最初の緊張はどこへやら。気付けばアパートの敷地内に踏み入れていたあっという間の現実に内心で驚かされながらも、自分は今も隣を歩く可憐な美女ラミアを連れて自宅を目指していく。
盛況な歓楽街から外れ、静まり返った住宅街に何気無く佇んでいた六階建ての住居。これといって特筆するべき点が無い、至って平凡的なそれの階段を上ること三階層目に、自分の部屋が存在している。
ラミアの重い荷物を提げながら訪れた扉の前で足を止め、自分は取り出した鍵で開錠して明かりを点けていく。共にしてボウッと広がった照明に室内が照らされると、閉鎖的な一直線の廊下がわずかに奥へと続き、次第にもすっからかんなワンルームが待ち受けていた。
ベッドやテレビ、ローテーブルや座布団などがポツンと置かれた殺風景。簡素なラックに鉛筆や紙などが軽く用意された光景の他に、洒落っ気を演出するインテリアなどは一切と見受けられない。あまりもの味気無さにラミアはちょっとだけ足を止めていくものの、淡々とした調子で言葉を述べてきた。
「素材の味が活きているお部屋ですね」
「お恥ずかしながら……」
「まー、カンキさんのお部屋なんですから、カンキさんが快適に過ごしていらっしゃるんでしたらソレでイイと思いますよ?? こーして泊めていただけるだけでも、ウチとしては有難いモノです。そーいうワケで、お邪魔しますねー」
「どうぞ、上がって。何と言うか、外の世界の煩わしさを感じさせないプライベートルームみたいな感覚で休んでもらえると嬉しいな……」
質素な個室に、一つまみの擁護を添えてラミアを歓迎する。彼女は厚底ブーツを脱いだ後にさっさと部屋に上がると、廊下の両側に付いていた扉をそれぞれ開いて中を確認し始めた。
玄関から見て左手の扉はトイレに通じており、右手の扉は洗面所、更に引き戸を挟んで浴室へと繋がる間取りが展開されていく。それらを確認した後に廊下へと引き返し、殺風景なワンルームの空間を見渡した。
バルコニーへと繋がる大きな窓の他、小さな台所と壁に埋め込まれたクローゼットなんかも一応は備え付けられている基本的な部屋。あとは先述した家具くらいがポツポツとうかがえる中、あまりにも持て余したフローリングの空間に、ラミアはチョコンと可憐に佇んでいたものだ。
自分は玄関の鍵を閉め、彼女の靴の向きなんかを直してから上がっていく。そして空きすぎている空間に旅行カバンを置き、沈黙を持て余すように歩きながら言葉を投げ掛けた。
「テレビとか台所とか、部屋の物は自由に使ってもらっていいからね」
「あー、じゃー早速ですけどお風呂を使ってもイイでしょーか?? お化粧とか早く落としたいので」
「分かった。今から掃除するからちょっと待っててね」
「あーイイですよ、お掃除ならウチがやりますから」
「いやいや、大事なお客さんに掃除させるわけにはいかないよ」
「泊めていただく分、ウチにもナニかお手伝いくらいはさせてください。そーでもしませんと、ウチとしましてもなんだか気が収まりませんから」
「そう? なら、任せちゃおうかな……」
申し訳無さが勝る中、ラミアはポンチョを脱いでベッドの上に置いていく。
だが、これによって下からノースリーブの白色ブラウスが全容を現わしたことで、清純な印象と共に脇を露わとなった立ち姿が実に
慎ましい胸と、立ち込める蒸れた熱気。彼女は続けてオーバーニーも脱いでポンチョの上へ放り投げていくと、ラミアは素足でフローリングをひたひたと歩きながら返答してきた。
「ダイジョーブですよー、ベツに物色とかしませんから。そーいうワケで、さっさとお掃除済ませてきちゃいますねー」
「あ、あぁ、了解……」
テキパキとした動作を伴い、淡泊な足取りで廊下へと姿を消したラミア。部屋の角へと消えた後に洗面所の扉と浴室の引き戸が開かれる音を耳にしてから、自分は尻ポケットのスマートフォンをローテーブルに置きながらその場でゆっくりと腰を下ろしたものだ。
……可憐で愛嬌がある風貌の中に、
か弱い身体からは非常に魅惑的なフェロモンを感じさせ、男の理性や本能をすこぶる揺るがしてくる。彼女が
歓楽街『
――とか考えていると、テーブルに置いたスマートフォンが電話を受信した。
相手は所長だ。自分は直ぐにも手に取って応答する。
「はい、歓喜です」
『よぅ、カンキちゃん。ラミアちゃんとお楽しみのトコを邪魔してすまねェな』
「何言ってるんですか……」
悶々とする感覚を一層と意識してしまう所長の言葉に、自分は呆れ気味な表情を浮かべつつ図星を突かれたような気分になる。だが、次にも所長は真面目なトーンで喋り始めた。
『経過報告だ。ラミアちゃんに付き纏うストーカーの件だが、今日はそれらしい人物を見かけることはなかった。つまるところ、シケだな』
「そうでしたか……。こういう時に限って現れないなんて、なかなかタイミングが合わないものですね」
『しゃあねェさ、探偵は常に忍耐との勝負なんだぜ? よくドラマかなんかの刑事と間違えられるが、
「世知辛い世の中ですね。何よりも被害者が怯え続けなければならない現実に、胸が痛むばかりです」
