放課後になり、雪や鈴音と共に体育館に向かおうとすると、Aクラスのリーダーである坂柳がこちらの行く道を塞ぐように立っていた。
お付きの人はいないようなので、こちらも雪と鈴音を先に行かせて、坂柳と向かい合う。わざわざ一人でオレを待っていたということは、他の人間には聞かせたくないということだ。自ずと、どんな話をするかは予想がつく。
「最近は、随分と積極的に1年生に絡んでいるようですね、綾小路くん」
丁度、周囲に誰も居なくなるのを見計らって、坂柳はゆっくりと口を開いた。まずは軽く様子見と言う感じで探りを入れてくる。
「今回の試験、成績下位の生徒は死に物狂いで食らいつかないといけないからな。須藤や池のパートナーを見つけるためにどうしても1年生とは接触しないといけなかった」
「ですが、それだけではないですよね? 今回の試験、綾小路くんを退学にさせるため、1年生からホワイトルーム……あるいはそれに近しい刺客が送られてきていると私は考えています。満点を取っても、1年生が0点を取れば、綾小路くんも退学になる。実に厄介な試験だと、勝手に想像を膨らませているのですが?」
想像――と、言ってはいるが、ほぼ断定に近い。天才故に、こちらの敵がどう動いてくるのかが読めるのだろう。実際、坂柳の言うことに間違いはない。
しかし、この試験はもうその程度の難易度ではなくなっているのも事実だ。今回の試験は、それを踏まえた上で、月城の期待に応える結果を出さなくていけないという少しばかり面倒くさい試験になっている。
「で、その結果、マネーゲームに釣られて帆波に学力の高い生徒を引き抜かれた訳だ」
あたかもこちらの境遇を憐れんでいるという様子を見せるので、少しばかり挑発してやった。すると、坂柳は「やはり、そうでしたか……」と、すぐに納得した様子を見せる。
坂柳も、オレを心配するのと同時に、今回の件にオレが関わっているかどうかを確認したかったのだろう。原作では休みに接触してきたにも関わらず、待てずにこうして自分から姿を現した時点で、帆波にしてやられて屈辱を感じているのが丸見えだった。
「思った通り、あれは綾小路くんの入れ知恵だったんですね」
「お前らがマネーゲームを仕掛けてくるのは最初から分かっていたからな。こちらも、マネーゲームに仕掛けるフリをして目線を逸らした」
2年Cクラスが率先して高い学力の生徒にマネーゲームを仕掛けたのは、坂柳と龍園に自分たちにPPを多く使わせようとしていると印象付けるためだ。
そもそも、去年の二度の退学取り消しで2年Cクラスにはマネーゲームを仕掛けられるだけのPPなど残っていないということはバレている。自ずと、坂柳と龍園は、帆波はダメ元で吹っ掛けていずれ撤退すると考えるだろう。
だからこそ、この二人は帆波を敵として認識しなかった。一方で成績の低い下級生を救済しようとしていたのも、いい目くらましになっていたはずだ。
あいつらはまだ、帆波が信者を作ろうとしているのに気づいていない。馬鹿なことをしているとしか考えなかっただろう。当然、裏で色仕掛けを使って成績の高い男子生徒を引き抜こうとしているなんて微塵も考えなかった訳だ。
結果として、こいつらがPPをぶつけ合っている間に、帆波は二人を出し抜いて成績の高い男子生徒と契約を結んで引き抜きを果たした。
坂柳や龍園にしてみれば、敵とすら認識していなかった帆波にしてやられたのだ。悔しくない訳がない。そして、坂柳はこの引き抜きの裏にオレがいることに勘付いて、こうして接触しようとしてきたのだろう。
「聞かせて貰ってもいいですか?」
「なんだ?」
「一体、どうやって彼らを買収したんですか? 私も龍園くんも、かなり高額のPPを彼らには提示していた。即決するには、それなりの材料が必要だったはずです」
「買収された生徒は口を割らなかったのか?」
「ええ。どの生徒も謝罪をするのみで、言い訳一つ口にしませんでした」
帆波が契約で口を縛った――いや、違うな。色気に流されたとバレるのが恥ずかしくて自ら口を閉ざしたって所か。
