魔族少女のエロタナティブ 作:アナリザンド
酒場の淀んだ空気が、ザインの吐き出す煙草の煙とともに、わずかに揺れた。フリーレンたちの視線が、静かにザインに注がれている。観念したように、あるいは遠い昔を懐かしむように、ザインはゆっくりと口を開いた。
「……ガキの頃からの、ダチだったんだ」
その声は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように、少しだけかすれていた。
フリーレンは黙って彼の言葉を待つ。
「名前は……まあ、あいつは自分で『戦士ゴリラ』なんて名乗ってたがな。ゴリラみてぇなガタイして、頭の中まで筋肉でできてるような、単純な奴だった」
ザインの口元に、ほんのわずかに、昔を思い出すような笑みが浮かぶ。それは、今の彼からは想像もつかないような、穏やかな表情だった。
安酒のグラスを持つ人差し指が、無意識にグラスのふちをなぞる。
円環を描くようにゆっくりと。
どこまでいってもグルグルと空回り。
どこにも辿りつけない軌道を描く。
「オレとあいつは、いつも一緒だった。このクソ田舎で、くだらねぇことばっかして……。森で迷子になったり、教会の屋根をふたりして登ったり、畑の作物をイノシシから守るんだって言って、逆に返り討ちにあったりな」
くつくつと、ザインの喉が笑いをこらえるように鳴った。
それは、心からの笑いというよりは、過ぎ去った日々への愛惜に近い響きだった。
「ガキの頃は、怖いもんなんて何もなかった。あいつと一緒なら、何だってできる気がしてたんだ。いつか、でっけぇ冒険に出て、魔王を倒した勇者ヒンメル一行みたいに、世界中を旅して回るんだって……本気で信じていた。馬鹿だよな」
フリーレンは黙って耳を傾け、フェルンとシュタルクも、彼の言葉に引きこまれるように聞き入っていた。語られるのは、今の荒んだ姿からは想像もつかない希望に満ちた少年の日々。輝かしい夢を語るザインの横顔は、まるで別人のように見えた。
「あいつは戦士になるって言って、毎日丸太みてぇな剣を振りまわしてた。オレは……まあ、兄貴の影響もあって、なんとなく僧侶の道を選んだ。治癒魔法の才能だけは、昔からあったみてぇだからな。あいつが怪我すりゃオレが治す。それが当たり前の役割分担だった」
ザインは、ふと視線を落とし、自分の手を見つめた。かつて、親友の傷を何度も癒やしてきたはずの手。だが、今は安酒のグラスと紫煙を放つタバコを握りしめているだけだ。
汚らしいオトナの手。いや、ガキの頃と変わっていない。
「冒険者になるって言ってもそこらにいる普通のガキの夢だ。周りの大人たちは、誰も本気にしてなかった。……いや、一人だけいたか。村に視察に来たハイター様だ。あの優しそうな、だけど妙に鋭い爺さんが、この村に来た時、あいつの話を聞いて、笑いながら言ったんだ」
――あなた達なら、本当にそうなれるかもしれませんね。
「誰だって最初は一介の冒険者に過ぎない。自分が世界を救えるなんて考えてもいなかった。勇者一行と呼ばれる日が来るとは思わなかった。だから願い続ければ夢はかなうかもしれない。あなたたちの小さな冒険心が世界を救うかもしれない。そう、あの爺さんは言っていたよ」
ハイターの名が出たことで、フェルンの表情がわずかに和らぐ。
「今思えば、あの言葉が、あいつを本気にさせたのかもしれないな。オレも知らなきゃそうだっただろう。ハイター様がこの村に視察に来た理由を、偶然、知ってなけりゃな」
酒をあおるザイン。
「あの爺さんがこんな何もない片田舎に来た理由は、兄貴を聖都に勧誘するためだった。聖職者にとってはエリート街道といってもいい。勇者一行の僧侶の推薦があれば、なおのことそうだ。ガキでもわかる理屈だった。兄貴はこんな片田舎で終わるような聖職者じゃなかったんだよ。オレというお荷物がなけりゃな」
昏い瞳だった。フリーレンを――鏡のように睨みつけるザイン。
フリーレンは目をそらさない。
「なにがあったんです?」と、フェルンが優しく聞いた。
