魔族少女のエロタナティブ   作:アナリザンド

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デンケン

 

 

 

「――()()、だ」

 

 ゼーリエの言葉が、デンケンの心を穿った。

 

 その言葉は帝国という大陸の覇権者となりうる大国の掲げた、大義も威信も歴史も文化も粉々に打ち砕くものだった。

 

 ゼーリエの威圧は、もはや絶対の真理を告げる荒ぶる神のように、この場を支配している。

 

 ゼーリエにとっては、帝国ごとき()()がどう動こうがどうでもよかったのである。

 

 ましてや、言葉をラッピングし、大義という欺瞞を掲げる詐欺師の集団など、毛ほども気にしない。興味がない。時の試練にすら耐えられないだろうと思っている。そんなものよりも、魔族の少女の泣き顔のほうがよほど興味が湧く。

 

 それは、言葉にはされなかったが――。

 

 デンケンはわずかに視線を下に向ける。叱られた子どものように。

 

「寄生、か。確かに、今の帝国は、貴女のその絶対的な視点から見れば、そう断じられても致し方あるまい。力及ばず、他者の助けを乞う様は、見苦しいことこの上ないだろう」

 

「ならば帰れ。お使いがうまくできませんでしたとでも言うんだな。老いぼれの失敗のひとつやふたつ、寛大なる皇帝陛下であれば赦してくださるだろう」

 

 デンケンは、強く拳を握り締めている。老練な宮廷魔法使いの仮面はとうに剥がれ落ち、その下から現れたのは、長年抱えてきたであろう焦燥と、そして今まさに打ち砕かれようとしている希望に対する、悲痛なまでの執着だった。

 

――アナリザンドには、魂の輝きが視える。

 

 デンケンの魂が悲鳴をあげているようだ。

 

 デンケンの政治生命はまさに尽きかけようとしている。

 

 ここに居合わせれば、誰もが、デンケンはこれで万策尽きたと思っただろう。これ以上の言葉があるはずがない、と。無数の声をアドバイザーとして抱くアナリザンドでさえ、もうデンケンお爺ちゃんは何も言い返せないのではないかと、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。

 

 先生が勝つのは、嬉しくないわけではない。

 でも、デンケンのことも好きだった。ドーナツをくれたわけだし。

 無償でおごってくれる人は誰でも好きな、ちょろザンドなわけだし。

 次もおごってくれると約束してくれたのだ。

 

 しかし、デンケンはこれで終わるような男ではなかった。

 深海から顔を出す魚のように顔をあげ、ゼーリエを睨みつけている。

 

――まだ、燃え尽きてはいない!

 

 既に動揺は心のうちに収め、むしろ燃え尽きる寸前の蝋燭が最後に放つような、激しくも儚い光が宿っていた。

 

 デンケンは、どこか儀式的な厳粛さをもって懐を探り、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。それは丁寧に折り畳まれ、紙とインクの朽ちた匂いと共に、長い年月と、そして誰かの強い想いが染みついているかのような気配を漂わせていた。

 

――スクロール?

 

 アナリザンドが緊張する。なんらかの魔法を速射する道具であれば、本当の戦闘が始まるかもしれない。しかし、ゼーリエは歯牙にもかけなかった。

 

 再び、おもしろそうに目を細めた。

 

「なんだそれは?」

 

「ゼーリエよ。儂も、帝国も、ただ無為におぬしの慈悲にすがりつこうとしているわけではない。我々には、我々なりの()()と、そして、()()()使()()()()()()が夢見た、ささやかながらも偉大なる魔法。()()がある」

 

「未来だと?」

 

 デンケンがフランメの名を出した瞬間。場の空気が変わった。ゼーリエのエルフらしい虚無の表情に亀裂が走ったかに見えた。動揺ではない。感情に揺らぎが生じたわけではない。だが、顔という水面に映る表情には、先ほどまでとは異なる、なにかしらが存在している。

 

「これは我が帝国が、ある特別な経緯を経て密かに受け継いできた、フランメが遺したとされる書簡の一部にあたる。真贋については儂にも断言はできん。あるいは、歴史の悪戯か、誰かの巧妙な創作かもしれん。だが、そこに記された言葉には、フランメ本人の魂が宿っていると、儂はそう信じている。これは貴女に宛てられたフランメの()()だ」

 

「フランメが?」アナリザンドが口をはさんだ。気づいて慌てて手で塞ぐ。お口にチャックは続いている。

 

