男娼マエストロと栄光の少女たち 作:しみじみしじみ
正直、あまり得意な奴ではなかった。
時折可愛げを見せる瞬間はあったが、それ以上に気に食わないと思うことの方が多かったから。
ただ、まあ。
俺がというか、男という生き物がそうなんだろうが。
フリティラリアと身体を重ねてからというもの、何がそこまで嫌だったのだろう、と分からなくなってしまった。
思ったより相性が良かったのである。
俺って奴は……!
俺はベッドに腰かけて壁を見つめていた。目線のやり場に困ったからだ。
横にはフリティラリアが座っている。
ベッドの端っこに。
大分距離を取られているな……。
「……フリティラリア」
呟いて、隣を見る。
膝を抱えて座っていた彼女が俺に顔を向けた。
「質問に答えるよ」
「……なんのですか」
「昨日の。聞いてきただろ、なぜ冒険者を辞めたのか、って」
彼女は呆れたように息を吐いてから、眉尻を下げた。
「話題に困ったからってこんなタイミングで言わないでください」
ぐっ……会話の糸口になると思ったのに。
言葉に詰まっていると、フリティラリアはその表情を和らげた。
足を延ばし、ぷらぷらと遊ばせる。
「随分手慣れてましたね。……ふふ、嫌な女を手籠めにできて嬉しいですかぁ?」
いつものような皮肉だが、毒気はない。
余裕そうな表情で、フリティラリアは首筋を撫でた。赤い痕。それは夜、昂りすぎた俺が付けてしまったもの。あんな人に見られるような場所に、それも同意なしで……我ながら本当に――
「あんなにここぞとばかりにがっついて」
俺は何も言い返せなかった。
フリティラリアは押し黙る俺から視線を外し、ベッドを見た。シーツには朱が残されている。
「本当に変態王じゃないですか。ふふ、やだ先輩、もしかしてずっと私をそういう目で見てたんですねぇ?」
「……お前が俺を買ったんだろうが」
「チラ」
言い返そうとしたらこれだ。
首筋を見せつけてきて、黙らされた。
「あれこのカード最強ですか?」
俺も俺で悪ノリが過ぎた結果だと思っているから、強く出られない。
口でも何も言えないので、目線だけで反抗する。睨みつける俺に、フリティラリアはどこ吹く風だ。
「自分の理性の無さを恨むんですねぇ、こーんな弱味を私に握らせるなんて」
「うるさいな……」
「はー! もう何も効きませーん! 私に興奮したあげく襲ってきちゃうような節操無しの言葉なんか届きませーん!」
こ、こいつ……!
途中から乗り気だったくせに!
何回戦も続けてたくせに!
お前が俺を抱きしめて離さないせいでついた背中のひっかき傷でも見せてやろうか!
「何も見えませーん!」
背中を向けたら手で目を覆いやがった。
こいつカス。
フリティラリアはひとしきり笑った後、涙を拭いながら、立ち上がる。
「……それで? 冒険者を辞めた理由って、なんなんですかぁ? ちゃんと納得できるような理由なんですよねぇ?」
いやらしい笑みを浮かべてはいるが、きっと真実を悪用したりはしないのだろうということはなんとなく分かっていた。
俺自身、必要以上に隠そうとも思っていない。
聞かれるまでは答えない、それくらいのものだ。
一旦、息を吐いて、間を開けてから俺は答えた。
「――呪いだよ」
思い起こす。
忌まわしきリリスの姿。
ダンジョン攻略に失敗したその日の情景を。
「魔神『リリス』の呪いのせいで、俺は一日一回、女性と寝なければ死ぬ身体にされたんだ」
「……呪い、ですか」
フリティラリアの反応は、意外にもそれほど大きくはなかった。
予想は出来ていたのかもしれない。あるいは、もっと酷いものを想像していたとか。
「確かに、場合によっては何日も潜ることになるダンジョン探索でそれは致命的です。ではマエストロくんは、それで冒険者を辞めたと?」
「それだけじゃ、ない」
彼女は小首をかしげる。
呪い。
リリスの呪い。
それは、一日一回、女を抱かねば死ぬ、というもの。
――と、
「魔力を消費すれば消費しただけ、発情させられるんだ」
その呪いは、魔術師である俺にとって死活問題。
リリスが俺に対する対抗策として生み出した呪いであり、これのせいで俺は、ゴールデンドーンは奴に敗北を喫したのだ。
その敗北の代償が、女を抱かねば死ぬという呪い。
俺の身体には、その二つの呪いが混在している。
「……クソ過ぎませんか」
「本当に」
自分で言っといて頭を抱えたくなった。
何度も考えた。
俺がダンジョン攻略に参加するということ。
だがこの呪いがある限り、俺は下手に魔術を使えないボンクラに成り下がり、もし使えたとしても、呪いのせいで赤の他人に襲い掛かる変態になってしまう可能性がある。
詰み。
ただでさえもう一つの呪いのせいで毎日の性交を強制されていると言うのに。
さしものフリティラリアも、この話を聞いては同情するしかないようで。
お労しい人、という目をしていた。
「その呪いを解く方法というのは」
「リリス、つまり術者をとっちめることが出来れば、呪いは解ける。解呪の魔術はもう試したが、ダメだった」
フリティラリアは顎に手を当て、しばし考え込んだ。
その体勢のまま、俺をちらりと見る。青い瞳が煌めいた気がした。
「……もしリリスが倒され、呪いが解けたら、どうする予定なんですか?」
呪いが解けたら。
考える。
今の生活にはそれほど不満があるわけではないが、まあ、男娼は辞めるだろう。
しかしやりたいことというのも思い浮かばない。ずっと冒険者一筋で生きてきたから、確かに改めて考えてみると、未来設計など白紙に等しいものだった。
「未定だな」
「冒険者に復帰する、というのは?」
