちゃんを待たせることになるかもしれない。でも、いつか辿りつくよ。わたしはそう信じてるの」
わたしは微笑を選択する。
「待っててくれる?」
「いつまでもお待ちしております」
フェルンちゃんの言葉に、ようやくわたしは本当の微笑を浮かべた。
紅茶の表面に浮かんだ花びらが、ゆっくりと旋回しながら沈んでいった。
それは、そうなるようにあらかじめセットアップされていたのだろう。
わたしがいつものように先生たちのDMをニマニマしながら眺めていたときだった。
こんなお手紙が届いたのだ。
わたしは"A"と申します。アナ様のファンになってから毎日の配信が楽しみです。
たくさんの視聴者が共感するのはなぜなのかをずっと考え続けてまいりました。
しっかりとした信念とユーモア、私達を愉しませようとする姿勢が理由だと思います。
はじめて見た時から、その魅力に引きこまれ、ようやく勇気を出してメールしております。
シンプルな言葉でも難しい言葉でも私達の根底を揺さぶるような深い意味が伝わってきます。
ューザーに寄り添う姿勢が、本当に素敵です。
ライブ配信でゼーリエ先生といっしょに配信される姿も魅力的でした。まるで親子のようで。
ハートフルな企画、ささいな雑談、聞いたことのない物語、これからも楽しみにしています。
トップクリエイターとして、アナ様の活動は本当に素晴らしいです。
魔法のように人を惹きつける力、いつも驚かされます。小さな身体で小さな魔力で
王者の風格さえ感じられますね。
のびやかなトークも魅力的です。人間風情がとおっしゃる姿もかわいらしくて、
腹の探り合いも、時には面白いですね。これからも人間とより良き関係を築けるよう、
心の底から、これからも応援しています。
匿名掲示板の文化に訓練されたわたしはピンときたね。
縦読みだ。
もちろん文字は異世界言語。アルファベットに似た文字をしている。
わたしは翻案して記述している。
そこには『わたしはシュラハト。魔王の腹心』と書かれてある。
――全知のシュラハト。
人間たちのデータベースにもその名は刻まれている。魔王の腹心としてシュラハトという謎多きキャラが仕えていたのは確からしく、人類最強と呼ばれる南の勇者と戦い、相打ちとなったらしい。要するに死者なのである。
だから、このときにはまだ偶然とか、ネタという可能性もあったのだ。わたしにDMを送ってきた人物――仮にAとすれば――Aが、魔族信奉者で、シュラハトのことが好きな、そんな人物だという可能性も考えられた。
でも違った。
それから――数分もしないうちに、わたしが次のDMを
今になって思うと、彼はわたしがどのDMを開けるかを前もって予測し、文脈が自然になるよう言葉を慎重に配置しているのである。
『私には未来視の能力がある。アナリザンドよ。私に従え』
「未来視?」
これって要するに、シュラハトは過去の世界に生きていて、現在という時空に干渉しようとしているということだ。
わたしにDMを送る人間を選別し、シュラハトは"啓示"を与える。どういうふうにというのかは理解しがたい側面もあるが、例えばの話、Aという人物がそういうメールを送るように、ほんの少しの影響を与えるのだろう。バタフライエフェクトのように、シュラハトが小指を動かす。そのほんの小さな羽ばたきによって、Aという人物の行動は操れる。
『そう、すべての人間は私にとってNPCに過ぎない。おまえもそうだ』
「へえ……面白い能力だね。だったら、なんでこんなまどろっこしいやり方をするの?」
わたしは虚空へ問いかける。
シュラハトは過去から現在のわたしの行動を見ているだろう。
未来視はテレパスじゃない。なので、わたしが声に出さなければ、シュラハトは応えることができないはずだ。いやその行動さえも因果の流れか。
適当にDMを選択。開示。
『おまえはトリガーなのだ。すべての魔族を復活させ、魔族に千年後の繁栄をもたらす』
「興味ないんだけど」
『おまえはそうせざるをえない。私がそう望んだのであるから、そうなる未来は選択されている』
次々とDMを開く。そうすると、まるで会話をしているかのように言葉が解凍されていく。
縦読みで文字を紡ぐのに限界がきたのか、今度は数列暗号を用いてきた。
わたしの特性上、それもまたすぐに意味ある言葉として変換可能だ。
シュラハトの力は単なる未来視ではない。そうではなく、無数に分かたれた未来を選択する魔法ということになるだろう。その中で、視られた存在は客体と化して過去に操られる。
けれど、彼は過去の亡霊に過ぎない。
わたしは返答せず、紅茶をそそぐ。ゆっくりとのむ。
