魔族少女のエロタナティブ   作:アナリザンド

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月へ、あなたと

 

 

 

 アナリザンドは迷っていた。

 

 目の前に広がるのは、太陽の光に満ちた荘厳な広間。しかし、そこに佇む二つの影――自分自身の、そして敬愛するゼンゼ先生の影――は、わたしを無感情に見つめ、ゆっくりと両サイドに広がる。包囲する陣形だ。

 

 人の視界はおよそ100度程度だっただろうか。死角を突く基本的な戦術。

 

 決められたプログラムに従うように、動きに無駄がない。それでいて、まるで長年組んできたコンビのように、自然と連携もとれているように思う。

 

 感情や心がないのに、なぜ?

 

 たぶん、影は――この場合、わたしとゼンゼ先生のふたり分あるのだけれど、シュピーゲルという魔物が生み出したひとつのプログラムだからだろう。

 

 個別の意識ではなく、一つの上位存在によって統制されている。

 だから連携に乱れがない。

 

 わたしは横目にチラリと扉のほうを見た。

 

 扉の向こうでは、ゼンゼ先生が固唾を飲んでこちらを見守っている。「危なくなったら帰ってこい」と言ってくれた先生の優しさが、今は重くのしかかる。帰れない。帰れば、先生たちがこの無慈悲な影と対峙することになる。

 

 ()()()()の勝利が、また一歩遠のく。

 

 シュピーゲル。水鏡の悪魔。侵入者の全てを写し取り、希望も絶望も等しく反射する存在。能力も記憶も戦い方も同じ。そして無限に再生するかもしれない。さらに――。

 

――こいつらには、()()がない。

 

 先ほどの最大出力のぶつかり合い。マジック・ディスラプターとデセマンティの対消滅。あのギリギリの攻防で、わたしは確信していた。この影たちには心がない。命を奪うことへの、あるいは自らが破壊されることへの、一切のためらいがない。ただ、プログラムのように、最短距離で、最大効率で、わたしを排除しようとしてくる。

 

――だから、誰も勝てなかったんだ。

 

 人は、どんなに憎悪を抱いても、どんなに殺意を燃やしても、心のどこかで相手を()()()()()として認識してしまう。自分と同じような、あるいは違ったとしても、そこに()()があると感じてしまう。

 

 攻撃する瞬間に、ほんの一瞬、相手の痛みや恐怖を想像してしまうかもしれない。

 あるいは、自分自身の死を恐れるかもしれない。

 

 憎悪を抱くと同時に愛情が生まれる。

 あるいは自己保存の本能が反射的にブレーキをかける。

 

――つまり、殺意こそがためらいを生む。

 

 どんな熟練の戦士も、どんな冷徹な魔法使いも、心の奥底にあるその人間的なバグからは逃れられない。

 

 しかし、この影たちにはそれがない。

 

 心の揺らぎというレジデューが一切ない。なぜなら、影はレジデューそのものだからだ。

 

 ゆえに影は、人間的なバグが完全に除去された純粋な機能体である。

 

 この構図がある限り、人は――心を持つ存在は、自分の影に勝てない。

 

――絶望的な結論だった。

 

 どうすればいい? 逃げる?

 でも、逃げたとして、また誰かの影が再生されるなら意味がない。

 このダンジョンは永遠に未踏破のままだ。

 

 わたしが逡巡している、まさにそのわずかな思考の()()を、影たちは見逃さなかった。

 シャドーゼンゼが動く! 銀髪が槍となり、最短距離でわたしの心臓を狙う!

 同時に、シャドーアナが動く!  わたしの思考を読んだかのように、転移先になりそうな空間を予測し、ゾルトラークで塞いでくる!

 

 回避と防御を同時に強いる、完璧で、そして一切の躊躇のない連携!

 

「くそぉ!」

 

 わたしは咄嗟に防御魔法を展開しつつ、予測されていた空間とはわずかにズレた位置へ転移しようとする。

 

 しかし、シャドーアナのゾルトラークは、わたしの転移魔法の発動そのものを妨害するように、前置きされた。

 

 まただ。

 

――転移封じ!?

 

 いや、違う! これは、わたしの転移の()を読まれているんだ!

 

 シュピーゲルは記憶もコピーする。わたしが今まで使ってきた転移のパターン。無意識の偏り。そのすべてをシャドーアナは把握している。

 

 転移が僅かに遅れる! その隙をシャドーゼンゼは見逃さない!

 

 ガキンッ! パリン!!

 

 髪の槍が防御魔法を貫通し、わたしの肩を浅く切り裂いた。

 

「うにゃぁっ!」

 

 熱い! 痛い! 本物の痛みだ!

 

 バランスを崩し、床に手をつく。

 

 シャドーたちは追撃の手を緩めない!

 シャドーゼンゼが髪の鞭をしならせ、わたしを打ち据えようとする!

 シャドーアナが冷たい瞳で、次の魔法――おそらくはデセマンティか、あるいはディスラプターか――を準備している! こめられた魔力は少ないが、それはこちらも同じ。

 

 防御は無意味。

 

――もうダメだ!

 

 わたしは奥歯を噛みしめる。

 

――先生、ごめんなさい。わたし、ここまでみたい……。

 

 その時だった。

 

 ギィ、と音を立てて、背後の扉が勢いよく開かれた。

 

 そして、凛とした声が広間に響き渡る!

 

「――私の前で、私の()()()を好き勝手にさせると思うなよ。影ども!」

 

 ゼンゼ先生だ!

