ウマ娘──彼女たちは走るために生まれてきた。
時に数奇で時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。それが彼女たちの運命。
この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない。
……おや? また新たなウマ娘が一人、この世界に降り立ったようですよ?
ですが、その光は普通のウマ娘とは異なっているみたいです。
ちょっと、覗いてみましょうか──
~~~~~~~~
「ふわぁ……」
その日の朝は少し目覚めが悪かった。
カーテンから差し込む光が妙に眩しくて、ちょっと肌寒い。なんか感覚がいつもより敏感になったみたいで、変に落ち着かない。そんな寝起き。
もぞもぞと雑にかぶっていた布団を蹴とばし、ベッドからのそのそと這い出る。
……なんか、遠くに布団が飛んで行ったな。別に強く蹴ってないのに。
ふわぁと軽いあくびをしながら自分の背筋をぴんと伸ばした瞬間──ズボンがずれて床にぽふんと落下した。
「……あれ?」
本来であれば自分よりもサイズがかなり大きい服を着た時に起こるであろう現象に遭遇して、オレの頭が混乱する。
寝ぼけた頭で考えてみても、自分がそんなダボダボな服を持ってる記憶なんてない。
というか昨日は疲れていて帰宅した瞬間、スーツ姿でそのままベッドインしたはずだ。
だからサイズが合わないなんてことは無い……のに、なんだこれは。
普段とは全く異なる朝の目覚めに、段々と冷水をぶっかけられたみたいに脳内がさえていく。
「どういうこと……ひぃう!?」
自分の喉から聞いたことの無いような甲高い声が耳に反響して、体がびくりと跳ねる。
そしてそれと同時に、自分の耳と尻尾もピンと反応して立ってしまった。
「ほえ?」
今まで自分の体に無かった謎の器官が、突然動き出して体すらも混乱し始める。
耳と尻尾が動くって、そんなウマ娘みたいな……
ははは……まさか。
いや、もうここまで情報が出ていたら理解はしていた。
だが認めたくはなかった。認めたらおしまいだと思っていた。
もしかしたら夢かもしれない──そんな淡い希望を抱きながら、オレはこの家に唯一ある鏡の前に立って現実と向き合うことにした。
「どういうこと……なんだ」
そんな鏡に映っていたのは少し赤みがかった、赤褐色の鹿毛の可愛らしいウマ娘が一人。
肩にかかるほど長くそして綺麗な髪に、大きな耳が頭にちょこんと生えている。
綺麗な赤い瞳をした目はぱっちりと開いており、全体的に明るめの雰囲気を醸し出していた。
「な、な、な……」
口を開いてわなわなと震わせると、目の前の美少女ウマ娘もそれと同じ行動を取る。
そして顔にゆっくりと手を当てると、オレは大きく口を開けて叫び声を上げた。
「オレ、ウマ娘になってるーーー!?」
透き通るような美声から放たれた絶叫は、一人しかいない部屋に十分すぎるほど響き渡る。勿論返事なんてあるわけはない。だがもう、誰かに助けを求めずにはいられなかった。
そのまま数秒間石のように固まっていたが、なんとか気を取り直す。
取りあえず、直近を振り返ろう。何か原因が分かるかもしれない。というか、現実逃避したい。
オレはぶかぶかになった服をなんとか持ち上げながらベッドに腰をかけると、昨日の出来事を思い出し始めた──
~~~~~~~~
「だぁぁぁ! 終わらねぇ!」
「大丈夫ですか……? トレーナーさん……?」
机に向かってせわしなくパソコンを叩いていると、隣の方から凛とした声が聞こえてきた。
目線だけを横に向けると、彼女の手に持っていたコーヒーの香りがふわりと鼻孔をくすぐる。
そのまま少し体を倒して画面を覗き込んできたのは、黒鹿毛のウマ娘。
黒くて長い綺麗な髪を携えながら、白いアホ毛が一本ちょこんと出ている。
そして身体的な特徴として頭からは耳が、お尻の方からは尻尾が生えていた。
そう、彼女こそがオレの担当ウマ娘──マンハッタンカフェである。
「大丈夫だ、カフェ。……三徹目なだけだから」
「無理してるじゃないですか……。お願いですから、早く寝て下さいね……」