「もしかしたら」
それを聞いて、フリティラリアは少しだけ微笑んだ。
「そうですか。……そうですか」
昨日と今日、一生分のこいつの珍しい表情を見たような気がする。
だがそれも一瞬のことで、彼女は扉へと向かっていく。
ふわりと桃色の髪が舞って、汗の香りがした。
扉に手をかけて、彼女は振りかえる。
「さようなら、マエストロくん」
彼女が小さく手を振ってきたので、俺もそれに応える。
また会おう、と言うべきか迷っているうちに彼女は出て行ってしまった。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ベッドに倒れ込む。
天井を見て、大きく息をつく。
鼻いっぱいに空気を吸えば、フリティラリアの匂いで肺が満たされた。
◇◇
――妙だ。
ダフニー旗下のダンジョン攻略隊の面々は、その手ごたえに違和感を抱いていた。
普段は騒がしいマーガレットすら、黙り込んで、確かめるように得物のハンマーを振り回す。そうして納得する。自分の腕が鈍ったわけでも、何かの呪いを受けたわけではない。
湧き出てくるモンスターが、やたら手ごわいのだ。
「聞いていた話と違うな。こいつら、もっと上の階層にしか出てこない奴のはずだ」
茶髪を後ろで束ねたシーフの男、ブラウンはしゃがみ込み、モンスターの死骸を見つめながら仲間に告げる。
その報告を聞き、ダフニーも頷いた。
纏わりつくようなプレッシャー、こんな浅層から感じられるものではない。
戦闘の余波を受けてか、パラパラと土埃が天井から降ってきた。
空気が張り詰めている。
ブラウンは立ち上がり、首を回した。
「『大変異』の兆候かもしれねえ。俺らはゴールデンドーンの情報を頼りにしてる。だがそこにはねえモンスターどもがうじゃうじゃと……リーダー、これ以上進むのはよしといた方が良いかもしれないぜ」
『大変異』。
それは無尽蔵の魔力が眠るダンジョンだからこそ起こり得る魔力災害の総称だ。
モンスターの異常発生、異常行動、あるいはダンジョンの構造が大きく変わったり、転移魔術によって突如深層に飛ばされることもある。
その予兆として、普段起こり得ないことが起こる、というものが挙げられる。
単なる偶然という線ももちろんあるが、そこに賭けるのが自分の、ひいては仲間の命である以上、リーダーの判断は――
「撤退する」
慎重なものとならざるを得ない。
◇
ダンジョンから帰還する道すがら、新加入の魔術師、フォスのそばにマーガレットが近寄ってきた。パーソナルスペースが無い彼女なので、肩を抱いてのゼロ距離コミュニケーション。
豊満な胸が頭に当たり、フォスは少しだけムッとしてしまう。
「残念ねーフォスちゃん先生! せっかく力を見せつける機会がこんなにすぐ終わっちゃって!」
「あ、い、いえ、無理に強行軍となるよりは良いですから」
あはは、と苦笑しながらフォスは前方のダフニーの姿を見る。
ダンジョン攻略の経験が何度かあるフォスにとって、本来出てくるはずの無いモンスターの出現は、これ以上ない不吉な予兆だという認識があった。
こういう時に欲をかいたり、油断して奥に進み、そして二度と帰らなかった冒険者の話は、戒めとして今でも語り継がれている。
ダンジョンはそれそのものが大きなモンスターだ。その口の中を歩いていると考えれば、微かな予兆を見逃すことの愚かさがよく分かるだろう。
心配はしていなかったが、ダフニーは的確な判断を下した。
噂に間違いはなかったようですね、とフォスは心の中で呟く。
ただ、彼の強さについては話に聞いていた以上だった。
「それに、私の見せ場なんてほとんど無かったでしょう。ダフニーさんが片付けてしまいますから」
『剣客』、と呼ばれるだけのことはある。
俊敏な動きで翻弄してくるモンスターも、硬い鱗に守られたモンスターも、物理が効くようには見えない液状のモンスターも、彼はその剣一本で両断してしまった。
彼が取りこぼしたように思えるモンスターも、きっと、こちらが手持ち無沙汰にならないようにわざと素通りさせていたのではないかと思うほど。
そんな彼は誰よりも先を歩いている。
大いなる盾であり、剣である。
パーティーリーダーとしてこれほど頼りがいのある人間はそう多くは無いだろうと思っていた。
「あはは、リーダー! フォスちゃん先生が私の獲物を奪うなってさー!」
「な、い、言っていません! からかわないでください、マーガレットさん!」
少しばかり重苦しかった空気が弛緩し、周りのメンバーたちも笑みを零す。
加入時のあいさつを経てから、マーガレットには凄まじい早さで懐かれてしまったのだ。
彼女自身の明るい性格もあるのだろうが、打てば響くフォスの几帳面な性格が好みだったのかもしれない。
そんなマーガレットを見て、フォスのすぐ近くにいたマリーベルがその杖で尻を叩く。
「だる絡みはよしなさいよメグ。あんたの性格に付き合いきれるような奴はこの世界どこを探してもいないんだから」
「あらやだ嫉妬~? ごめんねマリーちゃん、すぐからかってあげるからっ!」
「しね」
「死ね!?」
マリーベルはマーガレットの腕をどかし、フォスの左手を握った。
「先生、あんな奴もっと雑に扱っちゃえばいいんだから! 鬱陶しければ燃やせば静かになるわよ!」
「マリーベル? あんた私の仲間よね?」
「あははは!」
「何の笑いかしらこいつ……」
学院時代とあまり変わりないマリーベルの姿に、フォスは苦笑を浮かべるばかり。
(こうやって私を挟んで喧嘩するの、昔を思い出しますね……)
