「お前は一生を掛けて六眼を欺くんだ」って言われた件   作:赤福かき氷

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幕間
追憶


 八王子市にあるとある病院の一室。花柄のカーテンが風に靡き、心地よい風の吹く窓の外に広がる澄んだ青空が悠然と俺を見下ろしている。

 

 夏休み真っ只中の7月24日。宿題は終わっていなければ部活にも行けていない。ここ最近ずっとバタバタしていたのだ。それでも、全てがどうでも良くなるくらいに幸せだった。

 

 

 俺に、弟ができたのだ。

 

 

 感情が昂り、思わず手に持っていたクッションが浮き上がる。いけない、これでは弟を抱っこした時に浮遊させてしまう。

 

 

「父さん、俺の弟はどこ?」

 

「もうすぐ会えるさ。眠っているから起こさないように」

 

 

 浮かび上がったクッションを捕まえ、俺の頭を撫でた父さんが微笑む。ずっと兄弟のいる友人を羨ましく思っていたのだ。一緒にバスケをしてもいいし、ゲームで遊ぶのも良い。

 

 

(俺の弟は、()()()のかな)

 

 

 無数の目玉がついた化け物やタタリ神のような様相のソレ、物理法則を無視したカタチの化け物。

 

 小さい頃はよく父さんに泣きついていたものだ。母さんは()()()と呼ばれる人間で、何もない所を見つめる俺に首を傾げていた。一応呪術の世界については説明してあるそうだが。

 

 

 父さん曰く、俺は()()()()()()だと。何のことだかサッパリ理解できなかったが、子供だからと何も知らないままでいるには今の時代が危険過ぎた。

 

 "五条悟"という人間の誕生により、現代の呪術世界が塗り替えられた。理外の存在に引っ張られた呪霊の強化、それに伴う()()の取り込み工作。

 俺のご先祖様らがやらかした御前試合の件に、訳アリ術式の誕生。

 

 大変な時代に生まれてしまったものだ。

 

 

 

 

 

 

 ベビーベッドの中に眠る、白銀色の髪の毛を生やした小さな小さな生命体。頬は雪見だいふくのように丸く、ふくふくとした手足からはミルクの香りがする。

 

 

「か、かわいい!」

 

 

 俺の声が大きかったのか、弟が口をもごもごさせてぐずる。慌てて謝るが、幸いにも泣き出すことはなかったので安心した。

 

 

「白蓮、抱っこしてあげて。あなたの弟よ」

 

 

 ベッドに横たわる母さんが微笑む。魅力的な提案だが、今の興奮しきった俺が触れるのは戸惑われる。赤ん坊は小さくて弱いと聞いているのだから、うっかり空など飛ばしたら死んでしまう。

 

 

「あなた、キャッチは任せたわよ」

 

「勘弁してくれ」

 

 

 父と母のやりとりを背後に、ベッドを覗き込んでおずおずと片手を手を差し出す。

 

 呪術師の肉体は頑丈なのだから、小さな弟に近寄るのも本当は怖いのだ。だって俺は、自分の呪力量とそれに伴う強度を理解していたのだから。

 

 

「あっ......」

 

 

 弟が、手を伸ばして俺の右手の小指を握ったのだ。握ったというには余りにも弱々しい力だったが、それでも確かに俺の手には小さな温もりがあった。

 

 確かにこの瞬間、この小さな生き物は俺の宝物になったのだ。

 

 

 

 

 

 

 季節は巡り、再び夏。青く茂った木々の隙間から蝉の鳴き声が漏れ、炎天下にある高専の地面は熱され、湯気すらも立ち昇っているようさえ感じた。

 

 先日4歳を迎えた睡蓮と縁側でスイカを食べた記憶が甦る。因みに、去年飛ばした種の処理をしなかったため、庭にスイカが群生して父さんに叱られたのだ。

 

 

「鯨...ですか?」

 

 

 呪骸を抱いた夜蛾先生から任務についての説明が為される。

 ここ最近、東京湾で鯨の目撃談が寄せられていると。体長はおよそ25メートル前後だそうで、中々に洒落にならないサイズだ。そんなものが東京湾を泳いでいたのならば、もっと騒ぎになっていてもおかしくはない。