 フランメがゼーリエの弟子の中で特別な立ち位置にいるのは誰もが知っている事実だろう。大魔法使いゼーリエの部屋におけるファーストリンクは、フランメに捧げられている。フランメがどのような人物だったか、ゼーリエとどのような交流をおこなってきたかまでは、わずかに口伝を残すのみとなってしまい、ゼーリエ本人も記してはいないが、ゼーリエにとってフランメが千年経っても忘れられない存在であることは間違いなかった。

 

 これが――デンケンの秘策。あるいは隠し玉。

 政治にはいくつもの道筋をつけておくべきものと、デンケンは言っていた。

 アナリザンドは、ようやくその輪郭を捉えつつあった。

 

 デンケンがフランメの手紙を、うやうやしくゼーリエに差し出そうとする。

 が、ゼーリエは受け取ろうとしない。代わりにやったのは弟子を活用すること。

 

「アナリザンド。代わりに読め」

 

「え、わたし? いいけど。先生が自分で読んだら? せっかくのフランメのお手紙なんだし」

 

「私はこの場では政治的権威の立ち位置にいる。手紙を自ら読んだりはしない」

 

「なるほど、わたしは使者なんだ。わかったよ」

 

 アナリザンドはクッションから、うんしょと立ち上がり、そのままデンケンからフランメの手紙を受け取った。見てみると、デンケンの手がわずかに震えていた。

 

 顔の表情は変わらずとも、この緊張感は命の綱渡りをしているようなもの。必死に隠していたのだ。もちろん、ゼーリエは気づいているだろう。アナリザンドは多くは語らず、微笑みでもって答える。

 

「じゃあ、読むね」

 

 

 

 

 

師匠(せんせい)、お元気ですか。師匠がこの手紙を読んでいるということは、もうずいぶんと時間が経って、師匠は私のことなんて忘れちゃってるかもしれないね。不出来な弟子であることは自覚しているつもりさ。私は先生を越えられなかったからね』

 

 どこか蓮っ葉な印象。

 アナリザンドは、フランメのキャラ造詣を言葉から読み取ってインストールする。

 ちょっと明け透けな、でも知的な女性。

 

『師匠が教えてくれた魔法は、やっぱりすごかったよ。おかげで、まあ、なんとかここまでやってこれた。魔族もいっぱいぶっ殺せた。私が魔法を教えたフリーレンはいったいどこで何をしてるのやら。あの子は人形みたいに感情が薄いからね。気がけてないとどこかに飛んで行っちまいそうだ。師匠もたまには気にかけてやってほしい。あの子も、なんだかんだ言って師匠と同じで寂しがり屋だからさ』

 

「フン……」

 

『私が生涯をかけて創りあげた魔法たちが、この先、どんな未来を紡いでいくのか、本当は自分の目で見届けたいけど、それはどうやら叶わない夢みたいだ。老いっていうのは残酷だね。でもね師匠。私の魔法たちが、いつかこの国を、人々を強くして豊かにする。私はそう信じているんだ』

 

 この手紙は老齢のフランメが書いたものだった。つまり、遺言書だったのだ。

 

『もちろん、師匠の足元にも及ばない、ちっぽけな力かもしれない。きっと、千年経っても、二千年経っても、師匠の魔法には敵わないんだろうねえ。それはわかってる。それなりに生きてきたから現実ってものは理解してるつもりさ。師匠にとってみれば、小娘の戯言なんだろうけどね』

 

 アナリザンドの声が、少しだけ詰まった。

 筆致にわずかな乱れがあったようだ。

 

『でもね師匠。いつかきっと、人間たちは師匠を超える日が来るよ。私ひとりの力じゃ、到底届かなかったけれど、私の遺した魔法が、そしてこれから生まれるたくさんの魔法使いたちが、手を取り合って、積み重ねていけば、きっと』

 

「……」

 

『師匠は、そんなのくだらないって、いつものように笑うかもしれないけどね。でも、私は本気でそう信じているんだ。人間って、そういう馬鹿みたいに真っ直ぐなところがある生き物だからさ。そのくだらなさが、いつか師匠を打ち負かすよ。楽しみに待ってなよ師匠。私が遺した最後のプレゼントなんだからさ。人間の世界が花開くのを、ワクワクしながら待っててほしい』

 

 フランメはゼーリエを孤独にさせたくなかったのだろう。

 孤高の存在であるゼーリエに並び立ちたかったのだろう。

 けれど、人は死ぬ。寿命という超えられない壁がある。

 だから、遺す。

 

『ああ、なんだか色々書いちまったな。柄にもなく感傷的になっちゃったみたいだ。追伸。この手紙、もし師匠が読んでくれたなら、読み終わったあと、すぐに燃やしてくれると嬉しい。こんな気恥ずかしいこと、誰にも見られたくないからさ。じゃあね師匠。また、いつかどこかで』

 