『カンキちゃんは真面目ちゃんだからよ、ちと気ィ張り過ぎなんだよなァ~。んまぁ、しゃあねェモンはしゃあねェのさ。世の中ってのは結局、なるようにしかならねェ。割り切るコトも時には肝心ってなワケよ。だから今日のトコは、腹いっぱいメシでも食って、風呂にゆっくり浸かってしっかり温まってから、早めに休んで気持ちを切り替えていくってモンだろうよ』
「ありがとうございます、所長」
なんだか、目頭が熱くなってきた。
こういう言葉を掛けてくれる上司なんだよな。としみじみ思って鼻を擦っていく自分。そうして感傷に浸るようジーンと感動していたのだが、次にも端末越しの彼は直前の雰囲気をぶち壊す勢いで、飄々とした調子の良さでそれを喋り出してきたものだ……。
『あァ!! でもカンキちゃん、今日はこの後“本番”が控えているモンなァ!!! こりゃいっけね! 早めに休めとかそんな野暮ったいコト言われちまったら、カンキちゃんの“ヤル気”がシナシナの萎え萎えになっちまうってモンだよなァ!!!』
「はい?」
『
「あの、所長?」
『張り切りすぎて腰痛めんじゃねェぞ~?? 明日の業務に支障が出るからよォ~! 過去にやらかし経験がある先輩の教訓だ! ……熱い夜はこれからだぜ? 最後まで一滴残さずカンキちゃんのホンキを出し尽くして、ラミアちゃんの身も心も骨抜きにしちまいなッ!!! じゃあな! 頑張れよ!』
ブツッ――
穏やかな海原に突如と現れた最大瞬間風速の嵐。それがありとあらゆるものを蹴散らしながら過ぎ去ると、そこには残骸だらけになった惨たらしい海原の姿のみが残されていた。
顔を真っ赤に染め上げた自分は暫し、呆然と言葉を失っていた。眉が吊り上がった白目の表情で、今にもスマートフォンを握り潰してしまいそうな勢いで持て余した羞恥の感情と共に…………。
所長からの電話によって筆舌に尽くし難い衝撃がもたらされたものだが、結果としてそれが冷静さを取り戻す一番の要因になったことも確かだった。
煩悩に支配されていた思考は、自身を遥かに上回る“ホンモノ”を思い知ることでハッと我に返り、気を引き締め直すように心構えを改める。そして直にも風呂掃除を終えたラミアが戻ってくると、自分はこの一瞬で生まれ変わったかのように落ち着きを払い、まるで言葉が淀むことなく会話を行うことができた。
それから時間は少し進み、彼女が入浴を終えた場面から再開する。
自分が台所に立ってフライパンを振るっていく最中、一番風呂を堪能したラミアがホカホカと湯気を出しながらひたひたと廊下を歩いてくる。彼女はウサ耳が付いたフード付きのルームウェアを着用しており、紫色のそれをゆったりと着こなした姿で淡泊に現れたものだ。
「お風呂、お先にいただきましたー」
「良いタイミングだね。ちょうどこれも作り終わったから、今からご飯にしよっか」
フライパンの手を止め、ガスコンロのスイッチを切りながら振り向いていく。それからラミアの方へと視線を投げ掛けると、直ぐにもこちらにトテトテ駆け寄ってきた彼女が、ウキウキな様子で手元を覗き込みながら訊ね掛けてくる。
「わー!! ご飯!! イイですねー!! 献立はナンですか??」
「簡単にチンジャオロースを作ったんだ。あとは白米くらいしかなくて……もっと豪華な食事が用意できれば良かったんだけど、まさか今日、人を部屋に招くなんて思ってなかったから、完全に油断してたよ」
「そんなコトありませんよー。コチラから急に押し掛けたよーなモンですから、こーしてお夕飯まで用意していただいたカンキさんの優しさで、ウチはもうジューブン、イイ思いをさせてもらってますよー」
これまで見せてきた淡泊な調子から少し砕けて、上目遣いを駆使したいじらしい猫なで声ですり寄ってくるラミア。男心をよく理解した、甘え上手の可憐なドールフェイスの彼女に接近されたことで、自分は内心で昇天しながら会話に臨んでいく。
「さ、先にテーブルで待っててもらえるかな……! フライパンもまだ熱いから、近付いたら火傷する心配もあるし……!」
「お家に泊めていただけるだけじゃなく、ウチの心配までしてくれるんですか?? もー、カンキさんってホントに優しいオトコのヒトなんですねー。そんなに手厚くおもてなしされちゃったらー……ラミアちゃん、カンキさんのコト、もっとスキになっちゃうかも……??」
「えっ」
「じゃー、そーいうワケでお先にテーブルでお待ちしてまーす。化粧品とか色々テーブルに乗せてますけど、邪魔だったらテキトーに退けてイイですからー」
甘い言葉で男をその気にさせたかと思えば、クルッとそっぽを向いてタタタッと走り去ってしまうラミア。まるでスイッチのオンオフを切り替えるように裏表を見せてくる彼女のそれを見て初めて、自分は本心から好意を勘違いし、翻弄されていたことに気が付いていく。
さすがは美形揃いの魔境
今も旅行カバンから大量のスキンケア用品を取り出し始めたラミアの様子を眺めながら、自分は敬意を表すると共に心を掌握される恐ろしさでゴクリと唾を飲み込んだ。こんな魅力的な異性が傍に居て、好きにならないわけがないからだ。
果たして自分は、ラミアという存在を傍に置いていて無事でいられるのだろうか。これが心の火傷だけで済めばいいのだが、そんな心配事が杞憂で終わることを切実に願うばかりである……。