年頃の男子高校生だからこそ、美少女の坂柳に対して妙なプライドで口を開かなかったに違いない。だからこそ、坂柳はこちらがどういう手段で引き抜きをしたか、まだ理解していないようだった。
「どの時代でも、男を惑わせるのは女と相場が決まっている」
「色仕掛け……と、いうことですか? そんなもので……」
「お前は自分が天才だと自覚しているタイプの人間だ。そういう人間は、総じて下の人間の気持ちを理解しようとしない。男っていうのはな、意外と俗物的なものなんだ。金よりも女との時間を取る考えは決しておかしなものではない」
坂柳は理解できないと言いたげな顔をしている。こいつの数少ない弱点の一つは、他人の気持ちを理解しようとしない所だ。
なまじ、自分が天才だから、相手はこう考えるはず――と、勝手に決めつける。勿論、その推察はかなり高精度であることは認めるが、人は意外と単純なことで靡くものだ。
「……そうですね、認めましょう。確かに、私は一之瀬さんを甘く見ていたようです。彼女がそんな俗物的な手を使ってくるとは想像できなかった……いえ、もっと正確に言えば、彼女の後ろにあなたがいることも、そんな手を使ってくるとも思っていなかった」
「これからの帆波は何でも仕掛けて来るぞ。いや、オレが仕掛けさせる。これからは二つのクラスにオレがいると思って動いた方が良い」
「それは、ぶつかるのが楽しみです」
「で、用はこれだけか?」
「いえ、本題がまだ一つ残っています。もし、パートナーが決まっていないのであれば、手間を省くために力をお貸ししましょうか? 僅かにですがパートナー確定を決めていない1年生に心当たりがあります。綾小路くんに差し出しても悪影響のない子たちですよ」
そういえば、原作でも坂柳はオレのことを心配する素振りを見せていたっけか。乗ってもいいのだが、既に宝泉との約束もあるし、わざわざ施しを受ける必要はない。
「随分と気前がいいんだな。けど、遠慮しておく。パートナーはもう決めてるんだ」
「それはそれは、どうやら余計なことをしてしまったようですね」
「正確にはこれから口説き落としに行くんだがな。もし、万が一、その交渉に失敗したら、その時はお前に泣きつくかもしれない」
「では、綾小路くんが泣きついてくるのを楽しみに待つことにしましょう。まぁ、まず有り得ない未来だと思いますが」
こいつも何だかんだ、オレが失敗するとは微塵も考えていない。いつもなら、このままおしがま選手権を開催する所だが、残念なことにこれから宝泉との約束がある。
タイミングが悪い――いずれ、どこかでまた二年度初のおしがま選手権を開催したいものだ。と、考えながら、坂柳の横を抜けていく。
どうやら、こちらが何を考えていたかは坂柳には丸わかりだったようで、少し顔を赤くして恥ずかしそうにしながら、「最低です」と呟いていた。
◇◆
坂柳とのちょっとした世間話を終え、約束の体育館へ行くと、既に役者は揃っていたようで、雪と鈴音の外にも、宝泉と七瀬の姿が見えた。
宝泉は既にやる気満々と言った様子であり、「やっときたか。待ちくたびれたぜ、綾小路パイセンよぉ」と、こちらに文句を言ってくる。実際、待ち合わせに遅れたのは事実なので、ここは素直に頭を下げておくことにした。
「すまない、坂柳に絡まれてな。少し話をしていたんだ」
と、話しながら上着を脱いで雪に渡す。
宝泉も、改めてこちらがやる気だとわかると、嬉しそうに獰猛な笑みを浮かべた。
「ルールを確認するぞ。勝負はオレとお前の1対1だ。相手に負けを認めさせるか、気絶させるまで止まらない。勝った方は負けた方に何でも命令できる……が、期間はどうする?」
「俺は卒業するまででも全然かまわないぜ?」
「では、期間は契約相手が卒業するまで……つまり、オレが卒業するか退学するまでだな」
つまり、この勝負に勝ちさえすれば、実質1年Dクラスはオレの支配下に置かれるということになる。まぁ、ぶっちゃけ、この試験さえ乗り越えれば宝泉などどうでもいいのだが、いざという時に力の駒が使えるというのは大きい。
