――龍明探偵事務所 事務所内
時刻が18時に差し掛かり、歓楽街『龍明』の通りからは次第と浮き立った声が聞こえ始めてくる。看板や店舗にはポツポツと明かりが灯り出し、黄昏の夕日は間もなく地平線へと沈むだろう。
照明が点いた室内にて、自分はパイプ椅子にもたれながら背伸びをした。目の前には開かれたノートパソコンが存在しており、画面に映し出された『調査報告書』の文字が呪いのように付き纏ってくる。一向に終わりが見えないそれをひたすら憂いに思っていく中で、事務机で腰を据えていた所長はイスのキャスターをカラカラ鳴らしながら、陽気な調子でこちらに言葉を掛けてきた。
「よぅ、カンキちゃん。時間も時間だからよ、そろそろ適当に区切りをつけてアガんな」
「分かりました。……ただ、あともう少しで調査報告書が完成しそうなんですよ」
「ダメだダメだ! 続きは明日にして今日は
「それは失礼しました。では、今日はこれで上がります」
所長がコミカルに手を振りながらシッシとしてくる様子を見て、自分は苦笑しながらノートパソコンを閉じていく。
パタンと閉じたそれと共に、周囲へと意識を投げ掛けた。
今も自分がいる長テーブルには直前まで使用していたノートパソコンが一台と、向かい側の席にも開かれた状態で放置された同様のノートパソコンが2台うかがえる。そんな状況を他所に自分は帰り支度を始めると、事務机にいた所長はキィッとイスを鳴らしながら、ふらぁっと揺らめくようにふと立ち上がったものだ。
どこか浮かれたような足取りで、彼は冗談を交えるような笑みを見せながらこちらへ歩み寄ってくる。そして直にも所長はこちらの背を軽く叩きながら、気さくな調子で喋り掛けてきた。
「それに、今日は
「所長が考えているほど、俺達はそういう仲じゃないと思いますよ」
「またまた謙遜しちまって~、このこの。デュクシ、デュクシ、ヘヘッ」
そう言って所長は、表にした平手でこちらの横腹をつついてくる。くすぐったいちょっかいで自分が「うひっ」と悶えながら体をくねらせていく傍ら、所長は調子良く言葉を続けてきた。
「にしても随分と景気が良いじゃねェか、カンキちゃんよォ。何せ、あの店で働いている美女と一緒に暮らすことになったんだ。カンキちゃんが信頼で勝ち取ったこの幸せは、普通に生きてる分にァどんなに金を積んだって手に入らねェとても貴重なモンなんだぜ?」
「相手にそこまで考えていただけているかどうかは、正直ちょっと計りかねるところもありますが……。同棲の提案は俺としても悪い話ではありませんでしたし、何よりもそれでラミアが安心できるのなら……と思って承諾しただけですから」
「自分の都合じゃなくて、飽くまでラミアちゃんの気持ちを汲んだ上での決断ってワケかい。ッかァ~!! つくづくデキた人間だなァ、オメェはよォ~!」
愉快げに喋る所長は、こちらの肩に手を掛けてから強く揺さぶってきた。そんな上司からの
「オレちゃん、正直カンキちゃんのコトが羨ましいったらありゃしないぜ。如何せん、“美女のサンドイッチ”はオトコのロマン! ハーレム生活はオトコの夢そのものなんだからよォ~~~。“一粒で二度おいしい”とは正に、こういう事を言うんだろうなァ~~~! ……カンキちゃんを見習って、オレちゃんももっと紳士的な方向性のキャラで売っていくべきか?」
「本当に、同棲を提案された後に初めて聞かされたことなんですけど、まさかラミアが“お店の女の子と二人でルームシェアをしていた”とは知りませんでした……。話次第では“その相方さんも一緒に移ってくる”かも? とはなっているんですけど……まぁその相談もこれからするところなので、今はまだなんとも言えないですね」
というのも、ラミアは現在
自分はこの後、その人物と相談するべく
期待と不安の両方が入り混じる、ワクワクとドキドキの融合物質が脳内を支配する。意識は完全にそちらへ持っていかれており、緊張を帯びつつも新たな展開に想像を膨らませていたその最中にも、今も隣で佇む所長がフォローするように言葉を掛けてきた。
