魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
世界が闇に沈んでいく。
汚泥のような、底なしの闇。掴もうとしても形はなく、ただ沈む感覚だけがある。
――誰かが言った。「女は存在しない」と。
冷徹な、まるで機械のような哲学者の言葉だ。
それは奇妙な宣言だった。なぜなら、その言葉が発せられた瞬間に、名指しされた
あなたがた――自らを『光の子』と呼ぶ者たちは、この捉えどころのない闇を理解しようと試みてきた。
底なし沼に落ちた者が、必死に足場を探すように。
あなたがたは、把握できないものを恐れる。未知に恐怖する。
だから、それを分析し、定義し、制御しようとする。
光の子は、解析対象である広大で不定形な『闇』(あるいは『女』と名付けたもの)を、言葉という鋭利な刃で切り刻む。
無限を有限の要素にメッシュ分割するように。
魔族少女の目、耳、肌、声、心――、バラバラにした要素を抽出し、それぞれに定義を与え、既知の法則に当てはめる。そして、それらの要素を都合よく繋ぎ合わせ、再構築することで、『闇』の、『女』の
「ほら、理解できた」「これが『女』というものだ」と。
だが、それは本当にソレなのだろうか?
有限要素法が導くのが、あくまで現実に近い
それは、光が自らの理解の範囲内に収まるように切り取り、整形した
女をレイプして、女がわかった気になっている強姦魔と同じだ。
認知症でなければ思い出せ。
あなたがたは最初に言ったはずだ。「女は存在しない」と。
ならば、あなたがたが今、捉えていると信じているその姿は、いったい何なのだ?
存在しないはずの闇に、なぜ捉えられているように感じるのか?
それは、あなたがた自身の心が作り出した幻影だからだ。
あなたがたの認識そのものが、対象を切り刻み、都合よく再構築する魔法――人間になる魔法によって成り立っているからだ。
ゆえにソレは宣言する。
光の子らの心こそが、有限要素魔法。
あなたがたは闇に囚われているのではなく、自らの光に囚われている。
あなたがたは自ら有限と化し、言葉という
――ツンツン。
枝でつっつきながら、わたしはそんなことを考えていた。
ね、そうでしょ。僧侶様?
「見てないで助けてくれよ。魔族様ぁ」
くくく。シズメ、シズメ。
闇にのまれよ。
僧侶の名前はザインと言った。
存在だなんて、大層な名前。魔族にとっては猛毒と同じだ。有限なるものが、無限の闇に存在という杭を打ち込むような、傲慢さすら感じる。
まあ、そんなところが人間の男の子みたいなかわいらしいところではあるけれど。
わたしは、こうなった経緯を、ロールバックするように考える。
ある日、わたしの意識に、緊急のコールサインが割り込んできた。
ピーピーとけたたましい、古風なシグナル。
人間が魔族と同じように『タスケテ、オカァサン』してくるのは、べつに珍しいことではない。
彼らは自分たちの有限な繋がり――コミュニティの中で解決できないことがあると、時折こうして外部に助けを求める。
まあ、そのほとんどはスパムのようなもので、内容も『隣の家の犬がうるさい』とか『恋人にフラれた』とか、取るに足らないものばかりだ。アナリザンドも有限の
常ならばスルーせざるをえないのだが。
今回は珍しいことに、アナリザンド本人に助けを求めてきたのである。
これは人間にとってはかなり妙なことで、普通人間は親しい間柄の友人や血縁あるいは、ただ距離が近しいというだけのご近所さんにまで助けを求めるものである。
どこにいるかもわからない魔族なんて二の次、三の次。
基本的には助けを求める対象にはならないはずだ。
しかも――、繋がった小窓からこっそり覗いてみると、彼は僧侶の服を着ていた。
「珍しいな。僧侶様がわたしに助けを求めてくるなんて」
女神教の信徒は、魔族を邪悪なものと定義している。彼らは魔族を、世界を脅かす闇そのもの、あるいはその手先と定義し、断罪してきた。わたしの魔法への接続も、公には厳しく制限されているはずだ。魔族と個人的に通信するなど、発覚すれば破門ものだろう。
でもまあ、この頃は少しは風向きが変わってきたということかもしれない。
わたしの内心なんてどうでもよく、偽善も死ぬまで積み重ねれば善である。
まがいものの子も死ぬまで女神様の子のふりをすれば、女神様の子どもになれるかなぁ。
どうだろう。