「あともうちょっとなんだ! これさえ終われば、あとは寝るだけ!」
「……因みに、あとどれくらいで終わりそうなんですか?」
「えっ……んー、あと半日くらい?」
「もう午後六時ですよ……? 私のトレーニング見た後に、それは無茶なんじゃ……」
カフェが本気で心配してくれているのか、優しい声音でオレに話しかけてくる。
高めのテンションで心配かけないようにと誤魔化しているが、実際もう限界が近い。
目を数秒瞑ったら、多分気絶してしまうんじゃないだろうか。
「明日に回す……じゃダメなんですか?」
「いや、これはカフェの今後にとって大事なことだからな。出来るだけ早くやっておきたいんだ」
オレがそう言うと、カフェは「はぁ……」と溜息をついて呆れたような顔を取る。
そしてくるりときびすを返すと、トレーナー室の端のテーブルに移動する。
そして、約十分後。戻ってきたカフェは、オレの仕事机にそっとティーカップを置いてきた。
中には真っ黒なコーヒーが入っており、豆から挽いたであろういい香りが辺りを包んだ。
「全く……いつも無理して……。私が止めても、トレーナーさんは続けるんでしょうね……」
「よく分かってるな」
「三年間一緒に走ってきたら、嫌でも分かりますよ……」
もうそんなに経っていたのか。
カフェと出会いトレーナーとして全力で彼女を支えてからは、あっという間に時が過ぎていった気がする。
菊花賞に有マ記念、天皇賞春。つい昨日のことのように思い返せる、カフェとの大切な思い出。
「だからこそ……私はここまで走ってこれたのでしょうね」
「そんなことないさ。オレがしたのはちょっとした手助けだよ」
少しオレが照れくさそうに言うと、カフェがにこりと微笑んでソファにゆっくりと腰を下ろした。
トレーナーと担当ウマ娘。それがオレとマンハッタンカフェの繋がり。
近いようで近くない。遠そうで遠くない。お互いを信頼しているからこそ、絶妙な距離感で成り立っているこの関係性はとても心地よい。
そんなあくせくと仕事をしているオレとトレーニング終わりのカフェしかいない空間に、突如として第三者の声が入ってきた。
「やぁ! カフェに、カフェのトレーナーくん!」
「ドアは静かに開けて下さい……。それに……お呼びじゃないですよ、タキオンさん」
「えーっ!? そんな冷たいことを言うんじゃないよ、カフェ〜。私と君の仲だろ~」
ドアを開けて入って来たのは、制服の上に少し大きめの白衣を着た栗毛のウマ娘。
謎のピンク色の液体が入った試験管を大事そうに抱えながら、カフェの側へ歩み寄っている。
彼女の名は──アグネスタキオン。
まるで研究者のような風貌をしているが、これでもれっきとしたトレセン学園の生徒だ。
「……で、なんのようですか。薬なら飲みませんよ……?」
「全く、まるで私がいつも無理やり薬を飲ませているみたいな言い草だねぇ」
「いやいつもお前、自分のトレーナーに怪しい薬飲ませてるじゃないか」
「モルモット君は別枠だからセーフさ。それよりも……今日はキミにとっても都合の良いものを持ってきたのだよ」
あまりにも怪しすぎるだろ、それ。
彼女がこうやってるんるん気分で訪ねてくる時は、大体碌な事がない。
それはカフェもよく分っているのか、ジト目でタキオンのことを見つめている。
この前なんか「肩こりが取れる薬」とか言われたので飲んでみたら、肩がゲーミングに発光した。因みに肩こり自体は取れた。
こんな奇行ばかりしているのに、皐月賞を含めたG1レースを勝利してカフェのライバルなのだから本当にウマは見かけによらない。
「それが今お前が手に持っている謎のブツってわけか?」
「よくぞ聞いてくれたねぇ! これは簡単に言うとエナジードリンクさ!」
「……なんか普通ですね。色、以外は……」
「そうだろうこれは体内にあるウマムスコンドリアを活性化させて一時的に爆発的なエネルギーを──」
タキオンが機嫌よさそうに薬の説明をし始めるが、半分以上何を言っているのか分からない。
取りあえず理解したのは、なんかやばそうだけど元気が出る薬ってこと。