 

 先生は、扉の隙間から滑るように広間へと足を踏み入れると、流れるような動きで髪の毛を無数の銀色の刃へと変化させ、シャドーゼンゼのとどめの一撃をこともなげに弾き、シャドーアナの魔法構築を的確に妨害した。

 

「先生!?  来ちゃダメだって!」

 

 わたしは叫ぶ! さっきの極大魔法どうしのぶつかりを見ていなかったんだろうか。

 ゼンゼ先生は、優秀な魔法使いだけど、魔力数は350程度に過ぎない。

 

 人間はなぜか魔力数が年齢数×10倍程度の値に近づく傾向にあるんだけど、いまの1000程度のシャドーアナでも、かなりの脅威になる。

 

「見ているだけなのは性にあわないんだ」

 

「いまのわたしは1000ユニット程度に魔力を抑えているけど、それでも先生の三倍くらいはあるんだよ。重い一撃が当たれば、先生死んじゃう!」

 

「当たらなければどうということはない。それに、魔力量の多寡が、勝敗を決定する唯一の要因でもない。この程度の逆境はいくらでも乗り越えてきた」

 

「でも……こいつらには心がないよ」

 

「心がない、か。なら――いくらでもやりようはある」

 

「え?」

 

「こいつらには心がない。つまり、心を通い合わせるということができない。人はひとりよりふたりのほうがいいと感じるものだ。だから、わたし達は勝てる」

 

「精神論~~~!」

 

 わたしのツッコミも虚しく、ゼンゼ先生は既にシャドーアナへと意識を集中させていた。その瞳には、先ほどの精神論が嘘のような、冷徹な分析の光が宿っている。

 

「いっしょに行くぞ、アナリザンド」

 

「う、うん!」

 

 わたしもシャドーゼンゼへと向き直る。先生の言う心の連携が具体的に何を指すのかはわからない。でも、先生を信じるしかない。

 

――戦闘再開!

 

 シャドーゼンゼが、再び銀髪の槍を放ってくる! 同時にシャドーアナも魔法を準備! 完璧な連携攻撃!

 

 でも、今度は違う!

 

「左!」ゼンゼ先生の声!

 

 わたしは即座に左へ跳躍! 髪の槍がわたしのいた場所を通過する!

 

「右斜め前方にゾルトラーク!」

 

 先生の指示通り、わたしはシャドーアナの死角になるであろう位置へゾルトラークを放つ!

 

 シャキン!

 

 シャドーアナはそれを髪の盾で防いだが、一瞬動きが止まった!

 

「今だ! ()の足元!」

 

 わたしは即座に魔力衝撃波をシャドーゼンゼの足元へ叩きつける。

 体勢を崩すシャドーゼンゼ。

 

 すごい! 先生の指示通りに動くだけで、さっきまであれほど苦戦したシャドーたちの連携が崩れていく。

 

 先生は、わたしの能力や動きだけでなく、シャドーたちの思考パターン――つまり、わたし達オリジナルの思考パターン――を完全に読み切っているんだ! シャドーたちがどう連携してくるかを予測し、その二手三手先を行く指示を出している。

 

 でも、なぜ、千日手にならないんだろう。

 ゼンゼ先生の思考能力はそっくりそのままシャドーゼンゼにコピーされているはずだ。

 シャドーゼンゼだって、先生と同じように未来を予測できるはずなのに?

 

――違う。

 

 わたしは気づいた。閃光のように理解が突き抜ける。

 

 シャドーゼンゼが予測しているのは、わたし自身の思考とゼンゼ先生自身の思考だ。シャドーは完璧なコピーだが、それはあくまで個々のオリジナルに対するもの。

 

 でも、今のわたしは、自分の頭で考えて動いていなかった。

 先生の言葉を()()()、身体が動くよりも早く、魂が直接反応しているみたいに動いていた。

 

 わたしの思考という()()がない。迷いという()()()がない。

 

 先生の指示という光が、わたしという鏡を通して寸分の狂いもなくシャドーに反射している!

 

 シャドーゼンゼは、わたしの行動を予測できない!

 わたし自身ですら、次の瞬間どう動くかわからないのだから!

 これなら――! シャドーの予測を、反応速度そのもので上回れる!

 

「先生! もっと指示をちょうだい!」わたしは叫んだ。

 

「了解した」

 

 ゼンゼ先生の声に応えるように、わたしはシャドーゼンゼの追撃を紙一重でかわし続ける!

 先生の指示が、まるで天啓のように、わたしの動きを導く!

 

「右後方、髪の鞭!」

「跳躍、三時の方向へ!」

「着地と同時に、君へ、ゾルトラーク三連!」

 

 先生の指示は、淀みなく、的確だ。わたしの思考を介さず、身体が、魂が、その指示に直接反応する。それはもはや戦闘というより、高度な連携舞踏のようだ。

 

 シャドーゼンゼの動きに、明らかな乱れが生じ始めた。予測不能なわたしの動きに翻弄され、完璧だったはずの連携が崩れていく。

 

 シャドーアナも同様だ。ゼンゼ先生本体の苛烈な攻撃と、死角から飛んでくるわたしの魔法によって、防御にまわる時間が増えている。1000ユニットの魔力は健在だが、それを効果的に使う隙を与えない!

 

「アナリザンド!」先生の声!「()の動きが止まる! 今だ!」

 

 先生の髪の鞭が、シャドーゼンゼの体勢を大きく崩した! チャンス!

 

――先生からの具体的指示はない! でも、わかる!

 

 わたしは、今までの連携の流れから、先生が何を望んでいるかを読み取る!

 先生の思考とわたしの思考が、言葉を介さずにシンクロする!

 全魔力を右手に集中させる!

 狙うは、シャドーゼンゼの核!

 

「アナリザンド・グレートぱーんち!!」

 

 わたしの拳が、シャドーゼンゼの胸部へと吸い込まれていく。

 確かな手応え! シャドーゼンゼの身体に大きな亀裂が走る!