「七瀬も問題ないか?」
「……負けた場合、何でも命令できるのは個人ということですよね?」
「そうだ。仮に宝泉が負けても、オレからお前に命令を強制することはない。勿論、クラスのリーダーとして、宝泉には他人を従えて貰うつもりではいるが」
「期間を1年にしませんか? 万が一の保険は持っておいた方がいいかと思いますが……」
と、七瀬が宝泉に口を利くが、宝泉は完全に聞く耳を持っていなかった。完全に自分が勝つことを疑っていない。負けたことのない人間の典型だ。
「宝泉くん……」
「わかった。七瀬がそこまで言うなら、期間については勝者が改めて決めるルールにしよう。宝泉も、それでいいな?」
「どうでもいいから、早く始めようや!」
宝泉はもう我慢できないと言う雰囲気だった。
七瀬も、これ以上宝泉が聞く耳を持たないというのはわかったようで、「わかりました。先輩の温情に感謝します」と、納得する素振りを見せている。この契約では七瀬は縛らないので、最悪自分が動ければいいとでも考えているのだろう。
「んじゃ、いくぜぇ!!」
もう待ちきれないと、開始の声を待たずして宝泉が動き出した。その巨体にそぐわないスピードで、こちらとの距離を詰めてくると、まずは様子見とばかりに左のジャブを打ってくる。
流石のオレも真っ向からの殴り合いで、簡単に宝泉に勝てるとは思っていない。拳が当たるギリギリで外側に一歩ずれ、そのまま足を踏み込んで、カウンター気味に右のフックを宝泉の顎に叩き込んだ。
いくら宝泉でもオレの速度には反応できなかったようで、たたらを踏む素振りを見せる。追撃してもいいが、ここは余裕を見せた方が良いだろう――と、いうことで、敢えて宝泉の体勢が整うまで待ってやることにする。
「……この野郎、なんで追撃してこねぇ?」
「そこまでしないといけないほどの相手でもないってことだ」
嘘だ。本音を言えば、宝泉はかなり強い。オレでも無傷で制圧しようとするなら、簡単に抑え込める相手じゃなかった。
勿論、何でもありならまず負けはしないが、少しでも油断すればこちらも痛い目を見るくらいには宝泉の戦闘能力は高い。
「ククククク、ハハハハハ……そうかよ、俺がたいしたことねぇか!」
少しでも状況を有利にしようと挑発してみたが、どうやら逆に落ち着かせてしまったようで、改めて宝泉が呼吸を整えていく。
「やっぱ、あんたは面白いやつみてぇだな綾小路パイセンよ。2000万の額が付けられるだけのことはあるってことか」
「いいのか、そのことをオレにばらして? 不意を打って、オレを退学にするのがお前の目的だろ? そのために、天沢にナイフを買わせたんじゃないのか?」
「ハッ、全部わかってるってことかよ。んじゃ、こいつはもういらねーな!」
宝泉はポケットに忍ばせていたナイフを後ろに投げ捨てると、両の拳を深く握り込んだ。腰を落とし、鋭い視線でこちらを完全に視界に収める。
ここからが宝泉の本気。
先程の様子見とは違う――油断も慢心も全て捨てた、宝泉和臣という一人の人間が、自分の持てる全ての力を、オレにぶつけようとしていた。
先程までとは比べ物にならない速度でこちらの懐に飛び込むと、宝泉は右拳を振り抜いてくる。最初のような雑の大ぶりではなく、脇を締めて隙を無くしていた。
しかし、それでもまだ躱せないレベルではない。再び、一歩横にずれて回避し、カウンター気味にこちらも左のフックを返す――が、流石に同じ手が二度通じるはずもなく、宝泉は首をひねってこれを回避した。
続けて、左足を振り上げて蹴りを繰り出してきたので、腕を上げて蹴りをガードしていく。
ガードの上からでもわかるくらい威力の高い蹴りだ。直撃を受ければ、オレでもかなりのダメージを受けるだろう。つまり、如何に相手の攻撃を受けずに、宝泉を倒しきるかが勝負の鍵になってくる。
「チッ、これも防ぐのかよ」
宝泉も、大振りの攻撃はまず当たらないとわかったようで、今度は隙の少ない小さなジャブを連打することで、こちらに攻撃を避けさせないようにシフトしてきた。