「よし、タキオンそれくれ」
「えっ……いいんですか? 絶対碌な目に合いませんよ……?」
「皮肉なことにも丁度欲しかった効能だしな……。嘘は言って無さそうだし……」
そうオレが発言した瞬間、タキオンがにやりと悪い科学者のように微笑む。
そして試験管の栓をきゅぽんと外すと、ずずっとオレの隣に移動してきた。
待ってましたと言わんばかりの行動にちょっぴり後悔しそうになりつつも、彼女から薬を受け取って一息にそれを飲み込んだ。
「んぐっ……あっま!?」
「ほー、興味深いねぇ。甘さを感じる成分なんて入れた覚えはないのだが、どういう仕組みなんだろうか」
「トレーナーさん、大丈夫ですか……!?」
カフェが焦った声を出しながら、ソファから立ち上がりオレの背中をさすってくれる。
彼女の優しい手つきを後ろで感じながら、喉につっかえていた甘さを無理やり流し込んだ。
……一応、飲んだけど。これどうなるんだろうか。
「んー? おー? なんかちょっと、元気が出た気がする……」
「即効性あり……と。じゃあ、私は戻るから後で経過を観察させてくれたまえ」
「ありがとうな、タキオン。これでもうちょい頑張れそうだ」
「例には及ばないさ。まぁ頑張りたまえよ」
実際薬を飲んでから少しだけ体が軽くなって、目が覚めた気がする。
これが薬の効果なのかプラシーボ効果的な奴なのかは判断は付かないけど、今はそれでもありがたい。
帰っていくタキオンにお礼を言いつつ、オレはもう一度パソコンに向かう。
「じゃあ、もうひと踏ん張りいきますか!」
~~~~~~~~
「──で、あの後仕事を終えて……家に帰ってたら電池が切れたように今の今まで寝てたと」
あれは普通に効果があったぽくて、溜まっていた仕事を三時間で終えられたんだよな。タキオンに感謝しなければ……
「いや、待てよ」
常識的に、オレが一晩でウマ娘になるなんておかしい。ファンタジーの世界じゃあるまいし。
となると「何か」があったに違いないのだが、この流れからするとどう考えても……その。
「タキオンの薬が原因では……?」
これが市販の薬だったら疑いようが無いのだが、例にもよってあのアグネス薬局製だ。
奴には副作用で体を光らせたり、謎の尻尾を生やしたりしたなどの前例がある。
タキオンめ……そんな副作用があるなら事前に言って欲しかったなぁ!
取りあえず、元凶を問い詰めないといけないなこれは。
その為にオレは携帯のロックを解除して連絡を取るために、画面に顔を映したのだが──
「あれ、解除されない……。いや、顔単位で変わっているんだ。そりゃそうか……」
もう一度鏡を見直しても、目の前にいるのは美少女ウマ娘。
ちょっと珍しい赤褐色の髪に、それと同じ色をしたぱっちりお目目。
そして、さらさらのロングヘアが肩の下まで伸びている。長さ的にはカフェより短いくらいか。
誰がどう見ても、明るく元気そうで可愛いと答えるであろう雰囲気を醸し出してる。
「……あれ。オレ、可愛い?」
なんか、気付いちゃいけないところに気付いた気がする。
前までとは違ってしゅっと引き締まったアスリート体型の体に、すらっとした太もも。気になってそっと触ってみると、肌もすべすべで手触りが抜群だ。
ウマ娘は若く見えるというが、自分もその例に漏れずに高校生くらいの年齢に見える。
ベッドに座るのをやめて立ち上がってみると、いつもより視点が低くなっているのを感じた。
これは恐らくウマ娘になったことで、前よりも背が縮んだのだろう。
昔は185㎝くらい身長があったが、今はぱっと見て165㎝くらい。女性にしては身長はあるけど、男性ほどではないよねってくらい。
昨日まで来ていたスーツはサイズが合わなくなり、ズボンはずり落ちて今はワイシャツを着ているだけになってしまっている。
ふわりと髪がなびくたびに、優しい匂いが漂ってくるのもなんだかくすぐったい。いわゆる「女の子の匂い」ってやつだ。
そして一番目を引くのが──
「……デカくね?」
ぽよんと胸で跳ねるこの二つの双丘。
男の時には無かった物体がいきなり出現して困惑するが、多分カフェはもちろんタキオンより「ある」と思う。
