――宇宙ステーション「ヘルタ」
「ブルー」星系において最もIQが高いと言われる人間「ヘルタ」を主としている研究機関だ。
宇宙ステーションとある通り、ここは惑星の軌道上に存在しており、立地の特異性、高度な研究施設などの存在もあって、様々な場所から注目されている場所である。
そんな場所の中でも秘匿性の高い場所――ここの主であるヘルタの「オフィス」にて、二つの人影が忙しなく作業を行っていた。
「はいこれ。そこの本棚に入れておいて」
「ういっす……」
「……はい、次はこれね」
「ういっす……」
「…………ねぇ、やる気あるの?」
「ういっす……」
「駄目ね、完っっっ全に上の空。その割には仕事『だけ』はちゃんとやれてるのがイラつくわね」
「ういっす……」
「…………」
一人は絶世の美貌を持つ、まるで精巧な人形が如き容姿の少女――「ヘルタ」で、もう一人はそんな彼女の問いかけに口を半開きにしながら気の抜けた返事を返す青年――「戒」。
ヘルタに関しては言わずもがな、この場所の主であり世紀の大天才である彼女は、常人にはたどり着けないような様々な研究を行っている。
そのため、その研究の影響で発生する研究内容を記録した書類の整理を、たまたま宇宙ステーションを訪れていた戒に手伝ってもらっているだけだ。
……のだが、肝心の戒が明らかにおかしい様子なのがヘルタにとっては不可解なのであった。
いつでもどこでも人助け、『「善意」という言葉が人の皮を被って歩いている』とヘルタ自身が評価するほどの男が戒である。
そんな、人が困っている時ほど全力で以てそれに応えようとする男がここまでおかしくなるとは……一体何があったのだとヘルタは疑問に思って質問を投げかけてみたのだ。
しかしいつまで経っても戒は壊れたブリキ人形のように同じ言葉と、ぼーっとしたような眼差しでどこか遠くを見続けるのを繰り返すだけ。
その割にはヘルタに指示された作業の手だけは止めないのだから、心配どころか「何をどうしたらそんなことができるようになる?」と疑問が浮かんでくるほどだった。
「ねぇ、いい加減答えてくれない? そろそろムカついてくるんだけど?」
「ういっす……」
「…………ハァアアアアアアアアア…………仕方ないわね……業腹だけど、ルアン・メェイに教えてもらった『アレ』を試してみようかしら?」
「ういっす……」
そう呟きながらヘルタは書類の整理を続ける戒の傍に立つと、特に抵抗をしない彼の顔を自身に無理矢理に近づけさせ、ついでと言わんばかりに耳元に息を吹きかけた。
「ふぅー……」
「っ~~~!! うひあっ!? なになにっ!? 何事っ!? ……って、ヘルタ嬢? どうしてここにいるんすか?」
「本当に効果があるのね……なんだか負けた気分……」
ぞわぞわとした感覚が突然発生したことに驚いたのか、飛び退くようにヘルタから離れた戒の様子を見て、彼女はここにはいないある女性の勝ち誇ったような表情を思い浮かべて不機嫌になる。
その様子を見て何かやらかしてしまったのかと、冷や汗を浮かべる戒だったが、今自身のいる場所が星穹列車の自室ではないことに首を傾げた。
「あれ、俺さっきまで列車にいたはずっすけど……」
「そこからなのね……で? あなたがそうなってる理由って、なんなのかしら?」
「え!? 理由って言われても何のことっすか!?」
「はぁ……相変わらず察しが悪いのね。さっきから声をかけても生返事なあなたがそれだけ浮かれてる理由よ」
「う、浮かれてる、っすか……? 浮かれてる……浮かれてる……」
ヘルタの問いかけに先程よりかは、はっきりとした受け答えのできるようになった戒が思考する姿を見つつ、ヘルタもヘルタで考え込む。
――この時点でヘルタは、戒が先程までの状態になっていた時間帯についておおよそ察しがついた。
おそらく、列車の中でなにかしらの嬉しいと感じる出来事があって、それを引きずりすぎて上の空だったのだろう、と。
しかし、「いくらなんでも引きずりすぎではないか……?」と表面上では呆れてしまうヘルタだったが、内心は穏やかではなかった。
人の厚意は素直に受け取り、感謝と共にそれを周りに大声で知らせるほどの阿呆な戒が、嬉しすぎて生返事をするほどの嬉しい出来事。
もし悲劇的なことがあって仕事に身が入らなかったのなら……という可能性もあったが、この男はそういった方向ではこうならないだろうと考える。
仮にそうだったとしたら、もっと落ち込んでいるどころか列車から降りてくることすらしなかったはずで、この可能性はないとヘルタは切り捨てた。
では、先程推測した嬉しい出来事が列車で起こったとするなら、それは一体どんなことがあったのか?