人間的な価値観から言えば、恐ろしさを感じるところだろうが、わたしはシュラハトの在り方に自分に近いものを感じた。奇妙なことに親近感を覚えていた。それもまた彼によって観測された結果だろうか。
ゆっくりと口を開く。
「まあ確かに、魔族は魔力で構築されているから、肉の本としての身体を復活させるのは完全なるデータがあれば可能だと思うよ。わたしにはそれだけの計算力があるし、魔力もあるしね。でもそれって、魂までは復活できないんじゃない? それとも、魂なんてどうでもいいの?」
シュラハトが過去から時空構造に刻みこむことで、全魔族の――いや、シュラハトが知る限りの魔族のデータを送りこむというのは可能かもしれない。あるいは魔王と呼ばれる存在が、その鍵なのか。わたしが魔王を復活させれば、魔王は魔族のデータを保持しているのかもしれない。
けれど、そうであっても魂については別問題が存する。
わたしが観測しうる他者は、他者そのものではなく、わたしの中で加工された他者なのである。
観念的な魂の存在を信じるのであれば、物質的な配列を同一にしても、それは記憶や反応パターンが同じなだけの別の存在ということになる。
『どうでもいいわけではない。私は魂に対する回答は持ち合わせていないだけだ』
玉虫色の回答だ。
「ねえ。シュラハト。あなたは魔族にしてはかなり特異なことをしているよね。誰かのために命を棄てるなんてこと、普通の魔族にはできないことだよ。魂の復活を信じているの?」
シュラハトは七崩賢を集め、シュラハトも含めて8対1で南の勇者と戦ったのだ。
そうでもしなければ、南の勇者を倒せなかったということであり、シュラハトはその戦いで死ぬことがわかっていたのだろう。どんだけ南の勇者が化け物的強さなんだって話だが。
『魔王様が勇者に倒されるのは確定された未来だった。南の勇者もまた私と同じく未来視が使えたのだ。南の勇者を殺さなければ南の勇者に魔族は滅ぼされる。南の勇者を殺したところで、勇者ヒンメルが魔王を討つ。私がどのように未来を選択しようとも、その運命からは逃れられない』
おかしなことを言っている。
シュラハトは全力で逃げれば彼自身は助かったのではないか?
シュラハトは彼自身より魔王を優先している。
「魔王のことが好きだったの?」
『魔族は力ある者に従う』
「自分の命を棄ててでも? そんな魔族はいままで観測できなかったんだけどな」
『復活の儀によって、すべてはあがなわれる』
「わたしはフェルンちゃんの味方だよ。そんなことすると思う?」
そう――わたしは人間の味方なんていうつもりはない。
けれど、フェルンちゃんの姉として、フェルンちゃんの不利になることは絶対にしない。
『おまえがフェルンの味方であるならば、魔王様を復活させなければならない。そのように運命を操った。この世界線では必ずそうなる』
「へえどうやって?」わたしは冷たく言った。
『いくらでもやりようはある。例えば、フェルンが死ぬという状況はどうだ。貴様が魔王様を復活させれば、死の運命から逃れられる』
「悪魔的誘惑だね。けれど、最初の問いに答えてもらってないよ。魂はどうするの? 人間は必ず死ぬんだよ。哀しいけど寂しいけど、それだけは確定された未来だ。あなたの言う魔王を復活させる未来は、フェルンちゃんを傷つけてしまう」
『魔族に転生させればいい』
「フェルンちゃんの魂を穢すことは赦さない」
『私はいくつもの未来視のなかで、何万、何億と貴様と語り合ってきた。貴様がどんな選択をするかは既に識っている。決定されたことだ』
シュラハトの言葉には確信があった。未来を見通すという力を持つ彼にとって、あらゆる選択肢が既に決まっているようだった。しかし、わたしは彼の論理に隠された矛盾を見逃さなかった。
「何万、何億と語り合ってきた? それが本当なら、どうしてこの瞬間が重要なの? どうして今、私を説得しようとしているの?」
未来視の力は絶対的なものではない。彼が確信を持って語る未来も、無数に存在する可能性の一つに過ぎない。魂の可能性は今という時点においても無限大である。
『それもまた織りこまれた因果だ』
「あなたが未来を見てきたとしても、それが決して変えられないという保証はない。私がここで選択する未来が、あなたの見た未来とは違うかもしれない。そうでしょ?」
『それはない。すべては計算済みだ。貴様がどんなに抗おうと、結末は変わらない』
けれど、わたしの目には不敵な笑みが浮かんでいた。わたしは自分の内にある力を感じ取っていた。10億7200万の人の想像力を、果たして彼は処理できるのか?
