正午を目前に控えた龍明探偵事務所内。作業の膨大さが永遠の課題である調査報告書と向き合う自分は、一方的に敵意を剥き出しにしながらノートパソコンの画面と睨めっこしていく。
事務机では所長が椅子にもたれかかっており、スマートフォンを片手に依頼主と思われる人物と通話を行っている。敬語による丁寧な対応とは裏腹に、室内でもサングラスを着けた胡散臭い風貌が面白おかしく映るその光景だが、自分は既に見慣れてしまって特にこれといった感情さえ抱かなくなっていたものだ。
所長は気前の良い調子で喋り、通話を切ってから端末を机に置いて体を後方へほっぽり出す。頭の後ろで両手を組み、背もたれをギチギチと鳴らしながら脚を組み、思案を巡らせていた様子だ。
今日は事務作業だけで一日が終わるのだろうか。外へと繰り出される野外調査も、体力と精神の両方に負担が掛かる非常に過酷な職務ではあるのだが、体を動かせる分まだ運動という名目で気晴らしができるだけ、飽きが来ないないし油断もできず目の前の調査に集中するだけの気力が確保できるというもの。
だが、どれだけ文字を打ち込んでも一向に終わる気配がうかがえないデスクワークは、自分にとって不得意にあたる苦行として、常に苦戦を強いられていた。今も両目の間を指で揉み解しながら画面と向かい合っていると、所長はガラッと背もたれを鳴らしながらこちらへ言葉を掛けてきた。
「おぅカンキちゃん、そろそろ昼休憩に行ってきな」
「はい、分かりました……」
「さしずめ、消化不良ってトコかぁ? 真面目ちゃんなのは大いに結構なんだがよォ、根を詰め過ぎても体を壊すだけだぜ? 気晴らしに陽の光でも浴びて、外を適当に歩き回りながら何かウマいモンでも食ってこいや。それが、今のカンキちゃんにできる最も現実的な、業務効率化の秘訣ってトコロだな」
「ありがとうございます。そう言っていただけますと、とても気持ちが楽になります」
フゥーッと深く息をついた自分は、一旦は目の前の使命を忘却するべくノートパソコンを閉じていく。所長もニッと陽気に笑みながら回転イスをキイキイ鳴らして左右に揺れ、外出の準備をするこちらを眺めていた。
……と、その時のことである。
カッカッカッカッ!!! という足早なハイヒールの音が事務所内に響き渡ると同時にして、休憩スペースの方からは一人の“女性”がてんやわんやと、
「どわあぁあぁぁあああぁぁ!!!! あわわわわわっっっ!!!!」
明るく朗らかな声質に混じった、音程が上下に激しく波立つ誇大な調子。愉快と言えば微笑ましく思えたものだろうが、如何せんその状況が今、彼女が両手に持つペットボトルの炭酸飲料水が“キャップから泡を噴き出しながら今か今かと発射の機会をうかがっているもの”であった故、危機一髪の様子に自分と所長は思わずギョッと振り返りながら“彼女”を見遣り、一気に緊張感を走らせたものだ。
その女性は164cmほどの背丈であり、ミカンのような柑橘系の美味しそうなオレンジ色のヘアカラーと、それが織り成すキツネの尻尾のような形の癖毛ポニーテールというヘアスタイルに、童顔と呼ぶには顔立ちがハッキリとしている丸いほっぺの輪郭と、果物のオレンジの断面図をそのまま目に当て嵌めたかのようにフレッシュで瑞々しい瞳が印象的な人物。
服装は、深く渋い赤色の海老色がワンランク上の大人を演出するノースリーブトレンチコートを前開きにし、フリル襟の白ブラウスと、空色で軽やかな印象を与えるシルエットの七分丈クロップドパンツに、上品なツヤを放つ深みのある赤色のハイヒールという大人カジュアルな格好を基本とした、長い大人歴で培われた豊富な人生経験でおめかしをしたバリバリのキャリアウーマン……。
……を思わせる容貌から繰り出される表情豊かで愉快な面白美人上司。というのが自分の中における“彼女”の印象だった。
女性は目ん玉が縮こまった驚愕の表情を浮かべ、蓋を手で押さえたその佇まいで悲愴感に満ちた絶望的な声を出しながら助けを求めてくる。
「だだだだだ誰かぁぁぁあぁ!!! あばばばばっっっこれ、これ何とかしてぇぇぇええぇぇ!!!」
今も彼女の手には蓋から溢れ出した炭酸飲料水がダバダバ漏れて滴っており、既に事務所の床がシュワシュワのビチョビチョである。これに所長はサングラスを直す仕草を交えながら慌てて立ち上がり、なだめるような調子で彼女へと声を掛けていった。