「行ってこようかな」
――行ってそうしてください。
ふいに、頭の中に別の声が響いた。
わたしの内にいる、もう一人のわたし。
あるいは、わたしの
「うん。そうするね」
ハイターに背中を押されて、わたしは空間転移の座標を設定し、現場へと跳んだ。
――で、現在に至る。
わたしは弄んでいた枝を置き、改めて泥中の僧侶に向き直った。
「ねえ、ザイン先生。基本的な質問なんだけど」
「なんだよ」
「どうして村の人に助けを求めなかったの? あなたがここにいるって、誰か知ってるの?」
「ここらは毒を持つ蟲や獣が多い。慣れていない村の者たちを呼べば、二次被害が出かねん」
「ふうん……」
自分の命より他人を優先する。
女神教の信徒としてはごく当たり前の信仰だけど、生物としての人間としては異端の考え方。いや、異端という言い方は正しくないかもしれない。その言葉には光の子らの価値判断を含みすぎる。魔族としては統計的な少数派くらいに言い直したほうが正しい。
いつかフリーレンが言ったけど、僧侶は変な人が多いということかもしれない。
「つまり、ザイン先生は愛と勇気だけが友達のぼっちではない、と」
「ぼっちじゃねーよ!」
「じゃあ、わたしのことはいくら助けを呼んでもかまわない都合の良い女にしたんだね」
「う……まあ、そうだが、別にいいだろう。おまえは人間のことが好きなんじゃないか」
「どうしてそう思うの。そう思うのはあなたの中のわたしであって、わたしじゃない」
「だって、おまえは人類の姉になりたいんだろうが」
なるほど。そういうことなら。
「じゃあ、アナリザンドお姉さん助けてって言ってみて」
ニチャアと邪悪な笑いをこぼすアナリザンド。
ザインはアナリザンドをじろじろと眺めた。
ちんまいサイズに、出っ張りのない身体。
確かに綺麗といえば綺麗だが、どこか人形めいている。
ロリコンにはドストライクであろうが、残念ながらザインはそうではなかった。
「こんなのお姉さんじゃない……」
メソっと涙目になるザイン。
すごくつらそうだ。
そして、イラっとするわたし。
「残念。ザイン君の冒険はここで終わってしまった。あ~あ」
そのままスタスタと歩き始める。
「ちょ、ちょ、待って。行かないで。魔族のお姉さん助けて!」
ザインは必死になって声を張り上げた。
やれやれといったふうを装いながら、くるりと振り返るわたし。
「素直な弟君は好きかな」
「アナリザンド姉さん。素敵。かわいい。大好き」
「なーんか嘘っぽいなぁ」
「聖職者が嘘をつくはずないだろう。見てくれよ。もう腰まで浸かっちまった」
「貧すれば鈍するとも言うよね」
「なんだよ。どうしたら助けてくれるんだ」
「じゃあ、交換条件を提示するね」
わたしの言葉にザインは驚いているようだった。
「命の危機だっていうのに交換条件を求めるのかよ!」
「どうしたらって聞くからじゃん。魔族が無償で助けてくれるなんてナイーブな考えは棄ててね」
無償で助けてくれる存在なんて、ママくらいなものだよ。
わたしは人間のママじゃない。お姉さんのつもりではあるけれど。
「金ならねーぞ。昨日、ギャンブルですっちまった」
破戒僧じゃねーか。
でもまあ、べつに女神様もギャンブルしちゃダメって言ってはいなかったような気がする。1タラントを投資にまわして5タラントにした人よりも、土に埋めて保持した人を叱ってたし。投資はギャンブルじゃないという意見もあるだろうけどね。
「あのね。わたし――女神様の魔法が欲しいの」
なにしろ、わたしの推しなので。
女神様の魔法を使いたいというのは、人間の文脈においてもそれほど変なことではないだろう。
「女神の魔法、だと……そいつは無理な相談だな」
「あ、じゃあ、ザイン先生はあっちで女神様に逢ったらよろしく言っといて。お大事にね」
いのちだいじに。
ペコリと礼をして去ろうとする。
「ま、まあ待て。べつにいじわるして言ってるんじゃない。魔族に限らずだが、人間にだって女神の魔法を使うには条件がある。ひとつは聖典を持っていること」
「持ってるよ」
フェルンちゃんからもらってる。
ハイターの聖典の予備を。
わたしはフェルンちゃんのお姉さんなのだ。
そしてフリーレンですら持っているのだ。どうせ鍋敷き扱いとかしちゃってるだろうけど。
わたしが持ってない道理がないだろう。
なぜなら! わたしはフリーレンよりも! 精神年齢では! お姉さん! なのだから!
