丁寧かつ素早い手捌きでアイスナイフを扱い、黄金のシャンデリアを反射する
冷気を放つグラスは清涼感に満ち、周囲に飾られたボトルやグラスの透明感が相乗して一つの芸術的な光景を生み出していく。そこへ三角形に切られたくし形のライムが持ち込まれると、適度に搾られた酸味の果汁がグラス内に滴り落ち、角氷の上で踊るように跳ね返った。
足元の棚から取り出したトニックウォーターの瓶。蓋を開いてステンレス製の小さな計量カップにトクトクと注ぎ入れ、一定の量に達すると共にグラスへと移していく。このトニックウォーターが角氷に触れることで奏でられる、パキパキとした心地の良い氷結の音が響いてくる傍らで、今も隣のカウンター席に存在する女性キャストのメーが勝気な面持ちでこちらに喋り掛けてきた。
「あんさ~? この後ラミアと一緒に帰るっしょ~?」
「そうだね。そういう約束になってるよ」
「じゃあさ! あたしも今日ラミアと同じ時間にアガるからさぁ、この後あたしも泊まりに行っても良き的な~?」
「え?」
「どうせあたしもそっちに引っ越すんだからさ~、下見とかしときたいじゃん? まぁぶっちゃけ、ここから歩いて20分とかの距離っしょ? 店から近いから、早く帰りてぇ~ってだけなんだけど」
「そっか、二人は駅まで移動して電車に乗らなきゃだもんね」
「それがマぁ~ジでダルいの! だから、ラミアさ~、マジでサイコーな物件見つけてきたじゃ~んって! いちいち電車とか乗らなくてもいいし、節約として割り勘で借りてるボロアパートからも出られて、しかも変なストーカーに追い掛け回されなくても良さそうだし? もう、ラミア、チョーナイス~ってカンジ!」
ギャルっと明るく微笑んだメーは、ウキウキと体を揺らしながら機嫌良く振る舞ってくる。
その間にも眼前のジントニックは、マスターの手腕によって着実と完成への工程を踏んでいた。細かな計量でトニックウォーターをグラスの八分目まで入れると、その瓶のラベルが客に見えるようお洒落に置いてから、続けて炭酸水が入った透明な瓶をパチパチと九分目まで注ぎ入れる。次に
マスターはコースターを用意し、それに乗せた一品を提供する。彼の武骨で大きな手がカウンターの上を滑っていくと、自分の前には幻想的に透き通るジントニックが現れた。
上る炭酸が神秘を演出する、大人が喜ぶ一日のご褒美。店内の黄金に照らされたそれに自分が思わず見惚れていく傍では、メーは寝そべるようにカウンターへ寄り掛かった姿勢でこちらの顔を覗き込み、勝気でハキハキと、どこかうっとりとした視線を向けながら眺めてくる。
マスターとメーの視線を受けながら、自分はジントニックを手に持っていく。冷え渡ったグラスがキィンと触覚に訴え掛けてくる中、自分は「いただきます」と一言、グッと喉に流し込んだ。
腕組みするマスターが、渋い声音で「いい飲みっぷりだな」と口にする。メーからも周囲に負けず劣らずな美貌でニヤニヤと見遣ってきて、彼らの期待がうかがえる。
皆が店の味を誇りに思っているのだろう。自分は喉で弾ける炭酸を感覚的に浴びながら、巡るアルコールの心地良さと爽快な酸味の味わいの下、極上ののどごしを堪能した。
「ッ~~~~……!!!! ……ぅンまい……っ!!!」
若返りの薬を飲んだ気分になり、頭上の煌びやかなシャンデリアの光をまじまじと見つめながらその一杯を味わった。それがまたなんとも格別なことか、言葉にし難い美味の快楽に
目的はメーだったらしい。隣に座るだらりとした彼女の下へ近付くと、これもまた例外に漏れずタキシードを纏った美形の彼は、口元に手をあてがいながら小声でメーに言葉を伝えていく。
「メーさん、5番テーブルからご指名です」
「んぁー? りょうか~い。すぐ向かう~」
男性キャストはこちらに向き、「ごゆっくりどうぞ」と一言を告げて一礼をする。自分もそれに会釈していくと、歩み去る彼に続いて重たい腰を上げたメーが背伸びを交えて喋り掛けてきた。
「呼ばれちゃったからさ~、ちょっくら行ってくるわ~!」
「あぁ、分かった。今日は相手をしてくれてありがとう」
「マ? 一緒にいた時間チョー短かったのに感謝されんの、なんかウケるんだけど」
立ち上がったメーは、意外そうに眉を上げながら悪戯に微笑んでくる。そのヤンチャな明るさはまさに彼女の自然体を表しており、内側から溢れんばかりのカジュアルな煌めきオーラを放ちながら、メーはニカッと笑みをひとつ、立てた人差し指を突き出したハイテンションでその言葉を伝えてきたものだ。
「言っとくけど、あたしのパーリナイはまだまだこれからだかんな? 仕事上がったらカンキくんの部屋に行って、ラミアも入れた三人でオールナイトすっから、今の内に覚悟しとけよぉ~~~??」
「あー……周囲の騒音になっても困るから、お手柔らかにお願いします」