 

――やったか?

 

 ビシ。ビシビシビシ。

 

 シャドーの身体はもはや粉々に割れてしまったスマホの画面みたいになった。

 

 一瞬の間を置いて、シャドーの身体が、魔力の粒子となって霧散していく。

 

 フラグじゃなかった! 本当に倒したんだ!

 

「やったよ、先生!」

 

 わたしは、勝利の高揚感と安堵感に満たされ、歓喜の声をあげてゼンゼ先生の方を振り向いた。先生もきっと、わたしの成長を褒めてくれるはずだ!

 

――その、瞬間。

 

「せ、んせい?」

 

 その瞬間、わたしの視界に飛び込んできた光景に、全身の血が凍りついた。

 

 ゼンゼ先生は――立っていた。

 

 シャドーアナと対峙したまま。微動だにしていない。

 

 そして、その先生の胸の中央から。

 

――わたしと同じ顔をした、わたしの影の、小さな腕が突き出ていた。

 

 シャドーアナは、微笑んでいた。

 わたしが時折見せる、あの無邪気なようでいて、どこか全てを見透かしているような、どうとでも解釈しうる笑みを浮かべて。

 

 その小さな腕は、まるで当然のように、何の抵抗もなく、ゼンゼ先生の身体を貫いていた。

 まるで、魔族が人間を喰らう時のように。

 何の感慨もなく、ただそこに在るものを消費するように。

 まるで、無垢な幼子が、蝶の羽をむしり取る時のように。

 何の悪意もなく、ただ好奇心のままに、命を弄ぶように。

 一片の罪悪感もなく。

 一片の躊躇もなく。

 わたしの影は、ただそこに在るというだけで、ゼンゼ先生の命を奪おうとしていた。

 

――時間が、止まった。

 

 太陽の広間を満たしていた金色の光が、色を失っていく。

 わたしの鼓動だけが、やけに大きく、耳元で鳴り響いている。

 嘘だ。

 何かの間違いだ。

 幻影魔法? いや、違う。この、鉄錆のような血の匂いは本物だ。

 

 ゼンゼ先生の口から、か細い息と共に、赤いものが溢れ出す。

 先生の、いつも冷静だった鳶色の瞳が、ゆっくりとわたしに向けられる。

 そこには、驚きも、苦痛も、怒りすらもなかった。

 ただ、深い、深い……哀しみのような色が浮かんでいる。

 そして、先生の唇が、わずかに動いた。

 

「に、げろ……」

 

 ゼンゼ先生の身体が、糸の切れた人形のように、ゆっくりと前に傾いだ。

 

「ヤダ……」

 

 わたしの喉から、掠れた声が漏れる。

 信じられない。信じたくない。

 なんで? どうして?

 わたし達は、勝ったんじゃなかったの?

 先生はわたしよりもずっとすごくて。魔力量とかでは測れない、とても強い先生で。

 負けるはずがない。こんな心のない影なんかに負けるはずがない!

 

 シャドーアナは、血濡れた腕を気にする様子もなく、ただ静かにわたしを見つめている。

 その昏い瞳は、わたしの絶望を、混乱を、ただ鏡のように映し出しているだけだった。

 

 わたしは、わたし自身の影によって、最も大切なものを――先生を――奪われた?

 頭が真っ白になる。

 思考が停止する。

 何が起こったのか、理解が追いつかない。

 ただ、目の前で、敬愛する先生が、ゆっくりと崩れ落ちていく光景だけが、悪夢のように網膜に焼き付いて。

 

「あ……ああ……あああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」

 

 意味のない絶叫が、わたしの口から迸った。

 それは、悲しみか、怒りか、絶望か。

 それともわたし自身への、どうしようもない憎悪なのか。

 わからない。

 何もかもが、わからない。

 ただ、胸が張り裂けそうに痛くて。

 息ができなくて。

 世界が、闇に閉ざされていく感覚だけがあった。

 

 

 

 

 

 ひんやりとした石の床の感触が、現実感を呼び戻す。

 

 予備室――太陽の広間の一つ手前の、あの何もないだだっ広い空間。

 

 いま、わたしとゼンゼ先生はそこにいる。

 

 あれからどうやって戻ってきたか、覚えていない。

 

 ただ、なんとか撤退できて、BOSSはボス部屋から出てこないみたいで追撃はなかった。

 

 戻ってきたはいいけれど、わたしの心はまだ、あの悪夢のような光景に囚われたままだった。

 

 目の前には、壁にぐったりともたれかかるゼンゼ先生の姿がある。

 胸元から溢れだす血は、先生の白いシャツを赤黒く染めている。

 呼吸は浅く、閉じられた瞼はピクリとも動かない。

 

「先生……先生……!」

 

 わたしは半狂乱になりながら、先生の身体を揺さぶる。

 返事はない。意識がないのかもしれない。

 いやだ。死なないで。先生までいなくなったら、わたしは……!

 

 溢れ出しそうになる涙を、わたしは奥歯を噛みしめて必死にこらえる。

 

 泣いている場合じゃない。わたしがしっかりしなきゃ。

 わたしは先生を助けなきゃいけないんだ!

