シュヴァルがトレーナー(あなた)とレインコートを買いに行く話。
レインコート
ボチャン
叩きつけるような重い音と共に、膝の高さまで水飛沫が舞う。
水面に飛び込んだのは他ならぬ僕の足で、小さなつま先で泥濘んだ地面を踏みつける。
土がえぐれてお気に入りの長靴が汚れるのも厭わず、楽しくくるくると周り続ける僕。
水たまりでそんなに跳ね回ったら、今にバランスを崩して危ないだろうに。
でも幼い僕は何が楽しいのか満面の笑みを浮かべて両腕をいっぱいに広げ、そのまま周り続ける。考えなしにはしゃいでるから、とうとう足を滑らせてつんのめって、頭から倒れていき――
ガタっ
手のひらに頬を預けてうつらうつらしていたら、首を傾げた拍子に頭がズレて揺さぶられてしまったらしい。
衝撃でハッと目を覚ましてしまう。
日中ウトウトしていた時に見ていた夢っていうのは不思議なもので、見ている時はあれだけ克明な物語や鮮明な情景となって感じられていたのに、ふと目が覚めた瞬間、そこにあった珠玉の宝石も賢者の叡智も瞬く間に消え去ってしまう。
だから僕はさっきまで見ていた夢の内容をもう思い出せなくなっていた。
僕が腰掛けた椅子の前、トレーニング部屋の机の上無造作に広げられたノートのページが、僕の肘で皺になっている。昼の授業で出た課題をこなしている最中に、つい居眠りしていたようだ。
慌てて口の端から溢れていたよだれを拭う。
「シュヴァルー。入るよー」
「は、はい。大丈夫です」
折悪しくあなたが到着したらしい。居眠りしていた僕は少し罰の悪い思いで返事をした。
「やあ、待たせたね」
「いえ……僕もちょうど課題を進めていたところでしたので」
僕は座席から立って扉の方まで赴き、あなたを出迎えた。
部屋の扉が開いたときに気圧の差を感じて鼻がむずむずしたのか、僕は「くしゅん」とくしゃみをしてしまった。せっかく出迎えようとしたのに、そんな姿を見せてしまいちょっと恥ずかしい。
僕たち2人用のトレーニング部屋に入ってきたあなたは、いつもの様に沢山の資料の束を抱えている。それもこれも皆、毎日就業時間を押してまで居残って、僕のために作ってくれたコーチング資料なのだ。
見慣れたいつものファイルの他に、今日は見慣れない本や真新しいノートなんかも加わっていた。
「早速だけとMTGに入るね」
そう言って、あなたは足早に僕の向かいの席に腰掛ける。なるべく僕の時間を奪わないように、トレーニングに集中できるようにという、優しいあなたのいつもの配慮。
「そう言えば、見慣れない資料がありますけど……」
僕の質問にあなたは優しく頷くと、
「ああ、これだけどね」
僕の前に作成したばかりの資料を広げてみせる。
「ご覧の通り、今日も生憎の雨模様だね。予報によると今後もしばらく続くようだし、何ならにわか雨も気にしないといけない。そこで屋内の練習について、強化メニューを考えてみたんだ」
「雨……ですか」
そう言って僕は部屋の外に目を向ける。降りしきる雨で灰色にぼやけた庭が見える。先ほどまで意識の外に置いていた雨音が、僕の耳を打った。確かに今の季節は梅雨が近づいて、雨の日が多くなってきた。急に暑くなったと思ったら、夏物を用意した僕たちをあざ笑うように、空からにわか雨が降りつけるなんて具合。もう少ししたら近年の温暖化で先走りたがる、気の早い台風のことも考えないとならないだろう。
もちろん我がトレセン学園は屋内の練習設備も充実しているのだけども、それでも僕たちウマ娘にとっては、太陽の下グラウンドをひた走るのが何より充実の時。
それに同条件の他の生徒たちと差をつけようと思ったら、トレーニング内容の差別化を図る必要だってあるだろう。それであなたも僕のためにメニューを考えてくれたのだ。
あなたは資料の各所を指し示しながら、僕に今後の雨天のトレーニングについて説明してくれる。
あなたが指し伸ばした指。爪のピンクの部分や指の側面なんかに、ボールペンのインクが付いている。作業中考え込むことがあると、ペンを指で回したりもて遊ぶ癖があるあなたは、ついそんな風に指を汚してしまう。そうでなくても僕のために長い時間作業をしているのだから、自然そんな風に汚れてしまうこともある。