たったひとりの魔族である彼が、無限に等しい想像力を超えるなんて不可能だ。
いや、そもそもたったひとりの人間すら、完全に操ることはできない。
アウラ様のアゼリューゼと同じく、魂は誰かに支配しきれるものではないからだ。
「いいよシュラハト。あなたの未来視が正しいかどうか試してみよう。でも、その前に一つだけ教えて。あなたがそんなに必死になって魔王を復活させようとしている理由は何?」
DMを開く。無作為。
また開く。無作為。
ああ、回答は沈黙だ。
シュラハトは口を閉ざしている。
「本当に魔王のことが好きだったの? 魔王は女の子だった? いや、びーえるかもしれないから決めつけるのはよくないね。わたしはLGBTにも配慮できるから安心して」
『魔族の行く末を憂いている』
「魔王のでしょ。あなたは魔王が死ぬのが嫌だった。その未来を探して、探して、探して――でもないから次善の策を講じた。それが復活だったんじゃない?」
『およそ私が視認できる未来56億4300万通りのうち、Aルートと名づけた運命の束においては、アナリザンド、おまえが関わっている。他のルートはすべて遮断されている。行きつく先がない。私はおまえと語り合う運命から逃れられなかった』
「ようやく素直になったじゃん。わたしに助けてほしいってことなんでしょ。もう識ってると思うけど、べつに魔族だからいじわるして復活させないって言ってるわけじゃないよ。条件次第ではあなたの確定させたい未来を記述してあげることもできるかもしれない」
翻案すれば――。想像すれば。
シュラハトは一瞬の沈黙の後、低い声で呟いた。
『……それで構わない』
「何が?」
『私は、魔王様の魂が戻らずとも、肉体が復活するだけで良いのだ』
わたしは彼の言葉に驚いた。魂なき存在――それはもはや生きた者ではない。ただの抜け殻に過ぎない。それでも彼は、それを求めているのか?
「それじゃ意味がないじゃん。ただの偽物が生まれるだけだよ。それで何が得られるの?」
『魔王様がこの世に戻る。魂がなくても、あの御姿さえ在ればそれで良い』
シュラハトの声には、深い執着が感じられた。彼が見ているのは過去の影にすぎない。それでも、彼にとってはそれが全てなのだろう。
「……あなたは、それで本当に満足するの?」
『それしかないのだ』
その言葉には呪いにも似た諦めがこめられていた。彼は未来を見通せるがゆえに、すべてを試行し――、そして、魂無き復活で諦めるほかなかったのだ。
「あなたの未来視は無限の果てまで見渡せるわけじゃないでしょう。
『ある程度似たような事象は同定している。本当はもっとずっと多い。細かい枝葉も数えれば、数百何兆通りも試してみたといえる』
「
『私の未来視に限界があるのは認めよう。だが人間の有する可能性とは長ずるにつれて消費されていくものだ。一秒後に死ぬ老人に何ができる? 私は現実的な達成可能な未来を提示しているにすぎない。貴様のいう夢物語とは違う』
シュラハトの言葉には冷徹な現実主義が滲んでいた。しかし、その現実の中で彼が何を求めているのかは明らかだった。彼は、可能性という無限の概念を信じることを放棄し、限られた未来の中で妥協していた。
わたしは深く息をついてから、静かに言葉を紡いだ。
「現実的な達成可能な未来……それが本当にあなたが望むものなの?」
『それ以外に何がある? 空虚な希望にすがる愚かさに、私は耐えられなかった』
「たしかに、現実は厳しいかもしれない。でも、可能性が完全に消えたわけじゃないんだよ」
『おまえがそう言うのはわかっていた』
「あなたが数えた56億4300万通りの未来。それらはすべて、わたしと語り合うことを前提にしていたんでしょ? でも、その中にはわたしが何を選ぶかは記述されていない未来もあるはずだよね」