「ハイター様から勧誘を受けたとき、兄貴は言ったよ。幼い時に両親を失ったオレから故郷まで奪いたくないってな。オレは偶然話を聞いて物陰からこっそりと見てた。それで怖くなって逃げだしたんだ」
――弟想いの優しい言葉。
しかし、ザインにとって、それは『おまえがいるから私はここに残らざるをえない』という一方的な宣言であり、ひたすらに重い罪悪感を与える呪いのような言葉として機能した。
兄が棄てたものと、与えられたものを思い、ザインは故郷を棄てられなくなってしまった。
代わりに夢を棄てた。
「兄貴が悪いわけじゃねえのはわかってる。兄貴は一度だってそのことをオレに話したことはない。でも、オレはいつからかあいつといっしょに夢を語れなくなっちまってた」
夢と兄への罪悪感との間で引き裂かれ、呪いは少年だったザインの心を浸食していく。
親友にすら本心を打ち明けられなくなっていく。
汚いオトナになっていく。
互いの道は少しずつズレはじめ――。
「そして、オレはあいつの手をとらなかった」
ザインの声は、ひどく乾いていた。まるで、遠い昔の出来事を語っているようでいて、その痛みは今も生々しく彼の中に存在しているかのようだ。
「……ゴリラが、村を出るって言った日の前夜だったな」
ザインは、天井を仰ぐようにして続けた。
「あいつ、最後の最後まで、オレを誘ってきたんだ」
――いっしょに行こうぜ、ザイン。お前がいなきゃ、始まらねぇだろ。
「って。いつものバカみてぇな明るい声でな……」
差し伸べられた手。真っ直ぐな瞳。そこには何の疑いも打算もなかった。ただ、親友と共に夢を追いかけたいという、純粋な願いだけがあった。
闇のなかにいるザインには、その姿はあまりにもまぶしかった。
自分はとっくの昔に夢を棄ててしまっているというのに。
「オレは言えなかった。兄貴のこと、自分の罪悪感のこと、何も言えなかった。ただ、行けないと、それだけを繰り返した。うつむいて、あいつの顔も見れずに……」
どんなに情けない声だっただろうか。どんなに自分を軽蔑しただろうか。
「あいつは、しばらく黙っていた。それからそうかって静かに言ったんだ。怒りも、悲しみも、見せなかった。ガキの頃と変わらない明るい笑顔だったぜ」
それは、親友への裏切りが刻まれた瞬間だった。
信じていた相手に、手を振り払われた瞬間の顔。
――太陽のような笑顔。
その表情が、何年経ってもザインの脳裏に焼き付いて離れない。
灼光に闇は焼き尽くされてしまう。
「そして、あいつは帰ってこなかった」
「その……」フェルンは恐る恐る口をはさんだ。「ご友人は既にお亡くなりに?」
「わかんねぇ――。いや、死んでるのはオレのほうかもしれない。あいつにとってはな」
「ご友人が旅立たれたあと、メールのやりとりとかはされなかったのですか?」
フェルンは続けて聞いた。
当時、二者間通信やLINEといった通信手段はなくとも、メールという方式はあったはずだ。
魔法インターネット世代の申し子であるフェルンたちにとって、インターネットとは人々をつなぐ魔法である。そして人間はインターネットそのものになりかわりつつある。
たとえ、ふたりの間に断絶があっても、繋ぎなおされる友情があったのではないか――、フェルンはそう信じたかったのだ。
「したさ。今日は街道で魔物を百匹倒したぜ! とか、立ち寄った街の酒場の姉ちゃんが色っぽかったとか、ほとんどはくだらないやりとりだったけどな。オレもそれくらいなら返信できた。百匹斬りとかふかしてんじゃねーよ。もう、つきあっちゃえよみたいに言ってな」
そのメールは、ザインにとって唯一、冒険の世界と、そして親友と繋がる蜘蛛の糸だったのだろう。どこか後ろめたさを感じながらも、憎まれ口を叩きながら返信を続けていたのは、ザインが夢を棄てたと思っても、どこか棄てきれない思いがあったからだ。
「だが、いつからか……あいつのメールの内容が少しずつ変わっていった」
――今日の魔物は手ごわかったぜ。
――仲間がひとり毒で死んじまったよ。次の街までの臨時パーティだったんだがな。
――残念だ。
――やっぱり、ひとりは、思ったよりもキツイな。
――ザイン、おまえは僧侶になるんだろう。
――元気にやれてるか?