車掌の出す食事が今までで一番美味しかった……ない。
この男が食事で上の空になったことはない、なってるならもっと前からそうなっていたはずだ。
姫子のコーヒーが奇跡的に普通に飲めるほど美味し……ない、絶対にない。
あの劇物が飲めるようになる? ありえないだろう。
ヴェルト・ヨウと思い出話に花を咲かせ過ぎ……ない。
この男と過去を共有できるあの男のことは気に食わないが、思い出話をしたという方向性で行くなら、そっちの方がまだ正気を保っている方だろう。
丹恒……はない。
なのかとかいう、小うるさいおこちゃまも……ありえそうでありえなさそうといったところだ。
あの星核を体内に宿している少女が持ってきたゴミをなんでか摂取し、感情を表現する脳の一部がバグを起こし……ありえるわけがない。
いくらお人好しなこの男でもゴミを食うことはないだろう。というかあのおこちゃまの癖はなんなんだ……。
いろいろな考えが浮かんでくるが、ありえそうなものがなかなか思い浮かばない。
……しかし、一つだけ、本当に一つだけ当たってほしくない考えが思い浮かんでしまった。
(……この男が『それ』関連で自分から行動を起こすとは思えない……まさかあのおこちゃまのどちらかが行動を起こしたのかしら……?)
「うーん……うーん……あっ、思い出し……て良かったのかなこれ……?」
「思い出したかしら? ならさっさと話してよね」
「いや、その、えっと、はい……めちゃくちゃ話しにくいし、誰かに言ったら首括りたくなるほどのものだったというっすか……」
「い い か ら 話 し な さ い」
「は、はいぃ!!」
当たってほしくない考え……ヘルタの中ではもう答えが出ていたが、こんなこと理解はしたくなかった。
だって、こんなに面白い、私のために尽くしてくれている、『お気に入り』のこの男が――
「えっとぉ……そのぉ……知り合いの女の子にぃ……――、されちゃいまして……」
「……聞こえない、もう一回言って」
「…………『キス』、されました……はい……」
「………………………………………………………………は?」
――ヘルタにとって、出会った当時の『戒』という男は、そこらにいる有象無象の一人でしかなかった。
一人でいる自身のことが心配だからと、研究の旅に勝手に同行し始めた時は少しだけ興味が湧いたが……その後からの行動で「ただ興味の湧く存在」から「面白い男」へと変わっていく。
ある時に訪れた「仙舟」では、豊穣の忌み物の大群とほぼ単騎で取っ組み合いをし、ヘルタを守り抜きながら雲騎軍が攻勢に出るためのきっかけとなった。
それほどの武力を見せておきながら、「カンパニー」の披露パーティーでは空気感に慣れていないのかぎこちない動作で招待客との談笑に混ざろうとして、何度も舌を噛むなど人様の前では見せられないような失態を犯していた。
一応、彼の帰る場所である「星穹列車」には遠出をするための足代わりとして乗せてもらった時は、彼の雑談をBGMに未知の世界を解き明かすことに少しだけ心を躍らせたり。
宇宙の端から端まで二人で旅をし……そして、彼は最後まで付き添い続けた。
それほどまでの魅力が私にはあるのだという自負にもなり、ヘルタの経歴にも箔をつけた。
だからなのだろうか、『ヘルタ』にとって『戒』という人間は自身の『お気に入り』に入っている存在であると認識している。
だが、あくまで『お気に入り』なだけであって好意を向けるほどのものではないと、その天才的な頭脳で判断している…………と『思っている』ヘルタ。
