暗夜幻燈   作:P-PEN

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五月雨の幻燈

 その場所は簡単に言い表すならそれなりに大きな旧家とその敷地だ。手入れの行き届いた庭には初夏の色が彩を加えており、母屋の前にある鏡のように澄んだ池を挟んだ先には、この瀟洒で清廉な印象を受ける場所に似つかわしくない建物があった。

 

 その建物は、既に価値の無くなった骨董品や壊れた物、使用人の掃除用具などを入れておく倉庫だ。部屋の数はそれなりに多いが、大したものは置いていないのだろう、清掃や管理はそれほどされていない。そんな掃き溜めのような場所。

 

 しかしその最奥には、明らかに他とは違う一つの扉があった。木製の戸とは違い、頑丈に作られた黒鉄の扉には、幾何学的な紋様が描き込まれていた。黒不浄の黒ではない、これは霊的な存在のエネルギーを拒絶する封印のために錬成された金属であり、かつて存在した第三帝国ではこれをブラックスティールと呼んだものだ。この扉はもう十年近く閉ざされたままだが、刻まれた文様と張り付けられた封印の札(これだけが真新しい)は健在でその役目を果し続けている。

  

 十年もの間、唯々沈黙を保ってきたであろうその扉の前に立ったのは、民間タクティカル祓魔会社“アラサカ”のエンブレムが施されたジャケットを着た女と、案内役であろう老人だった。

 

 「本当に穢れものを、素養があると思えば連れていく心算か?」

 

 探る様に息をひそめた声で尋ねた老人の声は、女が来ているジャケットのエンブレムに跳ね返えされた。設立したばかりの“アラサカ”が各地の腕は立つ問題児や根本的な倫理観にかける者、そして民間祓魔にチャンスを見出した愚者……それらをふるい落とし設立した民間祓魔部隊。その戦績は異常だった。設立直後から休むことなく戦い続け、今年は新年から立て続けにⅣ号級を撃破し、先日に至っては正式な測定はされていないものの、Ⅴ号級に届いていたと思われる“大江山の大百足”を即席のセル小隊を率いて祓滅している。寄せ集めであるはずの民間祓魔師を、寄せ集めで無くした要因“アラサカ”の力の象徴が目の前の女、衣川 窓だった。副長は凍り付いた湖の様な青い眼が老人を射抜き、口を開く。

 

 「“使える”なら使う。これまでと私達は何も変わらない。此処で待て、中には私だけが入る」

 

 鋼の声が告げると答えを待たずに鍵が差し込まれ、扉の封印が解かれ開かれた。

 

 ――扉の向こうは“闇”で包まれていた。扉が開け放たれてなお、光の侵入を拒む漆黒に案内人の老人は喉を鳴らす。人が本能的に恐れる闇、それの中に無数の蠢く紅い目が輝いていたなら悲鳴を上げなかっただけでも大した胆力なのだろう。停滞は一瞬、雪崩のように闇たちが扉の外へ押し寄せてくるのが見えた瞬間。 

 

 

 「退け」

 

 

 副長の声が響くと、闇は何かに気が付いたかのように急停止。時間が巻き戻るかのように倉の中に後退していき、やがてこの倉に窓から差し込む光が作る影の中にそれらは逃れていった。 

 

 闇が晴れた倉の中は意外に清潔で、古びた書物が図書館ように棚が整然と並んだ空間の奥にそれはいた。

 

凝る闇の中に浮かび上がる様に白い装束、三ツ足の鴉を象った封印肩甲、寝床なのだろう藁の上に腰かけていた。靴は履いておらずその白い肢体はこの閉じた世界で不自然さすらあった。長く黒い髪は鴉たちと同じ色をしている。九鬼家の死に装束を纏った少女は花咲く直前の蕾の幼さが見て取れる顔を副長の方に向け、扉から差し込んだ光を不思議そうに見つめていた。

 

 「だ……誰?」 

 

 掠れた声だった。声を発しない期間が長くなると、声を発する事さえ難しくなる。その声を聴きながら、扉の前に立ち尽くす老人は押し殺した声で「誰も物を運び入れたことは無いのに……」と呟くのを横目に、副長は倉の中に踏み込む――十年、少女とその穢れたちしか存在しなかった世界へと。