 アナリザンドは、最後の言葉を読み終えると、そっと手紙から顔を上げた。

 この言葉には陽だまりのような優しさと、小娘のような挑戦が含まれている。

 まさしくフランメの魂のメッセージといえるものだった。

 

 ゼーリエがどう思ったかはわからない。

 偽物だと感じたか。あるいは、もしかしてと思ったのか。

 

 デンケンが帝国の宝物庫から引っ張り出してきたのであれば、信憑性は高くはあるが、そもそもデンケンたちが生きる今という時代と、フランメが生きてきた時代は千年もの時の断絶がある。

 

 デンケンには知りようがないことなのである。

 

 それでも――、魂の繋がりは視える。人間は死者と接続されている。

 だから、デンケンは信じたのだ。

 

 ゼーリエは沈黙している。沈黙を破ったのは、やはりデンケンだった。

 最後の力をこめて、渾身の一撃をエルフの心に届かせる。

 

「ゼーリエよ。これが、おぬしの弟子御であり、わしら帝国の民の魔法の師ともいえるフランメの遺志だ。我等はフランメの遺志を受け継ぐ正統なる民である」

 

 ゼーリエはゆっくりと顔をあげた。

 嘲笑でも愚弄でもない。ただ、静かな、どうとでも解釈しうる深淵の表情をしている。

 

「それがどうした? その古びた紙切れが、お前の言う()()の免罪符になるとでも?」

 

「免罪符? 違うな。これは権利書である」

 

「どういう理屈だ?」

 

「大魔法使いフランメは貴女の弟子だった。その弟子は、師である貴女に並び立たんとし、そして超えようとした。貴女は千年の長きにわたり、それを黙認し、ついには大陸魔法協会を立ち上げ、追認するに至った」

 

「ただの気まぐれだ」

 

「フランメは、貴女に人間の可能性を信じろと、そう言っておるではないか! 帝国が、人間たちが、いつか貴女を超えるかもしれないという、馬鹿げた未来を! それを、貴女は、貴女自身の手で、今、殺してしまわれるのか?」

 

「私の手によるものではない。弱ければ滅びる。それだけのことだ」

 

「ゼーリエよ。おぬしは先ほど、儂に力を示せと言ったな。確かに、今の帝国に、貴女と対等に渡り合えるだけの力はないのかもしれん。だが、力とは何か? 魔法の強大さだけが力なのか? 未来を信じ、困難に立ち向かおうとする意志、それもまた力ではないのか! 人間の大魔法使いフランメが信じた、人間の馬鹿みたいに真っ直ぐな力を、貴女は認めぬと!」

 

「聞かん坊め。私は最初から言っている。認める認めないではない。必然として、弱きは滅びる。絶滅する。それが自然の理だ。私は滅びに干渉しているわけではない。たとえ亡国という事象が生じたとしても、それはおまえたちの内的な機構がそうさせているだけだ」

 

「師であれば弟子の成長を見守るのが筋であろう!」

 

 デンケンの言葉はもはや交渉という域を逸脱している。

 魂からの叫びだった。自分そのものをぶつけるような、熱く燃え盛るような情熱。

 

「寄生。たいへん結構である。延命措置。たいへん上等である。それでも我々は生き足掻く。フランメの遺志を受け継ぎ、いつか貴女と肩を並べるために、我等は足掻き続ける。それが人間というものだ。ゼーリエよ」

 

「素晴らしい演説だな、デンケン。おまえには政治家の才があるようだ」

 

「ゼーリエよ、儂らはまだ弱い。巨大な力の前にはなすすべもなく滅び去ってしまうだろう。だが、弟子の危険を見過ごすとなれば、それはもはや()()()()()を摘み取ることにほかならん」

 

――だから。

 

 と、デンケンは先ほどの熱さを抑えて、しおらしい声を出した。

 

「わずかばかりの慈悲をいただけないだろうか。人間の名代として、このとおりだ。頼む」

 

 デンケンは頭を深く下げた。

 

 なんて多面的なんだろう。

 人間の政治家はまるで万華鏡のようにくるくると色合いを変えていく。

 アナリザンドは、初めてといってもいい政治の踊り場を観察し、静かに感動していた。

 

 けれど。

 

――ゼーリエは動かない。

 

 ゼーリエにとって、人間の政治というのは見慣れた風景であり、デンケンの言葉も、児戯に等しいのかもしれない。けれど、それでも一筋の光があるとするならば、ゼーリエが弟子をかわいがるという心性を持っていることだろう。

 

「可能性か……」ゼーリエは呟く。「いいだろう。デンケン。おまえたち人間の可能性とやらを試してやろう」

 