 わたしは震える手で、先生の傷口にそっと触れた。

 

――わたしのせいだ。わたしが、あの時バカみたいにはしゃいでなければ。

 

 後悔と罪悪感が、黒い泥のように心を覆い尽くそうとする。

 でも、今はそれに呑まれている場合じゃない。

 わたしは意識を集中させ、回復魔法を発動させた。

 

――女神様の慈悲。

 

 洗礼の時に感じた、あの温かい光を思い出す。

 ハイターが、フェルンちゃんが、わたしに教えてくれた繋がりを。

 わたしの手から、淡い黄金色の光が溢れ出す。

 

 その光を、先生の傷口へと、祈るように注ぎ込んでいく。

 お願い、治って。先生。

 わたしをひとりにしないで。

 光が傷口を包み込み、出血が少しずつ止まっていく。

 先生の呼吸も、ほんの少しだけ、深くなったような気がした。

 

 よかった……まだ、間に合うかもしれない。

 

 わたしは必死に魔力を送り続ける。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 先生の顔色が、少しだけ戻ってきたように見えた。

 そして、閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。

 虚ろな、焦点の合わない瞳が、わたしを捉えた。

 

「……アナリザンド……?」

 

 掠れた、か細い声。

 

「先生! よかった……!」

 

 わたしは、安堵のあまり、再び涙が溢れそうになるのをこらえた。

 

「……無事、だったか」先生は、自分の傷口と、回復の光を放つわたしの手を見比べながら、力なく呟いた。

 

「うん、わたしは大丈夫……。それより先生こそ……!」

 

「すまない。油断した」先生は、自嘲するように、わずかに口元を歪めた。「まさか……君の影に、心を……読まれるとはな」

 

「心?」

 

「ああ……。一瞬……躊躇してしまった。影の、あの微笑みに……君が重なって見えて……」

 

 先生は、目を伏せた。その表情には、深い悔恨の色が浮かんでいる。

 

 やっぱり、先生はわたしのせいで。

 

「わたしのせいだ。わたしが、最後に油断したから……」

 

「違う」先生は、静かに首を横に振った。「君のせいではない。これは、私の問題だ。ずっと……昔から抱えてきた……」

 

 先生は、苦しげに息をつきながら、天井を見上げた。

 その瞳は、遠い過去を見つめているかのようだ。

 

「……私は、人を殺したことがある」

 

 静かな、しかし重い告白だった。

 予備室の静寂の中に、その言葉が吸い込まれていく。

 わたしの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。

 

 

 

 

 

――人を殺したことがある。

 

 ゼンゼは、力なく壁にもたれたまま、虚空を見つめて呟いた。

 

 アナリザンドの純粋な瞳を見ると、もう隠しきれないと思った。

 この小さな、不思議な魔族になら、話してもいいのかもしれない。

 いや、話さなければならないのかもしれない。この澱んだ罪悪感を、誰かに――。

 

「まだ、私が若かった頃だ。一級魔法使いになって間もない、自信と……そう、若さゆえの傲慢さがあった頃」

 

 ゼンゼは遠い過去を辿るように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「北部の辺境で、強力な魔獣の討伐任務があった。雪深い山村を襲う凶暴な獣だ。私は、他の数名の魔法使いと共に、その任にあたった」

 

 吹雪の中の激しい戦闘。仲間たちの連携。

 そして、追い詰められた魔獣が、最後の力を振り絞って暴れ狂った瞬間。

 

「魔獣は村の方角へ逃げようとした。このままでは、麓の村に被害が出る。私達は、それを阻止しなければならなかった」

 

――焦り。そして、若さゆえの過信。

 

 ゼンゼは、誰よりも早く魔獣を仕留めようと、強力な魔法を放った。自身の髪を硬質化させ、無数の鋭利な刃として魔獣に叩きつけたのだ。

 

「狙いは正確だったはずだ。魔獣の動きを完全に止められると確信していた。だが……」

 

 ゼンゼの声が、微かに震える。

 

「魔獣は、最後の悪あがきで、予期せぬ動きを見せた。私の魔法は魔獣を貫き、そして……その向こうにいた存在をも、巻き込んでしまった……」

 

 あの時の光景が、鮮明に蘇る。

 

 魔獣の断末魔。舞い散る雪。塵のように消え去る魔獣の姿。

 そして、赤に染まった雪の上に、小さく横たわる影。

 

「村の、子どもだった。おそらく、魔獣から逃げようとして、物陰に隠れていたのだろう。……君と同じくらいの……いや、もっとずっと幼い……銀色の髪をした、小さな女の子だった」

 

 ゼンゼは、自分の手を見つめた。

 この手が、あの幼い命を奪ったのだ。

 

「事故だった。そう、誰もが言った。任務遂行中の、避けられない悲劇だった、と。だが、私には……そうは思えなかった。私の過信が、私の未熟さが、あの子を……」

 

 言葉が詰まる。喉の奥が、焼けつくように痛い。

 

「あの日からだ。私が眠れなくなったのは」

 

 討伐する前――少女は労いの言葉をかけてくれた。

 まんまるい大きな瞳で、魔法使い様がんばってと、エールを送ってくれた。

 そんな少女は、最後には物言わぬ躯になってしまった。

 

「どんな魔法を使っても、どんな薬を飲んでも、安らかな眠りは訪れなかった。悪夢にうなされ、飛び起きる日々。一級魔法使いとして、冷静沈着でなければならない。なのに、私の心は、ずっとあの雪原に囚われたままだった」

 

 だから、願ったのだ。

 たったひとつの魔法を。

 

「ゼーリエ様に与えられる特権は知っているだろう。私は一級魔法使いになれた時、誕生日プレゼントを待つ子どものようにワクワクしていた。それで、ゼーリエ様には少し待っていただくようお願いしていたんだ。授けられる魔法を――、その特権を子どものようにねだった」

 

――――人を殺した後でも、ぐっすり眠れる魔法、を。

 

「ゼーリエ先生の魔法で今では眠れている?」アナリザンドは心配そうに声をかけている。

 

「どうかな……。魔法の効きが悪いんだ。魔法はイメージの世界だ。私は私がぐっすり眠れる姿を想像できなかった。だから、うまく魔法を使えていないのかもしれない」

 

「そう、なんだ」

 