 

 「民間タクティカル祓魔会社”アラサカ”だ。お前の話を聞きに来た」

 

 「……え?え?」

 

 その女が一歩踏み込むごとに倉の闇が後退していく。死に装束の少女の傍まで歩いていけば、穢れの闇は僅かな残滓を遺し、三本足の鴉の姿となり副長を観察するように周囲に九羽が展開。状況を呑み込めない少女の前に立つと屈みこみ、片膝を土に着け視線を合わせた。 

 

 「良く耐えた、褒めてやろう」

 

 羅刹と忘れられた少女の視線が合う。しばしの沈黙の後に、少女は必死になって言葉を紡ぐ。

 

 「わ、私は……褒められるようなことは、何も……お腹がすいても我慢できたし、閉じ込められていただけだから。ただ、ずっと此処にいただけ」 

 

 誰かに認められた事が嬉しくて、しかしそれを素直に認められない情けない現状を思い出し視線を落とす少女に、副長は僅かに温度を感じさせる声で告げた。 

 

 「私は逆だ。ほんの数年前凄絶な敗戦を経験し、多くのものを失った。だが、その夜の身も凍る程の恐怖と屈辱。それを上回る苦痛を私は知っている」

 

 その言葉に少女の視線が再び上がる。自分の中の怪物たちでさえ畏れる祓魔師、恐らくクラシカル祓魔師としても名家中の名家である九鬼家の歴代当主の誰よりも目の前の女は強いのだと分かっていた。だからこそ、信じられない思いが視線を再び交わらせた。

 

 「私は界異と戦い続けた結果、戦場のあらゆる艱難辛苦をこの身に受けてきた。故に断言できる、この世で最も耐えらえないもの。そう、お前は此処にいただけだろう。“無意味な生”という激痛、存在するはずもないその痛み。私でさえも耐えられないそれに十年間耐えてきた」

 

 小さな抵抗を踏みつぶした声が、十年ぶりに光の差し込んだ世界に響いた。その瞬間、少女は自分の耐えていた何かの糸が切れたのが分かった。

 

 

 

「どうして今更っ!もう、私は何処まで人間でどこまで化け物に喰い尽くされたのかもわからないのにっ!十年間、私がどんな気持ちで待っていたと思う?お父さんもお母さんも、妹だって!みてよ、使用人のおじさんだって私を人間だと思ってない!私が毎日何を願ってきたのか貴方に分かるっていうの?」

 

  

 

 たたきつけられた嵐の様な感情すら、何処までも硬質な声がは揺るがずに告げる。 

 

「分かる必要はない」

 

 拒絶の言葉そのものだが、何処か柔らかい響きは少女に痛みよりも困惑を与えた。周囲の九羽の鴉たちと、少女の視線が副長に集中する。

 

「期待に応えよう」

 

「え?」 

 

 何を言われたのか分からないといった少女の顔を、止水の眼が映す。

 

「何を願ってきたか私が知っている必要はない。今ここで聞けば済む話だろう」

  

 余りにも明朗な当たり前の事であった。でも、その“当たり前”の“普通”のやり取りは少女の境遇にとって、砂漠であえぐ旅人の様に恐ろしい程貴重な水の一滴だった。

 

 

 

 「助けてっ……!」

 

 

 

 限界だった、そう願ってはならない。そう誓ったことがまるで事切れる様にあふれ出る言葉にすら、止水の女は冷徹だった。

 

 「具体的には?」  

 

 「私の、はらわたを泳ぐ化け物達を診て!もし、出来るなら……私を、私達を消し去ってっ」 

 

 「その期待に応えよう」

 

 少女は再びもたらされた言葉を受け止めた時、目の前の青い眼が揺るがない理由を理解した――――死だ。目の前の女の眼は“終わり”の色をしているのだと。だからこんなにも冷たく、恐ろしく、そして全てのものに訪れる“繋がり”を感じた。此処で独り誰にも繋がれずに朽ちる運命を受け入れたつもりが、死という全ての生物に“共通”する繋がりを感じられた。口にした時は結局震えを止められなかった癖に、それを理解した時に恐怖は消え去ってしまった。それどころか未来が今消えるという現実に、温もりさえ感じていた。