 ゼーリエはおもむろに立ち上がった。

 そのまま、なんの構えもなく、ただ自然体で、そこにあるかのように立っている。

 

「試す?」

 

「おまえが考える、私に最もダメージを与えられる魔法を撃ってみろ。人間がどれほど、フランメの師であったこの私、大魔法使いゼーリエに追いついたか、見定めてやろう」

 

 ゼーリエの言葉は、玉座の間に絶対的な命令として響き渡った。

 

 それは、もはや交渉の余地も、逃走の選択肢も許さない、最終通告にも似ていた。

 

 アナリザンドは、息を詰めてデンケンを見つめる。彼女の小さな手は、無意識のうちに強く握りしめられていた。人間に肩入れしているアナリザンドにとっては、デンケンが負ける姿は想像したくない。けれど、ゼーリエが傷つく姿も見たくない。

 

――直視できないほどの緊張感。

 

 けれど、当事者のデンケンは静かだった。

 

 デンケンは、ゆっくりと下げていた頭を上げた。その表情には、もはや懇願の色も、熱弁を振るっていた時の激情もない。

 

 ただ、底なしの覚悟。そして、矮躯からあふれ出そうなほどの()()

 長年魔法を探求してきた者だけが持つ、研ぎ澄まされた集中力が宿っていた。

 

 彼は、ゼーリエのその真意を正確に理解したのだろう。これは、単なる力の誇示ではない。彼の、そして人間という種の()()()そのものを問う、厳粛な試練なのだ。

 

 玉座の間の空気は、まるで極限まで圧縮されたかのように重く、張り詰めている。

 

 デンケンは、ゼーリエの言葉に何も答えず、ストレージから杖を出現させ、ただ静かに魔力を練り始めた。その老いた体から放たれる魔力は、ゼーリエのそれと比べれば確かに小さい。しかし、それは長年かけて磨き上げられた、一点の曇りもない決意の輝きを放っていた。

 

(魂の力で、魔力を圧縮している……?)

 

 デンケンは、一瞬だけ目を閉じ、そして再び開いた。そのモノクルの奥の瞳は、ゼーリエの深淵のような瞳を真っ直ぐに見据えている。彼の脳裏には、おそらく幾千もの魔法が去来したことだろう。しかし、彼が選んだのは――。

 

 次の瞬間、デンケンの杖先から、二条の閃光が迸った。

 

 それは、一般攻撃魔法(ゾルトラーク)。かつてひとりの魔族よりもたらされ、いまや魔族を葬るために編み出された、人間にとって最も基本的な攻撃魔法の一つ。

 

 しかし、デンケンが放ったそれは、アナリザンドが識るどのゾルトラークとも異なっていた。それは、まるで二股のヘビのように分かたれ、恐るべきスピードで突き進んだ。

 

 一条は、ゼーリエへ。

 そして、もう一条は、事態の推移を静かに見守っていたアナリザンドへと。

 

「えっ!?」

 

 アナリザンドは、自分に向かってくる白い閃光に思考が停止した。

 

 なぜ? どうして自分に? ホワァイ?

 

 混乱と恐怖が彼女を襲い、その小さな体は、まるで金縛りにあったかのように動けない。ただ、迫りくる光を、見開いたまんまるおめめで見つめることしかできなかった。

 

 いまのアナリザンドの魔法力は60程度。

 当たれば消し飛ぶ程度の魔力しか身にまとっていない。

 

 死ぬ。消える。むなしくなる。

 アナリザンドの冒険は終わってしまう。

 

(この世界って、もしかしてキレ散らかしたお爺ちゃんしかいないのぉぉぉ!?)

 

 デンケンの意図は、常人には測りかねるものだったのかもしれない。

 魔法使いの風上にもおけない卑怯な一撃。奇しくもそれはフランメに似た軌道を描く。

 

 フランメは魔族を殺すために、最も卑怯な戦い方を好んだとされる。

 

 魔族にはほとんど効かないかもしれないが、人間の論理に従えば、弟子を庇うのは師としての自然な感情だろう。あるいはゼーリエによるアナリザンドの保護を強制することで、ゼーリエの完璧な防御にわずかな隙を生じさせることができるかもしれない。

 

 そんな思考。

 あまりにも大胆不敵な、そして非情な計算があった。

 

 帝国の魔法史の中に刻まれた、それは、デンケンの無意識として駆動した。

 デンケンもまた、フランメの魔法を受け継いだひとりだったのである。

 

――すがすがしいまでに卑怯に、無慈悲に、ゼーリエに攻撃を加えた!