 

 

「何故その話を俺に?野生の鯨という可能性は?」

 

「悟は目視できたが、傑と硝子は目視できなかった」

 

「そんなヤバいことあります?」

 

 

 仮に鯨型の呪霊だとして、術師同士の視認の有無にすら差異があるのは不思議な話だ。他にもちらほら目撃情報があるそうなので、何か法則性や被呪の有無などがあるのだろうか。

 

 

(いや、呪いならとっくに五条が気がついているはずだ)

 

 

 25メートルもの巨大な呪霊相手に六眼の見落としが発生するとは思えなかった。俺個人としては、その呪霊に六眼を欺いて見せる方法があるのだとすれば是非とも参考にしたいのだが。

 

 

「.....海上保安庁には」

 

「既に何件か通報が行っている。誤魔化しきれなくなる前に調査してこいとのことだ」

 

「何故俺に?」

 

「白蓮、お前なら宙を浮けるだろう。海上である以上、調査方法は限られてくるからな」

 

 

 確かにその通りだ。断る理由もないので任務を承諾し、職員室を後にした。残念ながら、俺がその件の鯨を発見できるとは限らないのだが。

 

 

「悟との合同任務だ。しっかり手綱を握っておけよ」

 

「手綱なんてとっくにぶっちぎれてるんですけどどうすれば」

 

 

 五条は"鯨が目視可能"、"宙を浮ける"という条件を満たしたため任務が振られたとのことだ。無下限呪術の詳細を知らないので何とも言えないが、空まで飛べるとは応用力の高い術式だ。

 

(...コレ2人もいるか?)

 

 まぁ五条にだけ視えるというのもおかしな話だ。原因は不明だが、何らかの条件をうっかり満たした所為で危険な目に遭うなどということがあってはいけない。念を入れるに越したことはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「合同任務だぁ?俺1人で十分だろ。アンタは帰れよ」

 

(やっぱそうなるよな!!)

 

 真っ黒なサングラスの下で心底面倒だという表情を浮かべてみせた。生意気極まりない無茶振りに補助監督の方の顔が引き攣る。車に乗り込んだは良いものの、後部座席のやり取りにバックミラーの表情が歪んでいる。お騒がせして申し訳ない。

 

 俺自身も最初は面喰らったが、3ヶ月も経てば慣れる。

 

 

「念には念をってことだろ。諦めてくれ、夜蛾先生の指示だ」

 

「誰に言ってんだよ」

 

 

 五条が先輩という生き物に良い印象を抱かないのも無理はない。

 俺は今の所頻繁に関わる機会はないのだが、その他の先輩とは色々とあったようだ。先輩方も、六眼無下限に御三家、神童とあまりにも多くを持ち合わせた後輩の相手は手に余ったらしい。

 

 

「2人だけの任務は初めてだったよな。足引っ張るとしたら俺の方だと思うがよろしく頼む」

 

 

 そう、五条と2人っきりの任務は初めてなのだ。複数人で当たったことが数度。その任務で今の1年生の規格外っぷりが知れ渡り、上級生と彼らが組むことは殆どなくなった。

 五条も夏油も、高専でそれ以上の年月を過ごしてきた者にとっては眩し過ぎたのだ。それこそ遠巻きにする程。

 

 

 中学時代に所属していたバスケ部の先輩の顔がよぎる。気の良い人で、高校へ進学してからも時々連絡をくれる。今度みんなで食事会へ行く予定だ。

 

 

(俺は俺で個人任務が割と多いしなぁ)

 

 

 折角なら任務後に一緒に観光やら買い食いやらをする相手が欲しい。

 久しぶりの合同任務に内心浮かれていたのは心の内に留めておく。残念ながら今回の任務は東京湾なので、観光は無理そうだ。

 

 買い食いという邪念に惑わされ、俺の腹の虫が鳴る。腹の音に若干ピリついていた車内の空気が緩んだことに安心したのか、補助監督の佐藤さんがコンビニへ寄ってくれた。

 