マリーベルは才能のある子だったから、成長して落ち着きを持ってくれれば大成してくれるだろう、と思っていたが、才能が有りすぎてあの性格のまま大成してしまったらしい。
戦闘スタイルも昔のままの自己完結型の戦い方だった。
魔術師にとって不得手である近距離戦を得意とする『ゼロレンジソーサラー』。
『剣客』と呼ばれるほどの実力者であるダフニーに引けを取らない強さで、戦場を駆け巡りモンスターを薙ぎ倒していく様は、正に彼女らしい戦い方だな、と感心してしまった。
新時代の魔術師。
彼女は仲間内にそう呼ばれている。
フォスは心の中で呟いた。
あの戦い方を最初にしていたのは、彼女ではなく――。
「フォスちゃん先生!」
マーガレットの声で引き戻される。
顔を上げると、満面の笑みのマーガレットが。
「安心してよ、1回だけの戦闘しかなかったけど、フォスちゃん先生の優秀さはこの場にいる全員が理解したから!」
その声にマリーベルは頷く。
メンバーたちも、ダフニーもそれを否定はしなかった。
フォスはオールラウンダーの魔術師だ。
器用貧乏ではなく、万能。パーティーに穴があればそこを塞ぎ、あるいは連携を円滑化し、力を底上げする。
それはマリーベルのような自己完結型とは正反対に位置する、仲間のための戦い方。
フォスの的確なサポートが飛んでくるたびに、見守られているという実感が湧いたことだろう。
「当然よ! 先生は昔から凄かったもの! ダンジョン攻略の授業の時なんかすごく心強かったのよ!」
ああ、とフォスは合点が行く。
無意識のうちではあったが、確かに、生徒たちをサポートする感覚に似ていた。
視界を広く持ち、危ういところを支え、伸びしろがある子を伸ばしてあげる――そうした教え方が、結果としてサポーターへとフォス自身を育て上げたのかもしれない。
(楽しいですね、これは……)
学院時代の教鞭を取っていた頃の思い出がよみがえり、温かな気持ちになる。
もうとっくに辞めてしまったが、手のかかる子たちを育てるのは好きだったから。
「……ん、マリーベル、ケガしていませんか?」
「え? ホントだ、いつの間に」
そこでふと、彼女のローブの袖に傷がついているのが見えた。
少し赤くなっているようにも見える。深い傷には見えないが、もしモンスターが毒を持ってたらと考えたら放置はしておけない。
「あの程度のモンスター相手に情けないわねぇ」
「うっさいなぁ……! たまたまよ、たまたま! 今日の調子が悪かっただけなの!」
「……ダメですよ、ケガした人をからかっては。ケガをすることが恥だという認識が広まってしまえば、自己申告せず隠してしまい、悪化させてしまう人が出てくるかもしれませんから」
「……はい」
「怒られてやんのー!」
「マリーベル、こら」
「はい……」
いくつになっても手のかかる子ですね、なんてことは口にせず。
ダフニーに声をかけて、歩みを止めてもらう。それからフォスはマリーベルに向き直った。
「念のため治癒魔術をかけておきましょう。傷口、見せられますか?」
マリーベルは「大袈裟だなー」とぶつくさ言いながらも素直に従ってくれる。
ローブを脱いで、ノースリーブのインナー姿になる。マリーベルはケガをした左腕を伸ばし――
「――えっ!?」
「ッ!!」
「ちょ――!」
すぐにローブを纏って腕を隠してしまう。
顔は赤く、だらだらと汗が流れて、彼女はちらりとフォスを見た。
フォスは固まったままだ。
(あれ、は――)
見た。
確かに、見た。
あれは、
間違いなく、
「……」
「……」
ぷるぷると、マリーベルは震えている。
違うのと言いたげな視線を受けて、ついフォスは目線を外してしまった。
誤魔化せない。
見てしまった。
教え子の、プライベートを。
謝るべきか。
それとも、見ていないと嘘をつくか。
どちらの選択を採るか決めあぐねているところに、マーガレットが口を開いた。
「また、マエストロのところに行ってたのね……」
「ま、マエストロ!?」
その口から聞き覚えのある名前が出てきたものだから、つい素っ頓狂な声が出る。
先日親切にしてくれた男性の姿がすぐに頭に浮かんでくる。彼と、マリーベルが?
「ああ、えっと、たぶん考えているようなことじゃなくてね。マエストロってのは、男娼なの」
「男娼!?」
マリーベルは――限界まで赤くなっていた!
恩師に赤裸々にされている現状を乗り越えられるだけの鈍感さなどあるはずがなかったのだ!
「そう、フォスちゃん先生が親切にしてくれたって言ってたマエストロ」
「――」
愕然。
教え子が娼館に通っているということも。
あの時の男性が男娼であったということも。
衝撃すぎた。
確かに、底知れぬ色気を感じたが、まさかそういう仕事に就いてるとは夢にも――!
「……おい、リーダー、リーダー? あ、くそ、また現実が処理しきれなくて固まってやがる……おいマーガレット! その話はシルバークラウン内ではしないって言ったよなあ! リーダーが泣くだろ!」
「泣かない」
フォスが辺りを見渡すと、何人かの男性のメンバーが苦しんでいる様子が目に映る。
なんというか、心配にならない苦しみ方というか。ちょっと気持ちの悪い人たちだなという印象が勝った。
「あ、あーもー! 別にあたしの勝手でしょーが! せ、先生、変なもの見せてごめんなさい、でも誤解しないで――いや、誤解って何がよ……その、違うの……なにも違わないけど……」
さっきまでの緊迫感はどこぞへ消え失せ、カオスが訪れる。
フォスはいまいち状況を飲み込めないままでいた。情報量が多すぎて、思考がストップしたのである。――まさか、本当に?