流石にこれを全て回避するのは無理なので、避けられないものはガードしていく。先天的に体格に恵まれただけあって、小さな一撃でもガードした腕が痺れるレベルだ。
だが、宝泉もこの程度で致命的な一撃は与えられないというのはわかったようで、どうにかしてこちらの隙を作ろうと距離を詰めてきた。そのまま、足先を踏もうとしていた足を回避し、頭突きを仕掛けようとした頭を躱し、隙が出来たテンプルに拳を打ち付ける。
「グッ! クソッ!」
その悉くを対処していく。実際、直撃を受ければオレでもただでは済まないので、本気で宝泉の攻撃を対処していた。
それにしても固い。高円寺やアルベルトのように、天から恵まれた肉体とでもいうべきか――まるで分厚いタイヤを殴っているような気分だ。単純なフィジカルだけなら、宝泉は余裕でオレを上回っている。
とはいえ、それだけで勝負は決まらない。
宝泉が苦悶の表情を隠さないまま突っ込んできた。どうやら、多少のダメージは覚悟の上のようで、今度は服を掴んで動きを止めようとしてくる。が、上半身の動きに集中しすぎて、下の意識が甘いのでみぞおちに蹴りを入れて距離を取っていく。
「ガッ……!」
流石の宝泉も、みぞおちの一撃は効いたようで苦悶の声を漏らした。原作では相手の攻撃に全て対応していた宝泉も、オレが相手では当然のように立場が逆になっている。
勿論、宝泉も攻撃を避けようとはしているが、どうしても自分から仕掛ける限り、必ず避けられない隙が出来てしまう。
これが他の人間と大きな力の差があるなら、相手の攻撃を躱しながら反撃も余裕で出来るのだろうが、オレ相手に隙を作れば回避などさせなかった。
「チッ! ちょろちょろ動きやがって……逃げずに戦えっ!」
「悪いが、力自慢と真っ向勝負するほどオレは馬鹿じゃない。殴りたければ捕まえてみろ」
針の糸を縫うように、僅かに出来る宝泉の隙に拳を叩き込みつつ、向こうからの攻撃は全て受け流すか回避するか防御に徹した。
それでもたまに防御した腕がダメージを吸収しきれずに悲鳴を上げる。が、それ以上に宝泉の顔が少しずつはれ上がっていった。
こちらも、顎やこめかみ、みぞおちなどの急所を的確に狙っているため、宝泉は見た目以上にダメージが蓄積されているはずだ。
「はぁっ、はぁっ……クソがっ……!」
時間にしてまだ五分ちょっとしか経過していないが、大勢はハッキリしていた。
だが、油断はできない。
宝泉もまだ体が動くようで、拳を握りしめて突撃してくる。一撃当てさえすれば勝ちだと言いたげだ。
事実、宝泉の力なら、ここからでもオレを倒しきれる可能性はあった。もし、こちらが宝泉の望む乱打戦に持ち込まれていれば、ワンチャンオレを倒せていたかもしれない。
しかし、今回の戦いで、オレは自分自身や宝泉にも後遺症が残るような怪我をさせるつもりはなかった。受けるダメージは最低限に抑えないと夏の無人島にも響く可能性が出てくる。故に、こうして一歩引いたヒット&アウェイのカウンター戦法を選んだのだ。
正直、何でもありの状況で、相手を殺してもいいのであれば、仮に宝泉が5人いても負けはしない。
今回は上記の制限があるためこうして受けに回っているが、やろうと思えばもっと無慈悲に宝泉を叩き潰すことも不可能ではなかった。
とはいえ、そんなことをすれば後遺症を残してしまう可能性があるし、五体満足の状態で宝泉を叩きのめすのであれば、やはりこの戦い方が一番適している。
「ぐっ……あ、足が……っ! クソッ! まだだ! まだ力は残ってる! 戦えんだろうが!」
と、考えていると、遂に立てなくなったのか、宝泉がその場に座り込んだ。それでも、まだ戦意は衰えていないようで、自分の足を叩きながら無理やり立ち上がろうとする。
しかし、体は正直だった。
蓄積されたダメージが足に来ている宝泉は、もうまともに動けない。自慢のフットワークが死んでしまえば、もはや後はリンチにするだけだった。