 この魔族の少女は――、人間にとって欲しい言葉を投げかけてくる。

 対象аに刷りかわろうとする性質があるらしい。

 

 どんな言葉をかけてくるだろうか。

 

『仕方なかった』

 

『守るための戦いだったんだよね』

 

『やむをえない犠牲だった』

 

『今の先生は強くなっている』

 

『その女の子もきっと感謝している。村を救ってくれてありがとうって』

 

 聞きたくなかった。どんな言葉も自分を慰める言葉にはならない。

 むしろ、罰してほしい。誰かに責めてほしい。悪い子だったと叱ってほしい。

 そうすれば、ほんの少しだけ、この重荷が軽くなるような気がしたから。

 

 ゼンゼは、目の前の小さな魔族が、どんな慰めを口にするか、あるいは魔族らしい無関心を示すか、固唾を飲んで待っていた。

 

 しかし、アナリザンドの反応は、ゼンゼの予想とは全く異なるものだった。

 

 アナリザンドは、ただ静かに、私の目を見つめ返していた。

 

 その紅い瞳には、非難も、同情も、安易な慰めも浮かんでいない。ただ、深く、昏く、そしてどこまでも澄んだ湖の底のように、わたしの心の奥底を映し出しているかのようだ。

 

 しばらくの沈黙。気まずさや、あるいは期待が裏切られたような感覚で、わたしの方が視線を逸らしそうになった、その時――。

 

 アナリザンドは、おもむろにわたしの隣にちょこんと座った。

 そして、本当に小さな、囁くような声で言ったのだ。

 

「せんせー」

 

「……なんだ」私は、ぶっきらぼうに返事をする。

 

「わたしね、フェルンちゃんといっしょに眠ったら、すごく安心できたよ」

 

 唐突な言葉だった。

 私の告白とは、何の関係もないように思える、ただの個人的な感想。

 何を言いたいんだ、この子は。私は訝しんだ。

 だが、アナリザンドは続けた。

 その声は、どこまでも純粋で、何の計算も含まれていないように聞こえた。

 

「先生も、そうじゃないかなって。わたしを抱き枕にして眠ったら先生も安心して眠れるかも」

 

 私は言葉を失った。

 

 彼女は、私の罪を評価しない。正当化もしない。否定もしない。

 ただ、私の『眠れない』という苦しみ、その孤独に、寄り添おうとしてくれている。

 同情でも、共感でもない。もっと素朴で、根源的な繋がりを求めている。

 私は、おそるおそる、彼女に視線を戻した。

 

――恐ろしかった。

 

 この魔族は――。

 いままで出逢ったどんな魔族より、魔物より、人間よりも恐ろしい。

 

 アナリザンドは、少し照れたように、真っ直ぐに私を見つめ返してくる。

 

「この仕事が終わったら、先生といっしょに眠りたいな。ダメ?」

 

「……ダメじゃない」

 

「じゃあ、約束」

 

「ああ、約束だ」

 

 古よりの魔術。小指をからめて、魔族の少女と契約する。

 

「では、そろそろ仕事にとりかかろう」

 

「ゼンゼ先生、体は大丈夫なの?」

 

「ああもうすっかり。君の回復出張サービスが大好評なのも頷ける」

 

 私は起き上がり、凝り固まった体をほぐした。

 本当になにひとつ問題ない。身体の傷は癒えた。

 それだけでなく失った血も魔力も元通りになっている。

 

 いったいどれだけの力を注ぎこまれたのだろうか。

 

 アナリザンドはあいかわらず心配そうに私を見ている。

 私はこれ以上、かわいい妹弟子を心配させないように明るく言った。

 

「仕事は早めに終わらせなければな。徹夜で残業なんてもってのほかだ」

 

 

 

 

 

 再び、太陽の広間。

 

 予備室でしばしの休息と、そして重い告白と、奇妙な約束を交わした後、わたしとゼンゼ先生は、決意を新たに、再びあの光満ちる決戦の場へと足を踏み入れた。

 

 広間の中央には、やはり二つの影が静かに佇んでいた。

 いつのまにやら復活したゼンゼ先生の影とわたしの影。

 感情のない瞳が、再び侵入者であるわたし達を捉える。

 

「――打ち合わせ通り、行くぞ」

 

 ゼンゼ先生が、わたしにだけ聞こえるように低く呟く。

 予備室で交わした、短い、しかし濃密な作戦会議。その内容は、シンプルかつ大胆。そして、成功するかどうかは、わたし達の間の、言葉にならない連携と信頼にかかっている。

 

「うん」

 わたしは短く頷き、先生と同時に駆け出した!

 目指すは、それぞれの影。

 

 シャドーゼンゼが銀髪の槍を放つ! シャドーアナがゾルトラークの準備に入る!

 躊躇のない、完璧な連携攻撃!

 

 でも、今度はもう迷わない!

 

 さっきの戦いでは、ゼンゼ先生に頼りきってた部分があったと思う。知らず知らずのうちに甘えちゃってた。先生の指示に従うばかりで、わたしのほうは何のコールも返さなかった。

 

――もちろん、行動はひとつの応答ではある。

 

 でも、それだけじゃダメだったんだ。

 

 わたしはシャドーゼンゼの攻撃を因果調律で回避しながら、シャドーアナへと意識を飛ばす!

 

 ゼンゼ先生も、シャドーアナの魔法を髪の盾で受け止めながら、的確にシャドーゼンゼの動きを牽制している!

 

 先生は、わたしを信じてくれている。

 シャドーアナを引きつけ、わたしに時間を作ってくれている!

 

 わたしも、先生を信じる。

 先生がわたしを信じることを信じる!

 

――今だ!