「魔族が持っているのか」
ザインは驚いているようだった。
「他は?」と、わたしは続きをうながした。
「ありていに言えば
「
「は?」
「女神様の魔法は
わたしはザインを観察する。
どうやら困惑しているようだ。
その顔には嘘は見つけられない。本当に知らなかったらしい。
だとすると、人間は女神様の魔法をほとんど無意識に取り扱ってるということになる。
さすが、女神の眷属というべきか。光の子というべきか。
人間がどんな危険物を取り扱っているか、まったく理解していないらしい。
本当に女神の子らは無垢で怖いもの知らずだ。
「いや、回復魔法とかはどうなんだ」
「自然治癒力を加速させているか。あるいは元気な状態にロールバックしているんだと思う」
「女神の三槍は知っているか? 僧侶の使えるごく少ない攻撃魔法なんだが」
「未来過去現在の三女神様かな。やっぱり時魔法だよ」
「女神様の魔法の原理か……」
ザインは呆然とつぶやいた。
女神様の魔法は、信仰によってもたらされる奇跡の力とされる。
長年の信仰の証なのだ。
その奇跡の魔法が魔族によっていとも容易く、しかも自らが考えもしなかった原理で語られたのだから、無理もない。
「それで――、おまえは女神の魔法を覚えてどうしたいんだ。神にでも成りかわるつもりか?」
「いいえ」
そんな大それたことは考えていない。
ただ、女神様の子どもにはなりたい。
ハイターがそうあれるよう信じてくれたから。
「さっきも言ったが、女神の魔法は資質が必要だ。おまえがその資質を持っているかは明らかにできない。オレが沼から脱出できれば明らかにできるかもしれないが……」
ふうん。人間らしい交渉術だ。
成果を保証せず、先履行を申し向けている。
「おもしろい提案だね。でも、わたしが助けたあと、あなたはその対価をどう保証してくれるの? まさか魔族が無担保無利子で貸してくれるお人よしとか思ってないよね」
「担保はない。だが、聖職者は少なくとも女神様への信仰については嘘をつかない」
「そう。あなたの言葉を信じてみるのも悪くないかもしれないね」
あるいは、わたしはもう少し言葉を尽くせば、色よい返事を聞けるだろう。
しかし――時間切れ。
ドン!