「し、失礼しまーす」
誰に怒られるわけでも無いのに許可を取るような発言をすると、オレはワイシャツ越しに自分の胸にそっと手を当ててそれを掴んだ。
「やわらかぁ……」
もみもみ。
まるでマシュマロのように形を変えていくのを見て、オレは思わず感動した声をあげる。
しかもずっしりとした重みもあり、なんだか不思議な物体と化している。
……まぁでも自分で揉んでも、何か思うほどのものでもないな。
そんな感じで一通り自分の体を弄り回していたのだが、段々楽しくなってしまいテンションが変な方向に行ってしまった。
オレは鏡を正面にそっと腰を前に倒すと、可愛らしい声を意識しながら口を開く。
「トレーナーさん♪」
カフェが自分のことを呼ぶように、軽く言葉を紡いでみる。勿論、笑顔で。
こんな可愛い子が自分のことを慕ってくれたら、幸せに違いない。
そんな軽い欲望の元に取った行動だったのだが、部屋に響くのは自分の可愛くなった声のみ。
「……あれ?」
んーっと、この状況。
他人から見たら、「トレセン学園の生徒が鏡に向かってトレーナーを呼んでいる」ことになるのか……?
しかも、ダボダボになった男物のワイシャツ一枚というやばめの格好で。
男だったら誰しもが憧れそうなシチュエーションだが、残念なことにこの美少女ウマ娘はオレだ。
つまりオレが、トレーナーに甘える立場になっているということで──
「な、なにやってんだ……オレ」
これ以上続けていたら、自分の大切な何かが失われる気がする。
そう直感的に感じ取ったオレは、鏡から爆速で離れると無理やり携帯の方に目線を向けた。
取りあえずタキオンにメッセージを送らなくては。電話しても声が全く違うせいで、オレだって認識してもらえないだろうし──
その瞬間、低音の心地よいオルゴールの音が携帯から流れ始める。
この音楽は……間違いない。カフェから電話が掛かって来た時のために設定した、専用の着信音だ。
この状態でカフェと通話を? 取りあえずここは一旦無視するしか……
「あっ」
思わず声を上げてしまった。随分と可愛らしい声が出たなと他人事のように思ったが、今はそんな場合ではない。
問題なのは、時間。いつも通り朝の七時ごろに目覚めたとばかり思っていたが、残念ながら時計は午前の十一時を指している。
どう頑張っても誤魔化せない。遅刻である。
今までオレが頑張って積み上げてきた無遅刻無欠席の記録が……と嘆いている場合ではない。
これ……どう考えてもオレのことを心配してる電話だよなぁ……
おまけに上司である「駿川たづな」からの着信履歴が、ずらーっと流れていることに今更気付いた。
流石にこれ以上は誤魔化せないと咄嗟に判断を下したオレは、10秒くらい待たせたしまった着信音を止めて電話に出る。
あー、えっと。ウマ娘はスピーカーモードで出るんだっけ?
「……もしもし」
「……っつ! トレーナーさん、やっと出てくれましたね……。何も連絡ないから、私とても心配して──待って下さい」
最初は電話に出てくれたことへの安堵。そして次にオレに対しての心配。最後に、誰かに向けた怒気。
ここまでカフェの口から冷えた声が出てくるのなんて、初めて知った。
ひうっとオレの喉から絞り出したような声が出て、思わず萎縮してしまう。
「誰ですか、あなた。なんでトレーナーさんの電話に出てるんですか」
「えーっとな、カフェ。実は」
「……いきなり、馴れ馴れしい態度をやめてください。不愉快です。今すぐ、トレーナーさんの家に向かいます……。もし側にトレーナーさんがいるなら、伝えておいてください……」
どす黒い何かが伝わってくるような感覚にオレが大量の冷や汗をかいている中、彼女は最後と言わんばかりに宣告を言い放った。
「──許さないですからね」
あ、終わったかもしれない。
直感でそう感じた時には既に通話は切られ、ぷーぷーぷーという無機質な音だけが残っていた。
いやカフェ絶対かかりにかかってるでしょ。
一体どういう妄想を頭の中で繰り広げているのかは分からないが、確かなのは絶対に許さないという感情。
でも聞いてくれカフェ、オレも被害者なんだ……!