宝泉が立ち上がると同時に、今度はこちらから攻めていく。これまで受けにしか回ってこなかったオレが攻めに回ったことで、慌てて攻撃を腕でガードするが、足の踏ん張りが利かないせいで耐えきれずに転んでしまう。
「お、まえっ!」
「終わりだ、宝泉」
「まだだっ! 俺はまだ負けてねぇ! 負けるはずがねぇんだ! 俺が――」
「お前は敗北を知るべきだ。そこから這い上がって、オレをもう一度倒しに来い」
そこからは一方的な展開だった。それまでの互角の立ち回りは何だったのだと言って良いほど、宝泉に馬乗りになったオレはこいつの腕を両足で抑えつけて、顔面をひたすら連打していく。
宝泉も、もうオレの拘束を振り切る力は残っていないようで、完全にされるがままだった。おそらく、こうして一対一で敗北するのは初めてのことだろう。信じられないと言わんばかりの表情を浮かべている。
原作の龍園のように一対多数で負けたのとは違う。完全に正々堂々の勝負で一方的にタコ殴りにされた。流石の喧嘩自慢も、次は勝つ――と、簡単に軽口も叩けないようで、言葉なく顔の腫れを増やしている。
実際、今のままなら、仮に何度やった所で宝泉に負けることはない。勿論、今回のように相手の怪我に気を付けて戦うなら無傷とは行かないだろうが、それでも最終的に勝利するのはオレだ。その結果だけは変わらない。
宝泉も、真っ向からぶつかったことで、オレとの実力差を完全に理解したのだろう。気が付けば、涙を流しながら意識を失っていた。その涙が何を差しているかはわからないが、これで勝負はオレと勝ちであり、この特別試験も終わったも同然となる。
「清隆っ!」
勝負の決着がつくと、雪が心配そうにオレに駆け寄って、徐に袖をまくり上げた。どうやら気づいたらしい。
ずっと宝泉の攻撃をガードしていた両腕――特に左腕は、赤を通り越して青紫に変色している。そんなに攻撃は受けなかったはずだが、防御の上から貫かれたらしい。単純な攻撃力だけなら、宝泉は天沢や八神すら上回っているようだ。
感覚からしても、左腕には軽いヒビが入っているだろう。この程度なら、特に日常生活や戦闘にも支障はないが、相手を気遣い過ぎて自分が怪我をするのでは本末転倒か。まぁ、掌にナイフを刺す原作よりは安い怪我だと思いたい。
「大丈夫? すぐに手当てしないと……!」
「たいしたことはない。そう心配するな。それに、手当てするのはオレよりも宝泉の方だろう」
と、宝泉の方を向くと、鈴音が救急箱を持って、既に怪我の手当てを始めている所だった。
戦いの間、軽くしか雪や鈴音の様子を見ることは出来なかったが、雪と違って鈴音はオレが力を振るうのを初めて見たはずだ。
まさか、ここまでとは思わなかっただろうし驚いたに違いない。が、オレが自分からこの勝負をセッティングしたことで負けない自信があるのだと理解していたこともあったのか、何となくこの結果を当然と受け入れているようにも見える。
七瀬もまた、それを手伝うように倒れる宝泉を介抱していた。オレの方も、雪が手当てを始めたので、そのままされるがままになっておくことにする。
そのまま軽い治療を終えてしばらくすると、宝泉も意識を取り戻したようで体を起こそうとした――が、まだダメージが抜けきらないせいか、起きることが出来なかった。七瀬が支えるように、宝泉の体を起こすと、「……俺の負けだ。約束は守る」と呟いている。
これまでの自信満々といった姿が嘘のように小さくなってしまい、鈴音や七瀬も驚いているが、生まれて初めて負けたとすれば不思議でも何でもない。
原作で龍園に負けた時は、三対一ということで言い訳もできたが、力を全てとしているこの男が、真っ向からその力の勝負で負けたのだ。胸中は穏やかではないだろう。
「宝泉。オレの方からの命令は基本的に三つだけだ、一つは今回の試験では無条件で2年Bクラスと1年Dクラスがペアを組むこと」
もはや、ここまで来て対等なんて甘い言葉は使わない。負けた以上、勝者の命令は絶対――宝泉だってそれくらいわかっているはずだ。
「もう一つは、今回の特別試験のパートナーとして、宝泉……お前がオレと組むことだ」