そんなことを考えながらあなたの指の汚れに視線を合わせているうち、ついあなたの指そのものに見とれてしまっていることに気がつく。
僕は紙の上を走るあなたの指を目で追う。そうすることで、そこに僕の仮想の掌が重ね合わさって、重なった掌同士紙の上で不可思議なダンスを踊るかのようにと。
もちろんそんなことをしながら、あなたが僕にしてくれる説明のひとつひとつを、聞き逃すことはないのだけども。
「説明は以上だけど、何か分からないところは無かったかな?」
前言撤回その言葉に慌てて顔を上げると、いつだって僕を元気づけてくれる、優しい表情を浮かべるあなたの顔が目の前に。
僕はとっさに目を伏せてしまい、辛うじて言葉を紡いで返答するばかり。
「あ、いえ……。大丈夫です」
その後2,3の質疑応答を交わし、MTGは終了となった。
「では特別メニューを試してみよう、と思ったのだが」
「どうしたのですか?」
早速アップを始めようとする僕を制して、あなたが語る。
「今日は別の用事をこなそうか」
――そうして僕があなたと訪れたのは、学園近くのデパートだ。
僕たちは入口近くのエスカレーターを登っていく。
替えの蹄鉄やシューズなどを補充する為に利用している運動用品コーナーに行くのかと思ったけど、意外にもそこはスルー。そのまま上の階へ登っていく。
結局2つ上の衣料品なんかが売っている階に赴くのだった。
「服……ですか? 特にレースやトレーニングには関係ないと思うのですけども……?」
と、訝しむ僕にあなたはやや申し訳無さ気に首を振って、
「残念だけど今日はそちらには用事はないんだ。とはいえシュヴァルが興味があるなら、時間があれば寄って行っても良いのだけども。どうするかい?」
「い、いえ……。そういう訳ではないです。あはは……」
「トレーナーさんが僕のために洋服を!?」とびっくりしたのは束の間。もちろんそんなうまい話はない。ちょっと反省する僕。
やはりトレーニングに関係する何かを買いに来たのだろうか。一体なんだろう。
とにかく最終的に辿り着いたのは、その階のアウトドア関連用品を売っているエリアだった。
「アウトドア? ですか」
「ああいや、別にキャンプをしようって言うわけでは無いんだ」
あなたが歩を進めたのは、雨を凌ぐための用品を売っているエリア。
と言っても並べられているのは傘でもなければ、テントみたいな本格的なキャンプ用品のそれでもなく、
そこに吊るされているのは数多のレインコートだった。
大人が着るようなスラリと長いものから、子ども用の小さなものまで。
登山家が着るような本格的なものから、間に合わせの薄っぺらい生地のものまで、様々なレインコートがハンガーに吊るされ、あるいは折りたたまれて袋詰にされて、所狭しと並んでいるのだ。
「どれでも好きなものを選んでくれないかい。ああ、もちろんサイズの合うものが好ましいのは言うまでもないけども」
あなたはそう言った。
とは言え急にそう言われても、僕は困ってしまう。
「それにしても、何で急にレインコートなんですか?」
「もちろん雨で体が濡れないようにするためだよ」
「それってトレーニングに何か関係があるんですか……? これを着て走ったら、体が蒸れてランニングどころじゃないですけど……」
「いやいや。普段使いのものだよ。登下校の際なんかにね」
「それで何か、効果があるのでしょうか?」
僕は当然の疑問を口にした。
それに確かに寮と学園の行き来は屋外の移動を強いられるけど、今も雨天時にそんなに不自由を感じている訳でもない。
傘をさしていれば良い話だし、何なら雨に打たれながら駆けたって良いのだ。
尋ねられたあなたは僕に伝えた。
「さっきシュヴァルがくしゃみを頻繁にしていたのが気になってね。それに私が来る前に居眠りをしていただろう」
「ええ、何で」
僕はとっさに口元を探ってしまう。垂れていた涎は、あなたが来る前にしっかり拭った筈なのに。
僕の仕草に気づいたか気づいていないのか、あなたは優しく教えてくれる。
「ほら、部屋に入ったときに頬に跡が付いて赤くなっていただろう。それで掌に頭を預けて、居眠りをしていたんだって気がついたんだ」
「あうううぅぅぅ……」