「ヘイヘーイ! ♪お部屋の借り主ビビってる! フゥーー!! フリか~? それってフリなんか~? なら期待に応えて、今夜は寝かせないぜぇ~?」
「えっ」
「アッハハハ! 冗談冗談! ガチでビビってて笑う。真面目くんか? んじゃまぁ、最後にいっちょ追い込みかけてくるわ~。サイコーな気分で仕事終わらせて、サイコーな気分でアフター楽しみたいからね~。そういうことで、バイなら~」
両手でツンツンする仕草を交えながら
次第と遠のいていく彼女の存在感に、自分は無意識にも寂しさを募らせていたのかもしれない。どこか名残惜しい眼差しで去り行くメーの背中を見送っていく最中に、カウンター越しのマスターからはその言葉を掛けられた。
「出掛けた飼い主を目で追う子犬みたいな目をしてるぞ。そんなにアイツのことも気に入ったのか」
「……かもしれません。メーと一緒にいた時間も、まるで夢を見ているような心地良さを感じました。ですけど、彼女にも仕事がありますからね。仕方ありません」
「こんなオッサンと二人きりにされて、災難だったな」
「そうは思いませんよ。確かに最初はビックリしましたが……マスターは男の理想を体現したような存在。所謂、男が憧れるタイプの男性像ですから」
「おっ? お前もしかして口説いてるのか!?」
「え!? いえいえいえ違います!!」
「なんだぁ、そんな露骨に否定しなくてもいいじゃねぇか」
「えっ、いやそれは」
一連のやり取りで、自分は失礼を働いたのではないかと一気に不安になる。だが、そんなこちらの内心を裏切るようにマスターはニヤりと口角を上げると、次にも彼は分厚い両腕をずんぐりと組みながら、大きな口を開いて大笑いし始めた。
「だっはっはっは!!! お前は本当にイジり甲斐があるヤツだな! 何でもかんでも真に受けて、純粋なもんだ! さては、よく詐欺にでも遭ってんじゃねぇのか?」
「これといった詐欺に遭ったことはありませんが、よく宗教の勧誘をお断りするのを申し訳無く思ったりはします……」
「お前そんなんでよく世間の食い物にされなかったな! やっぱ徳って積んでおくもんなのか?」
「あ、毎年初詣でお参りをしています。それで運が良いのかもしれませんね」
「ぶわっはっはっは!!!」
「え!? え!?」
困惑、その一言に尽きる。
まるで、ちょっとの衝撃で破裂する水風船を目の前にしたかのように、両手を構えてあたふたしてしまう自分。なにも悪いことなんかしていないはずなのに、どうしてかものすごく恥ずかしい思いをしているような気がしてきて、段々と顔が熱くなってきた……。
「いやすまんっ、なんでもねぇっ。っははは! っはぁ……」
「えっと……?」
「……俺、なんかお前を見てて心配になってきたわ」
「えっ……!?」
「いやな、お前を見ていると、優し過ぎるのも考え物だなって思えてくるんだ。別にそれが悪いってわけじゃない。ただ、愛想を振り撒きすぎて頼りない印象が強くなるって言うのか。世間的に見て、世の男の力強さやカッコ良さが優しさよりも優先されている理由に、妙に納得がいったというか」
「あの……」
愉快げに大笑いしたかと思いきや、マスターは腕を組んだ状態の右手でアゴ髭を擦りながら、垂れ下がった
「お前、さては彼女いたことねぇだろ」
「え!?」
「図星だな?」
「……お恥ずかしながら」
「だろうな。パッと見の女性ウケは良さそうだが、優しいがあまりに刺激がねぇから、『この人が自分のことを好きになるとどんな反応をするんだろう』とか、『この人に恋の駆け引きを仕掛けるとどれだけ必死になるんだろう』とか、そういう女心を揺さぶるシチュエーションがあまりにも想像できなさ過ぎて、結果的に興味が薄れて友達以上の関係から進展しないタイプの男とみた」
「そ、そこまで分析できるんですか?」
「伊達にバーのマスターやっちゃいねぇよ。こっちは色んな客を見てきたんだからな」
「お恥ずかしい限りです……」
「でも、案外それでいいのかもしれねぇな」
「え?」
手に持ったグラスのジントニックが泡立つ音を、神経から感じ取る。
賑やかな店内であるにも関わらず、自分の意識は前方へと真っ直ぐ向けられていた。例えるなら、ゾーンに入ったかのような、集中的で、自分だけの世界に入門したかのような、一時的な超感覚。
アゴ髭を擦るマスターは武骨で渋い、静かなる力強さを含めた面持ちを見せている。だからこそだろうか、前髪の奥に潜む人狼のように鋭利な眼差しを、自分は容易く想像することができてしまった。
――今、品定めをされている。自分が“彼女達”を託すに相応しい人物であるかを。