そう思っていた矢先、部屋中に「ぴんぽーん」というインターホンの音が聞こえてきた。
「ひぃ!?」
オレはトレセン学園から徒歩十分程度の近くのマンションに住んでいる。
それすなわち、ウマ娘にとっては目と鼻の先の距離で。
仮に電話を終えた瞬間にカフェが走りだしたとしても、直ぐに辿り着くというわけでして。
カフェの速さは、トレーナーであるオレが一番知っている。
そんな彼女の速さは足だけに留まらず、インターホンを連打する速度さえも上がってきた。
このまま放っておいてなんかしたら、下手すると扉さえもぶち破りかねないっ……!
「……行こう」
大丈夫。オレはカフェの何だ? 専属トレーナーだろ? 三年間一緒にやってきたんだ。話し合えば絶対に分かってくれるはず……
オレはすぅと深く息を吸い込むと、意を決して玄関の扉の前に立ち思いっきりドアを開けた。
「や、やぁ」
「……は?」
目の前にはオレの担当ウマ娘であるマンハッタンカフェが立っている。
だがその表情は今まで見たことも無いほど怒りに溢れ、耳も後ろに引き絞られている。
しかも、後ろに見えていたどす黒いオーラが更に倍増した気がした。なんか、ギアが上がったというか。
「なんですか……。その格好は……っ!」
えっ、格好……? あっ。
時すでに遅し。
そう今のオレの姿を客観的に見ると「大きめのワイシャツを一枚だけ着た赤鹿毛のウマ娘」であり、端的に換言するならば「彼シャツをしている見知らぬウマ娘」である。
ここに来て、カフェのオーラの正体にようやく気付いた。
だが、待って欲しい。オレは結局のところ一人しかいない。
考えているような、間違いなんて起こりようがないんだよ……カフェ!
だがそれはオレの心の叫びであって、今の彼女には届かない。
「な? 一回落ち着こう。お互い、冷静にならないと見えないこともあるはずだ」
もはや、願いに近い言葉。
祈るような目でカフェを見つめてみるが、それは虚しく空を切る。
「言いたいのはそれだけですか……?」
かつりとカフェが一歩前に踏み出し、黒いオーラを纏わりつかせてくる。
まるで蔦に絡みつかれたようになったオレは、もう逃げ出すことは絶対に出来ないだろう。
そんな緊迫した状況の中、彼女はゆっくりと口を開いてきた。
「あなたがどこの誰だか知りませんが……質問に答えてもらいましょうか……。『私』のトレーナーさんは、どこですか?」
「あっ、あっ、あっ」
あまりにも彼女から出てくる威圧感が凄すぎて、言葉が喉で詰まる。
奇妙な「モノ」に抱き着かれている感触がし、思った通りに動くことが出来ない。
だが……不思議と拒絶感は感じない。というか、これ毎日見慣れているような……
「……埒が明きませんね。部屋でトレーナーさんの痕跡探した方が早そう……」
「お友だち! オレの体が動かないの、カフェのお友だちせいだろ!?」
オレがその単語を発した瞬間、カフェの耳がピンとアンテナのように立って反応する。
そう。この「お友だち」という言葉は、カフェと深くかかわっている人しか知りえない情報。
もし仮に「お友だち」を知っていたとしても、この現象に対して咄嗟に結び付けられる人なんてタキオンか──
「……っつ! なんで、それを」
オレくらいしかいない。
お友だち──それはカフェに見えている幽霊のような存在で、彼女にとって大切な存在だ。
こういったポルターガイスト的な現象は、お友だちが起こせることは知っている。
この見慣れているという違和感は、カフェの側にいたお友だちが引き起こしたことだからだろう。
三年間も一緒にいれば、よく分かる。
「……取りあえず、詳しい話を聞きましょうか」
カフェも何か思うところがあったのか、興奮を落ち着かせて一旦冷静になったように見えた。
先ほどまで纏っていた黒いオーラのようなものが消えて、オレの動きも軽くなる。
すっと息苦しさが消えて深呼吸しているオレに対して、カフェがゆっくりと近寄ってきて顔を覗き込んできた。
「お友だちのことを知ってるとなると……あの人とはどういう関係ですか? まさか、自分がトレーナーさんだとか言いませんよね……?」
「……あれ、正解。そうだよ、オレだよオレ。カフェのトレーナーだ」
「冗談はやめてください」