まさかそんなところを観られていたなんて……。と言うか証拠隠滅したつもりで、顔にバッチリ跡が残っていたとは。僕は羞恥でいっぱいになった。
そんな僕に構わずいやに真面目な表情であなたは続ける。
「それで気がついたんだ。ひょっとしたら雨天続きでシュヴァルのコンディションが落ちているんじゃないかってね」
「コンディション……?」
「くしゃみをしているのも居眠りをしてしまったのも、雨に濡れてしまったことで体が冷えて体力が落ちていたからだろうと思ったんだ。幸い風邪には至っていないが、気温だって下がる。今後何かの拍子に体力を消耗して、そのまま風邪にでもなってしまったら大変だしね。それで普段から雨に濡れない為の対策を立てようと思ったんだ」
そう言われてはたと気づいた。部屋で自習していたさなか、確かに僕は肌寒さを感じていたかも知れないと。
「そう言えば確かに体が寒く感じられ……。それに登下校の際も、マリンちゃんが濡れないように頭の方を傘でかばっていたし、体の方はおざなりになっていたかもしれません」
「ここに来る前に説明しなかったのは、あらかじめ買い物の内容を伝えたら、かえってシュヴァルが寒さを自覚してしまうかと思ったからなんだ。突然の買い物になってすまないね」
「いえ、トレーナーさんがそこまで考えてくれていたなんて」
確かにあなたは風の吹いてくる側を歩いて盾になったり、アーケードのひさしの下を通るような道を選んだりしていたのだが、それもこれも僕の体が極力濡れないように心配りしていてくれたのだ。
あなたは本当に凄いですね。僕のことをこんなにも気にかけてくれて、しかも僕自身が気がついていなかった体の不調も察知してくれたなんて。おまけにこうしてすぐに対策を考えて実行に移してくれるなんて、とても嬉しいです。
結局物色をした上で僕が手に取ったのは、鮮やかな黄色が目を引いた、フードの付いた男女兼用レインコートだ。
「もっと良いのを選んでも良いのだよ」とあなたは言ってくれるのだけど、僕はあくまでこれが良いんですと主張した。あなたはなおも渋るけど、僕が主張し続けたら、やがては納得してくれた。
そこまで僕が押し通したのも、この黄色には、確かな懐かしさがあったから――。
……階段のそばで待っていたら、会計を済ませたあなたがやって来た。
「いやぁ。何とか店員さんに『学園でのトレーニングの用に供するもの』(厳密には補助なんだが)って説明して、学園割を適用できたぞ。ああ、いや。別にシュヴァルのための支払いを渋っているとかそういう訳じゃないんだ。それに割引分は学園の方から補助が出るから、決してお店の人が損をするわけじゃない。これはシュヴァルがこれだけのトレーニングを積んでいますよって示すための――」
「ふふふ……」
しどろもどろに説明をしているあなたが面白くて、つい僕は笑みを漏らしてしまった。
「とにかく用は済ませたし、もう学園に帰ろうか。今日のトレーニングは軽いウォーミングアップ程度で切り上げたほうが良いだろうな」
「ええ、でも待ってください。せっかく買ったんだし、もう広げて着てみてもよいですか」
「もちろん構わないよ。ああ、タグは取っておかないと。確か鞄に鋏が……」
僕はあなたから商品を受け取り、眼の前に掲げてみた。
こうしてあなたが僕の体を労って入手したレインコートだと思うと、あらためて黄色のボディを見ていて物凄く愛おしさが湧いてきた。
初めのっぺり無骨に見えたシルエットも、ゆったりとしていて暖かみが感じられる。
正面にポツポツと付いた丸ボタンの可愛らしさ。
何故か裾付近、水色の魚が一匹泳いでいるのも面白みを誘われる。
そしてフードのてっぺんにピンと立った耳カバー。「フードに獣耳を付けることを思いついた人類は叡智である」と述べた歴史上の偉人は誰であったか。
僕はあなたに贈られたレインコートがすっかり気に入ってしまったのだった。
早速袖を通すと、サイズ感もぴったりで、僕の体を暖かく包んでくれた。
あなたと連れ立って、学園までの帰り道を歩む。
「もう……。僕の為の買い物の世話を焼いてくれるのは良いですけど、トレーナーさんが忘れ物をしたら意味ないじゃないですか」
「いやぁすまない。つい交渉に夢中になってね」