その変化にザインは気づいていた。
親友が、夢見た冒険の厳しさに直面し、苦しんでいるのかもしれないと思った。
何か、声をかけるべきだったのかもしれない。励ますべきだったのかもしれない。
「だが、オレはなんて返事していいか、わからなかったんだ」
ザインの声が、苦々しく歪む。
「自分のことで精一杯で、あいつが初めて見せた弱音に、本気で向き合うのが怖かったのかもしれない。だから、いつもみたいに、茶化したり、適当な返事しかできなかった」
それが、ザインが『親友を救えなかった』と感じる後悔の核心。
親友が発していたかもしれないヘルプコールに、真剣に向き合えなかった。
手を差し伸べられなかった。
かつて、自分が差し伸べられた手を、とらなかったように。
「そうこうしてるうちに、ぱったりと、メールが来なくなった。最初は忙しいのかと思ってた。だが、何日経っても、何週間経っても、返事は来ない。こっちから送っても、何の反応もない」
不安が、胸を締めつける。
「そして、ある日、メールを送ろうとしたら――」
――送信できませんでした。
という短く無機質な文章。
それはまるで死の宣告のように、冷たい現実をザインにつきつけた。
「何度やっても、同じだった。……オレはあいつに
煙を呑む。
「弱音を吐いたあいつを、オレがまともに相手にしなかったからか。あるいは、オレのことなんかどうでもよくなったのか。どっちにしろ、オレたちの繋がりは
それが十年も前の話。
だから、とどのつまり。
ザインの言葉は『今更』という言葉に集約された。
ザインは、語り終えると、空になったグラスをテーブルに置いた。まるで魂が抜けたかのように、ぐったりと椅子の背にもたれかかる。十年という歳月をかけて凝り固まった後悔と絶望を吐き出した反動は、想像以上に大きいのかもしれない。
なにも語らなくなった重苦しい沈黙が、彼の消耗を物語っていた。
フェルンはかける言葉が見つからない。シュタルクも同じく。
――関係性の死。
ザインはネットによって殺されたとも言えるだろう。たとえ肉の身体が殺されなくとも、ザインの精神はズタズタに引き裂かれている。
フェルンは、隣にいるフリーレンを見た。
エルフが、ここまで複雑な人間感情を完全に理解できるかはわからない。
それに、ヒンメルとは違い、ザインは心の闇を表出している。
フリーレンは人間の悪意にここまで直接触れたことがあっただろうか。
「私にはわからないことだらけだ」
人間にとっては長く、エルフにとっては短い時を経て――。
フリーレンはようやくそんな言葉を口にした。
「何がわからないんだよ。全部説明しただろ」
「なんでザインはブロックされただけで、拒絶されたなんて思うんだ?」
エルフらしいある意味素朴な疑問。
もちろん、フリーレンがネットに精通していないという事情もある。
十年の捉え方の違いも。時間感覚という生物学的な違いも、もちろんあった。
だがそれでも、フリーレンにとっての旅の
ヒンメルはフリーレンの中にいる。いつづけている。
しかし、ザインにはフリーレンの言葉が理解できなかった。理解したくなかった。
「ブロックされたんだぞ? これ以上の拒絶があるかよ。完全にシャットアウトされたってことだろ。おまえとは関わりたくねー、一言も会話したくねーってことだろうが」
「本当にそうなの?」フリーレンはかすかに首を傾げる。「正直に言えば、あいつの創ったネットのことはよくわからない。でも、それが本当に
「おしまいじゃなきゃ、なんなんだよ……」
「それは私にはわからない。ザインの定義だからね。でも、知りたいと思えば、逢いたいと思えば、おしまいじゃないと思う」
「どうしてそんなことがいえる」
「ヒンメルなら、
フリーレンの言葉に、フェルンは驚き、息をのんだ。
千年の時を生きるエルフが、ただヒンメルがそう言ったからと過去を参照するのではなく、ヒンメルの想いを受け取ろうとしている。
言葉を越えて、意味を理解しようと努力している。
人生の大半をともに過ごしてきたフェルンは、フリーレンの成長に気づくことができた。
ただ、ザインにとっては数日過ごしてきただけの異種族に過ぎない。伝説上の勇者一行の魔法使いに過ぎない。誰しもが憧れる勇者ヒンメルのことを持ち出したところで、片田舎でくすぶり続けている自分とは、天と地ほど開きがある。実感が湧くわけもない。