カフェがまたジト目になりながら、警戒を強めている。
まぁそりゃそうだよな。目の前にいるウマ娘が、元は成人済みの男性って言ってきたらオレでも疑う。
こんな無茶苦茶なことを納得してもらうためには、それなりのことをしなければならない。
今の信頼度はゼロ。
となると……オレとカフェの間でしか知りようがないことを──
「先月、カフェに渡した誕生日プレゼントはモカマタリ。高級なコーヒー豆だ」
「……彼から聞いたんですか? 随分とお詳しいようですが──」
「この前のバレンタインデーはちょっといじわるしたっけなぁ。結局お友だちに背中押されちゃったけど」
「なんでそれを……。ですが……まだ、信じませんよ」
「クリスマスは一緒にディナーを食べたな。ジンジャーブレッドは美味しかったね。その時ファンの人にバレちゃって、顔真っ赤になったカフェが可愛かった──」
「もう、いいです。分かりました……流石に分かりましたから……」
誕生日にバレンタイン、クリスマスと二人の間でしか知りえないことを続けて話した結果、カフェの方が先に折れて顔を赤くして頷いてくれた。
まだ詳しいこととか他にも話のストックはあったのだが……まぁ納得してくれたようでなにより。
そうしているとカフェがオレの方に顔を向け、じっと瞳を見つめてきた。
「そう、ですね…… となると、一つ確認したいことが……」
「確認? なんか他に証明出来ることあったかな……」
「こっちで見ますので大丈夫です……。ちょっと、失礼しますね……」
こつん。
次の瞬間、気付いたら目の前にカフェの顔が視界いっぱいに広がっていた。
何故か熱を測る時みたいに、お互いのおでことおでこを合わせている。
もう少し近づけば唇が触れてしまうのではないかと思ってしまうほどの距離に、オレの心臓はバクバクと鳴っていた。
カフェは言うまでもなく美少女で、かなり顔が整っている。
消え入りそうな琥珀色の瞳。綺麗な白い肌に、艶やかな漆黒の髪。
担当ウマ娘という贔屓を差し引いたとしても、吸い込まれてしまいそうな顔つきにオレは思わず見惚れてしまっていた。
「……変わってませんね。あの人と同じ……魂の色……」
オレが内心焦っている中、カフェは目を閉じながら落ち着いた様子で何かを観察している。
きっとオレには見えていない景色が、彼女には見えているのだろう。
だが、それを不思議に思ったりはしない。
カフェが存在を信じているのであれば、オレも信じる。お友だちだって今の今まで、目に映ったことは無いが信じている。
だって、オレは彼女のトレーナーだから。
「ふふ……私も信じます、あなたのことを。私のトレーナーさんを……」
「カフェ……!」
カフェが柔らかく微笑んで、オレの耳をそっと触る。
今までに感じたことの無かった感覚に、ぴくりとウマ耳が跳ねてしまうが不思議と嫌な感じはしない。
こうして、オレはこんな姿になりながらも一人理解者を得ることが出来たのであった。
~~~~~~~~
「で……なんでオレはこんなことになってるんだ……?」
「似合ってますよ……トレーナーさん」
「そういう問題じゃなくてだなぁ!」
時刻はカフェを説得し終えた後だから……大体午後の一時ごろだろうか。
オレとカフェはとある理由で、ショッピングモールに買い物へ来ていた。
ここまでだったらまだ普通の状況なのだが……
「うぅ、ひらひらしてて落ち着かない……。これで歩いたりするとか無茶だろ……」
「慣れてください。これからお世話になるんですから……」
「絶対これっきりでしょ…… 。これ着るの……」
ひらひらとしたスカートが歩くたびに揺れて、いちいち下半身が心配になる。
足元がすーすーして心許なくなる防御力の低さ。普段からこれを着ているウマ娘には変な尊敬の念を覚えてしまう。
そして、オレがこんな慣れない格好をしているのには訳があった。
「なんで理事長も理事長で、すぐにこの状況把握したんだ……」
「さぁ……? まぁでもよかったじゃないですか……。それ、貸してもらえて」
「それもそれだよ! 着る服が無いって言ったら、制服渡してくるのおかしいだろ! なんかサイズもピッタリだし!」
そう。オレが今着ている服装は、カフェとお揃いのトレセン学園制服だ。