(五条だって腹鳴ってたよな)

 

 佐藤さんも気がついていないし、五条も素知らぬ顔で携帯を弄っている。待たせるのも申し訳ないので急ぎ足で紫と赤、橙で彩られたサークルKへと立ち寄る。

 

 

 

 

 

 

「お待たせしました」

 

 ブラック珈琲を佐藤さんに手渡し後部座席へと戻る。五条の方にも戦利品を幾つか放り投げ、シートベルトを着用した。ありがたいことに車の中で食べて良いと申し出てくれたので、お言葉に甘えて肉饅の包みを開く。

 

 

「...おい、アンタ何のつもりだ」

 

「悪い、餡饅の方が良かったか?」

 

「そうじゃねぇよ」

 

「...真夏に肉饅は不味かったか?」

 

「それも違う」

 

 

 そう言えばこの後輩は天下の五条家出身だったと思い至り、肉饅を半分割って齧ってみせる。

 どこぞの童話のように林檎の半分だけ毒を入れるなどという器用な真似をされたら敵わないが、量産品のレジ横ならばそんな心配ないだろう。

 

 自分の手に持っていた肉饅を半分に割って五条の方へ戻すと改めて齧り付く。空きっ腹に染み渡り、空腹によって散漫になりかけていた集中力が戻ってくる。

 

 

「葡萄とオレンジ、どっちがいい?」

 

「......オレンジ」

 

 

 葡萄のファンタを開けて乾き切った喉に流し込む。五条が肉饅に齧り付いたのを横目に、散らかった袋の中の整理を始める。"拡張パック まぼろしの森"は弟へのお土産だ。...父さんからは睡蓮に貢ぐなと怒られてしまうのだが。

 

 

 

 

 

 

「到着しました」

 

 

 東京都内であるため当たり前なのだが、思ったよりも早く到着した。俺たちの眼前に広がるのは羽田空港だ。

 別に自分が飛行機に乗る訳ではないのだが、やはりこういう場所は心が躍る。雰囲気だけで楽しいのだから空港ってすごい。

 

 空を飛ぶ鉄の塊の中で重力操術が暴発したら大惨事もいいところであるし、ある程度制御できる頃には乳幼児が生まれたのだ。だから、未だに飛行機は乗ったことがない。

 

 

 だから、空港の雰囲気は物珍しくて楽しい。何処か旅行へ行くならば、俺は北国に行きたい。

 

 

 空港ならば湾内がよく見渡せるし、人が多い分目撃サンプルも多く得られるかもとのことだ。そもそも問題の鯨が出現するとは限らないのだけれど。

 

 

「五条、何か視えるか?」

 

「何もいねぇな。無駄足踏んだわ」

 

「まだ始まったばかりだろう。もう少し粘るぞ」

 

 

 出ないなら出ないかったで次の手段だ。時刻は既に夕方であり、陽が沈んで人目が少なくなったら()()()湾内へ侵入する。

 流石に海保を誤魔化し続けるのも無理があるそうで、早急な解決が求められている。

 

 

 砂浜のない、周囲を人工島とビルに囲まれた空間とは言え海は海だ。沈みつつある夕日によって赤く染まった海とレインボーブリッジのコントラストが何とも美しい。

 

 

「何してんの?」

 

「弟に後で見せようと」

 

 

 聞いておいた割には興味がなさそうで、真っ黒なサングラスを東京湾の方へと向ける。

 

 陽は完全に沈み、橋の上を走る車の赤ランプと照明が海に映り込む。ネオン色に輝く海の中で屋形船が優雅に泳ぐ。船の中の提灯が橙色に輝いていた。

 

 騒がしい海の中で呪力が渦巻いた。発生源である東京湾の中央に目を向けるが、俺の視界には何も映らなかった。

 

 

「五条、視えるか?」

 

「クソでかい鯨がいんぞ。やっぱアンタも視えねぇか」

 

「その鯨に術式は?」

 

「術式はねぇよ。つーかさ、よく六眼の効果知ってたな」

 

