『この世の終わりか!? 皆既月食』
文々。新聞・オカルト版の第1面にでかでかと載せられた見出しに月の詳細な周期の説明が続く。紙面の端っこにブラッドムーンにまつわる西洋のいわれが申し訳程度に添えられて。
暦の計算は河童の観測機と計算機によるものだった。
「はあ……」
それからちょうど1週間後。影狼が大人になってから初めての皆既月食となる。半獣は月光の具合によって「活動的」になり、能率もパワーも上がる。ついでにイヌ科は毛深くなる。アグレッシブな活動欲求も、慧音がハクタクとなる間で一気に仕事を終らせるように、何か生産的なことにぶつけることができればいいのだが、若い影狼はそれをまだ見つけられていなかった。
今すでに影狼にはその兆候が出始めていて、里の外れにある家で寸胴鍋いっぱいに、朝買い漁ってきた食材を詰め込んで煮始めてもう1時間になる。
その量は尋常じゃない。食事はすべて月食中の動力源となるので、食べれば食べるほど当日の収拾がつかなくなる。しかしこれほどの生理的欲求を押さえつけてしまうと、それはそれで自分の心身に悪いのだ。それで影狼の父はひどい辛酸を舐めた。
月食を折り返しとする2週間の「辛抱」だ。その間にいかなる痴態を晒すことにはなっても、人を喰うことはないのが唯一の救いだろうか。
ほんの少し、かまちに置いた新聞を読もうと席を外したその隙だった。
「あっこら!」
この機を伺っていたであろう白兎の耳を垂らした少女が、爪先まで目一杯背伸びをして、おたまで鍋から卵をすくい取っていた。
「逃げるな!」
慌てて卵を頬張りながら走り出したものだから、引き戸のレールに足を引っ掛けて派手に転んでしまった。それから横になったまま体を曲げて自分の胸をどんどん叩いている。卵が喉につっかえたらしい。
膝立ちをさせて背中を叩くと、半分もある卵をごろっと吐き出した。
「あー、ありがと! じゃ!」
「こら待て!」
手首を掴んで制止する。あまりに軽くて驚いた。頭2つ分小さいそいつの身体は、なんというか、脆弱だった。
「わっ、私よりおいしいの持ってきてあげるから! 食べないで!」
どうして引き止めたのか、状況が少し落ち着いてしまうとわからない。彼女を追いかけ始めてから手を出すまでになにか考えていた気がする。それは彼女を見て感じたことから思考にまでは至らない、些細な事だったように思う。ただ、彼女を見て、とっさに腕をつかんだ。それしか覚えていない。
「食べやしないってば。もう、食べたいならそう言ってくれればいいのに」
少女の顔が固まっている。掴まれた手首を震わせながら、こちらの一挙手一投足を散漫に目で追っている。なんだかかわいそうになって手を離すと、大慌てでぱたぱた落ち葉を鳴らしながら、竹藪の奥へ消えていってしまった。
「……そんなにびびらなくたっていいのに」
竹林の兎といえば所轄は永遠亭に決まっている。いつぶりかわからないこの衝き動かされるようなざわめきは、わざわざ寸胴鍋と食材をもってそこへ出向く動機としては十二分なものだった。
その晩、土が冷え切って虫の合唱もまばらになった頃の床で、重い湿気を吸った綿布団にくるまりながら、昼間の出来事を反芻していた。普段関わる人が少ないのもあってか、いつまでもあの生意気で身の程知らずな顔が頭の中で乱舞している。
「黙ってりゃかわいいだろうにな……」
§
「えっと…… みんなで食べれたらと思って。いきなりすいません」
永遠亭の勝手口を叩いて永琳に鍋と諸々を見せる。
「あらいいの? ありがとう。最近まともな食事ができてなかったから助かるわ」
本心はどうであれ、行けば何でも快く受け入れてくれる。影狼が未だ持ち得ない年の功というやつだろうか。
案内された奥の囲炉裏に鍋の取っ手を吊り鶏肉を投げ入れる間に、鈴仙が人数分の食器を運んでくる。
「あー、てゐから聞いたよ、怖い人。あんたでしょ」
「怖い人?」
「数千年前のサメの目つきを思い出したって。どんだけ食い意地張ってんのよ…… あー待ったそういうことね、まためんどくさい時期に来おって」
中途半端に笑うことしかできなかった。若い彼女は時期によって変動する「人並み外れた」気分の変動について肌身で理解している。理解しているからこそ、そんなときに人の家にやってきた影狼を良く思っていないようだ。
「そのー、さっさと疲れさせて寝ちゃったほうがいいよ」
「八意先生ならどうにかできるんじゃないの」