パッと見たら、二人のウマ娘が仲良くお出かけしているようにしか見えないだろう。
これもオレがウマ娘になったということを、電話一本であっさり把握した理事長が悪い。
「はぁ……」
オレが今後の生活のことを考えて深いため息をついていると、目の前を歩いていたカフェの動きが止まった。
それに釣られてオレも首を上に上げると、とんでもない光景が視界に入ってしまう。
「さて、到着しましたよ……。やっぱりウマ娘になったらこれは絶対必要ですからね……」
「……ナニコレ」
「ランジェリーショップ……です」
オレの目の前に広がっていたのは、やたら色取り取りの布が一面に飾られているお店。
そもそも男性であれば、滅多に入ることを許されないサンクチュアリ。
ランジェリーショップ。その名が示すのは、女性の下着を専門的に取り扱っているお店で──
「じゃあ、オレはここで」
「ダメに決まってるじゃ無いですか。ほら、入りますよ……」
オレが180度回転して戻ろうとした瞬間に、カフェに腕をがしりと掴まれて引き止められる。
今カフェと買い物に来てる理由は単純で、今後必要なものを買い揃えるためだ。
だけどこれはマズイでしょ! 教え子と一緒に下着を買いに行くのは犯罪臭しかしないって!
「ですが、トレーナーさん……今、胸痛いですよね?」
「んぐっ」
そう言われると、何も言い返せない。
今オレの胸には、ブラとかはつけていない状況。そのせいか分からないが、なんかめっちゃ胸元らへんがすれてちくちくと痛い。
「ブラには胸を保護するだけじゃなくて、形を整える効果もあるんです……。無いとこれから困りますよ……?」
「確かにそうかもしれないけどさ、中に入るのはちょっと、ね?」
「お店じゃないと大きさとか測れませんし……。恥ずかしいのであれば、私が選んであげますから……」
女の子の下着事情について、担当ウマ娘から教えてもらう日が来るとは思わなかった。
どうしても反発心が出てきてしまうが、今ここでこのチャンスを逃すと一人で下着を買いに行くことになるかもしれない。
それは、あまりにもハードルが高すぎる……!
「わ、分かった。買いに行こう……。というか、今日で終わらせよう……」
二度は、行かない。そう決心してオレは未知の領域へと足を踏み入れた。
カフェが先導してくれたので、その半歩ほど後ろをゆっくりとついていく。
初めて入ったランジェリーショップの中は「女の子のための空間」って感じで、視線が泳ぎまくってしまっていた。
「はい、じゃあ測っていきますので上だけ薄着になってください……」
「優しくしてくれ……」
そのまま二人一緒に試着室の中に入り、胸のサイズを測るための準備をし始める。
簡易的な密室でオレの姿は、上半身がシャツ一枚で下半身は制服のスカートのままになってしまった。
なんだかいけないことをしてるみたいで、かなり恥ずかしい。
それはどうやらカフェも同じみたいで、ちょっと顔を赤らめていた。
「いきますね……。背筋、伸ばしてください……」
「おう……」
背中に回り込んだカフェが脇の付け根にメジャーを当てて、そこからくるりと胸を一周させる。
「ひうっ」
「はい……息を吸って吐いて……。腕は下ろしてくださいね……」
他人に弄られるとなんだかくすぐったくて、変な声が出そうになるが頑張って我慢する。
それをトップとアンダーで二回ずつ。どっちも調べないと、正確なサイズが分からないのだそう。
というか、測っていくにつれてカフェの顔が険しくなっていくんだけど……
「……私が見繕ってくるのでトレーナーさんは、この中で待っていてください」
メジャーを置いて、カフェが試着室からそそくさと出て行ってしまった。
薄着のまま外に出るわけにもいかないし、オレが下着の良さなんて分かるわけもないので大人しく待っていることにする。
数分後、試着室のカーテンが少しだけ開いてぽいっと雑に数着の下着が投げ込まれた。
恐らくカフェが選んでくれたものだろう。
黒の落ち着いたシンプルな無地のやつで、派手さは無かったのでそこは感謝だ。
「取りあえず、着ればいいのか?」
下着の試着なんてしたことないが、女性ならこういうこともあるのだろう。
そう勝手に納得しつつ、ブラをつけ……つけ?