「...まぁ、有名だからな」

 

「あっそ」

 

 

 割と詳しく知っている理由など口が裂けても言えない。なんなら腕を捥がれようと腹を裂かれようと、絶対に口外できない。

 

 睡蓮の"式業"は、欠片も露見させる訳にはいかない。幸い五条は興味がなかったようだが、非術師と誤魔化している以上深く突っ込まれると困る場合もある。

 

 

「めんどくせぇ、さっさと行って祓おうぜ」

 

「五条、帳頼んで良いか?」

 

「はぁ?そんなことも出来ねぇのかよ」

 

「結界術は難しいんだ。今度教えてくれ、父さん以外の説明も聞きたい」

 

 

 そう伝えると、五条の顔が珍妙な物を見るような表情へと変わる。俺は何か変なことを言ったのだろうか。

 五条の帳が"欠片と交換の教え技"的な特別仕様だったのならば仕方ない。

 

 

「待て、まだ屋形船が海上にいる」

 

「避けりゃ良いだろ」

 

「流石にそれは危ないだろう」

 

 

 ぱかりと音を立てて携帯を開き、補助監督の佐藤さんに連絡を入れる。宴会中のサラリーマンには申し訳ないが、屋形船を退散させてもらおう。

 たぶんしばらくかかるだろうな。

 

 

「なぁ、鯨の見た目はどんな感じなんだ?」

 

「どんなって、馬鹿でかいフツーの鯨」

 

「最近見たのはベルーガくらいだな」

 

 

 首を傾げた五条にシロイルカ属の鯨だと説明してやる。お隣の神奈川県にある水族館で飼育されていたのだ。俺が見たことある鯨といえばそれくらいしか思いつかない。ちゃんとした砂浜のある海へ遊びに行ったことはあれど、流石に遊泳区域に鯨はいない。

 シャチがいる水族館もあるぞ、と説明してやると僅かながらも驚いたようだ。

 

 

「水族館に行ったことはあるか?」

 

「ねぇよ」

 

 

 意外に俗っぽい知識の多い後輩だとは思っていたのだが、流石に水族館まで足を運んだことはなかったようだ。

 

 任務中に寄り道など非常によろしくないということは理解しているが、佐藤さんからはもうしばらく時間を要すると連絡を受けた。五条曰く、デカいだけであの鯨に危険性はないとのことだ。

 

 

「じゃあ行ってみないか?チケットが余っているんだ」

 

「ナンパかよ」

 

 

 意外にも大人しく着いてきてくれるようだ。空港近くにある品川の水族館は絶賛営業中とのことで、ありがたく足を運ばせてもらうとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 館内、水中に設置されたトンネルの中を歩く。頭上をエイが舞うように泳ぎ、地面から生える色とりどりの珊瑚からクマノミが顔を覗かせる。

 

 視界の端、大きめの水槽の中では数万という鰯が群れを成して回遊していた。哀れにも本来の生息域から外れた場所まで回遊してきた魚は、そのまま命を落としてしまうらしい。

 

 

 呪術界に関わる人間は、呪術の世界から離れた場所で健やかに暮らすことが出来るのだろうか。睡蓮は、このまま一生欺き続けることが出来るのだろうか。

 

 

 悩みは尽きないが、眼前で優雅に舞うエイを眺めていると、心なしか気分も晴れたような気がする。

 

 

 隣の後輩に視線を向けると、サングラスを片手に悠然と舞うジンベエザメを眺めていた。空のような青い瞳に泳ぐ魚が映り込み、まるで海の如き光景だ。

 

 

「初めての水族館の感想は?」

 

「窮屈そうだな」

 

「美味そうとか言わなかっただけマシだな」

 

「コイツら食えんの?」

 

「品種によるとしか...」

 

 

 何ともロマンの無い回答だ。さっさと帰ってしまわない辺り、全く興味をそそられなかった訳ではないのだろう。 その場を動くこともなく、既に時計の針が4分の1程進んでいた。

 