「そうだ」
何かを思いついた様子のマーガレットが、フォスに耳打ちをする。
「――この後、行ってみる? マエストロのところにさ」
悪魔のささやきだった。
◇◇
夜。
アダンソニア。
またもや指名だ。
マリーベルにフリティラリアと来て、今度は誰だ?
また彼女たちか? それとも別の? どちらにせよ、もう驚くことは無いだろう。
そう思っていた。
「こんばんは」
大声をあげなかった俺を褒めてあげたい。
店先から入ってきたのは黒髪の魔法少女、フォスである。
その後ろからは赤髪の縦ロール女が。彼女はシルバークラウンのメンバーだったはず――というか、今日はダンジョン攻略の予定だったはずじゃ? もしかしてその足で来たのか、ここに?
「ほ、本当にここで働いていたのですね……」
どういう経緯かは分からないが、フォスは俺がアダンソニアで働いていることを知ってしまったらしい。
それは良い。
いや良くはないが、この際それは置いておこう。
問題は。
ここに、娼館にフォスが来ていることだ。
それは、よろしくない。
何がと言われると具体的な言葉が出てこないのだが。
よろしくないのだ。
非常に。
「この前ぶりねえ、マエストロ? 覚えているかしら、私のこと」
「……はい、もちろん覚えていますよ。ひと際お綺麗な方でしたから」
気が気じゃない。
俺は今上手く笑えているのか?
恩師が、それも今も尊敬している人が娼館に来て俺を指名して、そんな状況で?
手が震えてきた……。
「ふふ、あなたに言われると心地いいわねえ。あの夜とは見違えるほど魅力的。あの子がお熱だからかしらね……?」
あの子――マリーベルのことか。
そういえばこの人は、彼女とどういう関係なんだろうか。
マリーベルをからかっているところしか見ていなかったが、悪意だけの関係ではなかったように見えたんだよな。
と、考えていると、視界の下の方で何かがぴょこぴょこと動いた。
黒髪の頭。フォスだった。
「す、すみません、突然押しかけてしまって……。その、この前のこと、改めてお礼をと」
「あ、ああいえ、そんな……わざわざこんなところまで来ていただかなくても……」
向こうに頭を下げられて、思わずこちらも頭を下げる。
本当にそれだけのためにアダンソニアへ?
よしてくれないか、男娼としてのマエストロとして対応すべきか、親切にしたマエストロとして対応すべきかで判断に困るから!
とはいえ、フォスの気持ちも無下には出来ない。
どうにかして丁重にお帰り願いたいところだが――
「マエストロ」
赤髪の女が声をかけてくる。
腕を引っ張られて、耳元で囁いてきた。
「ごめんなさいね、つい軽いノリで誘ったらついてきちゃって。今晩は私があなたのこと買うつもりだから、お酒だけでも付き合ってあげてくれないかしら、ねっ?」
「それは……」
「お金も割増しで払うから。ダメ?」
それは――別に、うちとしてはダメとは言えないが。
この女の目、なんか企みを感じるんだよな……気のせいか?
問題はないということを伝えると、「ありがと」と頬にキスしてから彼女は俺から離れた。
自分が可愛いということを知っていなきゃ出来ない行動だ。
フォスはそれをどこか羨ましそうな目で見ていた。
俺をというよりは、女の方を。
まあ、背が高くてスタイルも良くて、大人の余裕を持っているという、フォスとは真逆の存在であるからして、むべなるかなといったところ。
「それで、フォスちゃん先生のことはもう知ってるんだったわね? 私は――名乗ってないか。よろしく、マーガレットよ」
「マーガレット――さま、ですね」
びっくりして一瞬言葉が詰まってしまった。
そうか、この女が『剛姫』マーガレット! 確かによく引き締まった身体をしているとは思ったが……。
とんだビッグネームだ。
とりあえず、二人を席に案内する。
その際、出来るだけ平静さを取り戻すべく深呼吸を繰り返した。
フォスが来たことで動揺してしまったが、大丈夫、彼女はそういう目的で来たわけじゃない。
酒を飲んで、話をして、それだけ。
そう考えればある程度心が軽くなった。
「驚きました。シルバークラウンは今日ダンジョン攻略に取り掛かるというお話でしたので……」
マーガレットはスタッフに酒を注文していたので、隣に座るフォスを見る。
こういう店が珍しいのか、あちこちを見まわして、俺と目が合ってからぴくりと肩を震わした。
「あっ、え、えっとですね、今回は1階で引き返したんです。モンスターの異常発生が確認されたので」
「異常発生ですか?」
「はい。本来低い階層には出てこないモンスターが現れたんです」
そんな話、アリアからは聞いていない。
昨日までは問題なかったはずだ。だとしたら今日急に……?