「ラミアやメーに限らず、この店の連中は他人から与えられる優しさを知らずに生きてきた奴らばっかりだ。本来なら十分に摂取できているはずの、愛情という栄養素が不足した状態で、今もてめぇの体に鞭打って、無理やり言う事を聞かせながら、労働の疲れとはまた違う気持ち的にしんどい生活を送り続けている。それが、ここ数日間ずっとお前が傍で見てきた女の実態なのさ」
「愛情という栄養素……」
「栄養不足になると、体が正常に機能しなくなってくるよな。カルシウムが不足すると骨が弱くなるし、鉄分が不足すると貧血になる。それと同じようなメカニズムでな、愛情が不足すると人間、心が正常に機能しなくなるんだよ」
「心が、正常に機能しなくなる……」
「そうすると、どうなるか? 今いる場所を自分の居場所と思えなくなる。じゃあ、居場所を失った人間はどうするか? 自分の居場所を求めて各地を
「…………」
「でもな、これまた当人達は搾取されていることに気付けねぇんだ。だってよ、愛情不足で心が正常に機能しなくなっているんだからよ。心と連動している思考だって、心の異常につられて不具合を起こすだろう。だから、思考能力を奪われた当人達は、都合良く搾取されている現実に気付くこともできないまま、偽りの温もりを愛情と勘違いして、無償の愛を捧げてくれる対象に依存する」
マスターは両手をカウンターに着き、その屈強な体格の重心を前へ傾けてきた。
左右に揺れる、獰猛な肉食動物の獣毛を彷彿とさせる前髪。その隙間から僅かに覗き見する三日月のように細い黄色の瞳と、夜が落ちた暗黒の黒白目が、あたかも獲物を補足した怪物かの如くギラギラとこちらを見下ろしていたものだ。
「この店はな、そんな愛情という栄養素を摂れずに社会で蹂躙されてきた手負いの獣共が、それでもこの世にはまだ自分の居場所があることを心から信じて、満身創痍になった血だらけの、痣だらけの体を引き摺りながら、泥水を啜り、僅かな希望を託して、藁にも縋るやっとの思いで扉を叩きに来る、云わば最後の砦なんだ」
「っ…………」
「……居場所を無くして、救いを求めて、ようやく見つけた心の拠り所に、残る僅かな愛情すらも搾取されて、ボロ雑巾へと成り果てた人間が、搾りカスも出せねぇ体になって捨てられた後の人生を、より気高く、自分らしく生きて、思い描く理想の一部分だけでも叶えてから満足して死んでいくために、栄養失調を起こしたてめぇの体を鞭で引っ
語気を強め、眼前の獲物に喰らいつかんとする獰猛な形相で向かい合うマスター。相対する自分も心の目で彼の理念を捉えており、二人きりとなった精神的空間の中でその真っ直ぐな眼差しを向けていく。
……両手を持ち上げたマスターは、気持ちを落ち着けるよう鼻でため息をつきながら背筋を伸ばす。それからそびえる巨体で佇んで、さも立ち塞がらんとする威圧感を含めながら、彼は陰影を濃くした顔で言葉を続けてきた。
「愛情という栄養素は、普通の食事や会話では補給できねぇ特別な枠組みの養分だ。愛情を摂取するには、自分が心から気を許した相手との接触、という条件が必要になってくるからな」
「…………」
「その条件を満たせる存在は、家族や親友、恋人などが対象だろう。そして、愛情の成分を分泌するためには、信頼からなる感情の共有、つまり相互作用が必要になる」
「…………」
「その相互作用がまた、並大抵の親密性では生まれない厄介な仕組みになっていてな。その親密性を
「安心感……」
信頼、愛情、安心感。
探偵事務所で所長から掛けられた言葉と、マスターのセリフに含まれた言葉が、この瞬間にも確信めいた閃きで合致した。
頭の中で、パズルのピースが嵌め込まれたようなしっくり感。衝撃が電流のように脳裏へ迸り、彼らが伝えたい核心を直感的に理解すると共にして、マスターは分厚い腕を組みながら口角を吊り上げてその言葉を口にしてみせたものだ。
「柏島歓喜。お前が持つ優しさは、店の人間に親密性を与えることができる。じゃあ、店の人間と親密性を育むとどうなるか? それに応じた相互作用が発生する。相互作用が発生するとどうなるか? 心から気を許した相手との接触により、愛情という栄養素がお互いに分泌される。愛情が分泌されるとどうなる? 店の連中が、今までの人生で不足してきた心の栄養素を摂取できるようになる」
「……つまり、俺も彼女達の助けになれる?」
「“世間が考える普通の生活”を、ここの連中は手に入れられるかもしれない。とっくに朽ち果てていた心が潤いを取り戻し、風化していた傷口を修復できるかもしれない。……お前の優しさは、そういう優しさなんだろうな。人を救える、思いやりのある優しさ。だからどうか、お前には今と変わらない“ありのままの自分”を大切にしてもらいたい。その優しさは、ラミア、メー、その他の不憫な境遇に晒されてきた連中を支えるために、今、この店で最も必要とされている、噓偽りのない人肌の温もりそのものなんだからよ」