 水中トンネルを潜り抜け、熱帯魚コーナーやらペンギンコーナーを見て回る。本当に水族館は初めてのようで、眼前に海中が広がる度に視線が吸い寄せられている。

 

 

 たまに捕食シーンなどお茶の間に流せないような事故が起こらないでもないが、呪霊蔓延るこの界隈を泳ぐ人間たちより余程平和な光景だ。

 

 

「平和なもんだな」

 

「実際の海はもう少し厳しい世界らしいぞ」

 

 

 窮屈な檻の中に築き上げられた安寧を享受するか、自由と脅威の両立した外の世界で暮らすか。どちらが幸せかは本人次第だろう。

 

 

「...ふーん」

 

 

 ペンギンに突かれた手のひらを摩りながら館外へと繋がるゲートを潜り抜ける。

 巨大な水槽の周りに観客席が設置され、客席から見える外のビル街は絶景というべきだ。

 

 

「何の集まり?」

 

「イルカショーだよ」

 

 

 調教師の手によってイルカが勢いよく水面に飛び込み、観客席に結構な量の水が飛ぶ。

 

 

「五条!さては術式使ったな!?」

 

「ははは、何てザマだよ!」

 

 

 無下限によって水は五条に当たる前に停止した。綺麗さっぱり乾いた五条と髪の毛から水を滴らせる俺、何とも不可思議な光景だ。

 イルカによってびしょ濡れになった俺を五条が笑い飛ばす。まぁ、眩しい笑顔の後輩が楽しそうで何より。

 

 

 

 

「...今が夏で安心した」

 

「ダッセ」

 

「五条!」

 

 

 丁度良いと言うべきか、水族館を粗方まわった頃に補助監督の佐藤さんから連絡が来た。酔っ払い相手に苦労したようだが、湾内の船は全て排除できたそうだ。

 待機させて申し訳ないと謝罪されるが、こちらはこちらで遊び回っていたので気にしないで欲しい。

 

 

「ほら五条、そろそろ任務行くぞ」

 

「最初から祓っときゃよかっただろ」

 

「たぶん普通の呪霊とは違うはずだ。夜蛾先生も言っていたが、念には念を入れておけ」

 

「弱いやつに気を使うのは面倒くせぇな」

 

「五条な...一般人もそうだがお前もだ。呪霊との遭遇条件まだ判ってないんだぞ」

 

 

 携帯の写真フォルダを開き、目撃証言資料に目を通す。目撃者に共通する条件はないが、心なしか若年層に多く見られる。

 

(悟にあって俺にないもの...駄目だ、思いつかないな)

 

 非術師がうっかり目撃してしまったからこその惨事であり、呪力云々は関係ないはずだ。ならば、その鯨型呪霊と波長が合ってしまった人間が選ばれているのだろうか。この場合、俺にはどうしようもない。

 

 

 

 

 

 

 

 川沿いに走り、数分と経たないうちに羽田空港へと到着する。東京湾には船舶ひとつ見当たらず、眩く輝いているビル群の光が凪いだ水面に反射していた。

 

 水面下でナニカが蠢いたのか、凪いだ水面に波紋が刻まれる。水面に映るビルの輪郭がぼやけ、東京湾内で波とともに光が踊った。

 

 俺が触れられるか定かではないが、五条と共に鯨がいるであろう地点の上空へと飛ぶ。俺たちが空港から飛び立つと同時に、佐藤さんによって東京湾の一部を囲うように真っ黒な帳が下された。

 

 

「この辺りで間違いないか?」

 

「海面に顔だけ出してるぜ。どっちにしろ祓っちまえば一瞬だろ」

 

 

 そう述べるや否や、出力された無下限呪術による攻撃が眼下の水面に叩きつけられる。俺の目には見えないが、ナニカに命中したソレが水飛沫をあげる。東京湾に広がった波紋に、やはり屋形船を退避させておいて正解だったと思う。

 また濡れ鼠かぁ、と思わないでもないが。まぁイルカも鯨も似たようなものだろう。

 

 不思議な事に、水面下の気配が消失した気配は感じられない。俺には音も聞こえなければ姿も見えないが、隣の五条が顔を顰めて耳を押さえている。

 