「それもあって、攻略はしばらくお休み。ウチの測量班が情報を集めるまでは待機って、そんなのってないわよねぇ……」
マーガレットがぐでっと机に倒れ込み、ため息をついた。
考えられるのは『大変異』の兆候という線か。もし構造やモンスターの発生が大きく変わるようなら、俺たちがもたらした情報は使い物にならなくなる。
あっても難攻不落のダンジョンだったんだ、そうなれば踏破はさらに遠のくだろう。
シルバークラウンほどの冒険者旅団が投入する測量班とやらが、どれだけの手腕なのかが気がかりだ。
願わくば、単なる偶然であってほしいものだが。
あのリリスの根城であることを考えると、どうも嫌な予感しかしない。
「だから男でぱーっと、ね? 発散しなきゃ爆発しちゃうから! 今夜は寝かせないわよ~?」
まあ、気にしすぎてもどうしようもないことだ。
俺に何ができるって話ではあるしな。
マーガレットの発言にフォスが苦笑を返していると、酒が到着した。
アダンソニアで一番飲まれている酒だった。
「乾杯!」
マーガレットが突き出したグラスに、俺とフォスがグラスを合わせる。
三人同時に酒に口を付けた。それほど度数が高くなく、口当たりも良い、飲みやすい酒だった。
◇
さすがはシルバークラウンといったところだろうか。
マーガレットの話題が尽きない。話し上手なのもあるだろうが、思わず聞き入ってしまう。
それは心躍る冒険譚であったり、思わず笑ってしまうような失敗談だったり、明日誰かに教えたくなるシルバークラウンの裏話だったり。
酔いも程よく回ってきた頃、話題は恋バナへと変わっていっていた。
「それで私の初体験はね、何歳も年上の、それも白髪が生えてきてるぐらいのおじさんが相手だったのよ」
「年の差……! い、良いですね、そういうの……!」
「分かってくれるのねフォスちゃん先生! そのおじさんっていうのが、王様からいっぱい勲章をもらってる、凄い騎士団長さまでね、それはもうカッコよかったわぁ……!」
いわゆる禁断の恋、という奴か。
マーガレット自身もそれなりに家格のある家の出であり、その時彼女はまだ若く、その関係が露呈してしまえば双方への批判は避けられない。
「でもね、結局私の方から身を引いたの」
彼女はグラスを持ち上げ、その中の氷を覗き見た。
物憂げな表情。語る口調にも熱が入り、彼女はゆっくりと口を開く。
「その人には奥さんもいてね。ずっとずっと悩んだ末に、やっぱ負担になりたくないって思って、結局その1回きりで関係は終わっちゃった」
「……ほ、ほろ苦い初恋だったのですね……」
「ふふふ、でもいい思い出なのよ? こうして今でも浸っちゃうくらいには」
フォスはどうやらこの手の話が好きみたいで、目をきらめかせながらマーガレットの話を聞いていた。
色恋沙汰に目が無いのは、昔からそうだった。
学院時代でも、生徒同士の恋愛事情とかに首を突っ込みがちだったからなあ、この人。
フォスはくいっとお酒を飲む。
少しだけ顔が赤い。手に持ったグラスを見ながら、ぽつりぽつりとつぶやく。
「いいなあ、私も、一度でもいいから恋愛を……」
「えぇ!? うそ、ないのフォスちゃん先生! 恋したことが!?」
フォスが驚いたように口を手で押さえた。
無意識の発言だったようだ。マーガレットの驚愕する表情を見て、小さく頷いた。
「同年代の人よりも、ずっと年下の子たちと接する機会の方が多かったですから……」
それに――と続ける。
「こんな貧相な身体を好きになってくれる人なんていませんよ」
それは自嘲するような笑い。
板についた表情だ。
きっと、その諦めたような笑いを浮かべることに慣れてしまっているのだろう。
俯く彼女の顔を覗き込むように、俺は囁いた。
「俺ならフォスさんみたいに綺麗な人、絶対放っておかないのにな……」
「え、ええっ!?」
「きっと、見る目が無い人ばかりだったんです! フォスさんにそんな顔をさせるような真似、俺はしないのに!」
「ちょ、ちょっと、そ、そんな……マエストロさん……!」
昔からあまり自分に自信が無いような人ではあった。
だが、そんな、俺が尊敬している人が、その人自身のことを誇れないなんて、彼女の教え子の一人として許しがたき事実だ!
ここは死ぬほど褒めるとしよう。
「フォスさんが俺の先生だったら、きっと禁断の恋だと分かったうえでアタックしたでしょうし、同僚だったとしたら、誰よりも先にあなたと仲良くなろうとしたはずです!」
「…………」
「俺は悔しい!」
あ、ちょっと口角が上がってきた。
顔は恥ずかしさで真っ赤だったが。
「あんた、そんなキャラだった……?」
マーガレットの疑問の声が上がって、少しだけ冷静になった。
おっと、いかんいかん、大事なお客様はもう一人いるんだった。
「まあ、おおむね同意するけれどもね!」
マーガレットも誇らしげに胸を張った。
ばるん、と揺れる。うお……。
「や、やめてくださいよぉ……そ、そんな言われると、へへ、変な笑いが止まらなくなっちゃうじゃないですか……っ」
フォスは三角帽子で顔を隠してしまう。
なんともからかいがいがある先生だ。
マーガレットと目が合い、グラスを突き合わした。
「酒が!」
「美味いわねえ!」
「もー!」
フォスがぷんすこ怒りだしたので、俺とマーガレットはそんな彼女を見て声をあげて笑う。
むすっと拗ねたような表情で、フォスがちびちびと酒を舐め始めた。ジトっとした目は、主に俺に向けられている。
効かぬ……。
「あ……」
フォスは俺を見上げたまま、何かに気づいたような声を上げた。
「あ、いえ、違いますね、これは……」
「え~? なになに、やっぱり滾るような恋愛をしたご経験が……!?」
「そ、そういうものでは……! た、ただ、ふと、昔のことを思い出しただけです。こんな私のことを『先生、先生』ってずっと慕ってくれていた、男の子のことを。マエストロさんを見ていて、なんとなく似てるなあ、って」
「恋!」
「だから、そういうものではありませんってば!」
昔?