「カフェー、ブラってどうやってつけるんだ?」
「……自分で調べてください」
外で待機していたであろうカフェに質問してみたら、ちょっと投げやりにそう答えられてしまった。
なんか男性のままだったら使うことの無さそうな知識を学びつつ、オレは目についたサイトに従ってブラジャーをつけようとしたのだが──
「なぁ、カフェー」
「今度はなんですか……?」
カフェが二枚のカーテンで閉じられていた真ん中の部分から、ひょっこりと顔だけ出して覗き込んでくる。
そして──一瞬でその顔を歪めた。
「あのさ、サイズが合わないっぽくて。入らないんだけど、もうちょっと大きいの持ってきて欲しいなぁって」
「……は?」
「へっ?」
あれ、なんかカフェ怒ってる?
するとしゃーっという勢いのよい音と共に、カフェがカーテンを開けて中に入ってきた。
そしてわなわなと小刻みに震えながら、いつもはそんなに開かない小さな口を大きく開け──
「なんなんですか! 嫌味ですか!」
「へ?」
「なんでそんなおっぱい大っきいんですか! 女の子になったばっかりなのに、それいります? いりませんよね! 私にくださいよ!」
「お、落ち着けって。なんかキャラがブレてるぞ」
文句を言い放ってきた。
いつものカフェらしからぬ言動にオレがどうどうと宥めようとするが、あまり効果もなくヒートアップしていく。
そしてぐいっとオレの方に近づいてくると、両手をパーの形にして思いっきりオレの胸を掴んできた。
「柔らかっ……」
「カ、カフェ?」
「おっぱいってこんなに柔らかいものなんですね……」
むにむに。もみゅっ。
カフェが手を動かすたびに、オレの胸の形が変わっていく。
しかも勢いで何も介さず直に触れられているため、彼女のひんやりとした手の温度までも伝わってくる。
「……んっ」
「はーっ……凄いですね、これ……」
「あの、カフェ? そろそろ、離して欲しいんだけど……」
「えっ、あっ、ごめんなさい……」
自分で触るのとは違った不思議な感覚に、思ってもない声が漏れ出てしまう。
カフェがぱっと手を離すと、オレは急いで自分の胸を腕を使って隠した。
ちょっと紅潮してしまった頬を見られないように視線を避けて、試着室の端っこで縮こまってしまう。
そして試着室に流れる変な空気。
時が止まったかのように静寂した部屋の中で、先に動いたのはカフェの方だった。
「違うサイズの持ってきますね……」
「頼んだ……」
そこからはカフェが持ってきた下着をいくつか試したあと、そのまま良さげなものを複数個購入してランジェリーショップを後にするのであった。
もう、いきたくはない……かな。
~~~~~~~~
「なんか尊厳が一気に抉られた気がする……」
「ご愁傷様です……?」
さっき買った下着を入れた袋を抱えながら、オレはトボトボとショッピングモール内を歩く。
ウマ娘には必要かもしれないけど、もしかしたら直ぐに戻れるかもしれないし……
そう淡い希望を抱いていると、目の前を歩いていた彼女がくるりと振り返ってきた。
「まだまだ必要なものはありますよ……?」
「マジか……ウマ娘って大変だな……」
オレがはぁとため息をつくと、彼女は楽しそうに話しかけてきた。
「そうかもしれませんね……。でも」
「でも?」
「私はちょっと嬉しいです……。トレーナーさんと同じ立場になれて」
そう言って、カフェがにこりと微笑む。
ならこのちょっと大変なウマ娘生活も……頑張って続けてみようかな。
「それに悪くないですよ……。女の子の生活も」
こうして。
ひょんなことから始まったウマ娘の生活は、まだゲートが開いただけというのをこの頃のオレはまだ知らない。