 

「どうした?」

 

「この騒音も聴こえねぇのかよ」

 

 

 申し訳ないが本当に何も聞こえない。考えられるとしたら鯨の鳴き声だが。

 と言うか、五条の攻撃を喰らって耐えるなんざとんでもない耐久力だ。術式を持たない鯨型呪霊の等級はそれ程高くはないはずなのに。

 

 

 

 これだけ()が大きければ問題ない。浮遊しながら呪霊がいるであろう空間の重力を弄り、鯨型のソレに向かって叩きつける。俺には見えない水面下のナニカにしっかりと命中したらしく、再び東京湾で水柱が立つ。

 

 

(...五条の攻撃より効いてるのか?)

 

 

 手応えから考えるに、先程の無下限呪術による攻撃よりも効いている。決して五条の火力が足りていなかったという訳でもなく、寧ろ俺の方が劣るくらいだろう。

 

 何か条件があるのだろうが、俺には六眼も天眼もないため判別不可能だ。理由はどうであれ、五条の攻撃が軽減されるならば俺がやれば良いだけの話だ。

 

 

「おい、逃げたぞ」

 

「嘘だろ!?どっちに逃げた?」

 

「北東方向!...面倒くせぇな。もう湾内に無差別攻撃しようぜ」

 

「流石に不味いだろそれは!」

 

「アンタは出来ねぇの?」

 

「出来るけどな...後々の被害も考えてくれ!そんなことしたら明日の新聞の一面は確定だぞ」

 

 

 海中深くに潜られたならば追跡のしようがない。なるべく湾岸から離れた場所に山カンで重力を叩き込んでいく。やはり()()()()呪霊というのは落ち着かない。

 

 この間にも鯨型呪霊は鳴き声をあげ続けているようで、五条の眉間の皺がどんどん深くなっていく。

 3本目に差し掛かった辺りで思わず人差し指で皺を伸ばしてしまう。何というか、梅干しを食べてしまった弟の表情とダブったのだ。だから蜂蜜梅以外は止めておけと言ったのに。

 

 

「...なぁ、今って鯨が空飛んでたりする?」

 

「イルカショーも真っ青だぜ」

 

 

 呪霊の気配が東京湾の上空を舞ったのだ。水飛沫だけが放物線を描く様に飛び散った。25メートル前後の鯨ということで、風圧やら水飛沫やらの影響も中々のものだ。

 

 

「あー、そう言うことか」

 

「何かわかったのか?」

 

「そりゃあの呪霊、アンタには見えねぇよ」

 

 

 舞う水飛沫の先、何かを明確に目で追った五条が呟く。

 彼曰く、鯨型呪霊は認識阻害の類いの性質を所持しているようで、条件を()()()()()人間の認識から消失する仕組みになっているそうだ。

 

 

「五条にあって俺にないものって何だ?」

 

「逆だ。アンタにあって俺にないものの所為」

 

 

 ふと、"52Hzの鯨"という単語が脳裏によぎる。俺が小学生頃の夏、テレビで頻繁にドキュメンタリーが組まれていた。

 

 「世界でもっとも孤独な鯨」と称された鯨。鯨は同周波数の鳴き声の同類とコミュニケーションを取り、群れを形成する。しかしながら、52Hzの周波数という唯一性は、その鯨を孤独へと導いたのではないかと。

 

 その鯨を庇護して導く先立は存在しなかったのだろう。親も兄姉も、群れの先輩鯨も、彼と対話することは叶わないのだから。

 

 

「52Hzの鯨」

 

「そんなところだな」

 

 

 ぽつりと溢れた言葉に五条が反応する。

 

 人間は成長と共に現実を知り、己の中で折り合いをつけるし認識も変わる。しかしながら、人生経験に乏しい若者はそうもいかない。0か1、黒か白で物事を判断する傾向にある場合が多い。

 

 己を愛して導く親もいなければ、見守ってくれる人生の先輩もいない。望むのは、隣で歩く人間ではなく自分の手を引く先を行くもの。

 