先生を慕っていた男の子?
そんな奴の話、聞いたことが無い。
フォスは懐かしむような目をしながら、話しだす。
マーガレットの聞きたい聞きたいという眼差しを受けて、仕方なくといった様子だったが。
「――最初に出会ったのは、小さな街の宿屋。その子は自分探しの旅をしていて、その時は吟遊詩人として各地を練り歩いていたんです」
酒を飲んで、さあ話を聞くぞという姿勢のまま、固まる。
身に覚えがあったからだ。
というか、
それ、
俺の話だ。
止める間もなく、フォスは話をつづけた。
過保護な親に対して反抗期真っただ中だったクソガキは、ここではないどこかにきっと自分の居場所があると信じて旅をしていたのだ。
世間知らずの馬鹿だったが、出会う大人たちはみんな親切で、俺は悠々自適に吟遊詩人としていろんな場所を転々としていた。
学院に入る前の話だ。
その時に出会った彼女もまだ教師ではなく、ただの旅人だった。
「その子の歌い方はとても特殊で、ハープ型のアーティファクトを使って、物語を再現するんです」
「物語を……?」
「そう、まるで実際に……そこで英雄が戦っているかのように」
例えば、と言いながらフォスは魔術を唱え、氷の人形を二つ作り出した。
この人形が本当に生きたように息づき、物語に沿って動くのだという。
マーガレットはそれを聞いて、徐々にその目を大きく見開いていく。
信じられない、というかのようだった。
「それって、うそ……」
フォスは微笑んで、
「はい。――これは、『ゴールデンドーン』のリーダー、魔道王の幼少期のお話です」
と、なんでもないことのように言い放つ。
マーガレットは開いた口が塞がらないようで、声にならない声を漏らしていた。
物語の再現。
英雄譚、伝説、神話。
それらをこの世界に事象として具現化させる。
魔道王の代名詞とも言える魔術だった。
それが扱えるのは、俺が見てきた限りでは、俺一人だけだ。
魔道王という存在は、今やほとんどの人間が知る有名人だ。
活動中はプライベートを見せないようにしていたし、そんな人間の過去話なんてものが出てこようものなら、なんなら大金になったっておかしくないほどなのだ。
もちろん、名前を隠していたことには理由があったが、ゴールデンドーンが解散した以上気にするほどのことでもない。
それに、フォスの話を聞いて、マーガレットがどこかにタレコミを入れたとしても、それが信じられるかどうかはまた別の話。
なんせこれは、ただの酒の席でのお話に過ぎないのだから。
だから俺も別に止めようとはしなかった。
「――ほ、本当に?」
「うーん、信じてくださいと言うしか……」
とりあえず続けますね、とフォスは続きを語りだす。
それは俺の特大級の失敗談だった。
物語を再現する力はアーティファクトによるものだ。
そしてそれを持っているのは、世間知らずの、世界を舐め腐っていたクソガキ。
つけあがった。
思いあがって、
最終的に、暴走した。
「凄かったですよ。その地に伝わる伝承が再現され、街の外にはモンスターの大群が。街はてんやわんやで大騒ぎ、その子も責任を感じてどうにかしようとしていたけど、空回りばっかりで」
あった。
確かにそういうことが。
人をあっと驚かせようとして、やりすぎてしまった。
大泣きしながら魔術を消そうとして、でもどうにもできなくて、頭が真っ白になったのを覚えている。
「そこで、まあ、放ってはおけませんから。モンスターも、数は多いですが強さはそれほどでもなかったので、私がどうにか対処したんです」
どうしようもない、って状況で颯爽と現れ、問題を解決した魔術師。
その小さくて大きな背中は、今でも俺の脳裏に刻み込まれている。
「それからというもの、しばらくその子と旅をして。モンスター退治の一件で私が『ムロニア・セラ魔術学院』から教授として招かれたことを知ると、彼もまた入学してきて。
とても優秀な子でした。私なんか目じゃないくらい。なんたって、伝説に語られる魔術師となるほどの子だったんですから。
でも、こんな私をずっと尊敬してくれていて……本当、変な子ですよね」
フォスは柔らかな表情のまま、微笑んだ。
そんな彼女の話を聞きながら、俺は酒を飲み下す。
「マーガレットさんが望むような色恋の話ではありませんが……今にして思うと、あの頃が一番充実していた、なんて……ふと、思ったんです」
俺は、フォスが学院を辞めてから何をしていたのかを知らない。
彼女ほどの実力者ならどこかで上手くやっているはずだと思っていたが、冒険者時代にフォスの名前を聞くことは無かった。
物悲し気に笑う彼女を見るに、フォスはフォスで苦労してきたのだろう。
ただ……そうか。
忘れられているわけではないんだな。
もしかしたらと思っていたけど、覚えられているみたいで、ホッとした。
……しかし、そうなると。
フォスには俺の正体を明かしても良いのか。
どうせもう男娼であることはバレているわけだし。
彼女のことなら変な噂を流したりはしないだろうし。
呪いについて要らぬ心配をさせてしまうかもしれないが……。
とはいえ、今この場では無理か。
マーガレットはもとより、この店でもマダム以外は俺が魔道王であることは知らないのだから。
話が終わり、視線は自然と固まったままのマーガレットに注がれる。
「――ムロニア・セラ魔術学院……?」
だが彼女は何かを考えこむようなしぐさをして、ぶつぶつと呟いていた。
「マリーベルと同じ学院……」とか「例の依頼」とか聞こえてくるが、急にどうしたのだろうか。
フォスが心配そうに声をかけるが、反応はない。
それがしばらく続き。
「あ」
マーガレットが突如顔を上げた。
その視線は俺に注がれており、鋭い眼光に思わず顔をそらしたくなる。
「え?」
そして今度はフォスに顔を向ける。
フォスは困ったように笑い、首を傾げた。
「……」
再び、俺に視線が戻る。
なんだ。
何を返せばいいんだ。
どういう感情なのかもわからない。
営業スマイルの使いどころだろうか……?