 

 刹那の時間が、永遠のように引き伸ばされる。

 

 だが――()()()()

 

 魔法の頂きにあるエルフには、人間の智慧の限りを尽くしてもなお届かない。

 

 ゼーリエは、哂っていた。

 

 その表情には、驚きも、怒りも、焦りもない。ただ、まるでおもしろい玩具を見つけた子どものような、あるいは、全てを見通していたかのような、絶対的な余裕を湛えた笑みだった。

 

「小賢しい真似を」

 

 ゼーリエは、微動だにしない。

 ただ、その右指が、まるで蝶が舞うかのように、くるくると、ほんのわずかに動いた。

 

 次の瞬間、アナリザンドの目の前に、見えない壁が出現したかのように、ゾルトラークの閃光が霧散した。まるで、最初からそこには何もなかったかのように消え失せた。

 

 魔法を殺す魔法の応用だろうか。一瞬だったのでアナリザンドにはよくわからない。だが、ほっと安堵したのもつかの間。

 

 ゼーリエの無事を確かめるために視線をずらす。

 

 結果は刹那の後もたらされる。予想通り。あるいはデンケンにとっては悪夢のように。

 

 ゼーリエ自身に向かっていたもう一条のゾルトラークもまた、彼女に届く数寸手前で、まるでガラス細工が砕け散るかのように音もなく消滅した。

 

(魔法式を解体しているんだ……。殺すよりよほどスマートで、すごい)

 

 二つの強力な一撃は、ゼーリエの腕一本動かすことすらなく、そこから一歩も動くことすらなく、完全に無力化されたのだ。

 

 玉座の間には、再び静寂が戻る。

 

 ただ、デンケンの荒い息遣いと、アナリザンドの早鐘のような心臓の音だけが、その静寂の中で微かに響いていた。「し、死んじゃうところだった」と声が漏れるのはいたしかたないところだろう。尿漏れしなかっただけマシである。

 

 デンケンは、目を見開いたまま、ゼーリエを見つめていた。

 その表情には深い絶望の色が浮かんでいた。

 

 彼が練りに練ったであろう一撃は、赤子の手をひねるように、いなされてしまったのだ。

 

「万策尽きた、か……」

 

 デンケンは、そう呟くのがやっとだった。

 

 

 

 

 

 玉座の間を、再び静寂が包んでいる。

 

 そこには、荒い息遣いの死に体の魔法使いがひとり。そして、場違いなぷるぷる魔族が一匹。

 アナリザンドは、先ほどの恐怖体験のせいか、まだ少し足が震えていたが、それ以上に、目の前の光景から目が離せなかった。

 

 ゼーリエは、先ほどの激しい魔法の応酬などなかったかのように、顔色一つ変えず、玉座へと戻ろうとしていた。その背中からは、既にデンケンへの興味が完全に失せているのが見て取れる。

 

 戦いが終わり、ゼーリエにとってデンケンはもはや処理済みの案件でしかないのだろう。

 いわゆる賢者タイムというやつである。事後の相手など、もはや路傍の石と同じ。

 

 だが、せめてもの慈悲に言葉をかける。事後のピロートークのように。

 あるいは、あとわずかは楽しめるか確認するかのように。

 

「どうした。終わりか?」

 

 もちろん、甘い言葉ではない。

 それが、ゼーリエのゼーリエたる由縁。

 

「……」

 

 デンケンからの反応はない。

 

「もはや興味も失せた。不合格だ。帰れ!」

 

 追い打ちをかけるような冷たい宣告。

 人間の努力など、すべては絶対的な力の前にねじ伏せられる。

 

「……」

 

「言葉も聞けぬ子どもか? 使者殿。お帰り願おうか」

 

 ゼーリエは、もはやデンケンの方を見ようともしない。

 その声には、わずかな苛立ちすら含まれているようだった。

 

 万策尽きた。希望は潰えた。

 帝国の未来も、そして、彼自身の個人的な願いも――。

 

 デンケンの肩が、がっくりと落ちた。その姿は、先ほどまでの老練な宮廷魔法使いの威厳など微塵も感じさせず、ただの打ちひしがれた老いぼれでしかなかった。

 

 燃えカスすら残らず、ただの灰に。

 死ねば何も残らない。煙になって消え失せる。

 

「デンケンお爺ちゃん……」

 

 声が聞こえる。

 

 その時、デンケンは、ふと、玉座の脇で固唾を飲んで自分を見つめているアナリザンドに気づいた。その小さな魔族の、心配そうに揺れる赤い瞳。ドーナツを美味しそうに頬張っていた無邪気な笑顔。まるで祖父に無上の信頼を寄せる孫のような視線。

 

(因果なものだな……)

 

 ほんの少し因果が違えば、彼にも孫と呼べる存在がいたかもしれない。

 そう、アナリザンドのような。

 

 何かが、デンケンの心の奥底で、最後の火花を散らした。

 

 プライドも、体面も、帝国の使者としての立場も、もはやどうでもよかった。ただ、このままでは終われない。終わらせたくない。ただひとりの男として。醜くても、汚くても、はいずり回っててでも……! それでも!