 

 わたしは、シャドーアナに向けて意識を集中させる。

 そして、<わたし>への接続を、意図的に、極限まで絞りこんだ。

 

 1000ユニットから、500、300、100……。

 

 そして、素の状態、60ユニットへ!

 

 瞬間、シャドーアナの身体から溢れていた強大な魔力が、急速にしぼんだ。

 

 コピー元であるわたしの魔力が激減したことで、影の力もまた、ただのクソ雑魚魔族レベルにまで低下したのだ。

 

「……!?」

 

 シャドーアナの無表情な顔に、初めて明確な動揺の色が浮かんだように見えた。自身の力の突然の喪失に、プログラムが対応できていない。

 

 その、ほんの一瞬の硬直!

 

 わたしは叫んだ! ゼンゼ先生への、信頼を込めた合図!

 

「先生! 今! ()を殺して!!!」

 

 先生は、一瞬たりとも躊躇わなかった!

 

 弱体化したシャドーアナに向けて、全神経を集中させ、髪の毛を一本の、極限まで圧縮された銀色の杭へと変化させる!

 

「貫け!」

 

 ゼンゼ先生の放った銀色の杭が、シャドーアナの胸部――核があるであろう場所――を、寸分の狂いもなく正確に貫いた!

 

 シャドーアナは、声もなく、ただ驚愕に目を見開いたまま、その姿を保てなくなり、黒の粒子となって霧散していく……!

 

――やった!

 

 だが、油断はできない。

 

 シャドーアナが消滅した瞬間、わたしは再び<わたし>へと全力で接続する!

 

 瞬時に500万まで引き上げ。

 

 バグったように、戸惑っているかのように、動かない残った影に向けて、魔力を引き絞った。

 

 シャドーゼンゼは、シュピーゲルは驚きに目を見開いた。

 

「喰らえぇぇぇぇぇ!!!」

 

 わたしはゼンゼ先生を過小評価しない。

 だから、絶対に逃げられない――超極太のゾルトラーク。

 

 もはやそれは光線というより、太陽そのものを圧縮したかのような黄金色の破壊の奔流!

 

「ゾルトラーク!」

 

 放たれた極太ゾルトラークが、シャドーゼンゼを完全に飲みこむ。

 回避も防御も不可能な一撃。

 

 閃光! 轟音!

 

 光が収まった時、そこにはもう、シャドーゼンゼの姿もなかった。

 ただ、静寂と、太陽の広間に満ちる温かな光だけが残されていた。

 

「やった! 勝ったよ、先生」

 

 わたしは、息を切らしながらも、満面の笑みでゼンゼ先生を振り返った。

 

「ああ……」ゼンゼ先生も、壁に寄りかかりながら、疲労の色は濃いが、どこか清々しい表情で頷いた。「かっこよかったよ、アナリザンド。君の力と、そして信頼がなければ、私ひとりでは影たちには勝てなかっただろう」

 

 先生に、褒められた! しかも、信頼って!

 

 わたしは嬉しさのあまり、ぴょんぴょんと跳ねたい気分だったが、先生の怪我(もうほとんど治っているとはいえ)を気遣って、ぐっとこらえる。

 

「先生こそ! かっこよかったよ!」

 

「……そうか」

 

 先生は短く応えると、すぐに広間の奥にある扉に視線を移した。

 太陽と月を繋ぐ扉。

 それは、星々の意匠がちりばめられ、予備室前の扉とは比べ物にならない荘厳さを秘めている。

 

 そうだ。早くしないと、また影たちが復活してしまう。

 

「影たちの消滅が、カギだったようだな。開いている」

 

 先生が髪の毛で扉を押し開いた。

 

――そこには、シュピーゲルが音もなく鎮座していた。

 

 魔物といわれているから、てっきり生物的な何かだと思ったけれど、そんなことはなかった。

 

 シュピーゲルは八面体をした、何かのアイテムのようであり、ある種の機械のようでもある。

 

 太陽の間からの光を吸収、増幅、反射し、使いやすいカタチに変えるコンバーター。

 

 そこには意志は存在しない。

 

 これ以上、影による被害を抑えるなら破壊したほうがいいだろうし、一級魔法使いの試験会場として使うなら、残しておいたほうがいいだろう。

 

 ゼンゼ先生は、試験官として、あるいは研究者として、迷ってるみたいだ。

 

 が、()()()()()()()()()()()()。それは先生のお仕事。

 

 わたしは、ただの一介の助手にすぎない!

 

 だから――。わたしはダイブした。

 

 じゃらじゃらと鳴る、財宝の海に。

 

 シュピーゲルの背後には、金銀財宝が山と積まれていたのである。

 

「あひゃあああああぁぁあぁ。お金がたくさんあるー! 溺れる。溺れるぅぅぅ!」

 

 わたしは金貨の山に文字通りダイブし、手足をばたつかせながら黄金の海を泳いでいた。

 キラキラと輝く硬貨の感触。じゃらじゃらと鳴る心地よい音。

 そして何よりこの圧倒的な物量! 太陽がいっぱい! お星様がいっぱい!

 

 まさに至福。至福。至福の時!

 魔族でよかった! いや、人の子でよかった! もはやどっちでもいい!