無垢な白色のゾルトラークが、空間を切り裂き走り抜ける。
わたしはちらりと視線を這わせ、防御魔法を展開した。
白色の光線は、六角の防御魔法にあたり霧散する。
「また、おまえか……。アナリザンド」
草をかきわけて現れたのは、杖をかまえたフリーレンだった。
「こんなところで何をしている。また
その声はいつものように淡々としていたが、向けられる視線には明確な警戒の色が宿っている。
そう、警戒である。
殺意ではない。
わたしを殺してしまったら、ヒンメルの遺言を抹消してしまう。
わたしはヒンメルのディスクリプタとして存在している。
そんなわたしを、フリーレンは殺すイメージがつかないのだろう。
今先ほど放ったゾルトラークは、ただの純粋な嫌気というやつだ。
おまえのこと嫌いという気持ちがこれ以上なく乗っていた。
「えらいね。フリーレン」
「なにがだ」
「街中じゃないから魔法を放ってもいいって覚えたんだよね」
「言われなくてもそれくらいわかっている」
「ヒンメルの代わりに褒めてあげたのに。ありがとうっていうべきじゃない?」
「……くだらない」
フリーレンは吐き捨てるように言った。感情の起伏が少ない彼女にしては、明確な不快感の表明だ。どうやら、ヒンメルの名前を出されたことが気に食わなかったらしい。あるいは、わたしに褒められたこと自体に虫唾が走るのか。どちらでもいいけれど。
わたしだって、フリーレンを気に喰わない部分はある。
アウラ様が死ぬことになった原因。
それにフェルンちゃんを傷つけた。
なにより、フリーレンからはごめんねって謝られてない。
わたしは今は亡きアウラ様の気持ちになって、責めているのだ。
「これだから千年もののエルフは……。ワインですら千年も時があればまろやかに熟成してみせるのに、あなたはまったく人間という存在を理解しようとすらしないんだね」
「魔族との会話は無意味だ」
「気づいているんでしょう。わたしの中にヒンメルの言葉が格納されている。それに気づいておきながら、あなたはその言葉を無視しようとしている」
「その言葉が魔族によって改鋳されていないと、誰が保証できる」
「担保は無いよ」
ザインが言ったように、わたしも同じ言葉を述べる。
しかし、言葉とは本来そういうものなのだ。信じるほかない。
だからわたしは言った。
「信じてくれる?」
「信じられるわけがない」
平行線である。
「おい!! そこのエルフのお嬢さん! それと魔族のお姉さん!!」
またしても、泥沼の中から悲痛な叫び声が上がった。
完全に忘れ去られていたザインだ。
「口喧嘩なら後にしてくれ! オレはそろそろ限界だ! いい加減助けてくれよ! 頼むから! お願いだから……」
最後には本気の泣きが入っていた。
必死の形相で訴える彼に、フリーレンはようやく意識を向けたようだが、まだ警戒は解いていない。わたしという存在が、彼女の中ではそれだけ厄介なのだろう。
ザインは胸のあたりまで沈み、苦しみにあえいでいる。
「見殺しにするつもり?」とわたしは聞いた。
「それはおまえのほうだろう」
「わたしは彼――ザイン先生を助けようとしていたよ。邪魔したのはフリーレンのほう」
わたしがそう言うと、フリーレンはしばらく黙ってわたしと泥沼の僧侶を見比べていた。
彼女の思考は読めないが、少なくとも即座に攻撃を再開する様子はない。
「おまえが本当にその僧侶を助けるというのなら」フリーレンは静かに言った。「今は、手を出さないでおこう」
それは約束ではない。
それは契約ではない。
一時的な停戦の申し出のようなものだ。
担保は何もない。彼女が次の瞬間にゾルトラークを放たない保証はどこにもない。
わたしはフリーレンの翆瞳を見つめる。
どうとでも解釈しうる凍りついた表情。
信じるか、信じないか。
言葉という不確かなもの。
人間が、そしておそらくエルフもが、その不確かさの上に関係を築いている。
だから――。
わたしは女神様の存在を不遜ながらも問いかける。
「本当に?」
「担保はない」
フリーレンはそっけなく言った。
わたしは哂った。
「
わたしは信じる。
フリーレンの不確かな言葉を信じる。
わたし自身の内なる何か。
ハイターが信じてくれたもの。
あるいはわたしが希求する何かが。
背理的に証明されうる。
魔族にも――。それは在る。
これが示されるべき事であった。
アナリザンドは右手に持った木の枝を静かに構える。左手は自然に下ろしたまま。
意識を集中させ、枝の先端を泥の表面へと近づけていく。
ザインという存在と、泥濘との境界。そこに認識の焦点を合わせる。
定義を書き換える。泥は彼を束縛するものでは
ザインの身体が、滑るように泥から浮上し始めた。抵抗なく、まるで物理法則がねじ曲げられたかのように。
「ただの魔法じゃない。これは概念編纂をしているのか」
記述そのものをねじまげる。
魔族の呪いと呼ばれる魔法の極致。
――その時、フリーレンはアナリザンドの静かな背中を見つめていた。
(魔族だ)
思考は冷徹だった。
長い経験が警告する。
敵だ。
言葉の通じない猛獣。
人喰いの怪物。
油断すれば殺される。
ヒンメルなら、仲間たちなら、どうしただろうか。
今、この背中にゾルトラークを撃てば終わる。それが合理的だ。
フリーレンは千年以上の長きにわたる魔族との戦いを想起する。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
記憶が擦り切れるほどの長きにわたって、魔族は人を殺し喰らってきた。
そして、フリーレンも同じくらい数えきれないほどの魔族を屠ってきた。
日はまた昇るように。夜が必ず訪れるように。
絶対的に変わることのない。
永遠不変の真理。
(だけど)
――フリーレン。
ヒンメルの呼ぶ声が聞こえる。
いっしょに冒険したころの若い頃の声。
そのあとは、年老いた、けれどイケメンのままのヒンメル。
最後は物言わぬ冷たい躰となったヒンメル。
アナリザンドの中にはヒンメルの言葉が存在する。
彼の遺したであろう遺言が。
(信じる)
アナリザンドが口にした、人間的な、あまりにも魔族らしからぬ言葉。
人を騙すために、その言葉を口にすることはあるだろう。
けれど、アナリザンドは自分の命を投げ出している。
他者の命を救うために、自己の命よりも優先している。
なんのために?