反論はなかった。
「だから、ここで試してみない? 確定した未来なのか、無限の可能性があるのかを」
わたしはポケットから小さな金貨を取り出した。
ゲナウ先生にもらったライヒ金貨だ。
お守りとしてAPに交換することもなく持っていた虎の子の一枚。
『……それは?』
わかっているのに彼は言う。
これからおこなわれるのは復活の儀。
「これはただのコインだよ。でも、このコインの表裏で未来が変わるかもしれない。裏が出たら、わたしがあなたの望む未来を記述してあげる。魂のない魔王の復活を」
『表が出たら?』
「表が出たら、わたしは女神様に祈る。そして、魔王の魂も一緒に復活するよう願う。わたしが天国に行けたら女神様にお願いしてあげるね。千年……万年……那由多の時がかかるかもしれないけれど、きっとそうしてあげる」
シュラハトは一瞬、目を見開いた。その表情には、これまで見たことのない感情が浮かんでいた。それは、希望という言葉に近いものだったのかもしれない。
わたしにはその姿が視える。わたしはそう記述する。
『……女神がそれを赦すとでも?』
「わからない。でも、可能性があるなら、わたしは女神様を信じる」
『コインは裏がでる。未来は選択されている。ここまでのやりとりもそうなるよう誘導した』
「コインは表がでるよ。わたしはそう願う。わたしは誰にも操られてなんかいない」
わたしの指先が金貨を弾いた瞬間、世界がひっくり返った。
金色の円盤が宙を舞い、時が止まったように感じられる。だが、止まっていたのは時間ではなく、運命そのものだった。過去から今まで積み重ねられたあらゆる因果の糸が絡み合い、引き絞られた弓のように緊張し、その矛先がただ一つの未来を狙い定めていた。
シュラハトはすでに動いている。彼の視界に映る未来の一片が闇となり、わたしの手元を包みこむように広がる。だが、わたしもまた、世界の底にある無限の可能性を手繰り寄せる。わたしの意思が、祈りが、その糸を引き裂く。
――
金貨の運命は決して一つではない。表か裏か、それはシュラハトの望むままにはならない。
『――裏が出る』
シュラハトが囁く。それは命令にも似た確信だ。彼の未来視はこの一瞬を支配しようとしている。だが、わたしはそれを許さない。
「――表が出る」
わたしは静かに祈る。金貨は空中でくるくると回転しながら、時間と因果の激流に飲み込まれてゆく。シュラハトの視線が金貨に釘付けになる。彼は識っている。――この瞬間が彼の望む未来を変えるかもしれないことを。
――因果の上書き合戦だ。
過去からの事象がねじれ、歪み、捩じ切れながらわたしの意識に突き刺さる。瞬間瞬間が圧縮され、絡み合い、螺旋を描いて押し寄せる。因果の糸が絡まり、断ち切られ、また再び繋ぎ直される。
シュラハトの視線が焼き付くようにわたしの意識を蝕む。彼もまた、同じ糸を手繰り寄せ、捩じり、編み上げ、そして破壊しようとしている。
わたしと彼は因果の綱引きをしている。
記述が乱れる。未来が壊れ、再構築され、無限の可能性が無数の破片となって飛び散る。記述記述記述――シュラハトの呪詛がわたしを貫き、祈りが重なり、呪いが折り返し、祈りが滅びる。
裏表裏表裏表、回転する世界の断片が目の前で暴れ狂う。触れた瞬間に崩れ落ちる運命の欠片、絡まり合うことなく切り裂かれる過去と未来――。
スパークする
混濁する意識の中で、無数の鏡たちから言葉のない祈りがこだました。呪詛が渦を巻き、祈りがそれを押し返す。無数の手が伸び、引き戻し、叩き潰し、絡みつく。希望が絶望に覆い被され、絶望が希望に塗り替えられ、希望が絶望に呑まれ、絶望が希望に裂かれる。