 20世紀末頃に発見された52Hzの鯨という概念に、若者の抱える孤独感が実体を与えたのだ。そして、悩んでいるにしろ全く気にしていないにしろ、その鯨が同類と認識した人間の眼前に姿を現す。

 

 

「夏油や家入は?」

 

「アイツらは同級生」

 

 

 確かに。実家は大所帯だろうと言う言葉も、御三家の家庭事情に首を突っ込むなという父さんの言葉を飲み込む。

 

 

「家のヤツらは"無下限と六眼"を導く気なんざサラサラねぇからな」

 

 

 よくわからないが、胃が痛くなるので御三家の闇深い内情をバラさないでほしい。

 間藤の家は雀の涙程度だが禪院の血が混ざっているし、俺の弟は見事にジョーカー(式業と天眼)を引き当ててしまっているのだから。

 

 

 

 

 

「高専のヤツらもどうだか」

 

「いや、()()は俺の後輩だろ?」

 

 

 同じ学校に通う1年生と2年生なのだから。

 小学校も中学校も、上級生は先輩で下級生は後輩。ひとつ上だったバスケ部のSFは宮内先輩だし、2つ下のマネージャーだった山川は俺の後輩だ。

 

 だというのに、五条はこちらを珍妙な生物を眺めるかの如き表情で見つめている。

 

 

(...勝手に後輩扱いしたら不味かったか?)

 

 

 呪術界に足を踏み入れて1年経ったとはいえ、ほぼ一般家庭出身の俺に暗黙のルールなど馴染みがない。父さんは全力で諸々を叩き込んでくれたが、右も左もわからない1年生が全てを覚えきるのは不可能に等しい。

 確かに、どう考えても呪術師としては五条の方が先輩である。

 

 

「そりゃ帳の下ろし方を聞く先輩は不服だろうが...」

 

 

 寧ろ俺の方が先輩と呼んで然るべきかもしれない。勝手に非術師界の枠組みで考えてしまっていたのだが、相手は生粋の呪術界育ちなのだ。

 

 

「俺を後輩扱いすんのかよ」

 

「...不甲斐ない先輩で申し訳ない」

 

「そういうことじゃねぇ」

 

 

 先程よりも弱った鯨の気配は、東京湾の出口の方向へ酷くゆっくりと進む。だと言うのに、五条が追撃をかける様子もない。まぁ帳があるため鯨が太平洋へ脱出する危険性はないと思うが。

 

 

 

「傑と硝子は?」

 

「凄い後輩が3人も出来たなぁと」

 

 

 五条と同じくらい強い夏油に、反転術式のアウトプットというトンデモ技能を持つ家入。

 夏油に関しては、同じ一般家庭出身として尊敬すらする。だって彼も物凄く強い。それに、家入にも何度か世話になっている。

 

 

「家入の好物は知ってるか?そろそろお礼の1つでもしないと流石に申し訳ない」

 

「.....酒と煙草」

 

「家入...」

 

「傑もだぞ」

 

「ちょっと待て。後輩の治安が心配になってきた」

 

 

 五条の空のような瞳がサングラス越しに俺を射抜く。くるりと後ろを振り返るが、真っ黒な帳以外に何もない。

 

 再び向き直った俺の顔を眺めた五条の口角が吊り上がる。次の瞬間、目の前の後輩の口から溢れたのは笑い声だ。腹を押さえ、手を叩いて笑う彼の声が静まり返った東京湾に反響する。

 

 

(何で五条が笑ってんだ!?...俺そんな変な顔してたか?)