 

  少女が息を止めた次の瞬間、蔵の中に莫大な霊気が満ちた。それは蔵の外で見ていた老人が倉が爆発したかと思う程のもので、少女の“世界”を青く塗りつぶした。周りの三本足の鴉たちは聞き取れない何時もの囀りを背景にして、余りにも確かな死の感触は想像よりずっと優しくその頬を撫でていく――――

 

  

 

 

 ――――目を開けた。時間は殆ど立っていない。瞼を閉じて、そして開けるまでの時間しかたっていない。何が起こったのか、自分を滅するのではなかったのかと口を開こうとした時。自分ではない聲が音を震わせずに響いた。 

 

 『殺すな』『憐れな子を殺すな』『我らの子を殺すな』『雛鳥というこの世で最も守るべき命を殺そうとするとは、鴉に対する民族浄化主義かね?黒き太陽の三足烏である以前に、知性生命体として君を非難するよ』

 

 それは、自分の中にいる。そして今自分を護ろうと騒いでいる“穢れ”達の声だった。

 

 

 

 「どう、して……?」

 

 

 

 その疑問は余りにも多く少女の思考は停止した。今まで鴉たちは声を上げている事はあったが、その声は、意味不明な騒音としてしか聞こえなかった。それが何故明瞭に聞こえるようになったのか?そもそも彼ら彼女らの言っている事の意味が分からない。少なくとも、自分への言葉で無い事だけは分かった。

 

 『意志が通じている』『クワァ!穢れを浄化するのではなく、純化した!』『この力は彼岸の……』『成る程、単純に佐保の時代より失われた落水を再び見つけたように見えるが出力も色も違う。興味深い』

 

 「五月蠅い、静かにしないなら今すぐ祓滅する」 

 

 淡々とした宣言に鴉たちは口を閉じたものの、副長から庇うように少女と副長の隙間にミッシリ詰まる。被呪耐性が異常に高くとも、流石に穢れに触れ続けるのは嫌なのか立ち上がって一歩離れた。 

 

 「お前たちがその子を喰って現界してからで無い限り、呪いが次の犠牲者に移動するだけだ。私は無駄な行為は好まない」

 

そして、と僅かに温度を感じる声が続けた。

 

 「この子の命を助けて欲しいと言ったな。その願いを叶える対価を誓約によって支払ってもらう。内容は“お前達がこの子に従う事”絶対的な服従を要求する、例えの意識が無い状態であっても、その意に沿わない行動は全て禁止する。この誓約に同意するか?」

 

 『是非はない』『我らは人間とは違う』『雛を見捨てることはしない』『その誓約を破る学術的意義が無い』

 

 そう鴉たちは口々に言うと、少女の影に戻っていく。荒れ狂う黒い太陽の力、沸き立つ溶岩のようなそれは今まではただ不気味で焦燥感を煽るだけだった力は、少女の意のままに制御出来るようになっていた。文字通り世界がひっくり返り、呆然とする少女にアラサカの弐番の数字を背負う女は、立ったまま告げた。

 

 「診てやった、死ぬ必要も無くなった。期待には応えたはずだ」

 

 何も言えないでいる少女に背を向け、五月雨が降り注ぐ外に視線を向ける。

 

 「少し歩くか」

 

 そういって、倉の外に歩き始めた背を少女は慌てて立ち上がって追った。初めて親鳥を見た鄙のように、そうしないという選択肢はもう少女の世界には存在しなかった。案内役の老人……少女も見覚えのある使用人だ。を横目に倉の外に踏み出した。

 

 瞬間、小さく少女の声が漏れた。初めて触れる雨の冷たさと静かさ、五月雨の音のやさしさ。鮮やかに藤の花が咲いていて、早咲きの紫陽花と青い清浄なよひらを咲かせている。水で潤んだ世界は本当に世界がひっくり返ってしまって、少女の運命が変わったかのようだった。

 