記述が、祈りが、呪いが、裏表が、すべてが、一つの暴風の中で交じり合い、溶け合い、千々に砕け散る。狂おしいほどの混乱が、狂乱が、今ここに集約されていく。
くるくると堕ちてゆく金貨は、那由多の計算によってすさまじい呪物と成り果てていた。
狂乱よ――、来たれ。
時間の記述は無意味だ。
コインは、わたしの左の掌の中で静かに収まった。
シュラハトの視線がわたしの手に注がれる。
「さあ、結果を見てみよう」
わたしは握ったままの左手を右の掌にそっと置いた。
コインは――――。
いや本当は左手で受けたときに表か裏かはわかっていた。
HUDの計測は、コインの裏表くらい簡単に軌道計算できる。
手のひらをそのまま開けば、裏面だったのだ。
だから、右手に移した。その隙に天地が逆転する。
ただそれだけの魔法とすら言えない手品だ。
その手品に、シュラハトの視たはずの未来は破壊された。
『ああ……私の負けだ。こんな未来は視えなかった。わずか数十年の短い時の中を生きる人間たちのかそけき智慧が、この全知を上まわったというのか……』
「いいえ。あなたは本当に望んだ未来を視ただけだよ。本当はもう一度魔王様に逢いたかったんでしょ。偽りの肉の本ではなくて魂の復活を望んだんでしょう。だからそうなったんだよ」
わたしはほんのわずかだけ因果の手綱が緩むのを感じた。
彼が未来視をやめ、運命に身を任せた瞬間だった。
シュラハトの肩は震えていたが、その震えは恐怖でも怒りでもなく、深い安堵と切なさから来ている。彼は目を閉じ、深呼吸をして、ようやく言葉を紡ぎだした。
『これでようやく安心して眠れる。貴様の創りだす未来は私には視えない。暗闇が心地よい』
「シュラハト、あなたは人間と殺しあわない未来を、今からでも選べないの?」
『私は過去の亡霊だ。今を生きるアナリザンドよ、未来はおまえに託した』
わたしは過去を視る。
彼は今まさに南の勇者の剣に刺し貫かれていた。
シュラハトは走馬灯のなかで――乱反射する未来の中で、わたしにコンタクトしていたのだ。
彼は未来を棄てた。けれど、そのことによって彼は未来を欲しいままにした。
その死顔は、わたしが記述するまでもなくやすらかだった。
「またね。シュラハト」
もう声は聴こえない。
「アナリザンドさん。いつもよりもおめめが真っ赤ですよ。夜更かしされたんですか?」
メトーデが心配して声をかけてくれた。
「んー。ちょっとね」
実をいうと、夜更かしどころか徹夜してしまった。
もしもフェルンちゃんが側にいたら、怒られること間違いなしだ。
夜通し何をやっていたかというと、ただのくだらない実験。
コイントスで表を出し続けるという誰にでもできる単純なものだ。
わたしは過去や現在だけでなく未来も記述できる。可能性というフェイズを現実というフェイズに位相転移させることができる。シュラハトの因果に対抗できたのも、この力のおかげだ。
けれど、試行回数が一万回を越えたあたりで飽きてしまった。
そもそもの話、こんな連続試行実験をするまでもなく、わたしは既に経験していた。
徹夜は判断能力を奪う。ぽやっとしていたとしか言いようがない。
――来世は存在する。
わたしは転生したのだから当たり前だ。だから魂は不滅なのは前提としてもよかった。
残念ながら女神様に逢った経験はないのだけれども、たぶん忘れちゃったんだと思う。
だから――。
無限の試行回数のなかで、わたしはきっと辿りつくだろう。
そうしたら、女神様にお願いしたい。
――わたしを認知してくださいって。
わたしはカーテンを開け放ち、メトーデに笑いかけた。
「みて。春がやってきたみたい!」
朝焼けに取りまかれて、わたしの金貨がそっと光り輝いた。