「コストに見合わないのよ。薬を売るってことは、幻想郷中の獣人にそれを買う権利を与えるってことなの。あんたは今ここで親しそうにやってるけど、『幻想郷中の獣人』の一人でしかないでしょう」
数多ある獣人の一人。永遠亭の面子と関わるには本来遠すぎた。
苛立ちに任せてはならない。月食でコントロールが利かない危険人物とみなされればいよいよいられなくなる。
彼女に悪気はない。ただこちらが勝手に傷ついただけだ。
そろそろというところでちょうど皆が集まってきた。その中にしれっと輝夜もいる。飯のときだけ自室から這い出てくる月人。月からの者は目を合わせればすぐにわかる。玉兎はいつも神経がぴんと張っていて、月人は…… その目はまるで作り物みたいだ。目が見てはいない。網膜ではない別の何かが瞳孔から覗いている。
兎たちはほとんど居間に上がらない。上がってきたのは先日のあいつだけだった。
「まあ…… てゐ自身もだけど、あんたもてゐには気をつけなさいよ。何が嘘で何がほんとかわかったもんじゃない」
てゐというらしい。彼女はしぶしぶ影狼の斜向いに着席したが伏し目がちで、こちらの様子をしきりに目で追っているのが辛うじてわかる。
「ごめんって。ほらみんなで食べましょ」
固まるてゐの手から取皿をもぎ取って適当に具材を詰め渡す。手渡しで受け取ってはくれなかったので仕方なく彼女の前に置いてあげた。
内心かなり緊張していた。平静を繕えているか自身がなかった。鈴仙とてゐを除き誰もこちらのことを変な顔で見ないのできっと大丈夫なのだろう。もしかしたら、もともと彼女らに対してぎこちなくて、もはや誰も気に留めないだけかもしれない。
「あら。煮干しの出涸らしもそのままにするのね」
「なんかもったいないんで。先生は取るんですか」
「ふつう取るかしらね。たぶん。そもそも鍋料理で煮干しはあんまり入れないかもしれない」
てゐがようやく橋で皿をつっつき始める。
「ごった煮でもルールっていうか、暗黙の了解ってあるんですね」
「まあよほど外れた味じゃない限り好みでいいんじゃないかしら」
話している間、てゐは黙々と箸を進め、だんだん自然体に近づいているようだった。さっき聞いた数千年との言葉に合わず、賢しらな小僧という印象は初めて出会った(?)時からあまり変わっていない。一方で影狼の向いに座る鈴仙は永琳の前では終始にっとした微笑を崩さないでいて、しかし目は笑っておらず、時折影狼のほうを牽制するように見つめている。よほどてゐのことが心配なのだろうか。本当に兎たちからの信用がない。
§
夜通しやって、てゐになんのインタラクトもできずお開きになってしまった。日蝕の前に酒を飲んで自らを抑えられるこの並外れた理性とやらを、このときばかりは憎んだ。
もう、会う理由がない。
こっちの勝手で、向うは目も合わせずびくびくしていたのに、まだ未練がましく考えを巡らせている。
兎の一羽がなんだと一蹴できるたぐいの理性は持っていない。ただ広げた布団から家の梁を眺めて、勝手に落ち込んでいた。
「ここだったよね…… ごめんくださーい」
一瞬誰の声かわからなかった。乱暴に、かつ非力に戸を叩く音が続く。
「まあ。どうして急に」
あの鍋会ではほとんどその声を聞かなかったのでうろ覚えだったが、それはたしかにてゐだった。
「いや、なんかさ。かわいそうになっちゃって。君なんにもしてこないでそのまんま帰っちゃうんだもん。そりゃ私があんな態度してたのもあるけど」
鼓動が強く、遅くなっていく。
「ふふ。バレてないと思った? 何年生きてると思ってるのさ。ま、いいから家に上げてよ」
半分上の空で、布団も敷きっぱなしでフリーズドライ食品の容器もそのままだということすら忘れて、言われるままに玄関を明け渡す。
「。影狼だっけ」
「ごめんね汚くて」
敷布団にあぐらをかいたその上にてゐが飛び込むようにして乗ってくる。
「この通り私が怖がってたのはただの思い過ごしだったしさ。まあ」
「……いや、その」
「どうした」
「何千年生きてる人が何考えてるかはわかんないけどさ、それは…… 思い過ごしじゃないの。だから、えっと……」
「だめってこと?」
「うん」
すっと立ち上がって、
「あーあ、遂に舐められたもんだよ。据えられたお膳すら食わんとは」
わざとらしく嘆いて、つまらなそうに帰る振りを見せる。その言葉にむっとしたのかなんなのか、無意識に、気づいたら彼女の肩を後ろからつかんで、引き止めていた。