 世界が変わってしまっても、少女の目の前を歩く黒いジャケットの女は揺るがない大樹のように、水で滲んだ世界にくっきりと実像を結んでいて、辺りが騒がしくなっていてもその背中を少女は追うだけでよかった。

 

 伝統的な日本家屋といった様相の、手入れの行き届いた庭を通り過ぎ、鏡の様に澄んだ池を後ろに。母屋の前を横切り、玄関を一瞥し進む。そして少女の家の門前まで歩を進め、足を止めた。振り返らないまま祓魔師は少女に言う。

 

 「散歩は此処までだ」

 

 この家の外には連れ出しはしない。それはいっそ残酷な宣告ですらあったが、既に少女には分かっていた。これが“試験”なのだという事が。だから初めての雨を自分と一緒に濡れてくれた“祓魔師”に微笑みすら浮かべて応えた。

 

 「うん」

 

 短い応えに生真面目に祓魔師は頷き振り返る。騒がしくなった母屋から、この旧家……九鬼家に仕える祓魔師や使用人を押しのけて仕立ての言いスーツに身を包んだ壮年の男がやってくるのを、二人で眺めていた。黒髪をセンターで分けた甘いマスクの中年男性、少女の父親にして現当主。優し気な顔と眼だが、この男は自らの娘を人身御供にして界異を封じる事を選択できる男だ。男は周囲のものから差し出される傘を断り、少女と副長に気さくに笑いかけた。

 

 「やぁ」

 

 瞬間、文字通り光の速度で少女が立っていた場所から直線の黒い極光が煌き。九鬼家現当主の男の首筋に、その姿を黒羽のドレスと炎で彩った姿に変えた少女の手刀が添えられた。当主の男の地の利を利用した結界と、少女とその内に巣食う鴉たちの莫大な穢れが鬩ぎ合い、紅い火花を散らしながら少女の禍々しい篭手が首に触れる寸前で停止している。しかし、その余波で首筋に一直線上の火ぶくれが出来上がるのを当主は興味深そうに眺めていた。

 

 「……ふむ、原理的には大量の水を固めて受け止めているのだがね。水剋火、有利属性かつ数千年蓄えられた気脈に馴染んだ地脈の利をもってしても力負けしているね。流石はあの子の姉だ」

 

 自らに迫る死の炎を眠そうに解説しているが、名のある熊野クラシカル祓魔師の家系でも、更に歴戦の祓魔師彼にとってみればその攻撃が自分を本当に殺そうとしているのかどうか位見透かせる。少女は、彼を殺す気が無いのだと見切っているのだ。

 

 「憎いかね」

 

 万象を解析しようとする科学者の眼で、当主が言い放つ。実際の所本当の意味で解き放たれた少女と黒い太陽たちを止める手段など無い。その可能性があるとするなら、無感動にやり取りを眺めている“アラサカ”だけだ。何せ、少女に憑りついている界異は中国神話最大の英雄譚に登場する存在。贄である少女を喰らっていない以上、九の恒星の力を全て解放する事は不可能であろうが、人間の祓魔師が勝負になるはずがない。反応は劇的になるはずだった。

 

 「――憎いよ。私も私の中の皆も、でも違う。“そんな事より”もずっとずっと哀しい」

 

 黒い太陽の力を宿す手が引かれる。当主は初めて驚きの表情を見せた。

 

 「それは、きっと貴方もそうなんだ」

 

 胡散臭い微笑の仮面が初めて凍り付く。少女の影から現れた鴉たちは、少女をいつくしむようにその翼で撫でた。

 

 「私の中の皆もそう。恨みより、呪いよりずっとずっと哀しい。でも、貴方達もそうだったというのなら……私たちは復讐よりも夢を目指したい」

 

 今世界はひっくり返って、全てが変わったというのなら。

 

 「私は、私達は祓魔師になります」

 

 今この瞬間だえ残酷な世界が、水で潤み、ぼやけたその姿を変える。青い藤と早咲きの紫陽花が新たな祓魔師の誕生を祝福するかのように花弁を揺らしていた。

 

 

 

 

 

 

 「だから、私に名前をください。お父さん」

 

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