 

 ()は!

 

「アナリザンドよ。おぬしには儂がこたびの面会に来た()()()()()を教えておらんかったな」

 

 静かな声だった。

 

 アナリザンドは、ふと小首を傾げた。

 この経緯で、突然、自分に話しかけれる不思議さ。不可解さ。

 しかし、デンケンの声は震え、かすれており、これ以上なく弱々しい。

 

「儂はな。ただ、妻に逢いたかった……」

 

「どういうこと?」

 

「儂はな。孫にドーナツを買い与えるような好々爺などではない。むしろ、薄情極まりない男なのだよ。若い頃に妻が亡くなってから、もう何十年になるか。一度も、その墓に花を手向けたことすらない。ただひたすら政争に明け暮れ、権力という虚しいものを追い求めるのに必死だった。本当に不出来な夫だったのだ」

 

 ぽつりぽつりと語りだす。

 デンケンの言葉は自嘲に塗れていた。

 

「黄金郷のマハトは知っているだろう?」

 

「マハト。最後の七崩賢」アナリザンドは淀みなく答える。

 

 表層的なデータの提示はお手の物だ。

 だが、そこに隠されたメタデータを読み解く能力はない。

 デンケンはマハトに憎しみともつかない複雑な感情を抱えている。

 

「そうだ。彼の魔法はすべてを黄金にかえてしまう。ほんの少し前にな、旧友が教えてくれたよ。儂の故郷もついに黄金郷にのみこまれてしまったらしい」

 

「確か、ゼーリエ先生たちが結界を張って、マハトを閉じこめているんだよね?」

 

「あくまでマハト自身をな。黄金郷の浸食は停まっておらん」

 

「デンケンお爺ちゃんは故郷に帰りたくなったの? 奥さんに逢いに。それともマハトを倒して故郷を取り戻したかった、とか?」

 

「そうではない……。いつか帰ろう。いつか帰ろう。儂はずっとそう思っていた。思っていただけだった。職責や立場を理由に、儂は一度も故郷に足を踏み入れることはなかった。結局のところ、儂は恐れていたのかもしれんな。妻との幸せな時間すら思い出すことを」

 

「でも、逢いたいんだよね?」

 

「儂が重い腰をあげたのは、もはや後がないからだ。一目見れば諦めきれる、そう思ってここまで来た。それもまた、この長年の罪悪感と後悔に、一つの区切りをつけたいという身勝手な願いなのかもしれん。一目、その黄金の墓標を見れば、ようやく諦めきれるのかもしれんとな」

 

 デンケンには葛藤がある。

 残されたわずかな時間で、なにがなしえるのか。

 あるいはすべてを諦めて静かに余生を暮らすのが賢い生き方なのではないか。

 

 だが―――、デンケンは来た。

 ここに、使者として、あるいはデンケンとして、あらゆる手を尽くして政治的目標を達成しようとしている。それはまぎれもない真実である。

 

「お爺ちゃんはどうしたいの? はっきり言って! そうすれば助けてあげられるかも」

 

「まずは謝罪をさせてくれ。儂の個人的で醜い欲望で、おぬしの気持ちを踏みにじってしまった。申しわけなかった。すまない」

 

「いいよ。わたしは大丈夫だから」

 

 耐久度に自信ありザンドなのである。

 

「ゼーリエ殿もすまなかった。すべては儂の責任だ」

 

「フン、ようやくか。正直、理解ができんな。おまえたち人間は短い時を生きるのに、どうしてそう迂遠な道をとる」と、ゼーリエはつまらなさそうに言った。

 

 ゼーリエは最初からわかっていたのである。

 デンケンの裏の目的が墓参りにあること。そのために結界の通行権を得ること。

 

「儂が常に最悪を考えて行動するからだろう。自信がないのだ」

 

「おまえはAP共栄圏なるものを奇貨として、上手く話が転べば、大陸魔法協会への移籍も考えていた。違うか?」

 

「違わん。宮廷魔法使いという地位は、大陸魔法協会にとってもある程度は有効であるはずだと踏んでいた。儂は、この老いぼれの首をゼーリエ殿に捧げ、その代わりに大陸魔法協会での地位と、ある種の融通を求めようとしていたのだ。アナリザンドよ。どうだ。儂は薄汚い卑怯者だろう」

 