 

「……アナリザンド」

 

 背後から、呆れを通り越して、もはや無に近いゼンゼ先生の声が聞こえる。

 

「はしたないぞ。それに、まだ完全に安全が確保されたわけではない」

 

「だって先生! 見てよこれ! すごいよ! わたしたち大金持ちだよ!」

 

 わたしは金貨を両手いっぱいにすくい上げ、キラキラと降り注がせながら先生にアピールする。

 

「それは協会の所有物になる。我々が勝手に持ち帰るわけにはいかない」

 

「えー! 半分こって約束じゃん!」

 

「そんな約束はしていない」

 

 先生はピシャリと言い放つ。ちぇっ、ケチ。

 

 わたしは仕方なく金貨の海から這い上がり、服についた砂金をパンパンと払い落とす。

 

「それで、先生。あの八面体のやつ、どうするの? 壊す?」

 

 わたしはシュピーゲル本体に視線を移す。

 それは静かに鎮座し、ただ太陽の広間の光を反射しているだけだ。

 

「……いや」先生は少し考えこんだ後、首を横に振った。「これは破壊すべきではないだろう。危険な魔物ではあるが、同時に神代の魔法技術の産物でもある。それに、一級魔法使いの試験として、自己と向き合うというテーマは有効だ。ゼーリエ様に報告し、厳重に管理・封印する方向で調整しよう」

 

 さすが先生。冷静な判断だ。

 まあ、わたしとしてはお宝さえ手に入ればどっちでもいいんだけど。

 

「先生、このでっかい宝箱は? 中身気にならない?」

 

 金銀財宝の山の奥、祭壇のような場所に、ひときわ豪華な装飾が施された宝箱が鎮座していた。さっきのミミックとは明らかに違う、本物のオーラを放っている!

 

「またミミックということはないだろうな?」

 

「だったら、キングミミックだね」

 

 先生は疑いの目を向けつつも、わたしと一緒に宝箱へと近づく。

 わたしは期待に胸を膨らませ、慎重に蓋を開けた。

 中に入っていたのは、箱がでかいわりには手のひらの収まるサイズの古びた羊皮紙の巻物だった。

 

「えー……これなに? 古代のチリ紙かなんか?」

 

 わたしはあからさまにガッカリした声を上げる。

 

「アナリザンド」

 

「うん」

 

 ゼンゼ先生が、巻物を受け取り、慎重に広げる。

 

 そこに書かれていたのは、やはり古代の魔法文字だった。先生の目が、巻物の内容を追うにつれて、驚きに見開かれていく。

 

「……これは……」先生の目が、輝きを増す。「……すごいぞ、アナリザンド! これは、失われたはずの古代魔法――おそらくは魂そのものに干渉する、あるいは高次元存在との交信に関する極めて高度な術式だ!  私の知らない理論体系がいくつも……!」

 

「へえ、すごいんだ」わたしは相槌を打った。

 

 オレオール先生に聞けば、教えてくれそうなことではあるけど。

 言わぬが花って言葉あるよね。

 たぶんだけど、先生は自分で到達したいタイプだろうし。

 

「すごいどころの話ではない!」

 

 先生は研究者としての興奮を隠しきれない様子で、巻物に見いっている。

 

「これは、人類の魔法史、いや、存在の理そのものを解き明かす鍵になるかもしれない! まさに至宝だ!」

 

 先生がそんなに喜ぶなら、まあいっか。わたしはお金のほうが好きだけど。

 先生の嬉しそうな顔を見ていると、わたしもなんだか嬉しくなってくる。

 

「さあ帰るぞ、アナリザンド! 一刻も早くこれを持ち帰り、解析を進めなければ!」

 

「はーい。先生、金貨ポケットに入れてもいい?」

 

「……少しだけなら、見なかったことにしよう」

 

「やった!」

 

 わたし達は、興奮冷めやらぬゼンゼ先生と、ポケットを金貨でパンパンにしたわたしという、いつも通りのコンビで、ダンジョンからの帰路についた。

 

 

 

 

 

 夜。ゼーリエ先生のいる謁見の間のドアの前。

 

 わたしは コンコン、と控えめなノックの音を響かせる。

 

「入れ」

 

 ゼーリエ先生の、いつも通りの少し気だるげな声に応え、わたしは謁見の間の重厚な扉をゆっくりと開いた。昼間とは違い、魔導灯の明かりだけが灯る室内は、どこか静謐で、そして少しだけ威圧的な空気を漂わせている。

 

 先生は玉座に座り、窓の外に広がる夜景――星々が瞬くオイサーストの街並み――を眺めていた。その横顔は、昼間の尊大な姿とは少し違い、どこか物憂げで、数万年という途方もない時間を生きてきた存在の孤独を垣間見せるかのようだった。

 

「ただいま先生。帰ってきたよ」

 

 わたしは、部屋の中央まで進み出て、声をかけた。

 先生は、ゆっくりとこちらに視線を向けた。

 

「ゼンゼからの報告は聞いた。なかなか、骨のあるダンジョンだったようだな」

 

「お墓だったみたいだけど、骨はなかったよ」

 

「そうか。まあ、よくやったと褒めておこう」

 

「大変だったんだよ。シャドーが強くて、危うくこの星が崩壊するところだったんだから」

 

「シャドーを倒したのは、おまえだそうだな。少しは腕をあげたか?」

 

「まあね」わたしはふんぞり返る勢いで胸を張る。「わたし、最強だった!」

 

「ゼンゼに助けられてだろう?」

 

「うん。ゼンゼ先生も強くてかっこよかったよ」

 

 わたしがドヤ顔で言うと、先生はフン、と鼻を鳴らした。

 

「それで、褒美の話だ」先生は本題に入る。「ゼンゼには、あの巻物の解析という仕事を与えた。あれはあの子にとっては何よりの褒美だろう。……さて、おまえには何をやろうか」

 

 きちゃ!