 

 

 真っ暗な夜空と帳にも関わらず、本当に楽しそうに笑う後輩の瞳は、青い空のように何処までも美しい。

 

 

「ははは、マジか。なぁ、()()の所為で俺まで視えなくなったんだけど」

 

「鯨をか!?...何でまたそんな急に?」

 

「気配を追っかけられる内にさっさと祓うぞ。モタモタすんな」

 

「ちょっと待ってくれ、説明を」

 

 

 

 

 

 

 この後輩が待ってくれるはずもなく、2人で宙を浮いて鯨のいるであろう場所へ辿り着く。

 

 五条の無下限呪術による攻撃は先程よりも随分と効いているようだ。先程と威力に差などないというのに不思議なものだ。

 

 海上保安庁に通報が入っている以上、迅速な除霊が求められる。さっさと祓うに越したことはない。

 

 

(睡蓮は、大丈夫なのだろうか)

 

 

 引き当ててしまったババを抱えた最愛の弟に、俺は何処まで、いつまで寄り添うことが出来るのだろうか。()()()人間をこの世界から隔離し、己の本質すらも欺かせてしまっている。

 

 彼の為になるのかすら定かではない俺のエゴに付き合わせてしまった弟は、俺の願い通りに何かを悟ることが出来るのだろうか。

 

 "孤独"に関する鯨。救いがあるとするならば、手を繋いで散歩に出掛けた東京湾で、睡蓮に"鯨"が視えなかったことだ。

 

 

 足元で呪霊の反応が消失する。呪力の流れを読んでみせる六眼は、鯨が見えずとも位置の確認くらい朝飯前だったようだ。

 本当に、ハードルは高い。

 

 

 

 

 

 

 帳は解除され、煌めく東京のビル街が現れる。東京湾アクアラインの上を忙しなく車が通り過ぎ、深夜にも関わらずビルの照明が消えることはない。何の変哲もない、いつも通りの東京の街だ。

 

 

「海ん中に残った残穢が何か呼んだらウケるよな」

 

「五条、それフラグだぞ。幽霊船騒ぎでも起こったら流石に海保が限界だ」

 

 

 羽田空港に降り立ち、補助監督の佐藤さんが迎えに来るのを待つ。呪霊の視認条件は、結局ハッキリとわからないままだった。五条は恐らく気がついているのだろうが、面倒だと説明を突っぱねられた。

 

 

「...なぁ、その"五条"っての」

 

「苗字は不味かったか?」

 

 

 呪術界の名家の名前を所構わず呼ぶのは不味かったのか、それとも五条なりの歩み寄りか。俺としては後者だと嬉しい。

 

 

「別に呼び方とかどうでもいいわ」

 

 

 かと思えば何でもないように足速に車の方へと歩いていく。その後ろ姿に、何となく微笑ましい気分になった。

 小走りでその背中を追いかけ、ふわふわの白髪の上に手を置いて撫で回す。

 

 

「お疲れさま、悟」

 

 

 そっぽを向いた悟に、その手が振り払われることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱフラグだったかぁ」

 

「何言ってんだよ五条先生」

 

高菜(夏バテ)?」

 

 

 東京湾に出没した幽霊船である"メアリ・セレスト号"。その任務に当たった教え子2人の報告書を眺め、思わず呟いてしまう。もう10年以上も前のことになるとは、時間の流れは馬鹿に出来ない。

 

 ゲロやら怪我やら中々の大冒険だったようだが、2人とも無事に帰ってきた。航海日誌を丸投げされた伊地知は悲鳴をあげていたが。

 

 

「報告書はもういいよな?この後予定詰まってんだ」

 

「どっか行くの?」

 

「パンダが水族館行きたいんだと。アイツ上野じゃねぇのか」

 

 

 やっぱ実家は飽きるよな、と笑いながら言った睡蓮に棘が元気よく肯定のおにぎり語を返す。一応、学長産であることは理解しているはずだ。

 

 

「イイネ!青春してるじゃん」

 

「だろ。俺はやっぱイルカショーだな...棘は?」

 

「しゃけ!」

 

「ごめんそれどっち?」

 

 

 コントのようなやり取りに思わず笑ってしまう。きっとイルカショーではびしょ濡れになるのだろうが、夏場はすぐ乾くので心配は要らない。

 

 

「五条先生のお気に入りは?」

 

「鯨かなぁ」

 

 

 




ご要望をくださった方、ありがとうございます!

表記は完結のままにしておいてよいのか悩みどころ。

誤字報告ありがとうございます

8/18 7:36 修正しました
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