――実際のところ、自身の想像以上に入れ込んでいるのはヘルタの方だ。
『お気に入り』程度ならヘルタはあのように接したりはしない。
有象無象からワンランク上がった程度で、結局のところは一瞬の興味を引くだけの存在にすぎない。
そんな存在であるべきとヘルタ自身は思っているし、彼女が所有する宇宙ステーションもそれと同じようなものだ。
「ねぇ、今、なんて言ったのかしら」
「あ、あの、か、顔が怖いですよヘルタ嬢?」
「質問に答えなさい。今なんて言ったのかしら」
「し、知り合いの女の子に、キ、キスされ――ひぃっ!?」
それなのに、なぜこうもヘルタは取り乱しているのだろうか。
まだ作られた人形の方がよっぽど可愛げがあると思えるほど、『無』を張り付けたような表情と威圧すら感じるほどの語気に、思わず後ずさりをしていた戒を壁際に追い詰めていく。
いくら察しの悪い戒であろうと、今のヘルタがどのような感情を抱いているのかは分かる。
『怒り』だ。
気に食わないことが起きたから、それに対して殺意すら感じるほどの『怒り』をぶつけている、ただそれだけ。
それだけだからこそ戒は分からなかった。
戒は博愛主義者だ。
誰もを愛することができ、自分の命を投げ打ってでも人を助けようとすることができる『善人』。
一見すれば彼の人徳を表すような言葉だが、ヘルタのような者からすればたまったものではない。
――なぜなら、『自分の所有物がどことも知れない馬の骨に尻尾を振っている』ようなものだからである。
それも自分よりも先に、名前も知らない相手に唾を付けられているということを所有物から告白されたのだから。
しかも、しかもだ。あの作業中の様子を見れば、そのことが満更でもないのが否が応でもわかる。
何故受け入れたのかという戒への苛立ち、戒に唾を付けた相手への嫉妬、様々な感情がごちゃ混ぜになって……ヘルタは思いついた。
「ねぇ戒。あなたは従者、間違ってるかしら?」
「は、はい! お、俺! い、いえ! わ、私はヘルタ様の従者でありあなたの盾! この命を投げ打ってでも守り抜く所存です!」
「えぇ。その心意気はとても素晴らしいわ。そんなあなたがどこぞの小娘に尻尾を振っているということが一番腹立たしいことなのだけれど」
「も、申し訳ありません! あれは拒絶できる状態ではありませんでした!」
「できる状態じゃありませんでした? スウォームの大群を蹴散らしたあなたが? ふふふっ、面白いことを言うわね。ふふっ、ふふふふふっ」
「あ、あはははは……」
湿った笑いと乾いた笑いがオフィスに木霊する。
やがて、起立した状態から正座した状態になった戒が笑うのをやめ、弱弱し気に口を開く。
「……も、申し訳、ありませ……」
「謝らなくていいわよ。どの道、節操のない飼い犬には『罰』を与えないといけないもの」
「ば、罰ですか……? できれば痛くないものの方が……」
「いいえ、痛くないわよ。むしろとっても気持ち良くなるもの――」
「え、それは一体――むぐっ!?」
戒が何かを言う前に、ヘルタによってその口を塞がれる。
なにによって塞がれたかは……言うまでもないだろう。
「……んっ、んはっ、はぁあああああああああ……こんな味なのね、キスって。よく甘酸っぱいって言われてるけどちょっと違うみたい」
「は、えっ、今、なに、え……?」
恍惚とした表情で自身の唇を触るヘルタとは対照的に、何が起こっていたのかすら理解が追い付いていない戒。
そんな戒の顔を上げさせながら、ヘルタはこう言った。
「泣いて謝ったって、許してあげないんだからっ」
かいたくしゃ に こうかばつぐん だ !