とかなんとか思っていると。
マーガレットは半笑いになって、目をぱちくりさせた。
「マジ?」
な、何がだ……?
フォスの顔を見る。彼女もこちらを見ていて、何のことだか分からないという顔をしていた。
マーガレットはしばし天井を仰ぎ見てから、グラスに残っていた酒を飲み干す。
「い、いきなりどうしたんですか、マーガレットさま……?」
「へぇっ!? あ、いえ、なんでもありませんわ……!?」
なんでお嬢様口調?
見るとだらだらと汗を流し、目も泳ぎまくりで様子がおかしい。
目を合わせるとバッと顔をそらしてしまう。
俺に背を向けて、身体の匂いを確認していた。
……っと、そうか。
そろそろ、良い頃合だよな。
つい話が盛り上がったりして忘れていたが、今夜俺はマーガレットを抱くのだ。
マーガレットは何度も深呼吸を繰り返し、それからこちらに振り返る。
「ねえマエストロ? あなたさっき、フォスちゃん先生のこと、禁断の恋だろうがアタックしたはずだって言ってたけど、あれって本当かしら?」
「はい、男に二言はありませんよ!」
そう答えると、マーガレットは鷹揚に頷いた。
さっきから何なんだ、一体……?
「フォスちゃん先生!」
「え、あ、はい!」
ビシっと、フォスが背筋をただした。
「なんて言われてるわけだけど、ぶっちゃけフォスちゃん先生的にはどう? 良いか悪いかで言えば」
「きゅ、急ですね……それは、えっと」
ちらりとこちらを見てくるフォス。
こちらに遠慮しているわけではなく、ただ恥ずかしそうな表情。
やぶさかではない、ということだろうか。
「ならさ、フォスちゃん先生。――今晩さ、フォスちゃん先生も参加したらどう?」
「えぇ!?」
今晩、というのは閨のことか!?
待ってくれマーガレット! 話が違うぞ!
「大丈夫、大丈夫! 見てるだけ、見てるだけだから!」
「そ、それは、ただ邪魔なだけでは……」
「ううん、聞いてフォスちゃん先生。私やっぱりね、フォスちゃん先生にとって良い人がすぐ見つかる気がするの。で、もし
めっちゃ早口でしゃべるじゃん……。
まくしたてられたフォスは困惑しきっていた。そりゃそうだ。
「勉強って、何事にも大事だと思うの」
「…………それも、そう、ですかね……?」
フォス?
丸め込まれてないか?
え?
このままだと俺ってば恩師の前でお仕事するハメに……?
「そ、そんな、マーガレットさま、何も無理に誘うことは――」
机に何かが置かれた。
例の金貨袋だ。
「私が奢るわ。無料よ? 無料でお勉強ができるって考えたら、ここを逃すのは惜しいんじゃない……?」
「え、えぇ……? あ、うぅ、えっと、えっと……っ!」
フォスは悩んでいた。
クソ、どういうつもりだマーガレット!
頼む、断ってくれ!
金が絡む以上、俺からはやめろとは言えないんだ!
頼む、頼む――!
◇◇
個室にて。
俺の前には、バスローブ姿のマーガレットと。
……狐につままれたような顔をしているフォスの姿があった。
助けて神さま……。
リリスの顔が浮かんできた。
くたばれ……。
「じゃ、じゃあ、私はここで見ていますので……」
本当に……するのか?
フォスの前で?
マーガレットを見ると、ウインクが返ってきた。
ここまで来たのなら、避けられないか。
だ、大丈夫。
天井のシミを数えていれば、終わっているはずだから……!
覚悟を決めると、そのタイミングでマーガレットが迫ってきた。
首に腕を回され、引き寄せられる。
「んっ、ぁ、むっ……ん」
啄むようなキス。柔らかな唇の感触に、押し付けられる豊満な身体の柔らかさ。
息をつく暇もなく、舌がねじ込まれる。熱くとろとろとした舌が、俺の舌を捉え、絡みつく。
「わっ、わっ、い、いきなり、そんな……!」
下品な音が部屋中に響き渡る。
お互いがお互いを求め、互いに抱きしめあい、一体化するかのように錯覚するほどの時間、唇を合わせ続ける。
彼女が俺の口から舌を引き抜くと、俺は酸素を求めて浅い呼吸を繰り返した。
つつ、とよだれが口の端から流れ出る。
なんだ、このテクニック。
頭の奥がぱちぱちとスパークするような感覚というか。
あのまま続けられていたら、腰が抜けていた――!
「さあ、座って頂戴、マエストロ?」
胸を押され、俺はベッドに座り込む。
そんな俺を見て、フォスが目を丸くした。隠すことも出来ないし、クソ、死ぬほど恥ずかしいぞ……!
「ほら、フォスちゃん先生、ちゃんとよく見てごらん」
「――ッ!?」
こ、こいつ、わざわざフォスに見せつけるつもりか!?