「聖職者相手に説教かよ」
「説教のつもりはないけどね。ザイン……、ヒンメルは死んだんだよ。もういないんだ」
「……だからどうした?」
ザインの声には、苛立ちと、投げやりな響きが混じっていた。伝説の勇者の死が、今の自分の苦悩と何の関係があるというのか。
「でも不思議なんだよね。旅を続けるうちに、ヒンメルの言ったことが、私の中で変化しつづけてる気がするんだ。ヒンメルは死んでも、ヒンメルの物語は
――エルフの永遠に等しい寿命が尽きない限り。
「私の中で、ヒンメルはまだ生き続けているんだ。私がヒンメルを知ろうとする限り、ヒンメルを忘れない限り、私はいつでもヒンメルに逢える」
その言葉は、千年を生きたエルフが、長い時間をかけてようやくたどり着いた、人間との繋がりの一つの形だった。
そして、フリーレンは真っ直ぐにザインを見た。
「ザインはどうなんだ?」
「オレは……」ザインは歯を食いしばった。「もう十年だぞ。あいつの顔もうろ覚えだ。逢ったところで、どんな言葉をかけりゃいいのかすらわからない」
「
フリーレンの言葉は、静かに、しかし確実にザインの心の壁を穿った。
それは、正論や説教とは違う、彼女自身の実感から来る経験則だった。
新しい言葉をかけてくれることはない――――死者との絶対的な壁。
それに比べて、自分は?
「……っ!」
ザインは奥歯を強く噛みしめた。フリーレンの言う通りなのかもしれない。
「そうかもしれない。生きているかもしれねぇさ。だがな……!」
ザインは、すがるような、あるいは振り払うような目でフリーレンを見た。
「十年だぞ! その十年で、あいつがどう変わっちまったか! オレがどんな風に見られてるか! そんなもん、わかりきってるだろうが!」
拒絶という言葉は、もはや彼の口からは出なかった。
フリーレンの言葉が、その確信を静かに蝕んでいたからだ。
「それは、逢ってみないとわからないことだ」
フリーレンは、まるで簡単な魔法の理を説くように、あっさりと言った。
「いい加減にしろ!」
「逢いに行ってもいないのに。あきらめるんだ? いま逢いに行かないと、ザインはきっと近い将来後悔することになる」
「もう既に後悔はしている。おまえが掘り返さなきゃ、とっくの昔に終わった話なんだ」
「まだザインは間に合うよ。ヒンメルを50年も待たせた私が言うんだからまちがいない」
「なんだよそりゃ。エルフ流のジョークかよ」
ザインは、乾いた笑いを漏らした。エルフの言う五十年という時間が、まるで昨日のことのように語られる。その途方もない時間感覚に、眩暈すら覚える。
「ジョークじゃない」
フリーレンは、真顔で、静かに首を横に振った。
その翆色の瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。むしろ、遠い過去の、取り返しのつかない何かを見つめているような、深い色をしていた。
「私は、ヒンメルが死んでから、人間を知ろうとするまで、それだけの時間を無駄にした。もっと早く、ヒンメルのことを、人間のことを理解しようとしていればって、今でも時々思うよ」
「後悔しているのか?」
「そうだね。だから、ザインには私みたいに後悔して欲しくない」
「なんでだよ」
「ザインはきっと私たちの仲間になるからね。仲間には優しくする主義なんだよ」
「くだらねぇ……」
ザインは肺の中にたっぷりと煙を吸いこんだ。
一秒、二秒、……十秒かけて深く呼吸する。
「――わかったよ。フリーレン。オレの負けだ」
ザインはエルフの時間感覚に根負けしたとも言えるだろう。
下手すると十年くらいは説得され続けていたかもしれない。
あるいは、その途方もない時間のズレを重ね合わせようとするエルフの努力に、頭を垂れたともいえるだろうか。
その日、ザインは兄へメールした。
長ったらしい文章を書いては消し、何度も書き直す。
後悔の波が寄せては返す。
やがて、最後に残ったのは、文脈すら消失しそうな言葉。
ずっと本当の会話を避けてきた兄へ。
彼はただ一言打ちこんだ。
『兄貴。ごめん』
Re:ザイン
『お互いさまですよ』
あなたがここにいてほしいという言葉は呪いにも祈りにもなりうる。
そういう話が書きたかったような気がする。