「……正気かよ? 俺が今回の負けを根に持って、ゼロ点を取ったらどうすんだ?」
「やっても構わないが、そうなればお前は永遠にオレと再戦する機会はなくなるぞ」
前に話したプロテクトポイントについては宝泉も覚えているだろう。仮にオレがそれを所持していたと考えれば、宝泉の特攻はただの自爆にしかならないとわかるはずだ。
勿論、オレはプロテクトポイントなど持っていないが、宝泉にそれを知るすべはない。仮に上級生に確認をしても、知らない所で付与された可能性を考慮すれば、絶対に持っていないとは言えないのだ。
勝負にも負け、何も出来ないまま退学――なんて真似、この男が受け入れられるはずがなかった。故に、宝泉がオレを道連れにすることはまず有り得ない。
原作ではそれでも万が一の場合に備えてナイフに刺されたことを交渉材料にしようとしていたが、最悪の場合は雪の生徒会長としての力を悪用して今回の件を問題提起すればいい。
オレもただでは済まないだろうが退学する程ではなかった。逆に宝泉の方は怪我が殆ど打撲だ、数日もあれば回復する。
しかし、オレは骨にヒビが入っているし、難癖をつけて適当に退学にさせるのは難しくなかった――が、この世界では月城がオレと繋がっている以上、そこまでする必要はないと見ている。
親父殿が見たいのは、あくまでオレがどう変化しているか確認することであり、本気で退学させるつもりはない。
もし、本気で退学させたいのなら、こんな手緩い真似はせず、月城の能力をフルに利用してもっと強引に事を進めているだろう。
「そして、最後の一つ……また次にこういう協力型の試験が起きた時、お前が俺と戦う意思がないのなら無条件で力を貸すこと。それ以外はどうでもいい。好きにしろ」
本来なら卒業まで相手を従えるという話だったが、原作知識から考えても宝泉の力を借りなければいけない舞台はそう多くない。
むしろ、下手に服従を強制して七瀬の反感を買う方が面白くなかった。とはいえ、宝泉にもプライドがあるだろうし、今回以外に一度だけ命令件を保持することでそこもフォローしておく。
「好きにしろ……だと?」
「ああ、今回の試験で協力さえしてくれれば、オレを退学させる画策をしようと、罠にハメようと好きにしていい。今の段階で、お前の動きを大きく制限するつもりはないということだ」
そもそも、男の奴隷を手に入れた所で楽しくもなんともなかった。これが七瀬相手なら喜び勇んで調教を始めるのだが――と、考えながら、宝泉の投げたナイフを拾いに行く。
「いいのかよ? 俺を放置すれば、またお前を狙うかもしれないんだぞ?」
かもしれないが、ぶっちゃけそれについては宝泉を頭から抑えつけた場合も変わらなかった。最初は従順でも、そのうちこいつはオレに牙を剥こうとするだろう。
それに、宝泉がオレの支配下にあるとわかれば、坂柳や龍園からの警戒度も上がる。いわば、内と外に敵を用意するようなものであり、放し飼いにしておいた方が最終的には楽まであった。
「その時はその時だ。それに、もしかしたら試験とは関係なく、お前の手を借りる機会もあるかもしれないしな」
月城が強引な手段を使ってオレを退学させる意思がない以上、むしろオレを狙う人間が居てくれた方が、月城に与える評価は高くなるだろう。
そういう意味では今回の試験で、天沢を下し、宝泉を武力で倒したことは月城のオレに対する評価を上げたはずだ。
オレの価値が高まれば高まる程、月城はオレを裏切らなくなる。後は、あいつがいなくなる夏まで、この評価をキープしておけばいい。
「宝泉……負けたことのない人間より、負けたことのある人間の方が強い。負けたことのある人間は、敗北を知っているが故に負けないための執念を持つ。今日までのお前より、明日からのお前の方が強くなるだろう。オレはそんなお前を見てみたいんだ」
と、それっぽい言葉をぶつけて宝泉をその気にさせる。
実際、負けたことのないオレが言っても全く心に響かない言葉だが、宝泉には効果は覿面だったようで、それまで落ち込んでいたがようやくいつもの獰猛さを取り戻していた。