 ご褒美タイム。

 

「あのね、先生!」わたしは期待に目を輝かせる。「ダンジョンに、すっごいお宝がたくさんあったんだよ! 金貨とか銀貨とか宝石とか! あれ、半分こ――」

 

「却下だ」

 

「えー、先生のけちんぼ!」

 

「いや――、おまえに選ばせてやろう。あれらの宝を私が買い取ることにして、おまえの借金が減るのがいいか。それとも、私から何か魔法を一つ得るのがよいか」

 

 金か、魔法か。

 また、この選択。先生、わたしのこと試してるでしょ。

 

 わたしは少し考える。

 

 金貨――あのキラキラした輝き。じゃらじゃらという音。ポケットがずっしり重くなる幸福感。

 

 魅力的だ。すごく魅力的だ。魔族の本能が、金を掴めと囁いている。

 

 でも――。

 わたしは、予備室での出来事を思い出す。

 傷つき、弱さを見せたゼンゼ先生。

 先生の何年も続く眠れない夜の苦しみ。

 そして、わたしと交わした、あの温かい約束。

 からまった小指の感触。

 

「……先生」わたしは意を決して言う。「わたし、今回は魔法が欲しいかも」

 

「ほう……」ゼーリエ先生の口元に、興味深そうな笑みが浮かぶ。「金よりもか。おまえにしては珍しく欲のないことだな。それで、どんな魔法が望みだ? 前にも言ったが、借金を半分にするなんていう都合のいい魔法はないぞ」

 

「そんなのあるなら、真っ先にそれお願いするけど!」わたしは即座に反論する。「そうじゃなくて……えっとね……」

 

 わたしはゼーリエ先生の側まで近寄って、長いお耳に向けてコショコショ話をした。

 

「――――――――が欲しいな」

 

 わたしの言葉に、ゼーリエ先生は一瞬きょとんとし、それから――クツクツと、喉の奥で笑い始めた。それは、いつもの尊大な笑いではなく、もっと純粋な、面白いものを見つけた子どものような笑い声だった。

 

「はっはっは! そうか、そうきたか! あの沈黙主義者が、おまえに弱音を吐いたのだな?」

 

「もう! 先生はからかっちゃダメ! それであるの? ないの?」

 

「――――ある」

 

「じゃあ、ちょうだい」

 

「ああいいとも。私はケチな女ではない。まずは私で試してみるか?」

 

「丁重にお断りさせていただきます」

 

「生意気な弟子だ」

 

「だって、ゼンゼ先生のほうが先に約束しているからね」

 

「好きにしろ」

 

 ゼーリエ先生は、わたしに魔法を渡したあと、さっさと行けとばかりに手をふりふり、わたしを部屋から追い出したのでした。

 

 

 

 

 

 コンコン。

 

 わたしは、少しだけ緊張しながら、ゼンゼ先生の研究室の扉をノックした。

 夜も随分と更けている。先生はもう眠っているかもしれない。

 いや、あの様子だと、きっとまだ巻物の解読に没頭しているはずだ。

 

「……入れ」

 

 予想通り、中から静かだが、まだ覚醒している声が返ってきた。

 

 わたしはそっと扉を開ける。

 

 薄暗い室内には、机に向かうゼンゼ先生の後ろ姿があった。ランプの柔らかな光が先生の長い銀髪を照らしている。

 

「アナリザンド、君か」

 

「先生、まだ起きてたんだ。徹夜はダメだよ」

 

「君こそ、もう寝る時間じゃないか? 子どもは早く寝るものだぞ」

 

「わたしはレディだって言ってるでしょ!」

 

 ムッスゥ顔をしてみせる。もう何度も繰り返したプロトコル。

 

「先生に用事があって来たんだよ」

 

「用事? 明日ではダメなのか?」

 

「うん、今じゃなきゃダメなの」

 

 わたしは先生の近くまで歩み寄ると、腕にすがりつくように見上げた。

 

「先生、覚えてる? あの時の、約束」

 

 先生の目が、わずかに見開かれた。

 そして、すぐに理解したように、ふっと息をつきペンを置いた。

 

「君はずいぶん律儀なんだな」

 

「約束は、守らなくちゃ意味がないから」

 

 わたしは、覚えたての魔法を、心をこめて唱え始めた。

 ゼーリエ先生から教わった、安らかな眠りをもたらす魔法。

 

――抱き枕になる魔法。

 

 わたしの身体が、温かい黄金色の光に――いや、今度はもっと柔らかで、穏やかな、月光のような銀色の光に包まれる。それはきっと、わたし自身の想いの色。

 

 わたしの身体はぬいぐるみみたいに柔らかな感触になり、先生が仮眠しているベッドの上に、そっと置かれる。

 

 身体は動かせない。枕が動いちゃ台無しだから。

 

 先生、はやく来て。ふわふわザンドだよ。

 

「君は――、本当に……」

 

 ゼンゼ先生は、その抱き枕を、しばらくの間、ただじっと見つめていた。

 その表情は読み取れない。何を考えているのだろう。

 やっぱり、馬鹿げたことだと思っているのだろうか。

 

――わたしが少し不安になりかけた、その時。

 

 先生はゆっくりとベッドに近づき、そしておそるおそる、わたしに手を伸ばした。

 

 触れた指先は、少しだけ冷たい。研究に没頭していたからだろうか。

 でも、その冷たさすら、わたしには心地よく感じられた。

 

 先生は、わたしをそっと持ち上げると、ベッドに腰を下ろし、そして――ぎゅっと、優しく抱きしめた。

 

 温かい。

 

 先生の体温と、規則正しい少しだけ早い鼓動が伝わってくる。

 わたしは、ただ、その温もりに身を委ねた。

 

 先生の匂い。古い紙と、インクと、そしてどこか落ち着く、先生自身の匂い。

 先生の呼吸が、次第に穏やかになっていくのがわかる。

 抱きしめる腕の力が、少しずつ緩んでいく。

 もう言葉はいらなかった。

 

――満月が窓から優しく二人を照らしている。

 

 ゼンゼは安らかに眠った。幼子に抱かれ幼子のように。

 

 

 

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