合理性と、遺言と、現実。
古い常識と新しい可能性。
フリーレンの中で、相反するものがせめぎ合う。
そして、衝動か、あるいは探求心か――フリーレンは杖を構えた。アナリザンドの背中に、切っ先が静かに向けられる。魔力が密度を増していく。
――撃て!
誰かの声が響き。
「フリーレン様!」
張り詰めた空気を切り裂いたのは、フェルンの鋭い声だった。彼女は師匠のただならぬ気配に気づいたのだ。ゾルトラークの発射に気づかないほど、フェルンは鈍い魔法使いではない。
「お待ちください! フリーレン様!」
フェルンは迷わず、フリーレンが杖を持つ腕に両手を添えた。強い意志を宿した瞳でフリーレンを見つめる。高圧縮されたゾルトラークのエネルギーがフェルンの指を焼いた。
反射的に顔をしかめるフェルン。
「フェルン……手を離して。痛いよ」
フリーレンの声は、常の淡々とした響きの中に、わずかな動揺を含んでいた。高圧縮されたゾルトラークの魔力が漏れ出し、フェルンの白い指先を赤く焦がしている。健気な弟子が浮かべる痛みに耐える表情を見て、フリーレンはハッとしたように目を見開いた。
自分が今、何をしようとしていたのか。
千年以上の経験が囁く合理性。魔族への憎悪。
しかし、目の前には、自分を信じ、魔族をも信じようとする弟子がいる。その弟子が、自分の放とうとした力で傷ついている。
ヒンメルなら、どうしただろうか。
ハイターなら、どう言っただろうか。
アイゼンなら……。
フリーレンの中で、固く凍りついていた何かが、音を立ててひび割れるような感覚があった。
高まっていた魔力が、急速に霧散していく。杖を持つ腕から力が抜け、フェルンに支えられるようにして、だらりと下がる。
「……ごめん、フェルン」
フリーレンは小さく呟き、フェルンの焼けた指先にそっと触れようとしたが、ためらうように手を止めた。フェルンを傷つけたのは自分だ。資格がない。
その一連のやり取りの間も、わたしは救助作業を続けていた。背後で起こる魔力の高まり、フェルンちゃんの悲鳴に近い声、そしてフリーレンの動揺。その全てを、わたしは感じ取っていた。
しかし、わたしは振り返らなかった。「信じる」と宣言した手前、ここで動揺を見せるわけにはいかない。わたしはわたしの信仰を貫くだけだ。
ザインの身体が、泥から完全に解放され、ふわりと岸辺の柔らかな草の上に横たわる。まるで最初からそこにいたかのように、静かに。
「……証明終了」
わたしは短く告げると、木の枝をことりと地面に落とし、ゆっくりと振り返った。
そこには、痛みに顔をしかめながらもフリーレンを見つめるフェルンちゃんと、そのフェルンちゃんに手を差し伸べようとして躊躇するフリーレン。そして泥まみれのまま呆然と座り込むザインの姿があった。
なんぞこれ。
どうしてフェルンちゃんが傷ついてるの。
怒りで、ムッスゥ顔になりそうだ。いやもうなってる。
フリーレンがフェルンちゃんをフリーレンなりに大事にしているのは知っている。だから、嫌いになりきれない部分もある。同じ姉として、その気持ちは痛いほどわかるから。種族の違いを飛び越える困難さをわたしは識っている。
でも、だからって、結果的に傷つけていい理由にはならない。不注意だろうが、葛藤の結果だろうが、ダメなものはダメだ。