「ハッ! いいぜ、綾小路センパイよ。いつか絶対に勝たせて貰うぜ。必ず、あんたに負けを認めさせてやるから覚悟しておけ!」
そう言って、無理やり立ち上がって宝泉が立ち去ろうとするのを、すぐに七瀬が支える。
宝泉は「余計なことすんな」と吐き捨てるが、七瀬は「必要なことをしているだけです。まずは病院に行きますよ」と、割と強引に宝泉を病院へと連れて行った。
流石の宝泉も、今の状況で七瀬を振り切れないようで仕方なくされるがままになっている。
とはいえ、こちらも他人事じゃなかった。雪が「私たちも行くよ! 鈴音ちゃん、後始末よろしく!」と、後を鈴音に任せてオレを病院に連れていく。
結局、病院内の待ち時間で宝泉たちと再会することになり、少しばかり気まずい雰囲気になってしまうのだが、宝泉の怪我はオレの見立て通り基本的に打撲なので問題なし。逆にオレはやはり左腕に小さなヒビが入っており、全治ひと月半の怪我を負うことになった。
正直、痛みもほぼないし、動かす分には全く問題ないのだが、まるで骨が折れたかのように包帯をグルグル巻きにしてギプスで腕を固定される。
勝ったのはオレのはずなのに、これではオレが宝泉に負けて怪我を負わされたような感じだ。こんなことなら手加減しなければ良かったかもしれん。
原作との変化点。
・坂柳が原作よりも早く接触してきた。
ずっとBクラスから綾小路を相手にしている感覚があって疑問に思っていたが、まさか裏にいるとは思わず一杯食わされた形。流石に悔しくて足早くやって来た。まさか、色気なんてものが武器になるとは思っていなかったが、人間の三大欲求である性欲を舐め過ぎだった。
・宝泉とバトルした。
基本的には全ての行動を抑え込んでいる。馬乗りになってからは、このSSではカットされた龍園を殴るシーンのオマージュだったりする。このSSでは、去年の冬は戦わずに殺意という狂気を伝えることで撤退させたので龍園も殴られていない。ちなみに、どうでもいいが、今話のタイトルは真剣勝負と書いてタイマンと読む。
・清隆が勝った。
が、防御した腕に軽くヒビが入っている。経験者は知っていると思うが、実は折れるよりヒビの方が直りにくい。とはいえ、特に痛みが凄い訳ではないので治る期間は同じでも手に穴が開くよりはマシだろう。
・宝泉との契約。
本人は清隆が卒業するまで奴隷になるつもりだが、清隆からすれば七瀬からの好感度の方が大事なので別に釈放してもよかった。本文でも言ったが、男の奴隷なんて飼っても面白くも何ともないのである。
・宝泉を焚きつけた。
人生初負けで地味にショックを受けていたようなので焚きつけた。しかし、ここから宝泉の意識には綾小路清隆に負けたが刷り込まれるので原作とはまた違った動きをしていくかもしれない?
今話の登場人物一覧。
・綾小路清隆
坂柳におしがま出来なかった分を宝泉にぶつけた。この1年で身体的な能力が少し落ちてブランクを感じている。
・椿雪
見ている最中、「あー、清隆動き良くないね」と、フェイタンと女王の戦いを見るシズクのような感想を述べていた。
・堀北鈴音
最初期に兄に折檻を受けるのを助けなかったので、実は清隆が戦うのを見るのはこれが初めて。とはいえ、前々から強いというのは雪伝手で聞いていたのでそこまで驚いてはいない。
・坂柳有栖
帆波クラスにしてやられたが、裏に清隆がいるとすぐに気付いてやって来た。原作後半だと、もはや感覚だけで清隆の存在を感じ取れるヤベー女。
・七瀬翼
清隆の戦いの一部始終を見届けた。が、無人島バトルプランはそもそも、七瀬が清隆の仲間になる儀式みたいなものなので、これくらいで予定変更はしない。
・宝泉和臣
原作と違って初めてタイマンで敗北した。あれだけタイマンの勝負に自信のあるやつが、負けて平然としていると思えないので少し大人しくなっている。放置していたら、原作の龍園コースもあったかもしれないが、清隆が焚きつけて復活させた。とはいえ、ショックはしっかり受けており、これからは清隆に勝つことを第一に考えるようになる。