マーガレットは俺の後ろに回り込み、俺の腿に手を置いた。もっと足を広げろ、といった風に力を入れてくる。
逆らうことも出来ずに従うと、さらにそこが露わになっていく。
フォスは顔をそらそうとしたり、手で顔を覆ったりはするものの、ばっちりと俺を見ているのが分かった。
身体が熱い。鼓動がうるさい。こんな姿を見せても良いのかという良心の呵責。あのフォスに見られているのだという、内から湧き出る黒い欲望。
せめぎ合っている。
マーガレットはそんな俺の耳元に顔を近づけた。
「マエストロ。今夜は私の名前は呼んじゃ駄目よ? あなたが唯一呼べる名前は、『フォス』」
「何……っ!?」
「ほら、口に出してみなさい。フォス、フォス、って」
強い刺激が走り、一瞬呼吸が止まる。
マーガレットのしなやかな指の感触。撫でるような、包むような動きに、腰が震える。
「っ、ぁ、フォス……っ!」
「――っ!」
マーガレットの姿は見えないが、その表情が悦楽に満ちているだろうことは分かった。
名前を呼ばれたフォスは顔を真っ赤にして俺を見る。俺たちは見つめ合ったまま、だがマーガレットの手の動きは止まらない。
「もっと」
そう囁かれ、俺はフォスの名前を連呼する。
肌がこすれる音に、俺の荒い息の音、それらが混ざって、響く。響き続ける。
行為の相手はマーガレットだ。
フォスはただ見ているだけに過ぎない。
だが、俺はフォスの名前を呼び続け、
彼女はそんな俺をじっと見つめてくる。
まるで、
そう、まるで、
フォスにいじめられているような気さえ、してくる。
「ま、マエストロさん……」
分からない。頭がぐちゃぐちゃになる。
何よりマーガレット、こいつ、なんでこんな上手いんだ!?
持ってかれる。意識が。そして簡単に制御される。フォス、フォス、気づけば勝手に俺の口は彼女を呼んでいる。
そうしてすぐに、限界は来る。
視界が白く明滅し、身体全体が大きく震える。
「こ、これが……男の、人の……っ」
ぼーっとする。
感じたことのない脱力感。
いつも以上に感覚が敏感になっている。
こんな姿、見られたくはない。
見られたくはないのに、見られていることに一番興奮している自分がいる。
じっと見つめる彼女の瞳に、情けない姿の俺が映っているのだと。
あれだけ俺に先生として振舞ってくれたフォスが、そんな俺を、あんなにも食い入るように見ているのだと。
思えば思うほど、どうにかなりそうになる。
「おいで、フォスちゃん先生。彼の手を、握ってあげて頂戴……?」
ベッドに俺は押し倒され、その上にマーガレットが馬乗りになる。
遠くで見ていたフォスを手招きすると、彼女は素直にそれに従い、俺のすぐそばにまでやってきた。
フォスはおずおずと右手を伸ばしてきて、俺はそれを握った。フォスは少しだけびっくりしていたようだが、それを受け入れた。
小さな、小さな手だ。
昔、俺を助けてくれた時、彼女はこの手で俺の頭を撫でてくれた。
俺は今、そんな手を、女に押し倒された姿のまま握っている。
「――っ」
ふと、マーガレットの指の感触が走った。
彼女は腰を浮かしていて、それを見ていると、フォスを見ていろというようなジェスチャーをされた。
フォスはじっと、俺と、マーガレットの境目を見ていた。
それは、徐々に徐々に無くなっていく。俺とマーガレットの距離は、ゼロに近づいていく。
熱。
熱い。
滴ってくるそれは、マーガレット自身の期待の表れか。
ゆっくりと、
俺とマーガレットが、
重なっていく。
「ぁ、あ……ま、マエストロ、さん……っ」
「フォス――」
握る手に力が入る。
フォスの呼吸が荒い。
感じたことのない快楽に、何も考えられなくなる。
溶けてなくなってしまうんじゃないかとすら思えるほど。
動くたびに、声が漏れる。
フォスを見つめ、その手を握り、マーガレットに好き放題されていく。
「ぅ、ぁ」
それは、第三者から見ればどう見えるのだろう。
分からない。
フォスの名前を呼ぶ。
呼び続ける。
マーガレットにそうしろと言われるがままに。
動かない頭では、目の前のフォスのことで頭がいっぱいになってしまう。
それは、フォスも同じだったのだろうか。
彼女も返すように、俺の名前を呼んでくれる。
続く。
続いていく。
逢瀬が。
マーガレットの動きは止まらず。
それどころか、さらに早まり、強くなる。
マーガレットの悦ぶ声、俺とフォスの声。
ボルテージが上がっていく。
限界が近づいていく。
我慢など1秒も出来なかった。
ほとんど同時に、果てる。
「ぁ、~~~~っっ!!」
それは、フォスもだった。
彼女は身体を縮こまらせ、痙攣を繰り返す。
フォスの左手は、彼女の服の、スカートの下へと伸ばされていた。
フォスは肩で呼吸し、余韻に浸っているのか、小さく震え、聞いたこともない色っぽい声を漏らす。
俺は彼女の手を引いた。
完全に、下心からだった。
フォスの顔が見たい。
今、どんな顔をしているのかが見たい。
「――」
フォスはとろんとした目で、俺の目を見た。
初めて見た。
尊敬する恩師の、女としての顔。
「ふふっ――」
笑い声。
マーガレットのもの。
そちらに顔を向けると、彼女は満面の笑みを浮かべていた。
「ほかの女の子のことばかり見るなんて、酷いですわ――」
それは、狂気にも似た輝きだった。
俺を見ていて、俺を見ていない。
どこか遠い場所を見つめるような目で、俺を射抜く。
正気じゃない。
マーガレットも。
俺も、
たぶん、フォスも。
夜は更ける。
その狂気を深めていきながら。