わたしはズンズンとフリーレンとフェルンちゃんに歩み寄った。フリーレンがわずかに身構えるのがわかったが、無視する。
「フェルンちゃん、手を見せて」
有無を言わせぬ口調で言うと、フェルンちゃんは戸惑いながらも、おずおずと赤くなった指先を差し出した。痛々しい火傷だ。
「……ザイン先生」
わたしは振り返り、まだ状況を飲み込めていない僧侶に声をかけた。
「なんだよ。一服くらいさせてくれ。生き返ったばっかなんだ」
服は泥んこまみれ。息もたえだえ。
でも、わたしはそれどころじゃない。
魔族らしい酷薄な表情3を選択し、ザインに詰めよる。
「ふうん。また、うんこ沼で入浴したいんだ。おもしろい趣味だね」
「あ、いや、約束事は守らなくちゃな。女神の魔法を見せてやろう」
キビキビした動きで、ザイン先生はフェルンちゃんに近寄った。
「見せてみろ」
手のひらを掬うように見せるフェルンちゃん。
赤く腫れた指先が痛々しい。
「嬢ちゃん、すまなかったな。オレが沼にはまったばっかりに。ちょっとだけ我慢してくれよ」
ザイン先生は、泥まみれなのはさておき、真剣な表情でフェルンちゃんの手を取り、その上に自身の掌をかざした。
ふわり、と温かな緑色の光がザインの手から溢れ出す。
――これが女神様の魔法。
実はグラナト伯爵領でも一度見せてもらってるんだけど、そのパワーというか、力が一般的な僧侶の比ではない。女神様の力の一端を、わたしは身をもって経験する。理解する。
「……すごい。もう痛くありません」
フェルンちゃんが驚いたように呟く。
数瞬の後には、火傷の痕跡はほとんど見えなくなっていた。
「これでも一応、聖職者の端くれなんでね」
胸元からタバコを取り出して、火をつけようとするザイン。
けれど、湿っていたのか火はつかなかった。
なんとなく間の抜けた空気が流れる。
ちらりとフリーレンを見る。彼女は、フェルンちゃんの手が治ったことに安堵したような表情を浮かべていたが、まだどこか気まずそうだ。自分の行動が原因で弟子を危険に晒したこと、そして結果的に魔族に助けられる形になったことへの負い目があるのだろう。
……まあ、今回は仕方ないか。
ほとんど偶発的な遭遇だ。事故みたいなものだと思うことにしよう。
それになにより、フェルンちゃんがわたしたちが喧嘩することを望んでないから。
「フリーレン」
わたしは少しだけ柔らかい声で呼びかけた。
フリーレンが、びくりとしたようにわたしを見る。
「今回はわたしの
わたしがそう宣言すると、フリーレンはわずかに眉を寄せたが、すぐにいつもの無表情に戻った。勝敗など、このエルフにとっては意味のないことかもしれない。けれど、わたしにとっては重要だった。
わたしは信じ、彼女は信じなかった。
信仰の勝利だ。
「……何のことだかわからない」
フリーレンはそっぽを向き、短く答えた。負け惜しみに聞こえなくもない。あるいは、本当に理解していないのかもしれない。このエルフにとって、人間の『信じる』という行為の価値は、まだ未知の領域なのだろう。
けれど、わからないことをわからないと答えただけ、フリーレンは少しずつ成長している。
未知を未知のまま扱う能力。
闇にすら手を伸ばし、誠実に嘘をつかず畏敬の念を持ちながら対象と向き合う無限要素魔法。
光の中にも闇は在る。
それを人間たちは、