「お、おいおい“ハオマちゃん”! その状態でこっちに来られるとオレちゃん困っちまうからよ!! 取り敢えずまずは後ろの台所まで戻ってからだな――」
「あばばばばばっっ聞いてくださいよ所長ぉぉ!!! 今朝の占いで炭酸の飲み物がラッキーアイテムって言ってましてぇ!! なので、今日はちょっと冒険して普段は買わないソーダを買ってみたんですけどっっコレを入れてたカバンを通勤中に何回も落としちゃってぇ……!!!」
「お、おおぅそれは災難だったなッ!! っつーわけで、取り敢えず後ろの台所まで戻ってからだな――」
「びゃっ足に掛かって冷たっ」
咄嗟の身動きで、蓋を押さえていた手がツルンッとすっぽ抜ける。
するともう、ポンッという空気の弾ける音を皮切りに騒然。確約されていた爆発的な噴水がジュワジュワと上り詰め、その場で逆ナイアガラ滝を形成した。
共にして響いてくる、ハオマと呼ばれた女性と所長の悲鳴。「ぎゃわぁぁああああぁぁ!!!」と「うおおおおぉぉぉぉお!!!?」のデュエットが龍明探偵事務所にこだまして、その音響に今も噴き出す炭酸のしゅわぱちが混ざることで、悲劇と清涼のアンサンブルが事務所内に奏でられた。
数分の時が経過し、迎えた正午に皆が残業へと励んでいく。
開けっ広げにした窓から都会の空気が流れ込む中、未だに残る炭酸飲料の爽やかさを鼻で感じながら、自分はふきんで長テーブルを拭っていく。所長は水害を被らなかった長テーブルの場所でノートパソコンの動作を確認しており、ハオマという女性は絵に描いたようにコミカルな涙目を表情に貼り付けながらモップをかけていたものだ。
一目で喜怒哀楽が分かるほどの豊かな感性が、彼女の持ち味でもある。故に、彼女が引き起こした事故であるにも関わらず、なんだか彼女が気の毒に思えてくるのも不思議なことではなかった。ただ本人に罪の意識があるためか、今もハオマは情けなくもどこか面白可笑しい声音で謝罪を口にしていく。
「うええぇぇぇぇん…………ごめんなさいぃ……私またドジしたぁ…………」
まるでこの世の終わりのような声を出し、眉をひそめながら深刻な様子でモップをかけていくハオマ。もちろんソーダの暴発ひとつで世界が滅ぶわけがないため、自分は何て言葉を掛けたらいいかも分からず無言の苦笑だけを向けていた。
所長もまた、さほど気にしていない面持ちで顔を上げていく。それからノートパソコンを閉じ、軽やかな調子で陽気に言葉を投げ掛けた。
「そんな気にすんじゃねェよ。パソコンは無傷、調査資料も無事。これといった損失もなく、部屋がマイナスイオンで満たされた。いいことじゃねェか、事務所内の空気が気持ち良くなってよ」
「うええぇぇぇぇん……所長の優しさが体中のDNAに染み渡るぅ……」
「所謂、水も滴るいいオンナってやつだ。ソーダ水を浴びたハオマちゃんは、その経験から一層とオンナとしての磨きがかかった。だから気にすんじゃねェよ、身綺麗になったと思って切り替えていけや」
「ぐわああぁぁぁぁぁぁ……!!!! そんなに優しくされちゃったらぁ……私はもう……ッッ!!!!」
「おっ?? さすがに付き合いの長いハオマちゃんでも、今のセリフでこの男前なオレちゃんに惚れ込んぢまったか~?? まァ仕方ねェよなァ!? ようやくオレちゃんの魅力に気付いてくれてよォ!!」
「あ、別に私はそういうの求めてないので。勘違いしないでくださいね」
彼がサングラスの位置を直しながら上半身を持ち上げていく傍ら、ハオマはふきんを手に持つこちらへと向いてくる。そして彼女は、申し訳無さそうに口元を引きつらせた表情を見せつつも、男の本能として護ってあげたくなるような天性の朗らかさを発揮しながら言葉を掛けてきた。
「それにしても、私の後始末に付き合わせちゃってごめんねぇ、カンキ君。こんなドジばっかりの女上司、頼りになんかならないよね……」
「そ、そんなことありませんって! 年齢とか経験とか関係なく、人間である以上は誰だって失敗ぐらいしますって!」
「うわあぁぁぁぁん……!!! どうしてこうも、ここの人達はみんな優しいのぉ……!!!」