 最後には、アナリザンドを見つめ、デンケンは自嘲するように言った。

 

「うーん。むしろ政治力99って感じかな。キレイだと思うよ」

 

 アナリザンドはデンケンを否定できない。生き汚いとデンケンは言うが、そもそも生きるにキレイもキタナイもないと思う。むしろ不退転の決意ともいえるものが、デンケンの魂を輝かせているように視える。

 

「すべては、ゼーリエ殿に看破されてしまっていたがな……」

 

「それでおまえはどうするつもりだ。あらいざらいぶちまけて、すごすごと引退するつもりか?」

 

 ゼーリエが最後にチャンスともとれる問いかけをした。

 このエルフは、基本的に人間に甘いのである。少なくとも燃え盛るような強さを持った人間には、エルフ流の慈悲をかける。

 

 最後の一撃を試してみる価値はある。

 

「アナリザンドよ。儂の最後の願いを聞いてくれるか」

 

「もちろん」

 

「儂の願いはただひとつ。儂を妻の墓前に連れていってくれ」

 

「いいよ。お爺ちゃんの願いを叶えてあげる。ドーナツをくれたお礼ね」

 

 応答し、承認する。

 ここに、アナリザンドはデンケンの使者となった。

 

「フン……勝手にしろ。言っておくが、私は赦すつもりはないぞ。もう試しは終わっている。試験は不合格。温情で合格通知を与えるとでも思ったか。舐められたものだ。私は、そのような甘ったるい言葉に心を動かされるような乙女ではない」

 

 ゼーリエは玉座に座り、つまらない演目を眺めるように、しらけた視線を向けた。

 だが、アナリザンドはひるまない。

 政治や経済はわからなくても、こころの力動にはそれなりに詳しい。

 

「わたしは、デンケンお爺ちゃんの最後の魔法だよ。覚悟して受け止めてね」

 

「やってみるがいい」

 

 ゼーリエの言葉は、静かな玉座の間に挑発的に響いた。その瞳には、確かに面白がるような光が宿っており、アナリザンドの言う「最後の魔法」とやらが一体何なのか、試すような、あるいは見極めるような色合いが浮かんでいる。

 

 彼女は、玉座に深く腰掛けたまま、アナリザンドの次の行動を見守っていた。

 

 デンケンもまた、そのやり取りを固唾を飲んで見守っていた。孫のようなかよわき存在にすべてを託した情けなさと、万に一つの奇跡を期待する気持ちがない交ぜになっていた。

 

――期待感はある。

 

 この魔族がなしえてきた奇跡とも呼べる魔法の数々。

 アナリザンドを望む多くの人々の声。

 

 アナリザンドには人間の想いが仮託されている。

 だからこそ、この偉大なる大魔法使いゼーリエを、降せるわずかながらの可能性がある。

 

 アナリザンドは、ゼーリエの挑戦的な視線を真っ直ぐに受け止めた。そして、一度だけ、ぎゅっと目を瞑り、小さく息を吸い込んだ。彼女の小さな体から、ふわりと、これまでとは質の異なる、どこか懐かしくて温かい魔力が溢れ出し始める。

 

(大丈夫。わたしは、人間の使者になった経験もあるんだから!)

 

 アナリザンドは、心の中でそう自分に言い聞かせると、カッと目を見開いた。

 

「いくよ、先生! わたしの、とっておきの魔法!」

 

 アナリザンドはそう宣言すると、ゼーリエに向かってダッシュする。

 

 特別な呪文も、複雑な魔法陣もない。ただ、彼女の全身から放たれる魔力が、一気にその濃度を高めていく。それは、攻撃的なものではなく、かといって防御的なものでもない。もっと根源的で、そして、どこか拍子抜けするほどに、柔らかく、優しい魔力だった。

 

 既にふたりもの人間を篭絡せしめた伝説級の魔法。

 

――抱き枕になる魔法。

 

 次の瞬間、アナリザンドの体が、ふわりと淡い光に包まれた。

 光は一瞬だけ強く輝き、そして収束していく。

 

 デンケンが、そしてゼーリエでさえも、一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 アナリザンドが立っていた場所には、もう彼女の姿はなかった。

 代わりに、ぽすん、と軽い音を立てて、何かがゼーリエのお膝もとに落ちた。

 

 それは、アナリザンドの姿をデフォルメしたような、手触りの良さそうな生地で作られた、大きなぬいぐるみだった。アナリザンドの特徴的な赤い瞳や、ちっちゃな角まで忠実に再現されており、どこか眠たそうな、安心しきったような表情を浮かべている。大きさは、大人が抱きしめるのにちょうど良いくらいだろうか。

 

――通称『アナぬい』。

 