「まぁ、トレーナーさんが傘を持っていないって気づかなかったのは、僕も一緒ですけど……」
アーケードを出たところでようやく傘が無いと気がついたあなた。それだけ僕のことばかり考えていたのだ。それが密かに嬉しくてたまらない。
あなたは「ひょっとしたらさっきのレジに置いてきたのかも。取りに行ってくるよ」と言ったのだけども、僕は「ここまで来てしまいましたし今更向こうまで戻るのも手間ですし。それに必ずしもあそこに置いてきたとは限りませんし、取りに行くのは今度にしましょう」って言って引き止めた。
そしてあなたに僕が持っていた傘を渡すのだ。
「これ使ってください」
「だがそれだとシュヴァルに悪いよ。レインコートを着ているとはいえ体が濡れてしまう」
だから僕は「こうしましょう」って言って、強引にあなたに開いた傘を持たせ、自身がその庇護下に入って見せた。
「シュヴァル……。この体勢は正直どうかと」
「ですけどトレーナーさんがもうちょっと近づいてくれないと、僕が濡れてしまいますよ。いいでんすか? という訳でしっかりと見ててくださいね」
「しょうがないな……分かったよ」
あなたもようやく観念して、僕に寄り添うようにして傘を差し伸べてくれるのだった。
ほら、こうしてレインコートをきっかけに、早くも1つ思い出が生まれた。
僕があなたとの幸福を噛み締めているさなか、僕はかつて大事にしていた物を思い出していた。
それは昔、僕がまだ幼かった頃。パパがプレゼントで買ってきた長靴だ。
姉さんとヴィブロスは可愛い靴を選んで買ってもらったのだけども、僕はそういった靴があまり好みじゃない。代わりに選んだのが、雨の日でも足が濡れるのを気にせず外で遊べるようにと、パパが気を利かせて選んでくれた、この長靴だったのだ。
奇遇にも後に僕が憧れることになるウマ娘の勝負服と同じ色の長靴を、僕はたちまち気に入ってしまった。
雨の日にはしゃいでは表を駆け回る。挙げ句水たまりに飛び込んで全身ずぶ濡れに。帰って来てぐっしょり濡れた体をバスタオルで拭いてもらいながらの、「もう、服がびしょ濡れよ」とママのお小言もへっちゃらだった。
晴れの日も長靴を履いて、周囲の視線も気にせず歩き回っていたくらいだ。
そんなある日のこと。ふと聞いた姉さん達と親戚の会話。
「ほう、運動靴かい。可愛いデザインだね」
「はい、普段からトラックで走る時の感覚を掴めるようにと、父に買ってもらったんです」「そうだよ~」
「それはそれは。普段からこの先のレースのことを考えているなんて。君たちは偉いねぇ」
「お褒めの言葉を頂きありがとうございます」「わーい♪」
それを聞いた僕はまた例の罰の悪い思いをしてしまう。
「ああ、姉さん達は真面目にレースのことを考えて靴を選んでいたのに、僕は長靴なんて履いてはしゃいでた。なんて恥ずかしいんだ」
そう思った途端、長靴への愛着は消え失せてしまい、子どもが玩具に飽きるように何処かへ放ってしまう。その後2度と履くことは無かった。
そのまま忘れて去っていた負の記憶だけど、後悔も含めて今なら全てを許せる気がする。
だって僕たちはその瞬間に手に入れた感動を日々積み上げて、生きていく生き物なのだから。長靴を選んだ過去の僕を、誰が(僕自身にだって)否定できよう。
あの長靴は今もどこかにあるのだろうか。僕に買ってくれたプレゼントは全部取っておいてくれているパパのことだから、今も物置のどこかに保管されているかもしれない。
「おっとと」
そんなことを考えながら歩いていたら、あなたは向こうから来た通行人と道を譲り合ってよろけてしまう。その拍子に僕の方に足がもつれて、より密着する体勢になった。
つい僕の肩に触れてしまった手を恐縮そうに戻して、あなたが詫びる。
「すまないね、シュヴァル」
「いえ、大丈夫です」
レインコート越し肩に残った、あなたの重み。
ほら、今もこうしてまた1つ、思い出が生まれた。
けどいつか、あの長靴にもう僕の足が入らないように、このレインコートも役目を終えて僕の袖を通らなくなってしまうときが来るのかもしれない。
それでもその時が来るまでは、あなたとの思い出をめいいっぱいに詰め込んでいきたいと思った。