「俺に尾行や撮影のやり方を教えてくれたのも、ハオマさんじゃないですか。ハオマさんから探偵のノウハウを教えて頂いた身として、俺にとってハオマさんは、今でも頼れる素敵な上司の一人であることに何ら変わりないんですから!」
「ぐわああぁぁぁぁぁぁッ!!! なんて素晴らしい人間性! 全身から解き放たれる圧倒的光属性の力……! ――地球が誕生してから46億年。私は今、星の大爆発が生んだ奇跡の権化と会話しているような気分だよぉ……ッ!!!」
スケールが大きいなぁ……。という感想を内心に留めながら、自分は今も胸を押さえたハオマを眺め遣る。
彼女は銃弾に撃ち抜かれたようによろめいて感嘆し、やられた~とフラフラしながらオーバーリアクション気味に感銘を受けていた。いくらなんでも大袈裟じゃないかと思われる彼女の様子だが、そもそもとしてこちらのハオマという人物は、割と本気でこのような言動を日常的に行っているためか、自分はもはや見慣れたという視線でまじまじと彼女を見守っていたものだ。
かと思えば、ハオマはモップを片手にモデルのような佇まいでシャキッと姿勢を正しながら、デキる大人を演出するよう渾身のドヤ顔を披露しつつセリフを口にしてくる。
「でもね聞いて! カンキ君!! 年齢とか経験とか関係なく、人間である以上は誰だって失敗ぐらいするんだよ! だからね、カンキ君も何かあった時は、いつでもこのハオマお姉さんのことを頼ってくれていいんだからね!」
「あ、はい……頼りにしてます」
絵に描いたようなニッコリ顔で、得意げにキメてみせたハオマ。さも何かを成し遂げたかのように輝きを放ちながらセリフを口にする彼女に、自分は余計な事を言わずに立ち尽くしたサマで返答する。
だが、そんなやり取りを眺めていた所長が、次にも汗を流しながら眉をひそめてその言葉を投げ掛けた。
「おいおいハオマちゃん、32にもなって自分をお姉さん呼びはちと無理があんじゃねェか……?」
所長の何気無い一言が、ハオマに震撼の稲妻を打ち付けた。
深刻な落雷の音から数秒後、理解が追い付いたハオマは「ガーーーンッ」と口にしながら盛大にショックを受けた。コミカルに白目を剥き、アゴが外れたような表情を浮かべ、攻撃の食らいモーションのような仰け反りを緩やかに行ってから、直後にも彼女は真っ赤にした頬を膨らませながら苦し紛れに反論し始める。
「そ……そんなことはっありませんっっっ!!!」
「自覚があるからかは知らねェが、心なしかちょっと歯切れ悪ィじゃねェか」
「そ、そんなことはぁ!!? ありませんけどぉっっっ!!!? といいますか、女性相手に年齢を振りかざすのはデリカシー無さ過ぎじゃないですか!!!? もれなく乙女の心が傷付きますよ!!?」
「いや乙女の方がもっと厳しくねェか……?」
「ひどいッッッッ!!!!」
ショック!!!! と表情豊かに白目を剥くハオマ。そうして彼女がガビーンッと本気で衝撃を受けていく傍らで、所長はちょっと一息といった具合に首を鳴らしながらこちらへと言葉を掛けてきた。
「おぅカンキちゃん、昼休憩なのに手伝ってもらってすまねェな。詫びと言っちゃァなんだが、こっちで休憩時間を増やしといてやっからよ、そろそろ作業を切り上げて、気晴らしに
「そう言えば、ランチタイムはレストランとして営業しているみたいですよね」
というのも、自分が今まで通っていた
「ありがとうございます。ではせっかくなので、
「おう! そいつがいいぜ! 如何せん、カンキちゃんのガールフレンド達が勤めている職場だ。ハーレムを築いてるイカしたボーイフレンドとして、パートナー達のいる環境を知っておいた方が良いに越したことはねェからよ!」
「またまた、そんな……」
「ハイ!! カンキ君がちゃんとお店に辿り着けるか心配なので、私も見送りとして同行します!!」
「フランス料理につられて提案したんだろうがよ、そいつはちと許可できねェな。残念だが、ハオマちゃんはここでお掃除の続きだ。部下に尊敬される理想のお姉さんとして、まずは目の前の責務をきちんと全うしような?」
「っっ!!! きゅううぅぅぅぅ…………っっ!!!」
試合の結果は、彼女の発言を逆手に取った所長の完全勝利で終わった。
何も言い返せない。ハオマは
龍明探偵事務所は今日も平和だ。