 これこそが、アナリザンドの抱き枕になる魔法の真の姿である。ゼーリエにはまだ一度もやったことのない魔法をゼーリエに浴びせることによって、最大限の譲歩を引き出そうとする魔族の類まれなる奸計であった。

 

「なん……だと?」

 

 ゼーリエは、そのあまりにも予想外の光景に、さすがに眉をひそめ、わずかに目を見開いた。彼女の長い魔法使い人生の中でも、これほどまでに理解不能で、そして、ある意味で馬鹿馬鹿しい魔法は、見たことがなかった。なにしろ、ゼーリエはその魔法をアナリザンドに与えてしまったので、どういう効果でどういうふうにアレンジできるかは既に忘れてしまっている。

 

「ありえん。この私が……」

 

 指先がそっと、アナぬいに触れる。触れてしまう。

 

 その感触は、驚くほどに柔らかく、そして温かかった。

 まるで、陽だまりの中で、ふわふわの毛布に包まれているかのような。

 

 そして、「アナぬい」の体からは、先ほどアナリザンドが発していた、あの甘くて優しい、心を無条件に弛緩させるような魔力が、さらに強く溢れ出してきた。

 

 アナぬいは一言も発しない。

 ぬいぐるみが喋ったら台無しだからである。アナリザンドにも美学がある。

 ただそのキュートさでもって、敵を降す。降らない敵など存在しない。

 そう、自負している。

 

「……くだらない魔法だ。そうは思わんか。デンケン」

 

 アナぬいを撫で繰り回しながら、ゼーリエがデンケンに同意を求めた。

 

「う、む……」

 

 肯定も否定も極めてしにくい奇妙なる光景。

 

 いったい誰が帝国の行く末を決める、この土壇場になって、万年エルフがぬいぐるみふぜいに心動かされている事態を想像できただろう。

 

 アナぬいは期待をこめた眼差しで、ただゼーリエを見ている。

 

――助けてあげて先生。

 

 と、言っている。フランメの声も重なって聞こえた。

 

「おまえの最後の魔法とやらは、確かに私に届いたな……。()()()()と評しておこう。誇るがいい。おまえはここ数百年で私に最もダメージを与えた人間ということになる」

 

「どういう意味だ?」

 

「勘違いするなよ。手放しで合格をやるとは言ってない。いわゆる補習というやつだ」

 

「それはいったい……?」

 

「デンケン。貴様。一級魔法使いの試験を受けろ」

 

 ゼーリエはアナぬいの頭を撫でながら、どこか無表情で述べる。

 

「もとより、そのつもりではあったが……」

 

「おまえもこの程度で終わりの男ではないはずだ。もっと私を驚かせてみせろと言っている。私に一撃を加えたという一件のみで、お前の願いを全て聞き入れ、ましてや帝国の提案を全面的に承認するなどということはあり得ん。それは、おまえほどの男であれば理解していよう」

 

「無論。承知しておる」

 

「今回は、この馬鹿弟子がくだらない魔法で、おまえを手助けしたという面も大きい。妻への墓参りぐらい手をひかれずともひとりでやれ、と言っている」

 

「理解した。そうさせてもらおう」

 

 デンケンは、回答は得たとばかりに玉座の間を後にしようとする。

 ゼーリエの言葉は単純だ。デンケンが合格すれば、帝国への譲歩も開始すると言っている。

 

「待て」ゼーリエは最後に呼び止めた。

 

 振り返る。

 

「おまえはどこまで想像していた? まさかこうなることまで予想していたのか?」

 

「ゼーリエよ。おぬしは人間たちからは恐れられておる。儂も、ここに来てから足の震えが止まらんかった。だが……、アナリザンドは言っていた。おぬしは人間に優しい、と。儂はその言葉に賭けてみたのかもしれん」

 

 今度は振り返らなかった。試験は近い。勉強の時間は既に始まっている。

 

「本当にくだらない話だ」

 

 ぐにぐにされるアナぬいザンド。

 

 デンケンが去り、ひとりと、ひとぬいの演目はしばらく続く。

 

「さて、ではそろそろ昼寝でもするとしようか。抱き枕は抱き枕としてこそ本分が果たされる。おまえもそう思うだろう。アナリザンド」

 

「先生のえっち!」

 

 ポンっといつものアナリザンドになって、すぐさま脱兎のごとく逃げ出した。

 

 この魔族、逃げ足だけは早い。

 

 政治の喧噪から逃れ、自由に軽やかに駆け出してゆく。

 

 かつての幼いフランメを思い出し、ゼーリエは少しだけ笑いをこぼした。





 あれ? 政治や経済のお話はどこ?
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