「ラミアちゃんの相方さん自体は、ストーカーの件で別のお店仲間ントコに避難してもらっていたモンだからなァ。……二人暮らしとはいえ、やっぱり凶器を持ったストーカーが自分らに目を付けていたと考えりゃァ、そりゃ怖ェと思うに違いねェ。その観点から考えれば、そんな自分らを守ってくれる、心から信頼できる用心棒の男が一人でも身近に居てくれると、そりゃァ彼女らはすごく安心できると思うぜ」
「俺に、そんな重大な役が務まりますかね……」
「少なくともオレちゃんならよ、『ラミアちゃん達を護るに相応しい人物は誰か』を訊かれた際には、迷いもなくカンキちゃんの名前を挙げるぜ。何せ、柏島歓喜という男に託しておけば確実に安全だからだな」
「安全、ですか?」
「あァ、そうさ。思いやりの精神は勿論のことだが、どんな相手でも受け入れる寛容深さや、相手を尊重する献身的な人間性なんかが、日頃のカンキちゃんからうかがえる。だから確信できるのさ。『コイツなら、ワケありの経歴を持つ彼女達を傷付けない』と」
いつになく真面目なトーンで喋り始めた所長は、遠い情景を見透かすように視線を途方へと投げ掛けながら腕組みをして、言葉を続けてくる。
「如何せん、あの店の女の子達はみんな綺麗でカワイイからよ、やっぱり低俗な連中がまァ寄ってくること寄ってくること。そんな不毛地帯のど真ん中に解き放たれようとも決して挫けず、環境に適応して逞しく生き延びる彼女達の姿は心底から立派に見えてくる反面、同時にして彼女達が、人間社会を生きるにおいて必要な『大切なモノ』を欠落した状態で、今も自分に鞭を打ちながら刹那的に生きているようにも見えちまう」
「大切なもの?」
「『信頼』さ。過去から現在まで続く数多の苦境に立たされて、彼女達は周囲の人間を疑わずにはいられなくなっちまったんだ。どんなに褒められようとも彼女達はそれをお世辞として受け取るし、どんなに優しくされようとも彼女達はそこに隠された真意を訝しむ。彼女達の思考は常に『懐疑』の文字で支配されていて、目の前の人間から理不尽に加えられる熾烈な攻撃に耐えるために、彼女達はずっと臨戦態勢で身構えたまま、その毎日を過ごしているんだ」
哀愁を漂わせる所長の佇まい。一呼吸もの静寂が事務所に迸った後、所長はこちらへ視線を戻しながらそれを告げてくる。
「だが、そんな世紀末の荒野に、ひとつのオアシスが生まれた。それこそが、カンキちゃん。オマエさんという存在だ」
「俺、ですか……?」
「オマエさんの優しさは、他人の淀んだ心を浄化させてくれるような気がしてならない。んまァ、そこにつけ込んでくる連中も勿論いるにはいるだろうよ。でもな、その真っ直ぐな優しさ……親身になって寄り添える柔らかな温もりは、荒み、拒み、そして全てを諦めた
所長はこちらの肩をトントン叩き、ニッと口角を上げながらも諭すように穏やかな調子でセリフを締め括ってきた。
「だからよ、給料以上の仕事を任せるようで本当に心の底から申し訳ないとは思うモンだがよ。カンキちゃんさえ良ければ、これも何かの運命としてラミアちゃん達に協力してやってくんねェかい。こいつァ業務命令とかじゃなくて、オレちゃんからの個人的な、ただただ純粋な、切実なお願いとして、よ」
「……まだまだ不安だらけで、自信を持って請け負うことはできませんけれど。そんな俺にも何かできるものがあるのなら、やれる範囲で、全力で協力したいと思います」
「すまねェな、余計な使命感を担がせてよ。そういうわけで、彼女達の面倒を見てやってくれや。頼んだぜ」
ニッと笑んでみせた所長の表情からは、心なしかいつもの陽気なオーラを感じさせなかった。しかし次にも彼は壁掛け時計を確認すると、先までの湿っぽい空気を自ら断ち切るかの如く、こちらの背中を強く押し出しながら飄々と言葉を口にしてきたものだ。
「ほら、とっくに終業時間だ! ガラスの靴をこしらえた王子様のお迎えを、二人のシンデレラが舞踏会で待ってんぜ! プリンセス達を早く安心させるためにも、さっさと顔を出してやんなよ。